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Rain Konno | 境界の外側

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見つかった瞬間、物語になる。 見つからなければ、何も始まらない。 ——異世界アイドル☆パラレルパレード 召喚▶︎ https://t.co/KzKk7ydTp5

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異世界アイドル☆パラレルパレード NEO AKIBA ARCHIVE LOG R-15 ―ソナ― 面会の許可が下りたのは、申請から四か月目だった。 一度目は該当者不明。二度目は収容記録の不備。三度目は、必要性が認められないとして却下された。 ソナがどこにいるのか、グンソには知らされていなかった。 今回、許可を通したのは施設内の協力者だった。書類を差し替え、面会理由を別の収容者の親族訪問へ紛れ込ませたらしい。 誰なのか、グンソは知らない。知れば、その人間まで消される。 施設は病院に似ていた。白い壁、狭い窓、整えられた植木。 だが、ここは病院ではない。 人間を分類し、記録し、必要な形へ整える場所だった。 面会室の前で、記録官が言った。 「武器は」 「ない」 「通信具は」 「預けた」 「名前で呼ぶことも認められません。会話は記録されます」 グンソは記録官を見た。 「妹だ」 「関係を聞いています」 「妹だ」 扉が開いた。 ソナは、面会室の中央に座っていた。 白い服。整えられた髪。記憶の中の少女より、ずっと細くなっている。崩れないよう、椅子へ身体を預けていた。 グンソが入ると、ソナはゆっくり顔を上げた。 「……兄さん?」 声は細かった。 グンソは、ようやく言葉を絞り出した。 「……背、伸びたな」 ソナはわずかに目を瞬かせた。 「……うん。昔は、兄さんの肩にも届かなかったのにね」 「そうだったな」 二人は机を挟んで向かい合った。 「久しぶりだな」 「……うん」 昔なら、ソナは沈黙を嫌がった。兄の隣で、何時間でも話していた。 今は、話しても許される内容を探しているようだった。 「ずっと探していた」 「……そう」 「場所を教えてもらえなかった。面会も何度も申請した」 「……そうなんだ」 感情がないのではない。感情が、言葉になる前に止められている。 グンソは監視窓へ目を向けた。 「ここでは、よくしてもらっているか」 ソナは答えなかった。黒い窓を見て、ほんの少し首を横に振る。 グンソが手を伸ばしかけると、ソナの身体が反射的に引いた。 手が、空中で止まる。 「……ごめん」 「謝るな」 「でも……」 「謝るな」 ソナは俯き、かすかに笑った。 「兄さん、変わらないね」 「お前は変わった」 言ってから、グンソは後悔した。 その笑顔は、誰かに教えられたものを再現しているようだった。 グンソは、あの日を思い出した。 床へ押さえつけられた自分。白い識別帯を巻かれるソナ。 「兄さん! 帰って!」 自分を拒絶したのではない。兄まで奪われることを恐れていたのだ。 グンソは、現在の面会室で言った。 「家に帰ろう」 「……帰れないよ」 「帰れる。俺が連れて帰る」 「兄さんには……無理」 「無理でも行く」 「ここは、そういう場所じゃない」 「なら、俺が壊す」 その瞬間、ソナの瞳に恐怖が浮かんだ。 自分へ向けられたものではない。 グンソまで、この場所に奪われることへの恐怖だった。 「兄さん……帰って」 「嫌だ」 「帰って……お願い」 扉の外で鍵が回った。 刑務官が入り、ソナの腕を掴む。 「面会を終了します」 「まだ時間がある」 「規定です」 グンソは立ち上がった。 「触るな」 監視窓の向こうで、複数の気配が動いた。 ソナの声が震える。 「兄さん、帰って!」 もう二度と会えないかもしれない。名前を呼ぶことさえ、ここでは記録される。 それでも、グンソは声に出した。 「ソナ」 記録官が顔を上げる。 ソナの目が揺れた。 「帰って、兄さん……!」 刑務官がソナを引いていく。グンソは手を伸ばした。 だが、ソナは首を振った。 扉が閉じる。 最後まで、ソナはグンソを見ていた。 唇が動く。 声は届かなかった。 それでも、グンソには分かった。 あの日と同じだった。 帰って、と言っている。 自分を守ろうとしている。 ソナの姿が、扉の向こうへ消えた。 グンソは動けなかった。 ようやく会えたのに、交わせた言葉は昔の半分にも満たなかった。 ただ、消えなかった妹の名前だけが、胸の奥で繰り返されていた。 ソナ。

異世界アイドル☆パラレルパレード NEO AKIBA ARCHIVE LOG R-15 ―ソナ― 面会の許可が下りたのは、申請から四か月目だった。 一度目は該当者不明。二度目は収容記録の不備。三度目は、必要性が認められないとして却下された。 ソナがどこにいるのか、グンソには知らされていなかった。 今回、許可を通したのは施設内の協力者だった。書類を差し替え、面会理由を別の収容者の親族訪問へ紛れ込ませたらしい。 誰なのか、グンソは知らない。知れば、その人間まで消される。 施設は病院に似ていた。白い壁、狭い窓、整えられた植木。 だが、ここは病院ではない。 人間を分類し、記録し、必要な形へ整える場所だった。 面会室の前で、記録官が言った。 「武器は」 「ない」 「通信具は」 「預けた」 「名前で呼ぶことも認められません。会話は記録されます」 グンソは記録官を見た。 「妹だ」 「関係を聞いています」 「妹だ」 扉が開いた。 ソナは、面会室の中央に座っていた。 白い服。整えられた髪。記憶の中の少女より、ずっと細くなっている。崩れないよう、椅子へ身体を預けていた。 グンソが入ると、ソナはゆっくり顔を上げた。 「……兄さん?」 声は細かった。 グンソは、ようやく言葉を絞り出した。 「……背、伸びたな」 ソナはわずかに目を瞬かせた。 「……うん。昔は、兄さんの肩にも届かなかったのにね」 「そうだったな」 二人は机を挟んで向かい合った。 「久しぶりだな」 「……うん」 昔なら、ソナは沈黙を嫌がった。兄の隣で、何時間でも話していた。 今は、話しても許される内容を探しているようだった。 「ずっと探していた」 「……そう」 「場所を教えてもらえなかった。面会も何度も申請した」 「……そうなんだ」 感情がないのではない。感情が、言葉になる前に止められている。 グンソは監視窓へ目を向けた。 「ここでは、よくしてもらっているか」 ソナは答えなかった。黒い窓を見て、ほんの少し首を横に振る。 グンソが手を伸ばしかけると、ソナの身体が反射的に引いた。 手が、空中で止まる。 「……ごめん」 「謝るな」 「でも……」 「謝るな」 ソナは俯き、かすかに笑った。 「兄さん、変わらないね」 「お前は変わった」 言ってから、グンソは後悔した。 その笑顔は、誰かに教えられたものを再現しているようだった。 グンソは、あの日を思い出した。 床へ押さえつけられた自分。白い識別帯を巻かれるソナ。 「兄さん! 帰って!」 自分を拒絶したのではない。兄まで奪われることを恐れていたのだ。 グンソは、現在の面会室で言った。 「家に帰ろう」 「……帰れないよ」 「帰れる。俺が連れて帰る」 「兄さんには……無理」 「無理でも行く」 「ここは、そういう場所じゃない」 「なら、俺が壊す」 その瞬間、ソナの瞳に恐怖が浮かんだ。 自分へ向けられたものではない。 グンソまで、この場所に奪われることへの恐怖だった。 「兄さん……帰って」 「嫌だ」 「帰って……お願い」 扉の外で鍵が回った。 刑務官が入り、ソナの腕を掴む。 「面会を終了します」 「まだ時間がある」 「規定です」 グンソは立ち上がった。 「触るな」 監視窓の向こうで、複数の気配が動いた。 ソナの声が震える。 「兄さん、帰って!」 もう二度と会えないかもしれない。名前を呼ぶことさえ、ここでは記録される。 それでも、グンソは声に出した。 「ソナ」 記録官が顔を上げる。 ソナの目が揺れた。 「帰って、兄さん……!」 刑務官がソナを引いていく。グンソは手を伸ばした。 だが、ソナは首を振った。 扉が閉じる。 最後まで、ソナはグンソを見ていた。 唇が動く。 声は届かなかった。 それでも、グンソには分かった。 あの日と同じだった。 帰って、と言っている。 自分を守ろうとしている。 ソナの姿が、扉の向こうへ消えた。 グンソは動けなかった。 ようやく会えたのに、交わせた言葉は昔の半分にも満たなかった。 ただ、消えなかった妹の名前だけが、胸の奥で繰り返されていた。 ソナ。

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異世界アイドル☆パラレルパレード NEO AKIBA ARCHIVE LOG R-16 ―完全包囲網― 面会室を出た時点で、グンソは尾行されていることに気づいていた。施設の出口。階段の踊り場。交差路の向こう。一定の距離を保った靴音が、近づきすぎず、離れすぎずについてくる。 ソナと面会した人間が、何も追われずに帰れるはずがない。 グンソは歩調を変えなかった。逃げるためではなく、仲間のいる場所へ戻るために歩いていた。自分が尾を引き受けたまま戻らなければ、特高は周辺の家を調べ、店主を脅し、関係のない人間まで連れていく。だから戻る。それが、面会を許された時点で決まっていた最後の手順だった。 南側の旧居住区。青紫の灯が途切れた細い路地の先に、古い借家がある。表札はなく、窓には布が掛かり、玄関灯も消えていた。 グンソは扉を二度、短く叩いた。間を置いて、もう一度。 内側から鍵が外れた。 扉を開けたドンチョルが、グンソを見た。 「遅かったな」 「見られている」 「知っている」 家の中には、ソンミン、ヘジュ、テジュンがいた。机は片付けられ、壁に貼られていた地図は外されている。床には小さな鞄が並び、棚の奥では書類を燃やす炉が赤くなっていた。 ここはもう、普段のアジトではない。 すでに、終わりの形へ変わっていた。 「全員いるのか」 グンソが尋ねる。 「必要な人間はな」 ヘジュの横に、見慣れない男が立っていた。背が高く、短く刈った髪。眉からこめかみへ伸びる古い傷。壁にもたれず、両足を床へ置き、いつでも動ける姿勢を崩していない。 「誰だ」 「カン・ムジン。旧国家軍の近接戦闘教導師範だ」 ムジンはグンソを一度見ただけで、玄関へ視線を戻した。握手もしなければ、挨拶もしない。 「外に、少なくとも八人。裏にもいる」 ドンチョルが床板の下から銃を取り出した。 「早いな」 「早くない。面会が終わった時から、向こうはこの家を囲んでいる」 ソンミンは小さな金属筒をテジュンへ渡した。テジュンが筒の中から記録片を取り出し、炉へ投げ込む。青い炎が一瞬だけ揺れ、記録片の表面に浮かんでいた文字が消えていった。 「面会申請の経路は消した。施設内部の協力者へ届く連絡も切った。ここを調べられても、次の拠点へ繋がるものは残らない」 「なら、俺も残る」 グンソが言った。 ヘジュが小さく笑う。 「それを言うと思った」 「六人いれば戦える」 「戦うために集まったんじゃない」 ソンミンが答えた。 「お前を通すために集まった」 その時、外で靴音が止まった。 玄関前だけではない。裏口にも、人の気配が散っていく。家の周囲を囲むように、複数の足音が位置を変えていた。 通りの灯が、端から順番に消えていく。 逃げ道を塞ぐためだ。 最後に、玄関前の灯だけが残った。青紫の光が窓布の隙間から差し込み、部屋の中にいる全員の顔を薄く照らしていた。 扉の向こうから、低い声が響く。 「中にいる者へ告げる。この家は、国家転覆に関わる未登録組織の活動拠点として確認された。抵抗しなければ、処分手続きは簡略化する」 ヘジュが銃を構えた。 「処分手続きって何だ」 扉の向こうの男は、感情のない声で答えた。 「名前が消えるだけだ」 短い沈黙が落ちる。 「死んだことにもならない。記録上、最初から存在しなかったことになる」 ソンミンがグンソへ視線を向けた。その目に、恐怖はなかった。自分たちがここで何をするのかを、ずっと前から決めていた人間の目だった。 「始めるぞ」 「俺も残る」 「お前は次へ行く」 「嫌だ」 「これは命令だ」 「嫌だ」 玄関の向こうで、金属を装填する音が重なった。 ムジンが一歩、廊下へ出る。彼はグンソを見ず、裏口へ続く暗い通路へ目を向けた。 「グンソ」 「何だ」 「お前は、まだ使える」 「仲間を置いて逃げろと言うのか」 「違う」 ムジンは、暗い通路の先を見たまま言った。 「俺たちが、お前を通す」 直後、玄関の向こうで小さな金属音がした。 次の瞬間、家全体を揺るがす轟音が響いた。 玄関が吹き飛ぶ。 白い煙と破片が家の中へ流れ込み、青紫の灯が激しく揺れた。ヘジュが銃を抜き、ドンチョルが窓際へ走る。テジュンは炉の蓋を閉じ、ソンミンがグンソの肩を掴んだ。 煙の向こうから、特高警察たちが踏み込んでくる。 その先頭に立つ男の影が、炎の向こうでゆっくりと姿を現した。 ソンミンが、グンソの肩を強く押す。 「行け」 グンソは動かなかった。 「行け!」 完全に閉じられた夜の中で、銃声が夜を引き裂いた。

異世界アイドル☆パラレルパレード NEO AKIBA ARCHIVE LOG R-16 ―完全包囲網― 面会室を出た時点で、グンソは尾行されていることに気づいていた。施設の出口。階段の踊り場。交差路の向こう。一定の距離を保った靴音が、近づきすぎず、離れすぎずについてくる。 ソナと面会した人間が、何も追われずに帰れるはずがない。 グンソは歩調を変えなかった。逃げるためではなく、仲間のいる場所へ戻るために歩いていた。自分が尾を引き受けたまま戻らなければ、特高は周辺の家を調べ、店主を脅し、関係のない人間まで連れていく。だから戻る。それが、面会を許された時点で決まっていた最後の手順だった。 南側の旧居住区。青紫の灯が途切れた細い路地の先に、古い借家がある。表札はなく、窓には布が掛かり、玄関灯も消えていた。 グンソは扉を二度、短く叩いた。間を置いて、もう一度。 内側から鍵が外れた。 扉を開けたドンチョルが、グンソを見た。 「遅かったな」 「見られている」 「知っている」 家の中には、ソンミン、ヘジュ、テジュンがいた。机は片付けられ、壁に貼られていた地図は外されている。床には小さな鞄が並び、棚の奥では書類を燃やす炉が赤くなっていた。 ここはもう、普段のアジトではない。 すでに、終わりの形へ変わっていた。 「全員いるのか」 グンソが尋ねる。 「必要な人間はな」 ヘジュの横に、見慣れない男が立っていた。背が高く、短く刈った髪。眉からこめかみへ伸びる古い傷。壁にもたれず、両足を床へ置き、いつでも動ける姿勢を崩していない。 「誰だ」 「カン・ムジン。旧国家軍の近接戦闘教導師範だ」 ムジンはグンソを一度見ただけで、玄関へ視線を戻した。握手もしなければ、挨拶もしない。 「外に、少なくとも八人。裏にもいる」 ドンチョルが床板の下から銃を取り出した。 「早いな」 「早くない。面会が終わった時から、向こうはこの家を囲んでいる」 ソンミンは小さな金属筒をテジュンへ渡した。テジュンが筒の中から記録片を取り出し、炉へ投げ込む。青い炎が一瞬だけ揺れ、記録片の表面に浮かんでいた文字が消えていった。 「面会申請の経路は消した。施設内部の協力者へ届く連絡も切った。ここを調べられても、次の拠点へ繋がるものは残らない」 「なら、俺も残る」 グンソが言った。 ヘジュが小さく笑う。 「それを言うと思った」 「六人いれば戦える」 「戦うために集まったんじゃない」 ソンミンが答えた。 「お前を通すために集まった」 その時、外で靴音が止まった。 玄関前だけではない。裏口にも、人の気配が散っていく。家の周囲を囲むように、複数の足音が位置を変えていた。 通りの灯が、端から順番に消えていく。 逃げ道を塞ぐためだ。 最後に、玄関前の灯だけが残った。青紫の光が窓布の隙間から差し込み、部屋の中にいる全員の顔を薄く照らしていた。 扉の向こうから、低い声が響く。 「中にいる者へ告げる。この家は、国家転覆に関わる未登録組織の活動拠点として確認された。抵抗しなければ、処分手続きは簡略化する」 ヘジュが銃を構えた。 「処分手続きって何だ」 扉の向こうの男は、感情のない声で答えた。 「名前が消えるだけだ」 短い沈黙が落ちる。 「死んだことにもならない。記録上、最初から存在しなかったことになる」 ソンミンがグンソへ視線を向けた。その目に、恐怖はなかった。自分たちがここで何をするのかを、ずっと前から決めていた人間の目だった。 「始めるぞ」 「俺も残る」 「お前は次へ行く」 「嫌だ」 「これは命令だ」 「嫌だ」 玄関の向こうで、金属を装填する音が重なった。 ムジンが一歩、廊下へ出る。彼はグンソを見ず、裏口へ続く暗い通路へ目を向けた。 「グンソ」 「何だ」 「お前は、まだ使える」 「仲間を置いて逃げろと言うのか」 「違う」 ムジンは、暗い通路の先を見たまま言った。 「俺たちが、お前を通す」 直後、玄関の向こうで小さな金属音がした。 次の瞬間、家全体を揺るがす轟音が響いた。 玄関が吹き飛ぶ。 白い煙と破片が家の中へ流れ込み、青紫の灯が激しく揺れた。ヘジュが銃を抜き、ドンチョルが窓際へ走る。テジュンは炉の蓋を閉じ、ソンミンがグンソの肩を掴んだ。 煙の向こうから、特高警察たちが踏み込んでくる。 その先頭に立つ男の影が、炎の向こうでゆっくりと姿を現した。 ソンミンが、グンソの肩を強く押す。 「行け」 グンソは動かなかった。 「行け!」 完全に閉じられた夜の中で、銃声が夜を引き裂いた。

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異世界アイドル☆パラレルパレード NEO AKIBA ARCHIVE LOG R-13 現在から四年前。 ―保護対象― その夜、管理者の部屋の扉が三度鳴った。 いつもの訪問なら、オルフェンは二度しか叩かない。 管理者は机の上の書類から目を上げた。 「入れ」 扉が開く。 オルフェンは白い外套を脱がずに立っていた。手には、黒い革の書類筒を抱えている。 「遅くにすみません、管理者さん」 「何だ」 「少し、見ていただきたいものがあります」 オルフェンは部屋へ入り、机の前まで歩いた。 書類筒の封を切る。 中から出てきたのは、数枚の名簿、折り畳まれた地図、赤い印の押された記録だった。 紙の端は何度も折られ、何枚かには乾いた泥が付いている。 管理者は一枚目を手に取った。 「どこから持ってきた」 「内部にいる方々からです」 「抵抗組織か」 「正式な名前は、聞いていません」 「なぜ、お前に渡した」 オルフェンは一枚の紙を机へ置いた。 救援要請。 収容区画、北部監視都市。 候補生、百二十七名。 処刑予定、三十一名。 家族との連絡、全面禁止。 外部協力者、確認出来ず。 管理者は紙を読み終えた。 「議会へ提出したか」 「はい」 「返答は」 「軍事介入は承認出来ない、と」 「理由は」 「全面戦争になる可能性がある。国境を越えれば、アルトリウスが攻撃対象になる。救助対象の人数も、正確には確認出来ない」 オルフェンは、そこで一度だけ息を止めた。 「だから、何もしないそうです」 管理者は書類を机へ置いた。 「お前は、何をしたい」 「相談に来ただけです」 「この資料を持って来て、相談だけか」 オルフェンは、いつものように笑おうとした。 けれど、口元は動かなかった。 「はい。私は、戦争を始めたいわけではありません」 管理者は机の上を片付け、空いた場所へ大きな地図を広げた。 その上に、小さな木製の駒を並べる。 黒い兵士。 銀色の観測塔。 青銀の騎士。 白い人形。 「どこだ」 「北部監視都市です」 オルフェンが地図の一点を指す。 管理者は黒い駒を城壁の前へ置いた。 「巡回兵」 次に、細長い魔導銃の駒を並べる。 「射手。正門には重装部隊」 オルフェンは青銀の騎士を正門へ動かした。 「では、ここから入ります」 「正門だ」 「分かりやすいので……」 いつもの軽さが、途中で消えた。 管理者は騎士を指で押し戻した。 「三分で囲まれる」 「では、地下水路は?」 「封鎖されている」 「こちらは?」 「崩れる」 「こちらは?」 「落とし穴がある」 オルフェンは、地図を見つめた。 「ずいぶん歓迎されていますね」 「歓迎ではない」 黒い駒が増えていく。 青銀の騎士は、逃げ道を失っていった。 オルフェンは書類へ手を伸ばす。 一枚目。 二枚目。 赤い印の押された三枚目。 保護対象者名簿。 名前の代わりに、番号が並んでいる。 A-12。 B-07。 C-03。 その中に、一枚だけ詳細な記録が挟まっていた。 A-12。八歳。 母親の呼称に強く反応。 夜間音声刺激、実施。 02:13。母親の音声記録を再生。 対象、三度発声。 「おかあさん」 発声器官の使用を停止。 音声記録の再生を禁止。 記憶刺激を遮断。 情緒安定処置、継続。 治療終了。 オルフェンの指が、紙の上で止まった。 「この“治療終了”は、何ですか?」 管理者は答えなかった。 オルフェンは別の紙をめくった。 死亡者一覧。 急性衰弱。 治療反応なし。 観測終了。 さらに裏面には、死亡後の処置が記録されていた。 神経組織、保存。 発声器官、摘出。 魔力反応部位、分離。 残余組織、廃棄。 オルフェンの手から、青銀の騎士駒が落ちた。 木の駒が地図の上を転がり、城壁の手前で止まる。 「治療終了というのは……」 「死亡だ」 「死亡と書かないんですか?」 声が、少し低くなっていた。 「死亡と書けば、誰かが責任を負う」 オルフェンはA-12の記録へ目を戻した。 「この子は、母親の声を聞いただけで治療が必要だったんですか?」 「母親を呼ぶ声が残っていると、命令に反応しなくなる」 「だから、声を消した」 「そうだ」 管理者は、別の欄を指で示した。 「発声器官の使用停止。記憶刺激の遮断。音声記録の再生禁止」 机の端には、本人同意書が添えられていた。 署名欄には文字ではなく、小さな指紋が押されている。 保護者欄には、すでに死亡した母親の指紋があった。 「この子は、同意したんですか?」 「指紋がある」 「文字も書けない子供が?」 「制度上は、同意したことになっている」 オルフェンの指が、紙の端をさらに強く押さえた。 「この指紋は、母親のものですね」 「ああ」 「亡くなった後に、同意したことにされた」 管理者は答えなかった。 オルフェンは白い人形を一つ取り上げた。 人形の裏側には、名前ではなくA-12と刻まれている。 それを収容区画へ置く。 「この子は、兵士になる前に、子供であることを奪われたんですね」 声は静かだった。 その静けさの奥に、抑え込まれた怒りがあった。 管理者は、家族への返却申請書を机へ置いた。 申請却下。 理由。 帰属意識の再形成により、適応率が低下する可能性。 オルフェンはその一文を読んだ。 「帰る場所があると、兵器になれないんですか?」 「帰る場所がある人間は、死ぬ命令にも疑問を持つ」 「だから、帰れなくする」 「ああ」 オルフェンは、白い人形を見つめた。 「議会は動かない」 「ああ」 「管理局も?」 「ああ」 「軍勢は?」 「ない」 「補給は?」 「ない」 オルフェンは、地図の上に並ぶ黒い駒を見た。 「それでも、この子たちは待っています」 「お前一人で行っても、全員は救えない」 「全員を救えないから、誰も救わないんですか?」 管理者は答えなかった。 オルフェンは白い人形を、収容区画から外へ向かう道へ動かした。 「この国は、壊さなければ止まりません」 「止めた後の責任はどうする」 「私が持ちます」 「お前一人でか」 「一人ではありません」 オルフェンは管理者を見た。 「ここに、管理者さんがいますので」 短い沈黙が落ちた。 オルフェンは視線を逸らし、青銀の騎士を地図の端へ戻した。 アルトリウスの側へ。 「今回は、議会の判断を待つしかありませんね」 管理者が顔を上げる。 「待つのか」 「はい」 オルフェンは書類をまとめた。 「明日は水車の修理を手伝う約束がありますので」 「そうか」 「それに、私一人で国境を越えるのは無理でしょう」 「珍しく分かっているな」 「管理者さんに、何度も言われていますから」 オルフェンは立ち上がった。 「遅くまでありがとうございました、管理者さん」 「何の礼だ」 「作戦会議に付き合ってくださったので」 「作戦ではない」 「そうでしたね」 「おやすみなさい」 「おやすみ」 オルフェンは扉へ向かった。 その直前、机の上を振り返る。 青銀の騎士は、アルトリウスの側へ戻っている。 A-12だけが、収容区画の前に残っていた。 オルフェンは何も言わず、部屋を出ていった。 扉が閉じる。 青紫の灯りが、保護対象者名簿を照らしていた。

異世界アイドル☆パラレルパレード NEO AKIBA ARCHIVE LOG R-13 現在から四年前。 ―保護対象― その夜、管理者の部屋の扉が三度鳴った。 いつもの訪問なら、オルフェンは二度しか叩かない。 管理者は机の上の書類から目を上げた。 「入れ」 扉が開く。 オルフェンは白い外套を脱がずに立っていた。手には、黒い革の書類筒を抱えている。 「遅くにすみません、管理者さん」 「何だ」 「少し、見ていただきたいものがあります」 オルフェンは部屋へ入り、机の前まで歩いた。 書類筒の封を切る。 中から出てきたのは、数枚の名簿、折り畳まれた地図、赤い印の押された記録だった。 紙の端は何度も折られ、何枚かには乾いた泥が付いている。 管理者は一枚目を手に取った。 「どこから持ってきた」 「内部にいる方々からです」 「抵抗組織か」 「正式な名前は、聞いていません」 「なぜ、お前に渡した」 オルフェンは一枚の紙を机へ置いた。 救援要請。 収容区画、北部監視都市。 候補生、百二十七名。 処刑予定、三十一名。 家族との連絡、全面禁止。 外部協力者、確認出来ず。 管理者は紙を読み終えた。 「議会へ提出したか」 「はい」 「返答は」 「軍事介入は承認出来ない、と」 「理由は」 「全面戦争になる可能性がある。国境を越えれば、アルトリウスが攻撃対象になる。救助対象の人数も、正確には確認出来ない」 オルフェンは、そこで一度だけ息を止めた。 「だから、何もしないそうです」 管理者は書類を机へ置いた。 「お前は、何をしたい」 「相談に来ただけです」 「この資料を持って来て、相談だけか」 オルフェンは、いつものように笑おうとした。 けれど、口元は動かなかった。 「はい。私は、戦争を始めたいわけではありません」 管理者は机の上を片付け、空いた場所へ大きな地図を広げた。 その上に、小さな木製の駒を並べる。 黒い兵士。 銀色の観測塔。 青銀の騎士。 白い人形。 「どこだ」 「北部監視都市です」 オルフェンが地図の一点を指す。 管理者は黒い駒を城壁の前へ置いた。 「巡回兵」 次に、細長い魔導銃の駒を並べる。 「射手。正門には重装部隊」 オルフェンは青銀の騎士を正門へ動かした。 「では、ここから入ります」 「正門だ」 「分かりやすいので……」 いつもの軽さが、途中で消えた。 管理者は騎士を指で押し戻した。 「三分で囲まれる」 「では、地下水路は?」 「封鎖されている」 「こちらは?」 「崩れる」 「こちらは?」 「落とし穴がある」 オルフェンは、地図を見つめた。 「ずいぶん歓迎されていますね」 「歓迎ではない」 黒い駒が増えていく。 青銀の騎士は、逃げ道を失っていった。 オルフェンは書類へ手を伸ばす。 一枚目。 二枚目。 赤い印の押された三枚目。 保護対象者名簿。 名前の代わりに、番号が並んでいる。 A-12。 B-07。 C-03。 その中に、一枚だけ詳細な記録が挟まっていた。 A-12。八歳。 母親の呼称に強く反応。 夜間音声刺激、実施。 02:13。母親の音声記録を再生。 対象、三度発声。 「おかあさん」 発声器官の使用を停止。 音声記録の再生を禁止。 記憶刺激を遮断。 情緒安定処置、継続。 治療終了。 オルフェンの指が、紙の上で止まった。 「この“治療終了”は、何ですか?」 管理者は答えなかった。 オルフェンは別の紙をめくった。 死亡者一覧。 急性衰弱。 治療反応なし。 観測終了。 さらに裏面には、死亡後の処置が記録されていた。 神経組織、保存。 発声器官、摘出。 魔力反応部位、分離。 残余組織、廃棄。 オルフェンの手から、青銀の騎士駒が落ちた。 木の駒が地図の上を転がり、城壁の手前で止まる。 「治療終了というのは……」 「死亡だ」 「死亡と書かないんですか?」 声が、少し低くなっていた。 「死亡と書けば、誰かが責任を負う」 オルフェンはA-12の記録へ目を戻した。 「この子は、母親の声を聞いただけで治療が必要だったんですか?」 「母親を呼ぶ声が残っていると、命令に反応しなくなる」 「だから、声を消した」 「そうだ」 管理者は、別の欄を指で示した。 「発声器官の使用停止。記憶刺激の遮断。音声記録の再生禁止」 机の端には、本人同意書が添えられていた。 署名欄には文字ではなく、小さな指紋が押されている。 保護者欄には、すでに死亡した母親の指紋があった。 「この子は、同意したんですか?」 「指紋がある」 「文字も書けない子供が?」 「制度上は、同意したことになっている」 オルフェンの指が、紙の端をさらに強く押さえた。 「この指紋は、母親のものですね」 「ああ」 「亡くなった後に、同意したことにされた」 管理者は答えなかった。 オルフェンは白い人形を一つ取り上げた。 人形の裏側には、名前ではなくA-12と刻まれている。 それを収容区画へ置く。 「この子は、兵士になる前に、子供であることを奪われたんですね」 声は静かだった。 その静けさの奥に、抑え込まれた怒りがあった。 管理者は、家族への返却申請書を机へ置いた。 申請却下。 理由。 帰属意識の再形成により、適応率が低下する可能性。 オルフェンはその一文を読んだ。 「帰る場所があると、兵器になれないんですか?」 「帰る場所がある人間は、死ぬ命令にも疑問を持つ」 「だから、帰れなくする」 「ああ」 オルフェンは、白い人形を見つめた。 「議会は動かない」 「ああ」 「管理局も?」 「ああ」 「軍勢は?」 「ない」 「補給は?」 「ない」 オルフェンは、地図の上に並ぶ黒い駒を見た。 「それでも、この子たちは待っています」 「お前一人で行っても、全員は救えない」 「全員を救えないから、誰も救わないんですか?」 管理者は答えなかった。 オルフェンは白い人形を、収容区画から外へ向かう道へ動かした。 「この国は、壊さなければ止まりません」 「止めた後の責任はどうする」 「私が持ちます」 「お前一人でか」 「一人ではありません」 オルフェンは管理者を見た。 「ここに、管理者さんがいますので」 短い沈黙が落ちた。 オルフェンは視線を逸らし、青銀の騎士を地図の端へ戻した。 アルトリウスの側へ。 「今回は、議会の判断を待つしかありませんね」 管理者が顔を上げる。 「待つのか」 「はい」 オルフェンは書類をまとめた。 「明日は水車の修理を手伝う約束がありますので」 「そうか」 「それに、私一人で国境を越えるのは無理でしょう」 「珍しく分かっているな」 「管理者さんに、何度も言われていますから」 オルフェンは立ち上がった。 「遅くまでありがとうございました、管理者さん」 「何の礼だ」 「作戦会議に付き合ってくださったので」 「作戦ではない」 「そうでしたね」 「おやすみなさい」 「おやすみ」 オルフェンは扉へ向かった。 その直前、机の上を振り返る。 青銀の騎士は、アルトリウスの側へ戻っている。 A-12だけが、収容区画の前に残っていた。 オルフェンは何も言わず、部屋を出ていった。 扉が閉じる。 青紫の灯りが、保護対象者名簿を照らしていた。

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異世界アイドル☆パラレルパレード NEO AKIBA OBSERVATION LOG 1-32 ― 未検出 ― 小説の断片が発見された。 観測局第四監視室には換気扇の音だけが響いていた。 机の隅には缶コーヒーが横倒しになっている。底には黒い液体が少しだけ残り、乾きかけた輪が机の表面に広がっていた。機械油の匂いは消えず、観測炉から送られてくる熱が部屋の空気を僅かに暖めている。 少女は画面を見る。 『管理者信号 未検出』 確認キーを押す。表示は変わらない。もう一度押す。それでも変わらない。少女は指を止める。数秒だけ画面を見つめ、再びキーへ触れる。 変わらない。 少女は隣のモニターへ視線を移した。通信ログ。観測塔。時刻表示。何度も見慣れた画面が並んでいる。 異常は見当たらない。 少女は椅子へ深く座り直す。机の上のペンを手に取ると、報告書作成画面を開いた。件名を入力する。数文字だけ表示される。手が止まる。換気扇が回る。 少女は入力欄を見つめる。 やがて全て消した。 数秒後、再び同じ画面を開く。 今度は何も入力しない。 机の隅には古い通行証が置かれていた。角だけが白く擦れている。少女は視線を向けるが、手には取らない。すぐに画面へ視線を戻した。 カン。 部屋の隅で工具箱が閉じられる。 少女は振り返る。 第五層観測炉整備主任の男が立ち上がっていた。作業着の袖には黒い油汚れが残り、工具箱の角は長い年月で丸く削れている。男は留め金を親指で押し込み、画面を一瞥した。 「へえ」 少女は何も言わない。 男は煙草を咥える。ポケットを探る。ライターが見つからない。煙草を戻す。 「ほう」 カツ。 小さな音がした。 少女は自分の手を見る。握ったペンの先が机に当たっていた。換気扇は回り続けている。男は画面を見る。少女も画面を見る。 数秒。 誰も何も言わない。 やがて少女は画面を指差した。 「ほう、ではありません」 男は黙ったまま表示を見つめる。 「そうか」 それだけ言うと工具箱を持ち直した。 「どちらへ?」 少女が問う。 男は歩き出す。 「仕事だ」 男は振り返らない。 扉が開く。 第五層から流れ込んだ暖かい空気が監視室を撫でた。 扉が閉まる。 再び換気扇だけが回っている。 少女は画面を見る。報告書作成画面は開いたままだった。入力欄は空白のまま。 観測炉の低い唸りが壁の向こうから聞こえてくる。机の隅で缶コーヒーが転がる。換気扇は回り続けていた。 『管理者信号 未検出』

異世界アイドル☆パラレルパレード NEO AKIBA OBSERVATION LOG 1-32 ― 未検出 ― 小説の断片が発見された。 観測局第四監視室には換気扇の音だけが響いていた。 机の隅には缶コーヒーが横倒しになっている。底には黒い液体が少しだけ残り、乾きかけた輪が机の表面に広がっていた。機械油の匂いは消えず、観測炉から送られてくる熱が部屋の空気を僅かに暖めている。 少女は画面を見る。 『管理者信号 未検出』 確認キーを押す。表示は変わらない。もう一度押す。それでも変わらない。少女は指を止める。数秒だけ画面を見つめ、再びキーへ触れる。 変わらない。 少女は隣のモニターへ視線を移した。通信ログ。観測塔。時刻表示。何度も見慣れた画面が並んでいる。 異常は見当たらない。 少女は椅子へ深く座り直す。机の上のペンを手に取ると、報告書作成画面を開いた。件名を入力する。数文字だけ表示される。手が止まる。換気扇が回る。 少女は入力欄を見つめる。 やがて全て消した。 数秒後、再び同じ画面を開く。 今度は何も入力しない。 机の隅には古い通行証が置かれていた。角だけが白く擦れている。少女は視線を向けるが、手には取らない。すぐに画面へ視線を戻した。 カン。 部屋の隅で工具箱が閉じられる。 少女は振り返る。 第五層観測炉整備主任の男が立ち上がっていた。作業着の袖には黒い油汚れが残り、工具箱の角は長い年月で丸く削れている。男は留め金を親指で押し込み、画面を一瞥した。 「へえ」 少女は何も言わない。 男は煙草を咥える。ポケットを探る。ライターが見つからない。煙草を戻す。 「ほう」 カツ。 小さな音がした。 少女は自分の手を見る。握ったペンの先が机に当たっていた。換気扇は回り続けている。男は画面を見る。少女も画面を見る。 数秒。 誰も何も言わない。 やがて少女は画面を指差した。 「ほう、ではありません」 男は黙ったまま表示を見つめる。 「そうか」 それだけ言うと工具箱を持ち直した。 「どちらへ?」 少女が問う。 男は歩き出す。 「仕事だ」 男は振り返らない。 扉が開く。 第五層から流れ込んだ暖かい空気が監視室を撫でた。 扉が閉まる。 再び換気扇だけが回っている。 少女は画面を見る。報告書作成画面は開いたままだった。入力欄は空白のまま。 観測炉の低い唸りが壁の向こうから聞こえてくる。机の隅で缶コーヒーが転がる。換気扇は回り続けていた。 『管理者信号 未検出』

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異世界アイドル☆パラレルパレード NEO AKIBA ARCHIVE LOG R-17 ―口封じ― 銃声が、煙の充満した家を揺らした。 「裏口へ行け!」 ソンミンがグンソを押し出す。テジュンは、焼却寸前の記録片を拾い上げた。 玄関側から、特高の兵士たちが押し寄せてきた。 その前に、ムジンが立ちはだかる。 肩を撃ち抜かれても、額から血を流しても、姿勢は崩れない。銃床を受け流し、兵士の手首を捻り、壁へ叩きつける。 ただ、誰一人として通さなかった。 その動きを見ていた兵士の一人が、銃を構えたまま足を止めた。 「……師範」 ムジンの拳が、わずかに止まる。 兵士は、かつてムジンのもとで武術を学んでいた。 黒い制服。胸元の徽章。整えられた髪。銃を持つ手の角度まで、規則に合わせたように揃っている。 「その呼び方は、もう必要ありません」 兵士が銃を構え直した。 「……そうか」 銃床が振り下ろされる。 ムジンは半歩だけ身を引いた。 かつて教えた足運びだった。 兵士も同じ足運びで踏み込んだ。 二人の距離が消える。 ムジンが手首を取り、銃口を逸らす。兵士は肘を返し、ムジンの脇腹へ打ち込んだ。 鈍い音が響いた。 それでも、ムジンは手を離さない。 兵士の目が、ムジンの動きを追った。 「動作記録と一致します」 「そうか」 「修正されていません」 ムジンの目が細くなる。 「お前もな」 兵士の指が、わずかに止まった。 その隙に、ムジンは兵士を壁へ叩きつける。 「戻るな!」 ソンミンがグンソの腕を掴む。 「でも、ムジンが!」 「置いていくんじゃない! あの人が、お前を通しているんだ!」 ムジンが兵士を押し返す。 「行け!」 グンソは歯を食いしばり、裏口へ走った。 燃えかけた家を出ると、旧居住区の路地が広がっていた。 青紫の灯が、遠くから順番に消えていく。 屋根の上にも、交差路にも、特高の影が現れた。 「第三取水路の旧点検口へ!」 ドンチョルが鉄輪を引く。 石畳が沈み、地下から湿った空気が吹き上がった。 その時、路地の奥から穏やかな声が響いた。 「そこまでにしていただけますか」 特高の兵士たちが、一斉に道を空ける。 消えかけた青紫の灯の向こうから、ひとりの男が歩いてきた。 二メートルを超える細身の身体。 乱れひとつない黒い上級制服。 胸元で冷たく光る銀徽章。 黒い制帽の影に、端正な顔が浮かんでいる。 男は倒れている兵士へ視線を向けた。 「止血を。死なせてはいけません」 命じられた兵士が、慌てて仲間へ駆け寄る。 男はそれを確認してから、グンソたちへ微笑んだ。 「ご安心ください。皆さんを無闇に傷つけるつもりはありません」 ヘジュが銃を向ける。 「近づくな」 「ええ。そうなさるのがよいでしょう」 男は素直に足を止めた。 「その記録片を、こちらへ渡していただけますか」 グンソが記録片を握りしめる。 「ソナの名前を、また消すつもりか!」 「消す?」 男は静かに瞬きをした。 「記録は保存されます。適切な場所へ、適切な形式で」 「人間を番号に変えておいてか!」 「番号なら、間違いがありません」 ヘジュの指が、引き金へかかる。 「撃て」 銃声が響いた。 弾丸が男の肩を抉る。 黒い制服が裂け、血が流れた。 男は一歩だけ後退した。 傷口を見下ろし、指先についた血を確認する。 「……失礼しました」 男は顔を上げた。 「その距離で撃つのであれば、もう少し左を狙った方が確実です」 その時、背後の家から大きな音が響いた。 ムジンが路地へ姿を現す。 黒い外套は裂け、肩から血が流れていた。 その背後に、先ほどの兵士が立っている。 兵士は銃を構えたまま、ムジンを見た。 「師範」 「その名で呼ぶな」 「承知しました」 兵士は一歩前へ出る。 「ムジン」 名前だけが、路地に平坦に響いた。 男が、二人を見比べる。 「教え子ですか」 「過去の話です」 ムジンは兵士から視線を外さなかった。 兵士の銃口が、ゆっくりとムジンへ向く。 ムジンは何も言わない。 ただ、グンソたちへ顔を向けた。 「地下へ入れ」 「でも、あなたが!」 「早くしろ」 ソンミンがグンソの腕を掴んだ。 ヘジュ、ドンチョル、テジュンが、次々と地下水路へ入っていく。 グンソだけが動かなかった。 「ムジン!」 ムジンは振り返らない。 「生き残れ」 グンソは記録片を胸元へ押し当てた。 そして、地下水路へ飛び込んだ。 鉄扉が閉じ始める。 最後に見えたのは、青紫の灯の下で銃を向ける、ムジンのかつての弟子。 その隣で、傷口を眺めながら微笑む男。 ムジンは、二人の前に立っていた。 男が静かに頭を下げる。 「それでは、少しだけお時間をいただきます」 鉄扉が閉じた。 直後、地上から低い衝撃音が響いた。 一度。 二度。 グンソは振り返らなかった。 ソナの名前を、外へ持ち出すために。

異世界アイドル☆パラレルパレード NEO AKIBA ARCHIVE LOG R-17 ―口封じ― 銃声が、煙の充満した家を揺らした。 「裏口へ行け!」 ソンミンがグンソを押し出す。テジュンは、焼却寸前の記録片を拾い上げた。 玄関側から、特高の兵士たちが押し寄せてきた。 その前に、ムジンが立ちはだかる。 肩を撃ち抜かれても、額から血を流しても、姿勢は崩れない。銃床を受け流し、兵士の手首を捻り、壁へ叩きつける。 ただ、誰一人として通さなかった。 その動きを見ていた兵士の一人が、銃を構えたまま足を止めた。 「……師範」 ムジンの拳が、わずかに止まる。 兵士は、かつてムジンのもとで武術を学んでいた。 黒い制服。胸元の徽章。整えられた髪。銃を持つ手の角度まで、規則に合わせたように揃っている。 「その呼び方は、もう必要ありません」 兵士が銃を構え直した。 「……そうか」 銃床が振り下ろされる。 ムジンは半歩だけ身を引いた。 かつて教えた足運びだった。 兵士も同じ足運びで踏み込んだ。 二人の距離が消える。 ムジンが手首を取り、銃口を逸らす。兵士は肘を返し、ムジンの脇腹へ打ち込んだ。 鈍い音が響いた。 それでも、ムジンは手を離さない。 兵士の目が、ムジンの動きを追った。 「動作記録と一致します」 「そうか」 「修正されていません」 ムジンの目が細くなる。 「お前もな」 兵士の指が、わずかに止まった。 その隙に、ムジンは兵士を壁へ叩きつける。 「戻るな!」 ソンミンがグンソの腕を掴む。 「でも、ムジンが!」 「置いていくんじゃない! あの人が、お前を通しているんだ!」 ムジンが兵士を押し返す。 「行け!」 グンソは歯を食いしばり、裏口へ走った。 燃えかけた家を出ると、旧居住区の路地が広がっていた。 青紫の灯が、遠くから順番に消えていく。 屋根の上にも、交差路にも、特高の影が現れた。 「第三取水路の旧点検口へ!」 ドンチョルが鉄輪を引く。 石畳が沈み、地下から湿った空気が吹き上がった。 その時、路地の奥から穏やかな声が響いた。 「そこまでにしていただけますか」 特高の兵士たちが、一斉に道を空ける。 消えかけた青紫の灯の向こうから、ひとりの男が歩いてきた。 二メートルを超える細身の身体。 乱れひとつない黒い上級制服。 胸元で冷たく光る銀徽章。 黒い制帽の影に、端正な顔が浮かんでいる。 男は倒れている兵士へ視線を向けた。 「止血を。死なせてはいけません」 命じられた兵士が、慌てて仲間へ駆け寄る。 男はそれを確認してから、グンソたちへ微笑んだ。 「ご安心ください。皆さんを無闇に傷つけるつもりはありません」 ヘジュが銃を向ける。 「近づくな」 「ええ。そうなさるのがよいでしょう」 男は素直に足を止めた。 「その記録片を、こちらへ渡していただけますか」 グンソが記録片を握りしめる。 「ソナの名前を、また消すつもりか!」 「消す?」 男は静かに瞬きをした。 「記録は保存されます。適切な場所へ、適切な形式で」 「人間を番号に変えておいてか!」 「番号なら、間違いがありません」 ヘジュの指が、引き金へかかる。 「撃て」 銃声が響いた。 弾丸が男の肩を抉る。 黒い制服が裂け、血が流れた。 男は一歩だけ後退した。 傷口を見下ろし、指先についた血を確認する。 「……失礼しました」 男は顔を上げた。 「その距離で撃つのであれば、もう少し左を狙った方が確実です」 その時、背後の家から大きな音が響いた。 ムジンが路地へ姿を現す。 黒い外套は裂け、肩から血が流れていた。 その背後に、先ほどの兵士が立っている。 兵士は銃を構えたまま、ムジンを見た。 「師範」 「その名で呼ぶな」 「承知しました」 兵士は一歩前へ出る。 「ムジン」 名前だけが、路地に平坦に響いた。 男が、二人を見比べる。 「教え子ですか」 「過去の話です」 ムジンは兵士から視線を外さなかった。 兵士の銃口が、ゆっくりとムジンへ向く。 ムジンは何も言わない。 ただ、グンソたちへ顔を向けた。 「地下へ入れ」 「でも、あなたが!」 「早くしろ」 ソンミンがグンソの腕を掴んだ。 ヘジュ、ドンチョル、テジュンが、次々と地下水路へ入っていく。 グンソだけが動かなかった。 「ムジン!」 ムジンは振り返らない。 「生き残れ」 グンソは記録片を胸元へ押し当てた。 そして、地下水路へ飛び込んだ。 鉄扉が閉じ始める。 最後に見えたのは、青紫の灯の下で銃を向ける、ムジンのかつての弟子。 その隣で、傷口を眺めながら微笑む男。 ムジンは、二人の前に立っていた。 男が静かに頭を下げる。 「それでは、少しだけお時間をいただきます」 鉄扉が閉じた。 直後、地上から低い衝撃音が響いた。 一度。 二度。 グンソは振り返らなかった。 ソナの名前を、外へ持ち出すために。

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異世界アイドル☆パラレルパレード NEO AKIBA ARCHIVE LOG R-14 ―無窮花― 南港の古い荷役区画には、使われなくなった船が係留されていた。 青紫の時刻灯が水面に揺れ、巨大な透明天蓋の曲面が遠い空の歪みとして見えている。天蓋の外では黒い雲が渦を巻いていたが、港の内側に雨はなかった。 オルフェンは、管理者の机に置かれていた資料の写しを手に、錆びた船の前で足を止めた。 船体には、水質調査用だった刻印が残っている。現在は登録を失い、港湾台帳からも消された船だった。 その脇に、一人の男が立っていた。 長い外套。痩せた身体。伸びた黒髪。目の下には、眠っていない人間の色がある。 「管理局か」 「違います」 「証明しろ」 オルフェンは剣へ触れず、一枚の記録を甲板へ置いた。 A-12。八歳。 音声刺激、実施。 情緒安定処置、継続。 治療終了。 男の指が止まった。 「……どこで、それを」 「この街へ持ち込まれました」 「誰から?」 「それは、まだ答えられません」 男は記録を見下ろし、船内へ続く階段を指差した。 「入れ」 船室は狭く、窓には厚い布が掛けられていた。古い机の上には乾いたパンと水差し、それから一枚の花が置かれている。 赤紫色の押し花だった。 「綺麗ですね」 男が花を隠した。 「触るな。故郷の花だ。無窮花。ムグンファと呼ぶ」 「妹さんが?」 男の視線が上がった。 「なぜ妹を知っている」 オルフェンは別の紙を机へ置いた。 そこには、チェ・ソナという名前が記されていた。 男の呼吸が一度だけ浅くなる。 「チェ・グンソさんですね」 「その名前は使うな」 「分かりました」 「向こうでは、名前を使わない。番号で呼ぶ。番号で記録し、番号で処置し、番号で死なせる」 グンソは椅子へ腰を下ろした。 「妹は、まだ生きている」 「どこにいますか」 「北部観測都市。保護施設の地下二階」 「保護施設」 「そう呼ばれているだけだ」 グンソは花へ目を落とした。 「家族から離し、適性を調べ、情緒を整え、国家に役立つ人間へ育てる場所だ」 「実際には?」 「家族を忘れるまで、家族の声を聞かせる」 オルフェンは黙った。 「泣けば情緒不安定。怒れば攻撃性。帰りたいと言えば依存症。何も言わなくなれば、安定したと記録される」 「ソナさんは、何歳ですか」 「十三」 その数字だけ、グンソの声が低くなった。 「まだ子供です」 「向こうの記録では、保護対象であり、将来資源だ」 「会うことは?」 「許可が必要だ。面会室には記録官がいる。触れることは禁止。名前で呼ぶことも禁止」 「それでも会えたんですね」 「一度だけ」 グンソは押し花を指先でなぞった。 「妹は、私を兄と呼ばなかった。番号を呼んだ。私が施設で使っていた番号を」 船の外で、係留鎖が水面に擦れた。 「私は工作船の船底に隠れて出てきた。船荷は浄化用鉱石。船員名簿に、私の名前はない」 グンソの指が花の端を押さえる。 「検査官がすぐそばまで来た。靴音が止まった。あと少し動けば、花を潰していた」 「その花を?」 「妹が渡した」 グンソは目を閉じた。 「帰ってきて、と言った」 その声だけが揺れた。 「だから帰れなかった」 オルフェンは彼の向かいへ座った。 「故郷が嫌いなんですか」 「違う。憎んでいるのは、国だ」 グンソは花を見た。 「故郷には妹がいる。家がある。歩いた道も、花もある。だから簡単に捨てられない」 「では、戻りたい?」 「戻れば、妹の隣へ立てる」 「捕まります」 「分かっている」 「殺されるかもしれません」 「それも分かっている」 「私が手を貸しても、妹さんを必ず救えるとは言えません」 グンソはオルフェンを見た。 「あなたは、勇者だろう」 「はい」 「勇者なら、救えると言え」 「言えません」 オルフェンは穏やかに続けた。 「ソナさんが、以前の自分に戻れるとも言えません。私が行けば、状況が悪くなる可能性もあります」 「では、なぜ来た」 「見捨てる理由にはならないからです」 「妹が、もう私を兄だと思っていなくても?」 「思い出せなくても構いません」 オルフェンは、机の上の無窮花を見た。 「あなたが、妹さんを妹だと思っている限り」 グンソは答えなかった。 船室の壁には、北部観測都市へ向かう古い航路図が貼られていた。途中には検問所と軍用橋が並んでいる。 グンソは地図の一点を指で叩いた。 「ここから先は、戻れない」 「帰れない場所なら」 オルフェンは立ち上がった。 「帰れる場所を作ります」 グンソは無窮花を見た。 押し花の花弁は、何年も前に枯れている。 それでも、色だけは失っていなかった。

異世界アイドル☆パラレルパレード NEO AKIBA ARCHIVE LOG R-14 ―無窮花― 南港の古い荷役区画には、使われなくなった船が係留されていた。 青紫の時刻灯が水面に揺れ、巨大な透明天蓋の曲面が遠い空の歪みとして見えている。天蓋の外では黒い雲が渦を巻いていたが、港の内側に雨はなかった。 オルフェンは、管理者の机に置かれていた資料の写しを手に、錆びた船の前で足を止めた。 船体には、水質調査用だった刻印が残っている。現在は登録を失い、港湾台帳からも消された船だった。 その脇に、一人の男が立っていた。 長い外套。痩せた身体。伸びた黒髪。目の下には、眠っていない人間の色がある。 「管理局か」 「違います」 「証明しろ」 オルフェンは剣へ触れず、一枚の記録を甲板へ置いた。 A-12。八歳。 音声刺激、実施。 情緒安定処置、継続。 治療終了。 男の指が止まった。 「……どこで、それを」 「この街へ持ち込まれました」 「誰から?」 「それは、まだ答えられません」 男は記録を見下ろし、船内へ続く階段を指差した。 「入れ」 船室は狭く、窓には厚い布が掛けられていた。古い机の上には乾いたパンと水差し、それから一枚の花が置かれている。 赤紫色の押し花だった。 「綺麗ですね」 男が花を隠した。 「触るな。故郷の花だ。無窮花。ムグンファと呼ぶ」 「妹さんが?」 男の視線が上がった。 「なぜ妹を知っている」 オルフェンは別の紙を机へ置いた。 そこには、チェ・ソナという名前が記されていた。 男の呼吸が一度だけ浅くなる。 「チェ・グンソさんですね」 「その名前は使うな」 「分かりました」 「向こうでは、名前を使わない。番号で呼ぶ。番号で記録し、番号で処置し、番号で死なせる」 グンソは椅子へ腰を下ろした。 「妹は、まだ生きている」 「どこにいますか」 「北部観測都市。保護施設の地下二階」 「保護施設」 「そう呼ばれているだけだ」 グンソは花へ目を落とした。 「家族から離し、適性を調べ、情緒を整え、国家に役立つ人間へ育てる場所だ」 「実際には?」 「家族を忘れるまで、家族の声を聞かせる」 オルフェンは黙った。 「泣けば情緒不安定。怒れば攻撃性。帰りたいと言えば依存症。何も言わなくなれば、安定したと記録される」 「ソナさんは、何歳ですか」 「十三」 その数字だけ、グンソの声が低くなった。 「まだ子供です」 「向こうの記録では、保護対象であり、将来資源だ」 「会うことは?」 「許可が必要だ。面会室には記録官がいる。触れることは禁止。名前で呼ぶことも禁止」 「それでも会えたんですね」 「一度だけ」 グンソは押し花を指先でなぞった。 「妹は、私を兄と呼ばなかった。番号を呼んだ。私が施設で使っていた番号を」 船の外で、係留鎖が水面に擦れた。 「私は工作船の船底に隠れて出てきた。船荷は浄化用鉱石。船員名簿に、私の名前はない」 グンソの指が花の端を押さえる。 「検査官がすぐそばまで来た。靴音が止まった。あと少し動けば、花を潰していた」 「その花を?」 「妹が渡した」 グンソは目を閉じた。 「帰ってきて、と言った」 その声だけが揺れた。 「だから帰れなかった」 オルフェンは彼の向かいへ座った。 「故郷が嫌いなんですか」 「違う。憎んでいるのは、国だ」 グンソは花を見た。 「故郷には妹がいる。家がある。歩いた道も、花もある。だから簡単に捨てられない」 「では、戻りたい?」 「戻れば、妹の隣へ立てる」 「捕まります」 「分かっている」 「殺されるかもしれません」 「それも分かっている」 「私が手を貸しても、妹さんを必ず救えるとは言えません」 グンソはオルフェンを見た。 「あなたは、勇者だろう」 「はい」 「勇者なら、救えると言え」 「言えません」 オルフェンは穏やかに続けた。 「ソナさんが、以前の自分に戻れるとも言えません。私が行けば、状況が悪くなる可能性もあります」 「では、なぜ来た」 「見捨てる理由にはならないからです」 「妹が、もう私を兄だと思っていなくても?」 「思い出せなくても構いません」 オルフェンは、机の上の無窮花を見た。 「あなたが、妹さんを妹だと思っている限り」 グンソは答えなかった。 船室の壁には、北部観測都市へ向かう古い航路図が貼られていた。途中には検問所と軍用橋が並んでいる。 グンソは地図の一点を指で叩いた。 「ここから先は、戻れない」 「帰れない場所なら」 オルフェンは立ち上がった。 「帰れる場所を作ります」 グンソは無窮花を見た。 押し花の花弁は、何年も前に枯れている。 それでも、色だけは失っていなかった。

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異世界アイドル☆パラレルパレード NEO AKIBA ARCHIVE LOG R-12 ―青い封書― 翌朝。診療所の窓に、巨大な透明天蓋の曲面が淡く歪んで見えていた。青紫の灯が街路を照らし、水車の回る音と運河を進む小舟の音が静かに重なっている。診療所の前を薬売りの荷車が通り、向かいの食堂からは焼いたパンと温めたスープの香りが流れていた。 アルトリウスは、昨日と変わらない朝を迎えていた。 オルフェンは、診療所の長椅子に並んだ六人を見ていた。巡水隊の隊長はまだ眠っており、負傷した隊員の脚には包帯が巻かれている。熱を出していた男の額には冷却布が置かれ、エレナは一人ずつの記録を確認していた。 「全員、今日中には帰れそうです」 エレナが記録板を閉じると、オルフェンはようやく肩の力を抜いた。 「よかったです^^」 「あなたは帰らないんですか」 「私はもう帰っていますよ」 「ここを家にしないでください。診療所は家ではありません」 エレナに注意され、オルフェンは長椅子に並ぶ六人へ目を向けた。 「でも、皆さんがいますので……^^;」 「あなたは、誰かがいる場所ならどこでも家にするんですね」 「そうかもしれません^^」 オルフェンが長椅子の端へ腰掛ける。右手には、前日の救助で出来た傷が残っていた。指の付け根が裂け、石壁と剣の柄で擦れた皮膚には薄く血が滲んでいる。 それに気付いたエレナが、オルフェンの前へ手を差し出した。 「右手を見せてください」 「これは大したことありません」 「大したことがあるかどうかは、診る側が決めます」 「では、お願いします^^;」 オルフェンが素直に右手を差し出す。エレナは傷口を洗い、薬を塗ってから、新しい包帯をゆっくりと巻いた。その手つきは、口調よりずっと柔らかかった。 「昨日、あれだけ水圧を受けて、よく骨を痛めませんでしたね」 「皆さんが先に出られましたので」 「質問に答えていません」 「運がよかったんですよ^^;」 「あなたは何でも運で済ませますね」 エレナは指が動くことを確かめてから、包帯の端を結んだ。 「きつくありませんか?」 「大丈夫です」 「本当に?」 「はい。ありがとうございます^^」 「痛みが増したら、すぐに戻ってきてください。我慢して悪化させたら怒ります」 「もう少し怒っているように見えますが……^^;」 エレナは一度だけ手を止めた。 「心配しているんです」 そう言ってから、何事もなかったように薬箱を閉じる。 「今日は剣を振らないでください。水車の修理も禁止です」 「分かりました」 「返事だけで終わらせないでくださいね」 「気をつけます^^;」 そこへ、入口から子供の声がした。 「オルフェンさん!」 振り向くと、昨日救助された隊員の娘が立っていた。小さな手には、欠けた青い灯器が握られている。 「これ、お父さんのです。返してくれてありがとう」 「私が返したわけではありませんよ」 オルフェンは少女の前へしゃがみ込み、灯器を受け取った。表面には傷があり、灯芯も少し曲がっている。彼は腰の道具袋から布を取り出し、灯器についた泥を丁寧に拭った。 「この灯器が、お父さんを帰り道まで照らしたんです」 「でも、オルフェンさんが行かなかったら、お父さん帰ってこなかったよ」 少女がまっすぐに言う。オルフェンは少し困ったように笑い、灯器を両手で返した。 「では、次はお父さんがあなたを照らす番ですね^^」 少女は嬉しそうに笑った。 「オルフェンさんは、どこへ行くの?」 「少し中央へ行く予定です」 「冒険?」 「お仕事です」 「勇者なのに?」 「勇者もお仕事をしますよ」 少女は灯器を胸へ抱えた。 「中央にも水路はある?」 「あります。アルトリウスとは形が違うそうですよ」 「見てきて!」 「よく見てきます^^」 少女が父親の眠る長椅子へ駆け寄る。オルフェンはその様子を見届けてから立ち上がった。 診療所の外では、街がいつも通り動いていた。水車が回り、運河を小舟が進み、石橋の上を荷車が渡っていく。水売りの老人が配給所へ向かう樽を積み、仕立て屋の前では職人が布を広げ、通りの隅では子供達が木片を使って小さな船を作っていた。 通りの向こうから、水売りの老人が声を飛ばした。 「オルフェン! 今日も中央からの手紙か?」 「まだ一通だけです」 「なら燃やしてしまえ!」 「それは少し乱暴ですね^^;」 「お前は乱暴さが足りん!」 オルフェンが足を止める。 「そうでしょうか」 「そうだ。勇者なら、もっと怒れ!」 「怒るとお腹が空きますので」 「そこか!」 周囲から笑い声が起こった。オルフェンは老人へ軽く手を振り、そのまま街長の執務室へ向かった。 途中、水車の前で足を止める。昨日の揺れで木製の歯車が少しずれており、職人が工具を広げていた。 オルフェンが近付くと、職人は手を止めずに言った。 「触るなよ」 「今日は手を使えないので、見ているだけです^^;」 「エレナに言われたな」 「はい」 「なら座っていろ」 「見ているだけなら大丈夫です」 「それが一番信用できん」 オルフェンは水車の軸を眺め、歯車の噛み合わせを確認した。 「右側の木楔が少し浮いています」 「分かっている」 「失礼しました」 職人は木楔を見直すと、オルフェンを手招きした。 「いや、そこを押さえてくれ。手は使うなよ」 「それは手を使うのでは?」 「体で押さえろ」 オルフェンは言われた通り、水車の支柱へ肩を当てた。職人が木楔を打ち込み、歯車がゆっくりと噛み合っていく。 「回すぞ」 「はい」 水が流れ、水車が動き出した。軋んでいた音が整い、規則正しい回転音へ変わる。 職人が満足そうに頷いた。 「助かった」 「私は立っていただけです」 「立っているだけで役に立つ奴が、世の中に何人いると思う?」 「分かりません」 「だからお前は困るんだ」 職人は笑いながら、オルフェンの背中を軽く叩いた。 「中央へ行くんだろ。向こうで変なものを食わされるなよ」 「前回は飲み物が冷めていました」 「そこを気にするのか」 「大切なことです^^」 街長の執務室には、昨日の青い封書が置かれていた。封蝋には観測管理局中央の紋章が押されている。街長は封書を開き、内容を読み終えてからオルフェンへ差し出した。 「中央から、合同調査の申し入れだ。水質、医療記録、浄化設備、取水路の構造。中央の観測設備も使えるらしい」 「それは助かりますね」 「代表者会談も同時に行う。お前に来てほしいそうだ」 オルフェンは自分を指した。 「私ですか」 「水都の代表として、最も知られているからな」 「街長の方が、ずっと詳しいと思いますが」 「私は中央で褒められても、街の水車を直せん」 「私も直せませんよ^^;」 街長は苦笑してから、窓の外へ目を向けた。 「管理者は、まだ北部境界の任務から戻っていない。帰還を待ってから決めてもいい」 オルフェンは書面へ目を落とした。診療所の六人、増え続ける患者、水路の異常、そして中央の観測設備。必要なものが揃っているなら、まず話を聞く意味はある。 「先に話を聞いてきます」 街長が顔を上げる。 「行くのか?」 「はい。調査に必要なものがあるなら、確認しておきたいです」 「中央で長く引き止められるかもしれない」 「その時は、早く帰れるようにお願いしてみます^^」 「お願いで済む相手かどうかを聞いている」 「では、丁寧に交渉します」 「お前は、中央の貴族相手でもその調子なのか」 「相手に合わせて、少しだけ丁寧にします」 「今も十分丁寧だろう」 「では、かなり丁寧にします^^;」 街長は額へ手を当てた。 オルフェンは青い封書を手に取った。 「薬品、観測資料、浄化技術。街へ持ち帰れるものがあるなら、持ち帰ります」 「誰を連れて行く」 「副官と記録官を。医療関係の話が必要なら、エレナにも確認します」 「エレナは診療所を離れられん」 「では、必要なことを全部書いてもらいます」 街長は椅子へ座り直した。 「お前は、いつも簡単に引き受けるな」 「簡単ではありませんよ」 オルフェンは封書を見つめた。 「皆さんが安心して暮らせるようになるなら、行く意味はあります」 街長は、しばらく彼を見ていた。 「中央は、お前を歓迎するだろう」 「褒められるのは苦手です」 「表彰されるかもしれん」 「それはもっと苦手です^^;」 「銀杯を渡されたら?」 「口をつけないようにします」 「そこだけは覚えているのか」 「前回、飲み物が冷めていましたので」 街長は呆れたように首を振った。オルフェンは穏やかに笑い、青い封書を懐へしまった。 その日の午後、出発の準備が始まった。副官は必要な書類をまとめ、記録官は水路図を整理する。エレナは診療所で使う薬品の一覧を書き出し、中央へ確認する項目を一つずつ並べた。 エレナが書類を差し出す。 「中央の医師へ渡してください」 「分かりました」 「診療記録の写しです。患者数の推移、水の使用量、取水路ごとの異常。できるだけ正確な資料が必要です」 「はい。忘れないように、三回確認します」 「あなたは確認する前に出発しそうなので、今ここで確認してください」 「では、今確認します^^;」 オルフェンが書類を読み始めると、エレナは小さな布包みを荷物の上へ置いた。中には移動中の食事と、交換用の包帯、傷薬が入っている。 「食事を忘れそうなので、入れておきました」 「ありがとうございます^^」 「右手の傷が開いたら、すぐに使ってください。我慢して悪化させたら怒ります」 「もう十分怒られているような……^^;」 「今は心配しているだけです」 エレナは目を逸らし、確認事項を指で示した。 「それから、食事を抜かないこと。睡眠を取ること。一人で勝手に動かないこと」 オルフェンは少しだけ考えた。 「努力します」 エレナは記録板を下ろした。 「そこは、はいと言ってください」 「はい。気をつけます^^」 その後、オルフェンは配給所へ顔を出し、戻ってきた巡水隊の隊員達へ声を掛けた。 「もう歩けるんですか」 「隊長が寝ていろと言うんですが、暇でして」 隊員が答えると、オルフェンは水車の方を指した。 「それなら、退院祝いに水車の修理を手伝ってください^^」 「結局働かせるんですか!」 「軽い作業だけですよ^^;」 「勇者様の退院祝いが、ずいぶん実用的ですね」 「水車が回ると、皆さんが助かりますので」 「そういうところですよ!」 オルフェンは首を傾げた。 「何がですか?」 隊員達は顔を見合わせ、笑った。 夕刻、アルトリウスの街門が開いた。オルフェンは白い外套を羽織り、聖剣を腰へ帯びた。副官は書類袋を抱え、記録官は水路図を巻いて背負っている。 街門の前には、診療所の子供達、巡水隊の隊員、配給所の老人、水車職人、街長まで集まっていた。 一人の子供が大きな声で叫んだ。 「オルフェンさん、中央のお菓子!」 「街長にも同じことを言われました^^」 「じゃあ、いっぱい買ってきて!」 「食べきれないほど買うと、帰りの荷物が大変ですよ」 「勇者なら大丈夫!」 「勇者にも荷物の限界はあります^^;」 街長が門の脇から声を掛けた。 「オルフェン!」 「はい!」 「中央の菓子を買ってこい!」 「水都の菓子より美味しかったら考えます^^」 「絶対に買ってこい!」 「分かりました^^」 「返事だけはいいな!」 「昔から褒められています^^;」 診療所の窓が開き、エレナが顔を出した。 「布包み、途中で置き忘れないでください」 オルフェンは荷物の中を確認し、エレナへ振り返った。 「ちゃんと入っています^^」 「食事も傷薬も使ってくださいね」 「はい。ありがとうございます」 エレナはそれを聞いて、ようやく小さく笑った。 オルフェンは見送りの人々へ手を振り、街門の外へ歩き出した。副官と記録官が、その後ろへ続いていく。門の内側では子供達が声を上げ、水車職人が手を振り、巡水隊の隊員達が笑いながら見送っていた。 青い封書は、オルフェンの懐に収まっていた。

異世界アイドル☆パラレルパレード NEO AKIBA ARCHIVE LOG R-12 ―青い封書― 翌朝。診療所の窓に、巨大な透明天蓋の曲面が淡く歪んで見えていた。青紫の灯が街路を照らし、水車の回る音と運河を進む小舟の音が静かに重なっている。診療所の前を薬売りの荷車が通り、向かいの食堂からは焼いたパンと温めたスープの香りが流れていた。 アルトリウスは、昨日と変わらない朝を迎えていた。 オルフェンは、診療所の長椅子に並んだ六人を見ていた。巡水隊の隊長はまだ眠っており、負傷した隊員の脚には包帯が巻かれている。熱を出していた男の額には冷却布が置かれ、エレナは一人ずつの記録を確認していた。 「全員、今日中には帰れそうです」 エレナが記録板を閉じると、オルフェンはようやく肩の力を抜いた。 「よかったです^^」 「あなたは帰らないんですか」 「私はもう帰っていますよ」 「ここを家にしないでください。診療所は家ではありません」 エレナに注意され、オルフェンは長椅子に並ぶ六人へ目を向けた。 「でも、皆さんがいますので……^^;」 「あなたは、誰かがいる場所ならどこでも家にするんですね」 「そうかもしれません^^」 オルフェンが長椅子の端へ腰掛ける。右手には、前日の救助で出来た傷が残っていた。指の付け根が裂け、石壁と剣の柄で擦れた皮膚には薄く血が滲んでいる。 それに気付いたエレナが、オルフェンの前へ手を差し出した。 「右手を見せてください」 「これは大したことありません」 「大したことがあるかどうかは、診る側が決めます」 「では、お願いします^^;」 オルフェンが素直に右手を差し出す。エレナは傷口を洗い、薬を塗ってから、新しい包帯をゆっくりと巻いた。その手つきは、口調よりずっと柔らかかった。 「昨日、あれだけ水圧を受けて、よく骨を痛めませんでしたね」 「皆さんが先に出られましたので」 「質問に答えていません」 「運がよかったんですよ^^;」 「あなたは何でも運で済ませますね」 エレナは指が動くことを確かめてから、包帯の端を結んだ。 「きつくありませんか?」 「大丈夫です」 「本当に?」 「はい。ありがとうございます^^」 「痛みが増したら、すぐに戻ってきてください。我慢して悪化させたら怒ります」 「もう少し怒っているように見えますが……^^;」 エレナは一度だけ手を止めた。 「心配しているんです」 そう言ってから、何事もなかったように薬箱を閉じる。 「今日は剣を振らないでください。水車の修理も禁止です」 「分かりました」 「返事だけで終わらせないでくださいね」 「気をつけます^^;」 そこへ、入口から子供の声がした。 「オルフェンさん!」 振り向くと、昨日救助された隊員の娘が立っていた。小さな手には、欠けた青い灯器が握られている。 「これ、お父さんのです。返してくれてありがとう」 「私が返したわけではありませんよ」 オルフェンは少女の前へしゃがみ込み、灯器を受け取った。表面には傷があり、灯芯も少し曲がっている。彼は腰の道具袋から布を取り出し、灯器についた泥を丁寧に拭った。 「この灯器が、お父さんを帰り道まで照らしたんです」 「でも、オルフェンさんが行かなかったら、お父さん帰ってこなかったよ」 少女がまっすぐに言う。オルフェンは少し困ったように笑い、灯器を両手で返した。 「では、次はお父さんがあなたを照らす番ですね^^」 少女は嬉しそうに笑った。 「オルフェンさんは、どこへ行くの?」 「少し中央へ行く予定です」 「冒険?」 「お仕事です」 「勇者なのに?」 「勇者もお仕事をしますよ」 少女は灯器を胸へ抱えた。 「中央にも水路はある?」 「あります。アルトリウスとは形が違うそうですよ」 「見てきて!」 「よく見てきます^^」 少女が父親の眠る長椅子へ駆け寄る。オルフェンはその様子を見届けてから立ち上がった。 診療所の外では、街がいつも通り動いていた。水車が回り、運河を小舟が進み、石橋の上を荷車が渡っていく。水売りの老人が配給所へ向かう樽を積み、仕立て屋の前では職人が布を広げ、通りの隅では子供達が木片を使って小さな船を作っていた。 通りの向こうから、水売りの老人が声を飛ばした。 「オルフェン! 今日も中央からの手紙か?」 「まだ一通だけです」 「なら燃やしてしまえ!」 「それは少し乱暴ですね^^;」 「お前は乱暴さが足りん!」 オルフェンが足を止める。 「そうでしょうか」 「そうだ。勇者なら、もっと怒れ!」 「怒るとお腹が空きますので」 「そこか!」 周囲から笑い声が起こった。オルフェンは老人へ軽く手を振り、そのまま街長の執務室へ向かった。 途中、水車の前で足を止める。昨日の揺れで木製の歯車が少しずれており、職人が工具を広げていた。 オルフェンが近付くと、職人は手を止めずに言った。 「触るなよ」 「今日は手を使えないので、見ているだけです^^;」 「エレナに言われたな」 「はい」 「なら座っていろ」 「見ているだけなら大丈夫です」 「それが一番信用できん」 オルフェンは水車の軸を眺め、歯車の噛み合わせを確認した。 「右側の木楔が少し浮いています」 「分かっている」 「失礼しました」 職人は木楔を見直すと、オルフェンを手招きした。 「いや、そこを押さえてくれ。手は使うなよ」 「それは手を使うのでは?」 「体で押さえろ」 オルフェンは言われた通り、水車の支柱へ肩を当てた。職人が木楔を打ち込み、歯車がゆっくりと噛み合っていく。 「回すぞ」 「はい」 水が流れ、水車が動き出した。軋んでいた音が整い、規則正しい回転音へ変わる。 職人が満足そうに頷いた。 「助かった」 「私は立っていただけです」 「立っているだけで役に立つ奴が、世の中に何人いると思う?」 「分かりません」 「だからお前は困るんだ」 職人は笑いながら、オルフェンの背中を軽く叩いた。 「中央へ行くんだろ。向こうで変なものを食わされるなよ」 「前回は飲み物が冷めていました」 「そこを気にするのか」 「大切なことです^^」 街長の執務室には、昨日の青い封書が置かれていた。封蝋には観測管理局中央の紋章が押されている。街長は封書を開き、内容を読み終えてからオルフェンへ差し出した。 「中央から、合同調査の申し入れだ。水質、医療記録、浄化設備、取水路の構造。中央の観測設備も使えるらしい」 「それは助かりますね」 「代表者会談も同時に行う。お前に来てほしいそうだ」 オルフェンは自分を指した。 「私ですか」 「水都の代表として、最も知られているからな」 「街長の方が、ずっと詳しいと思いますが」 「私は中央で褒められても、街の水車を直せん」 「私も直せませんよ^^;」 街長は苦笑してから、窓の外へ目を向けた。 「管理者は、まだ北部境界の任務から戻っていない。帰還を待ってから決めてもいい」 オルフェンは書面へ目を落とした。診療所の六人、増え続ける患者、水路の異常、そして中央の観測設備。必要なものが揃っているなら、まず話を聞く意味はある。 「先に話を聞いてきます」 街長が顔を上げる。 「行くのか?」 「はい。調査に必要なものがあるなら、確認しておきたいです」 「中央で長く引き止められるかもしれない」 「その時は、早く帰れるようにお願いしてみます^^」 「お願いで済む相手かどうかを聞いている」 「では、丁寧に交渉します」 「お前は、中央の貴族相手でもその調子なのか」 「相手に合わせて、少しだけ丁寧にします」 「今も十分丁寧だろう」 「では、かなり丁寧にします^^;」 街長は額へ手を当てた。 オルフェンは青い封書を手に取った。 「薬品、観測資料、浄化技術。街へ持ち帰れるものがあるなら、持ち帰ります」 「誰を連れて行く」 「副官と記録官を。医療関係の話が必要なら、エレナにも確認します」 「エレナは診療所を離れられん」 「では、必要なことを全部書いてもらいます」 街長は椅子へ座り直した。 「お前は、いつも簡単に引き受けるな」 「簡単ではありませんよ」 オルフェンは封書を見つめた。 「皆さんが安心して暮らせるようになるなら、行く意味はあります」 街長は、しばらく彼を見ていた。 「中央は、お前を歓迎するだろう」 「褒められるのは苦手です」 「表彰されるかもしれん」 「それはもっと苦手です^^;」 「銀杯を渡されたら?」 「口をつけないようにします」 「そこだけは覚えているのか」 「前回、飲み物が冷めていましたので」 街長は呆れたように首を振った。オルフェンは穏やかに笑い、青い封書を懐へしまった。 その日の午後、出発の準備が始まった。副官は必要な書類をまとめ、記録官は水路図を整理する。エレナは診療所で使う薬品の一覧を書き出し、中央へ確認する項目を一つずつ並べた。 エレナが書類を差し出す。 「中央の医師へ渡してください」 「分かりました」 「診療記録の写しです。患者数の推移、水の使用量、取水路ごとの異常。できるだけ正確な資料が必要です」 「はい。忘れないように、三回確認します」 「あなたは確認する前に出発しそうなので、今ここで確認してください」 「では、今確認します^^;」 オルフェンが書類を読み始めると、エレナは小さな布包みを荷物の上へ置いた。中には移動中の食事と、交換用の包帯、傷薬が入っている。 「食事を忘れそうなので、入れておきました」 「ありがとうございます^^」 「右手の傷が開いたら、すぐに使ってください。我慢して悪化させたら怒ります」 「もう十分怒られているような……^^;」 「今は心配しているだけです」 エレナは目を逸らし、確認事項を指で示した。 「それから、食事を抜かないこと。睡眠を取ること。一人で勝手に動かないこと」 オルフェンは少しだけ考えた。 「努力します」 エレナは記録板を下ろした。 「そこは、はいと言ってください」 「はい。気をつけます^^」 その後、オルフェンは配給所へ顔を出し、戻ってきた巡水隊の隊員達へ声を掛けた。 「もう歩けるんですか」 「隊長が寝ていろと言うんですが、暇でして」 隊員が答えると、オルフェンは水車の方を指した。 「それなら、退院祝いに水車の修理を手伝ってください^^」 「結局働かせるんですか!」 「軽い作業だけですよ^^;」 「勇者様の退院祝いが、ずいぶん実用的ですね」 「水車が回ると、皆さんが助かりますので」 「そういうところですよ!」 オルフェンは首を傾げた。 「何がですか?」 隊員達は顔を見合わせ、笑った。 夕刻、アルトリウスの街門が開いた。オルフェンは白い外套を羽織り、聖剣を腰へ帯びた。副官は書類袋を抱え、記録官は水路図を巻いて背負っている。 街門の前には、診療所の子供達、巡水隊の隊員、配給所の老人、水車職人、街長まで集まっていた。 一人の子供が大きな声で叫んだ。 「オルフェンさん、中央のお菓子!」 「街長にも同じことを言われました^^」 「じゃあ、いっぱい買ってきて!」 「食べきれないほど買うと、帰りの荷物が大変ですよ」 「勇者なら大丈夫!」 「勇者にも荷物の限界はあります^^;」 街長が門の脇から声を掛けた。 「オルフェン!」 「はい!」 「中央の菓子を買ってこい!」 「水都の菓子より美味しかったら考えます^^」 「絶対に買ってこい!」 「分かりました^^」 「返事だけはいいな!」 「昔から褒められています^^;」 診療所の窓が開き、エレナが顔を出した。 「布包み、途中で置き忘れないでください」 オルフェンは荷物の中を確認し、エレナへ振り返った。 「ちゃんと入っています^^」 「食事も傷薬も使ってくださいね」 「はい。ありがとうございます」 エレナはそれを聞いて、ようやく小さく笑った。 オルフェンは見送りの人々へ手を振り、街門の外へ歩き出した。副官と記録官が、その後ろへ続いていく。門の内側では子供達が声を上げ、水車職人が手を振り、巡水隊の隊員達が笑いながら見送っていた。 青い封書は、オルフェンの懐に収まっていた。

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異世界アイドル☆パラレルパレード NEO AKIBA OBSERVATION LOG 31 ― 終わらなかった祈り ― 小説の断片が発見された。 決まった時間になると、ネオアキバは静かになる。 第五層を巡る運搬列車は速度を落とし、市場の呼び声は途絶える。工房の槌音は止み、地下都市を満たしていた喧騒は少しずつ遠ざかっていく。誰も呼ばない。誰も命じない。それでも人々は歩き出す。祖父がそうしたように。その祖父がそうしたように。さらに遠い昔の誰かがそうしたように。ただ、それが当たり前だった。 雨は降り続いている。 古い鉄骨を叩く音。遠くで唸り続ける観測炉。人々は広場へ向かう。 そして。 次に気付いた時には、人々は広場に立っていた。 雨は降っている。観測炉は唸っている。広場を埋める人々も変わらない。いつも通りだった。そのはずだった。 それなのに。 誰も帰れなかった。 市場へ戻らなければならない者がいた。工房へ戻らなければならない者がいた。家族が待っている者もいた。それでも、誰一人として足を動かせなかった。 長い時間が過ぎる。 誰も話さない。誰も顔を見合わせない。ただ静かに立ち尽くしていた。やがて一人が歩き出す。また一人。さらに一人。人々は静かに広場を後にしていく。 その時だった。 気付けば頬を濡らしていた。 最初に涙を流した者が誰だったのかは分からない。気付けば多くの者が、同じように頬を濡らしていた。 翌日、市場は開いた。工房は動いた。運搬列車は第五層を巡った。 誰も昨日の話をしなかった。 雨は降り続いていた。

異世界アイドル☆パラレルパレード NEO AKIBA OBSERVATION LOG 31 ― 終わらなかった祈り ― 小説の断片が発見された。 決まった時間になると、ネオアキバは静かになる。 第五層を巡る運搬列車は速度を落とし、市場の呼び声は途絶える。工房の槌音は止み、地下都市を満たしていた喧騒は少しずつ遠ざかっていく。誰も呼ばない。誰も命じない。それでも人々は歩き出す。祖父がそうしたように。その祖父がそうしたように。さらに遠い昔の誰かがそうしたように。ただ、それが当たり前だった。 雨は降り続いている。 古い鉄骨を叩く音。遠くで唸り続ける観測炉。人々は広場へ向かう。 そして。 次に気付いた時には、人々は広場に立っていた。 雨は降っている。観測炉は唸っている。広場を埋める人々も変わらない。いつも通りだった。そのはずだった。 それなのに。 誰も帰れなかった。 市場へ戻らなければならない者がいた。工房へ戻らなければならない者がいた。家族が待っている者もいた。それでも、誰一人として足を動かせなかった。 長い時間が過ぎる。 誰も話さない。誰も顔を見合わせない。ただ静かに立ち尽くしていた。やがて一人が歩き出す。また一人。さらに一人。人々は静かに広場を後にしていく。 その時だった。 気付けば頬を濡らしていた。 最初に涙を流した者が誰だったのかは分からない。気付けば多くの者が、同じように頬を濡らしていた。 翌日、市場は開いた。工房は動いた。運搬列車は第五層を巡った。 誰も昨日の話をしなかった。 雨は降り続いていた。

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異世界アイドル☆パラレルパレード NEO AKIBA ARCHIVE LOG R-10 ―帰り道が同じでしたので― 二人で出たはずの遠征隊は、十九人で帰ってきた。 管理局使節団がアルトリウスを訪れる、五年前。二十歳のオルフェンは、青革の柄巻きと鞘を与えられたルクシオンを腰に差し、管理者と天蓋内西方の旧導水路を調査していた。 帰路、水路峡谷から警笛が聞こえた。 補修中の石橋を迂回した交易隊が、古い鎖橋の中央で立ち往生している。三台の交易車と十七人。最後尾車は床板を突き破り、車体の半分が峡谷へ落ちていた。 車内では商人が鉄枠へ脚を挟まれ、その奥で老人が動けずにいる。対岸では母親が泣く子供を抱えていた。 管理者が主鎖を見る。 「切れる。残り三十秒だ」 オルフェンは白い外套を外した。 「全員、助けられますか?」 「質問を変えろ。何秒必要だ」 「二十秒、増やしてください」 「無茶を言うな」 「管理者さんなら大丈夫です」 「勝手に決めるな」 言いながら、管理者は外套から術式固定用の銀環を抜いていた。銀環は四つの爪を持つ固定具へ展開し、切れかけた主鎖へ食い込む。そこを起点に術式が橋脚へ走り、沈んでいた橋床が持ち上がった。 「二十秒だけ延ばす。それ以上は知らん」 「ありがとうございます」 オルフェンは橋へ走った。 二本目の鎖が切れ、最後尾車が大きく傾く。オルフェンは車体の下へ滑り込み、肩と両腕で落下を止めた。足元の床板が砕け、ロングブーツの踵が橋床へ沈む。 管理者は手袋からミスリル糸を射出し、対岸の橋塔へ固定した。母親と子供、負傷者を吊り具へ繋ぎ、安全な場所へ送っていく。 オルフェンは車体を支えたまま、ルクシオンへ声を掛けた。 「すみません。またお願いします」 鞘の中で聖剣が短く鳴る。オルフェンは片腕で車体を支え、ルクシオンで商人の脚を締め付ける鉄枠だけを斬った。老人と商人が荷台から引き出される。 固定具から警告音が鳴った。 「あと五秒だ」 その時、荷台の奥から白い箱が滑り落ちた。封蝋には《水都東診療所・至急》と刻まれている。 「待ってくれ! 今夜までに届ける薬だ!」 「積荷は捨てろ。戻れ!」 オルフェンは車体を持ち上げ、落下する薬箱を橋上へ蹴り出した。 「馬鹿者!」 管理者の黒い外套が広がり、空中で薬箱を受け止める。 固定具が砕けた。 最後の一人が対岸へ着いた瞬間、主鎖が切れる。鎖橋と交易車が峡谷へ落ち、オルフェンも足場を失った。 落下する交易車を蹴り、その反動で崖へ跳ぶ。 伸ばした右手を、銀の指輪を重ねた手が掴んだ。 管理者は手を離さず、オルフェンを地上へ引き上げる。 「二十秒と言ったな」 「少し越えました」 「三十二秒だ」 「申し訳ありません」 「反省していない顔で言うな」 交易車と橋を失った十七人は、オルフェン達と徒歩でアルトリウスへ戻ることになった。商人が頭を下げる。 「我々まで同行していただいて、申し訳ない」 オルフェンは簡易担架の前を持った。 「帰り道が同じでしたので」 十九人になった一行が、水都へ向かった。 管理者は途中で一人だけ先行した。 オルフェン達が宿場の酒場へ着くと、長机には十九人分の根菜煮とパンが並び、大人達には薄い麦酒が用意されていた。壁際には治療道具と寝具も積まれている。 店主が呆れる。 「二人で出たんじゃなかったのか」 管理者は酒杯を持ったまま答えた。 「私に訊くな」 東診療所へ薬が届き、負傷者の手当ても終わった。最後にオルフェンが管理者の向かいへ座る。 「先に帰ったと思ったら、準備してくださっていたんですね」 「お前を待っていれば、全員野宿になる」 「ありがとうございます」 管理者は酒杯を傾けた。 「相変わらず、面倒ばかり拾う」 「落ちているものは拾うでしょう」 「人を物のように言うな」 「管理者さんが先に面倒と呼びましたよ」 オルフェンはルクシオンを壁へ立て掛け、自分の麦酒を鞘の前へ置く。 「あなたも飲みますか?」 鞘の中で刀身が小さく鳴った。 「この方も飲みたいそうです」 「剣に酒を飲ませるな」 夜が深くなる頃、オルフェンは一杯目を半分残し、机へ伏せて眠っていた。管理者は白い外套を拾い、その背へ掛ける。 店主が空の器を重ねながら尋ねた。 「起こさなくていいのか」 管理者は向かいの席へ座り直す。 「ようやく静かになった。寝かせておけ」 鞘の中でルクシオンが小さく鳴った。 管理者は聖剣を見る。 「お前もだ」

異世界アイドル☆パラレルパレード NEO AKIBA ARCHIVE LOG R-10 ―帰り道が同じでしたので― 二人で出たはずの遠征隊は、十九人で帰ってきた。 管理局使節団がアルトリウスを訪れる、五年前。二十歳のオルフェンは、青革の柄巻きと鞘を与えられたルクシオンを腰に差し、管理者と天蓋内西方の旧導水路を調査していた。 帰路、水路峡谷から警笛が聞こえた。 補修中の石橋を迂回した交易隊が、古い鎖橋の中央で立ち往生している。三台の交易車と十七人。最後尾車は床板を突き破り、車体の半分が峡谷へ落ちていた。 車内では商人が鉄枠へ脚を挟まれ、その奥で老人が動けずにいる。対岸では母親が泣く子供を抱えていた。 管理者が主鎖を見る。 「切れる。残り三十秒だ」 オルフェンは白い外套を外した。 「全員、助けられますか?」 「質問を変えろ。何秒必要だ」 「二十秒、増やしてください」 「無茶を言うな」 「管理者さんなら大丈夫です」 「勝手に決めるな」 言いながら、管理者は外套から術式固定用の銀環を抜いていた。銀環は四つの爪を持つ固定具へ展開し、切れかけた主鎖へ食い込む。そこを起点に術式が橋脚へ走り、沈んでいた橋床が持ち上がった。 「二十秒だけ延ばす。それ以上は知らん」 「ありがとうございます」 オルフェンは橋へ走った。 二本目の鎖が切れ、最後尾車が大きく傾く。オルフェンは車体の下へ滑り込み、肩と両腕で落下を止めた。足元の床板が砕け、ロングブーツの踵が橋床へ沈む。 管理者は手袋からミスリル糸を射出し、対岸の橋塔へ固定した。母親と子供、負傷者を吊り具へ繋ぎ、安全な場所へ送っていく。 オルフェンは車体を支えたまま、ルクシオンへ声を掛けた。 「すみません。またお願いします」 鞘の中で聖剣が短く鳴る。オルフェンは片腕で車体を支え、ルクシオンで商人の脚を締め付ける鉄枠だけを斬った。老人と商人が荷台から引き出される。 固定具から警告音が鳴った。 「あと五秒だ」 その時、荷台の奥から白い箱が滑り落ちた。封蝋には《水都東診療所・至急》と刻まれている。 「待ってくれ! 今夜までに届ける薬だ!」 「積荷は捨てろ。戻れ!」 オルフェンは車体を持ち上げ、落下する薬箱を橋上へ蹴り出した。 「馬鹿者!」 管理者の黒い外套が広がり、空中で薬箱を受け止める。 固定具が砕けた。 最後の一人が対岸へ着いた瞬間、主鎖が切れる。鎖橋と交易車が峡谷へ落ち、オルフェンも足場を失った。 落下する交易車を蹴り、その反動で崖へ跳ぶ。 伸ばした右手を、銀の指輪を重ねた手が掴んだ。 管理者は手を離さず、オルフェンを地上へ引き上げる。 「二十秒と言ったな」 「少し越えました」 「三十二秒だ」 「申し訳ありません」 「反省していない顔で言うな」 交易車と橋を失った十七人は、オルフェン達と徒歩でアルトリウスへ戻ることになった。商人が頭を下げる。 「我々まで同行していただいて、申し訳ない」 オルフェンは簡易担架の前を持った。 「帰り道が同じでしたので」 十九人になった一行が、水都へ向かった。 管理者は途中で一人だけ先行した。 オルフェン達が宿場の酒場へ着くと、長机には十九人分の根菜煮とパンが並び、大人達には薄い麦酒が用意されていた。壁際には治療道具と寝具も積まれている。 店主が呆れる。 「二人で出たんじゃなかったのか」 管理者は酒杯を持ったまま答えた。 「私に訊くな」 東診療所へ薬が届き、負傷者の手当ても終わった。最後にオルフェンが管理者の向かいへ座る。 「先に帰ったと思ったら、準備してくださっていたんですね」 「お前を待っていれば、全員野宿になる」 「ありがとうございます」 管理者は酒杯を傾けた。 「相変わらず、面倒ばかり拾う」 「落ちているものは拾うでしょう」 「人を物のように言うな」 「管理者さんが先に面倒と呼びましたよ」 オルフェンはルクシオンを壁へ立て掛け、自分の麦酒を鞘の前へ置く。 「あなたも飲みますか?」 鞘の中で刀身が小さく鳴った。 「この方も飲みたいそうです」 「剣に酒を飲ませるな」 夜が深くなる頃、オルフェンは一杯目を半分残し、机へ伏せて眠っていた。管理者は白い外套を拾い、その背へ掛ける。 店主が空の器を重ねながら尋ねた。 「起こさなくていいのか」 管理者は向かいの席へ座り直す。 「ようやく静かになった。寝かせておけ」 鞘の中でルクシオンが小さく鳴った。 管理者は聖剣を見る。 「お前もだ」

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異世界アイドル☆パラレルパレード NEO AKIBA ARCHIVE LOG R-07 ―勇者と医者― 管理局の使節団がアルトリウスを去ってから、三か月が過ぎていた。 診療所の廊下に、簡易寝台が並び始めていた。東区の運送人。北水門の作業員。市場で働く女。熱、倦怠感、咳。症状は似ているが、住む場所も仕事も違う。 医師エレナは患者の額から手を離し、記録板へ目を落とした。袖は肘まで捲られ、まとめた髪から何本かが頬へ落ちている。 「同じ食事は?」 助手は首を振った。 「取っていません。職場も水場も別です」 「工房の煙、輸入された薬、空調孔、寝具、職場で触れた物まで確認してください。最初から一つに決めないように」 助手が感染症の可能性を尋ねると、エレナは次の患者へ清潔な布を掛けた。 「分かりません。分からないなら、分かるものから潰します」 玄関の扉が開いた。 オルフェンが老人を背負って立っている。片手には老人の工具箱。泣き疲れた子供が、外套の裾を握って後ろを歩いていた。 エレナはすぐに空いている寝台を示す。 「三番へ。ゆっくり下ろしてください」 老人は荷車の修理中に倒れたらしい。子供はその孫だった。オルフェンは老人を寝かせ、子供を椅子へ座らせると、水差しを手の届く場所へ置いた。 「荷車は?」 老人が尋ねた。 「道の端へ寄せてあります。車輪も付け直しました」 「頼んでないぞ」 オルフェンは柔らかく笑った。 「倒れたままでは危ないですから」 エレナは老人を診察しながら、オルフェンの背と膝に付いた泥を見た。 「担架を呼んでくださいと、何度言えば分かるんですか」 「待つより早かったので」 「あなたまで倒れたら、誰が運ぶんです」 「エレナ先生が治してくださるかと」 「寝台が足りません。椅子で我慢してください」 オルフェンは素直に座った。 エレナは瞳、喉、手首を順に確認する。熱はない。呼吸にも異常はない。ただ右手に新しい切り傷があった。 「これは?」 「荷車で少し」 「大丈夫ではありませんね」 「申し訳ありません」 傷を洗われている間も、オルフェンは診療所の奥を見ていた。いつもより寝台が多い。薬棚の空きも目立つ。 「増えていますか」 エレナは包帯を結んだ。 「昨日から、新しく十二人。原因は、まだ分かりません」 「私にできることは?」 エレナは薬箱を一つ渡した。 「東区へ。解熱薬と咳止めです」 オルフェンが立ち上がる。 「承知しました」 「その前に」 机の隅へ、二つの銀杯が置かれていた。青薄荷の葉を浮かべた茶から、細い湯気が昇っている。 エレナが片方を差し出す。オルフェンが受け取ろうとした時、外から鐘が鳴った。 二度。間を置いて、もう二度。 水路事故を知らせる鐘だった。 エレナが窓の外へ目を向ける。 「西水路ですね」 オルフェンは銀杯を戻し、薬箱を背負った。 「先に向かいます」 「薬は東区です」 「西水路の後に届けます」 「逆方向ですよ」 「急げば、どちらも間に合います」 止めても無駄だと分かっている顔で、エレナは薬箱へ救急布と止血具を追加した。 「では、全部済ませてきてください」 オルフェンは穏やかに頷いた。 「帰ったら、お茶をいただきます」 「冷める前に帰ってください」 扉が閉じた。 エレナは見送らず、次の患者を呼んだ。 夜が深くなっても、診療所の灯は消えなかった。 最後の患者を奥の寝台へ移した頃、玄関の扉が静かに開く。泥と水に汚れたオルフェンが立っていた。 「遅くなりました」 西水路では作業員を七人救助し、東区へ薬を届け、その帰りに迷子を一人、家まで送り届けたらしい。 エレナは二つの銀杯を見た。 湯気は、もう消えている。 「冷めていますよ」 オルフェンは向かいの椅子へ座った。 「帰ってきましたので」 「それは飲む理由になっていません」 「約束でしたから」 「私は約束していません」 「私が勝手にしました」 エレナは小さく息を吐き、自分の銀杯を持ち上げた。オルフェンも冷めた茶を飲む。 冷めた茶を挟み、エレナは不足する薬を書き出した。オルフェンは翌朝運ぶ箱の数を確認した。 その夜、二つの銀杯は空になった。

異世界アイドル☆パラレルパレード NEO AKIBA ARCHIVE LOG R-07 ―勇者と医者― 管理局の使節団がアルトリウスを去ってから、三か月が過ぎていた。 診療所の廊下に、簡易寝台が並び始めていた。東区の運送人。北水門の作業員。市場で働く女。熱、倦怠感、咳。症状は似ているが、住む場所も仕事も違う。 医師エレナは患者の額から手を離し、記録板へ目を落とした。袖は肘まで捲られ、まとめた髪から何本かが頬へ落ちている。 「同じ食事は?」 助手は首を振った。 「取っていません。職場も水場も別です」 「工房の煙、輸入された薬、空調孔、寝具、職場で触れた物まで確認してください。最初から一つに決めないように」 助手が感染症の可能性を尋ねると、エレナは次の患者へ清潔な布を掛けた。 「分かりません。分からないなら、分かるものから潰します」 玄関の扉が開いた。 オルフェンが老人を背負って立っている。片手には老人の工具箱。泣き疲れた子供が、外套の裾を握って後ろを歩いていた。 エレナはすぐに空いている寝台を示す。 「三番へ。ゆっくり下ろしてください」 老人は荷車の修理中に倒れたらしい。子供はその孫だった。オルフェンは老人を寝かせ、子供を椅子へ座らせると、水差しを手の届く場所へ置いた。 「荷車は?」 老人が尋ねた。 「道の端へ寄せてあります。車輪も付け直しました」 「頼んでないぞ」 オルフェンは柔らかく笑った。 「倒れたままでは危ないですから」 エレナは老人を診察しながら、オルフェンの背と膝に付いた泥を見た。 「担架を呼んでくださいと、何度言えば分かるんですか」 「待つより早かったので」 「あなたまで倒れたら、誰が運ぶんです」 「エレナ先生が治してくださるかと」 「寝台が足りません。椅子で我慢してください」 オルフェンは素直に座った。 エレナは瞳、喉、手首を順に確認する。熱はない。呼吸にも異常はない。ただ右手に新しい切り傷があった。 「これは?」 「荷車で少し」 「大丈夫ではありませんね」 「申し訳ありません」 傷を洗われている間も、オルフェンは診療所の奥を見ていた。いつもより寝台が多い。薬棚の空きも目立つ。 「増えていますか」 エレナは包帯を結んだ。 「昨日から、新しく十二人。原因は、まだ分かりません」 「私にできることは?」 エレナは薬箱を一つ渡した。 「東区へ。解熱薬と咳止めです」 オルフェンが立ち上がる。 「承知しました」 「その前に」 机の隅へ、二つの銀杯が置かれていた。青薄荷の葉を浮かべた茶から、細い湯気が昇っている。 エレナが片方を差し出す。オルフェンが受け取ろうとした時、外から鐘が鳴った。 二度。間を置いて、もう二度。 水路事故を知らせる鐘だった。 エレナが窓の外へ目を向ける。 「西水路ですね」 オルフェンは銀杯を戻し、薬箱を背負った。 「先に向かいます」 「薬は東区です」 「西水路の後に届けます」 「逆方向ですよ」 「急げば、どちらも間に合います」 止めても無駄だと分かっている顔で、エレナは薬箱へ救急布と止血具を追加した。 「では、全部済ませてきてください」 オルフェンは穏やかに頷いた。 「帰ったら、お茶をいただきます」 「冷める前に帰ってください」 扉が閉じた。 エレナは見送らず、次の患者を呼んだ。 夜が深くなっても、診療所の灯は消えなかった。 最後の患者を奥の寝台へ移した頃、玄関の扉が静かに開く。泥と水に汚れたオルフェンが立っていた。 「遅くなりました」 西水路では作業員を七人救助し、東区へ薬を届け、その帰りに迷子を一人、家まで送り届けたらしい。 エレナは二つの銀杯を見た。 湯気は、もう消えている。 「冷めていますよ」 オルフェンは向かいの椅子へ座った。 「帰ってきましたので」 「それは飲む理由になっていません」 「約束でしたから」 「私は約束していません」 「私が勝手にしました」 エレナは小さく息を吐き、自分の銀杯を持ち上げた。オルフェンも冷めた茶を飲む。 冷めた茶を挟み、エレナは不足する薬を書き出した。オルフェンは翌朝運ぶ箱の数を確認した。 その夜、二つの銀杯は空になった。

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異世界アイドル☆パラレルパレード NEO AKIBA OBSERVATION LOG 2-09 ― 星は魚だった ― 翌日、少女は春じいを図書館へ連れて行くつもりだった。 「春じいの家、行く。図書館も行く。」 あかり亭の戸を飛び出し、少女は石畳を三歩だけ進んだ。 その時、灯町広場の真ん中に、巡灯神輿が見えた。 「でっっっか!!」 春じいの家も、図書館の新刊も、待っている春じい本人のことまで、少女の頭からきれいに消えた。 巡灯神輿(じゅんとうみこし)は、灯町祭の夜に店々が持ち寄った小さな灯器を吊り、決まった道を町じゅう巡る大きな神輿だった。太い担ぎ梁の上には黒い灯環が重なり、まだ火の入っていない灯りが、作業灯を受けて鈍く光っている。 高い天蓋の向こうでは、雨が排水路へ落ちる音だけが遠く続いていた。 父たちは神輿の横で飾り紐を結んでいた。少女は作業用の縄をくぐろうとしたが、母に前掛けの首紐をつままれる。 「入らない。」 「見るだけ。」 「見るだけの顔じゃない。」 少女は神輿の正面まで走り、黒い飾り台を指さした。 「ここ、なんか足りない。」 「何が?」 少女はしばらく見上げた。 「きらきら!」 父は笑って、広場の隅に置かれた木箱を顎で指した。 「自分で作れるなら、付けてもいいぞ。」 「作れる。あたし天才だから。」 木箱の中には、細長い光る帯が何本も入っていた。反光帯(はんこうたい)。古くなった店灯の内側に貼ってあった反射膜を細く切った、灯町祭の飾り紐だ。 灯りを受けると、白くなったり、青くなったりする。去年の子供の名前や油の染み、焦げた補修跡まで、そのまま残っていた。 「うわ、いっぱい。」 「一枚ずつ使うんだぞ。」 母が言った時には、少女はもう両腕いっぱいに抱えていた。 「いっぱいの一枚ずつ。」 「それは一枚ずつじゃない。」 少女は石畳へぺたんと座り、反光帯をねじって、折って、細い針金へ巻いていく。星を作るつもりだったらしい。 けれど帯は言うことを聞かなかった。角を作ればへなへなと垂れ、一本は髪へ絡み、もう一本は鼻水へくっついた。 「取れない。」 「まず鼻水を取る。」 母が布を出すと、少女は反光帯の方を差し出した。 「こっち。」 「先に顔。」 魚屋のおじさんが、焼き網の向こうからのぞき込んだ。 「……魚か?」 「星。」 「魚に見えるな。」 「星なの。」 「かなり魚だな。」 少女は、ぐちゃぐちゃの反光帯を抱えたまま固まった。 「星なのに……。」 少しだけ考える。 「病んだ〜……。」 その時、広場の換気管が低く鳴った。風が抜け、ほどけた反光帯が石畳の上をするすると逃げていく。 「あっ、逃げた!」 左足だけ白い靴下を履いた少女は、素足の右足をぺたぺた鳴らして追いかけた。帯は排水溝の手前でくるりと回り、ふわりと持ち上がる。 「待てぇぇぇ!」 少女は勢いよく腹ばいになり、素足で帯の端を踏んだ。 「取った!」 「素足で踏むな!」 父の声より先に、少女は帯を掲げていた。髪には二本。前掛けには三本。鼻の下には銀色の帯が一本、ぺたりと張り付いている。 修理屋のおばちゃんが、笑いをこらえながら少女の隣へしゃがんだ。 「星にするなら、折りすぎない方がいいよ。」 「折りすぎた?」 「かなり。」 少女は、魚みたいな星を見た。 それから新しい反光帯を一本だけ取る。 「じゃあ、折らない。」 「それで星になるかな。」 「なる。あたし天才だから。」 少女は新しい帯を両手でまっすぐ持った。作業灯を拾った帯が、指のあいだで白く光る。 巡灯神輿のいちばん前には、まだ何も付いていない飾り台が残っていた。 その頃、春じいは家の前で、水筒を持ったまま待っていた。

異世界アイドル☆パラレルパレード NEO AKIBA OBSERVATION LOG 2-09 ― 星は魚だった ― 翌日、少女は春じいを図書館へ連れて行くつもりだった。 「春じいの家、行く。図書館も行く。」 あかり亭の戸を飛び出し、少女は石畳を三歩だけ進んだ。 その時、灯町広場の真ん中に、巡灯神輿が見えた。 「でっっっか!!」 春じいの家も、図書館の新刊も、待っている春じい本人のことまで、少女の頭からきれいに消えた。 巡灯神輿(じゅんとうみこし)は、灯町祭の夜に店々が持ち寄った小さな灯器を吊り、決まった道を町じゅう巡る大きな神輿だった。太い担ぎ梁の上には黒い灯環が重なり、まだ火の入っていない灯りが、作業灯を受けて鈍く光っている。 高い天蓋の向こうでは、雨が排水路へ落ちる音だけが遠く続いていた。 父たちは神輿の横で飾り紐を結んでいた。少女は作業用の縄をくぐろうとしたが、母に前掛けの首紐をつままれる。 「入らない。」 「見るだけ。」 「見るだけの顔じゃない。」 少女は神輿の正面まで走り、黒い飾り台を指さした。 「ここ、なんか足りない。」 「何が?」 少女はしばらく見上げた。 「きらきら!」 父は笑って、広場の隅に置かれた木箱を顎で指した。 「自分で作れるなら、付けてもいいぞ。」 「作れる。あたし天才だから。」 木箱の中には、細長い光る帯が何本も入っていた。反光帯(はんこうたい)。古くなった店灯の内側に貼ってあった反射膜を細く切った、灯町祭の飾り紐だ。 灯りを受けると、白くなったり、青くなったりする。去年の子供の名前や油の染み、焦げた補修跡まで、そのまま残っていた。 「うわ、いっぱい。」 「一枚ずつ使うんだぞ。」 母が言った時には、少女はもう両腕いっぱいに抱えていた。 「いっぱいの一枚ずつ。」 「それは一枚ずつじゃない。」 少女は石畳へぺたんと座り、反光帯をねじって、折って、細い針金へ巻いていく。星を作るつもりだったらしい。 けれど帯は言うことを聞かなかった。角を作ればへなへなと垂れ、一本は髪へ絡み、もう一本は鼻水へくっついた。 「取れない。」 「まず鼻水を取る。」 母が布を出すと、少女は反光帯の方を差し出した。 「こっち。」 「先に顔。」 魚屋のおじさんが、焼き網の向こうからのぞき込んだ。 「……魚か?」 「星。」 「魚に見えるな。」 「星なの。」 「かなり魚だな。」 少女は、ぐちゃぐちゃの反光帯を抱えたまま固まった。 「星なのに……。」 少しだけ考える。 「病んだ〜……。」 その時、広場の換気管が低く鳴った。風が抜け、ほどけた反光帯が石畳の上をするすると逃げていく。 「あっ、逃げた!」 左足だけ白い靴下を履いた少女は、素足の右足をぺたぺた鳴らして追いかけた。帯は排水溝の手前でくるりと回り、ふわりと持ち上がる。 「待てぇぇぇ!」 少女は勢いよく腹ばいになり、素足で帯の端を踏んだ。 「取った!」 「素足で踏むな!」 父の声より先に、少女は帯を掲げていた。髪には二本。前掛けには三本。鼻の下には銀色の帯が一本、ぺたりと張り付いている。 修理屋のおばちゃんが、笑いをこらえながら少女の隣へしゃがんだ。 「星にするなら、折りすぎない方がいいよ。」 「折りすぎた?」 「かなり。」 少女は、魚みたいな星を見た。 それから新しい反光帯を一本だけ取る。 「じゃあ、折らない。」 「それで星になるかな。」 「なる。あたし天才だから。」 少女は新しい帯を両手でまっすぐ持った。作業灯を拾った帯が、指のあいだで白く光る。 巡灯神輿のいちばん前には、まだ何も付いていない飾り台が残っていた。 その頃、春じいは家の前で、水筒を持ったまま待っていた。

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異世界アイドル☆パラレルパレード NEO AKIBA OBSERVATION LOG 2-08 ― 古書灯の図書館 後編 ― 一枚の古い貸出カードが、蜂蜜色の灯りを受けて静かに光っていた。 少女は、まだ気付いていなかった。 返本灯だけが、小さく一度だけ鳴いた。 ちりん。 「ん?」 少女が顔を上げる。返本灯は本棚の下を照らしたまま、細い脚をそろえて止まっていた。光の輪の端に、薄い板が一枚だけ見えている。 少女はしゃがみ込み、指先でそっと引っぱった。角が丸くなった、古い貸出カードだった。 「これなに?」 「昔の貸出カードですね。」 図書室のお姉さんが、受付台からゆっくり近づいてくる。カードには子供の字で名前が書かれ、その上には、少女が今日返した冒険小説と同じ題名が残っていた。 少女は読もうとして、少しだけ首をかしげる。 「はる……た?」 お姉さんはカードを見て、ふっと笑った。 「春じいが、子供の頃に使っていたカードですよ。」 「春じい!?」 少女はもう一度カードを見た。そこには、今の春じいが書く字とはまるで違う、丸くて小さな『春田』の文字が残っていた。 その一番下には、返却期限を九日過ぎたことを示す赤い判が残っていた。 延滞 九日。 少女はしばらく黙った。 それから、ゆっくり返本灯を見る。 「あたしより病んでる。」 「かなりですね。」 「九日も返さなかったの?」 「そうみたいです。」 「その間に、この本を読みたかった子がいたら困る。」 「そうですね。」 「じゃあ、春じいが悪い。」 「返し忘れたのは春じいですからね。」 少女は急に元気になった。 「今日、あかり亭で言う!」 「言わなくていいと思います。」 「春じい、本返さない不良だったって。」 「それは言いすぎです。」 返本灯が、足元で小さく揺れた。 ちりん。 灯りまで笑ったように見えた。 カードの裏には、もっと薄い字が残っていた。鉛筆で書かれた、少しだけ傾いた子供の文字。 ぼうけん たのしかった 少女は、声に出して読んだ。 「ぼうけん、たのしかった。」 「春じいが、自分で選んだ本だったのかもしれませんね。」 「春じいも、ぼうけん好きだったんだ。」 「春じいも、最初は子供でしたから。」 少女はカードと、自分が返した冒険小説を見比べた。春じいも昔、この棚の前で同じ本を抱えていたのかもしれない。 返すのを忘れて、誰かに怒られて、それでもまた新しい本を借りに来たのかもしれない。 「じゃあ春じいも、ここで迷子になった?」 「春じいは、あなたほどではなかったと思います。」 「あたしは迷子じゃない。探索。」 「そうでした。」 少女は胸を張った。 「春じいにも、明日新しい本借りようって言う。」 「春じいと一緒にですか?」 「うん。九日遅れた人には、あたしが教える。」 「頼もしいですね。」 「天才だから。」 返本灯が少女の前まで、とことこと歩いた。入口の方を向き、蜂蜜色の灯りを少しだけ明るくする。 少女はしゃがみ込んだ。 「明日もいる?」 返本灯は、首を傾けるように灯りを揺らした。 ちりん。 「よし。明日また来る。」 「走らないでくださいね。」 「速い早歩き!」 少女は前掛けを揺らしながら、図書室の出口へ向かった。蜂蜜色の灯りの下を、小さな足音が遠ざかっていく。 お姉さんは、返された冒険小説を低い棚のいつもの場所へ戻した。それから春じいの古い貸出カードの隣に、少女の返却記録をそっと重ねる。 木箱の中で、春じいが子供の頃に残したカードと、少女の一日遅れの記録が静かに並んだ。 明日の昼灯になれば、また誰かが新しい本を借りに来る。 古書灯図書館は、今日の一日遅れと、明日の約束を、蜂蜜色の灯りの下で静かに預かっていた。

異世界アイドル☆パラレルパレード NEO AKIBA OBSERVATION LOG 2-08 ― 古書灯の図書館 後編 ― 一枚の古い貸出カードが、蜂蜜色の灯りを受けて静かに光っていた。 少女は、まだ気付いていなかった。 返本灯だけが、小さく一度だけ鳴いた。 ちりん。 「ん?」 少女が顔を上げる。返本灯は本棚の下を照らしたまま、細い脚をそろえて止まっていた。光の輪の端に、薄い板が一枚だけ見えている。 少女はしゃがみ込み、指先でそっと引っぱった。角が丸くなった、古い貸出カードだった。 「これなに?」 「昔の貸出カードですね。」 図書室のお姉さんが、受付台からゆっくり近づいてくる。カードには子供の字で名前が書かれ、その上には、少女が今日返した冒険小説と同じ題名が残っていた。 少女は読もうとして、少しだけ首をかしげる。 「はる……た?」 お姉さんはカードを見て、ふっと笑った。 「春じいが、子供の頃に使っていたカードですよ。」 「春じい!?」 少女はもう一度カードを見た。そこには、今の春じいが書く字とはまるで違う、丸くて小さな『春田』の文字が残っていた。 その一番下には、返却期限を九日過ぎたことを示す赤い判が残っていた。 延滞 九日。 少女はしばらく黙った。 それから、ゆっくり返本灯を見る。 「あたしより病んでる。」 「かなりですね。」 「九日も返さなかったの?」 「そうみたいです。」 「その間に、この本を読みたかった子がいたら困る。」 「そうですね。」 「じゃあ、春じいが悪い。」 「返し忘れたのは春じいですからね。」 少女は急に元気になった。 「今日、あかり亭で言う!」 「言わなくていいと思います。」 「春じい、本返さない不良だったって。」 「それは言いすぎです。」 返本灯が、足元で小さく揺れた。 ちりん。 灯りまで笑ったように見えた。 カードの裏には、もっと薄い字が残っていた。鉛筆で書かれた、少しだけ傾いた子供の文字。 ぼうけん たのしかった 少女は、声に出して読んだ。 「ぼうけん、たのしかった。」 「春じいが、自分で選んだ本だったのかもしれませんね。」 「春じいも、ぼうけん好きだったんだ。」 「春じいも、最初は子供でしたから。」 少女はカードと、自分が返した冒険小説を見比べた。春じいも昔、この棚の前で同じ本を抱えていたのかもしれない。 返すのを忘れて、誰かに怒られて、それでもまた新しい本を借りに来たのかもしれない。 「じゃあ春じいも、ここで迷子になった?」 「春じいは、あなたほどではなかったと思います。」 「あたしは迷子じゃない。探索。」 「そうでした。」 少女は胸を張った。 「春じいにも、明日新しい本借りようって言う。」 「春じいと一緒にですか?」 「うん。九日遅れた人には、あたしが教える。」 「頼もしいですね。」 「天才だから。」 返本灯が少女の前まで、とことこと歩いた。入口の方を向き、蜂蜜色の灯りを少しだけ明るくする。 少女はしゃがみ込んだ。 「明日もいる?」 返本灯は、首を傾けるように灯りを揺らした。 ちりん。 「よし。明日また来る。」 「走らないでくださいね。」 「速い早歩き!」 少女は前掛けを揺らしながら、図書室の出口へ向かった。蜂蜜色の灯りの下を、小さな足音が遠ざかっていく。 お姉さんは、返された冒険小説を低い棚のいつもの場所へ戻した。それから春じいの古い貸出カードの隣に、少女の返却記録をそっと重ねる。 木箱の中で、春じいが子供の頃に残したカードと、少女の一日遅れの記録が静かに並んだ。 明日の昼灯になれば、また誰かが新しい本を借りに来る。 古書灯図書館は、今日の一日遅れと、明日の約束を、蜂蜜色の灯りの下で静かに預かっていた。

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異世界アイドル☆パラレルパレード NEO AKIBA OBSERVATION LOG 1-30 ー 雨の残響 ー 第六層に雨が降っていた。 広場の半分は奈落へ沈み、空中橋は途中で途切れ、街の中心には黒い残骸となった観測塔が横たわっている。雨水は石畳を流れ、砕けた観測灯の間を通り抜け、暗い裂け目の奥へ消えていった。あれほど激しく崩れたというのに、不思議なほど静かだった。風も弱い。聞こえるのは雨音だけだった。 崩壊した広場には様々なものが残されていた。折れた手すり。砕けた観測灯。割れた硝子。誰かが落としたまま忘れていった小物。それらは雨に打たれながら、少しずつ街の一部になろうとしている。水溜まりには壊れた観測塔の姿が映り込み、雨粒が落ちる度に揺れ、歪み、そして元の形を失っていった。 広場の片隅には一冊の観測記録帳が落ちていた。 泥に埋もれ、半分ほど雨水に沈んでいる。風が吹く。頁が開く。雨が降る。頁が閉じる。ただそれだけの事だった。誰も拾わない。誰も読まない。記録だけがそこに残されている。 やがて雨水の流れが少しずつ強くなる。 記録帳はゆっくりと動き始めた。石畳を滑り、崩れた広場を抜け、奈落の縁へ近付いていく。しばらく縁に引っ掛かっていたが、次の雨水に押されるように姿を消した。 音は聞こえなかった。 落ちたのか。 途中で止まったのか。 それすら分からない。 ただ。 記録だけが消えた。 雨は降り続いていた。 崩壊した観測塔も。 誰もいない広場も。 暗い奈落の底も。 何事も無かったように静かに雨を受けていた。 ― 続く ―

異世界アイドル☆パラレルパレード NEO AKIBA OBSERVATION LOG 1-30 ー 雨の残響 ー 第六層に雨が降っていた。 広場の半分は奈落へ沈み、空中橋は途中で途切れ、街の中心には黒い残骸となった観測塔が横たわっている。雨水は石畳を流れ、砕けた観測灯の間を通り抜け、暗い裂け目の奥へ消えていった。あれほど激しく崩れたというのに、不思議なほど静かだった。風も弱い。聞こえるのは雨音だけだった。 崩壊した広場には様々なものが残されていた。折れた手すり。砕けた観測灯。割れた硝子。誰かが落としたまま忘れていった小物。それらは雨に打たれながら、少しずつ街の一部になろうとしている。水溜まりには壊れた観測塔の姿が映り込み、雨粒が落ちる度に揺れ、歪み、そして元の形を失っていった。 広場の片隅には一冊の観測記録帳が落ちていた。 泥に埋もれ、半分ほど雨水に沈んでいる。風が吹く。頁が開く。雨が降る。頁が閉じる。ただそれだけの事だった。誰も拾わない。誰も読まない。記録だけがそこに残されている。 やがて雨水の流れが少しずつ強くなる。 記録帳はゆっくりと動き始めた。石畳を滑り、崩れた広場を抜け、奈落の縁へ近付いていく。しばらく縁に引っ掛かっていたが、次の雨水に押されるように姿を消した。 音は聞こえなかった。 落ちたのか。 途中で止まったのか。 それすら分からない。 ただ。 記録だけが消えた。 雨は降り続いていた。 崩壊した観測塔も。 誰もいない広場も。 暗い奈落の底も。 何事も無かったように静かに雨を受けていた。 ― 続く ―

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異世界アイドル☆パラレルパレード NEO AKIBA OBSERVATION LOG 1-28 ー封鎖昇降機ー 第五層の遺物庫で発見された観測記録には、不自然な数字が何度も残されていた。 23:47。 古い記録にも、破損した記録にも、観測者不明の断片にも、その数字だけが現れる。誰かが意図的に痕跡を残したようだった。管理者は数日かけて記録を照合した。そして辿り着く。第五層最深部。現在の路線図から削除された区域だった。 そこへ向かうほど人の気配は消えていった。湿った風が吹き抜け、古い配管の奥で機械音だけが響いている。歌姫達が暮らす第五層も広大だが、それはほんの表面に過ぎない。その下には誰も語らない空間が幾重にも眠っている。封鎖された観測所。廃棄された路線。記録ごと消された区域。管理者は何も言わず歩き続けた。長い通路の先で視界が開く。 巨大な昇降機だった。 黒鉄の塔が天井の見えない闇へ伸びている。無数のワイヤー。崩れた足場。停止した信号灯。そして中央には閉ざされた巨大な扉。第五層の建築物として見ても異様な規模だった。まるで都市そのものを上下させるために造られたような圧倒的な質量がそこにはあった。管理者はしばらく無言で見上げた後、古びた刻印へ視線を落とす。 観測局管理設備。 第六層接続昇降機。 その下の文字だけが削り取られていた。 「はぁ……」 また面倒なものを見つけてしまった。 23:47。 停止していた信号灯が一つずつ点灯する。赤。白。紫。長い眠りから目覚めるように設備全体が低く唸り始めた。重い金属音が響き、巨大な扉がゆっくり開く。その向こうには底の見えない縦穴が続いていた。観測局へ報告するのが正しい。封鎖申請を出し、調査隊を編成するのが最も効率的だ。だが、それを選べば真実は再び埋もれる。管理者は小さく息を吐き、迷わず昇降機へ乗り込んだ。 降下が始まる。 深く。 暗く。 第五層より下へ。 窓の外には崩壊したホームが流れていく。朽ちた観測局。崩れた街。誰もいない灯火。誰もいない広場。誰もいない駅。それらは一瞬だけ姿を見せ、すぐに闇へ飲まれていく。どれほどの時間が過ぎたのか分からない。やがて昇降機の速度が緩やかに落ち始める。管理者は窓の外へ視線を向けた。 そして。 初めて表情が止まる。 昇降機の遥か下方。 闇しか存在しないはずの空間に灯りが見えた。 一つではない。 二つでもない。 無数だった。 まるで夜の街だった。 窓の灯り。街路の灯り。塔の灯り。誰もいないはずの深層世界に、静かな光がどこまでも広がっている。やがて昇降機は停止した。静寂。重い金属音と共に扉が開く。管理者はゆっくりとホームへ降り立った。 空気が違う。湿度も、匂いも、音の響き方も。第五層とは別の世界だった。ホームの先には古い階段が続いている。その向こうから街の灯りが見えた。管理者は何も言わず歩き出す。階段を上る。崩れた改札を抜ける。そして視界が開いた。 街だった。 灯りが点いている。 窓辺のランプ。通りを照らす街灯。塔の先端で揺れる観測灯。静かな光だけが街全体を包んでいた。誰も歩いていない。誰も話していない。だが不思議な事に廃墟には見えなかった。まるで住人だけがいなくなり、街だけが取り残されたようだった。 管理者はしばらくその光景を見つめていた。 遠くで鐘の音が鳴る。 一度。 二度。 三度。 その音に合わせるように街の灯りが静かに揺れた。 風は無い。 人影も無い。 それでも街だけが生きているようだった。 管理者は小さく息を吐く。 「これは想定外だな」 その声は誰にも届かない。 街は何も答えない。 ただ無数の灯りだけが、静かに夜を照らしている。 管理者は黙ったまま、その光を見つめていた。

異世界アイドル☆パラレルパレード NEO AKIBA OBSERVATION LOG 1-28 ー封鎖昇降機ー 第五層の遺物庫で発見された観測記録には、不自然な数字が何度も残されていた。 23:47。 古い記録にも、破損した記録にも、観測者不明の断片にも、その数字だけが現れる。誰かが意図的に痕跡を残したようだった。管理者は数日かけて記録を照合した。そして辿り着く。第五層最深部。現在の路線図から削除された区域だった。 そこへ向かうほど人の気配は消えていった。湿った風が吹き抜け、古い配管の奥で機械音だけが響いている。歌姫達が暮らす第五層も広大だが、それはほんの表面に過ぎない。その下には誰も語らない空間が幾重にも眠っている。封鎖された観測所。廃棄された路線。記録ごと消された区域。管理者は何も言わず歩き続けた。長い通路の先で視界が開く。 巨大な昇降機だった。 黒鉄の塔が天井の見えない闇へ伸びている。無数のワイヤー。崩れた足場。停止した信号灯。そして中央には閉ざされた巨大な扉。第五層の建築物として見ても異様な規模だった。まるで都市そのものを上下させるために造られたような圧倒的な質量がそこにはあった。管理者はしばらく無言で見上げた後、古びた刻印へ視線を落とす。 観測局管理設備。 第六層接続昇降機。 その下の文字だけが削り取られていた。 「はぁ……」 また面倒なものを見つけてしまった。 23:47。 停止していた信号灯が一つずつ点灯する。赤。白。紫。長い眠りから目覚めるように設備全体が低く唸り始めた。重い金属音が響き、巨大な扉がゆっくり開く。その向こうには底の見えない縦穴が続いていた。観測局へ報告するのが正しい。封鎖申請を出し、調査隊を編成するのが最も効率的だ。だが、それを選べば真実は再び埋もれる。管理者は小さく息を吐き、迷わず昇降機へ乗り込んだ。 降下が始まる。 深く。 暗く。 第五層より下へ。 窓の外には崩壊したホームが流れていく。朽ちた観測局。崩れた街。誰もいない灯火。誰もいない広場。誰もいない駅。それらは一瞬だけ姿を見せ、すぐに闇へ飲まれていく。どれほどの時間が過ぎたのか分からない。やがて昇降機の速度が緩やかに落ち始める。管理者は窓の外へ視線を向けた。 そして。 初めて表情が止まる。 昇降機の遥か下方。 闇しか存在しないはずの空間に灯りが見えた。 一つではない。 二つでもない。 無数だった。 まるで夜の街だった。 窓の灯り。街路の灯り。塔の灯り。誰もいないはずの深層世界に、静かな光がどこまでも広がっている。やがて昇降機は停止した。静寂。重い金属音と共に扉が開く。管理者はゆっくりとホームへ降り立った。 空気が違う。湿度も、匂いも、音の響き方も。第五層とは別の世界だった。ホームの先には古い階段が続いている。その向こうから街の灯りが見えた。管理者は何も言わず歩き出す。階段を上る。崩れた改札を抜ける。そして視界が開いた。 街だった。 灯りが点いている。 窓辺のランプ。通りを照らす街灯。塔の先端で揺れる観測灯。静かな光だけが街全体を包んでいた。誰も歩いていない。誰も話していない。だが不思議な事に廃墟には見えなかった。まるで住人だけがいなくなり、街だけが取り残されたようだった。 管理者はしばらくその光景を見つめていた。 遠くで鐘の音が鳴る。 一度。 二度。 三度。 その音に合わせるように街の灯りが静かに揺れた。 風は無い。 人影も無い。 それでも街だけが生きているようだった。 管理者は小さく息を吐く。 「これは想定外だな」 その声は誰にも届かない。 街は何も答えない。 ただ無数の灯りだけが、静かに夜を照らしている。 管理者は黙ったまま、その光を見つめていた。

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異世界アイドル☆パラレルパレード NEO AKIBA OBSERVATION LOG 1-24 「第五層夜市」 第五層。午後11時43分。 雨が降っていた。 第五層の雨は静かだ。空から落ちてくるというより、街そのものがゆっくり湿っていく。頭上を覆う巨大配管が白い蒸気を吐き、その吐息が何層もの観測路と保守橋の隙間を漂いながら冷やされ、忘れた頃に雫になる。だからこの街では雨音より先に匂いが届く。 濡れた鉄。油の染み込んだ整備床。遠くで脈打つ観測炉の熱。そして焼きたてのパンの香り。 管理者は巡礼路の坂を下っていた。 第五層の天井は見えない。遥か上には観測炉を支える構造体が幾重にも重なり、その隙間を無数の配管と昇降機が走っている。紫白色の光は高所から漏れ落ち、地下都市全体を薄い夢の中みたいに照らしていた。人は小さい。街は大きい。第五層へ来るたび、その事実だけは嫌でも思い知らされる。 坂を下るにつれ提灯の灯りが増えていく。紫。白。淡い金色。だが全部は灯っていない。切れたままの灯りも多い。それでも夜市は続いている。雨に濡れた石畳には無数の光が映り込み、人々はその上を歩いていた。 市場は賑わっている。 けれど騒がしくはない。 誰も急がない。 誰も声を張らない。 皆どこか帰り道みたいな顔をしている。 市場の入口近くで、小さな少女が紙袋を抱えていた。次の瞬間、濡れた石畳で足を滑らせる。袋が落ち、焼きたてのパンが転がった。少女が固まる。その様子を見ていたパン屋の店主が窓から顔を出した。 「おい。」 少女が肩を震わせる。 「そっちじゃなくて新しいの持ってけ。」 焼きたてのパンが飛んでくる。 少女は慌てて受け取る。 熱かったらしい。 指先から白い湯気が立つ。 店の奥から怒鳴り声が飛ぶ。 「また投げてる!」 「食えれば同じだろ。」 「同じじゃない!」 市場のあちこちから小さな笑い声が漏れた。 少女も笑った。 転がったパンはいつの間にか猫が咥えている。 店主は見ていた。 見ていたが何も言わなかった。 市場の中央では観測炉パンが焼かれている。窯の内部には観測炉の余熱を運ぶ熱管が通っていた。扉が開くたび白い湯気が夜へ流れ出し、小麦と溶けたバターの香りが雨を押し返す。 列に並ぶ人々の表情が少しだけ柔らかくなる。 疲れた整備士。 巡礼帰りの老人。 観測局帰りの職員。 制服姿の学生。 皆どこか疲れている。 それでも窯が開く瞬間だけは少し幸せそうだった。 市場の片隅ではアコーディオンが鳴っている。 老人が弾いていた。 何度も音を外す。 途中で咳き込む。 曲を忘れる。 近くの子供達が続きを歌う。 老人が笑う。 また弾く。 市場の誰も驚かない。 毎晩そうだからだ。 老人の足元には古い木箱が置かれている。 擦り切れた文字が残っている。 白百合劇場。 今はもう閉鎖された劇場の名前だった。 市場の奥では観測炉飴が売られている。職人は何も喋らない。ただ紫色の飴を細く引き伸ばし続けている。甘い香りが漂う。 祭りの匂いだった。 祭りの最中ではない。 終わったあとの匂いだった。 片付けられた屋台。 遠ざかる足音。 誰もいなくなった広場。 それでも少しだけ残っている熱。 管理者は飴を買わない。 ただ香りだけを吸い込む。 その瞬間。 何かを思い出しかける。 放課後だった気がする。 夕方だった気がする。 誰かと話していた気がする。 だが輪郭だけが残り、記憶はそこで途切れる。 市場の最奥部。巨大観測炉へ続く保守昇降路の影に白百合茶の屋台がある。老女が一人で店を開いていた。湯気が白い。提灯の光がその向こうで揺れている。 常連らしい老人が空になった湯呑みを置く。 老女は何も聞かない。 二杯目を注ぐ。 老人が少し笑う。 「雨だな。」 老女が頷く。 「雨だねぇ。」 会話は終わる。 湯気だけが二人の間を流れていく。 市場を歩いていると、不思議な感覚になる。初めて来たはずなのに懐かしい。知らない街なのに、昔どこかで通った帰り道みたいだった。思い出せそうで思い出せない。名前の出てこない夢みたいに、何かだけが胸の奥へ残る。 市場の出口近く、高架柱の影には小さな修理屋がある。壊れた観測端末。古い時計。折れたペンライト。濡れた忘れ物達。店主は黙ったまま作業を続けていた。 小さな木製看板だけが雨に濡れながら揺れている。 『白百合区域通行証 修復承ります』 管理者は立ち止まらない。 市場も変わらない。 パンは焼けている。 アコーディオンも鳴っている。 観測炉は脈打っている。 夜市は続いている。 それなのに。 坂を上り始めた時、管理者はふと立ち止まった。 何かを忘れている気がした。 しばらく考える。 思い出せない。 だが。 夜市へ戻ろうとは思わなかった。 市場は明日もある。 パン屋もある。 老人もいる。 雨も降る。 だから今日は帰ろう。 そう思った。

異世界アイドル☆パラレルパレード NEO AKIBA OBSERVATION LOG 1-24 「第五層夜市」 第五層。午後11時43分。 雨が降っていた。 第五層の雨は静かだ。空から落ちてくるというより、街そのものがゆっくり湿っていく。頭上を覆う巨大配管が白い蒸気を吐き、その吐息が何層もの観測路と保守橋の隙間を漂いながら冷やされ、忘れた頃に雫になる。だからこの街では雨音より先に匂いが届く。 濡れた鉄。油の染み込んだ整備床。遠くで脈打つ観測炉の熱。そして焼きたてのパンの香り。 管理者は巡礼路の坂を下っていた。 第五層の天井は見えない。遥か上には観測炉を支える構造体が幾重にも重なり、その隙間を無数の配管と昇降機が走っている。紫白色の光は高所から漏れ落ち、地下都市全体を薄い夢の中みたいに照らしていた。人は小さい。街は大きい。第五層へ来るたび、その事実だけは嫌でも思い知らされる。 坂を下るにつれ提灯の灯りが増えていく。紫。白。淡い金色。だが全部は灯っていない。切れたままの灯りも多い。それでも夜市は続いている。雨に濡れた石畳には無数の光が映り込み、人々はその上を歩いていた。 市場は賑わっている。 けれど騒がしくはない。 誰も急がない。 誰も声を張らない。 皆どこか帰り道みたいな顔をしている。 市場の入口近くで、小さな少女が紙袋を抱えていた。次の瞬間、濡れた石畳で足を滑らせる。袋が落ち、焼きたてのパンが転がった。少女が固まる。その様子を見ていたパン屋の店主が窓から顔を出した。 「おい。」 少女が肩を震わせる。 「そっちじゃなくて新しいの持ってけ。」 焼きたてのパンが飛んでくる。 少女は慌てて受け取る。 熱かったらしい。 指先から白い湯気が立つ。 店の奥から怒鳴り声が飛ぶ。 「また投げてる!」 「食えれば同じだろ。」 「同じじゃない!」 市場のあちこちから小さな笑い声が漏れた。 少女も笑った。 転がったパンはいつの間にか猫が咥えている。 店主は見ていた。 見ていたが何も言わなかった。 市場の中央では観測炉パンが焼かれている。窯の内部には観測炉の余熱を運ぶ熱管が通っていた。扉が開くたび白い湯気が夜へ流れ出し、小麦と溶けたバターの香りが雨を押し返す。 列に並ぶ人々の表情が少しだけ柔らかくなる。 疲れた整備士。 巡礼帰りの老人。 観測局帰りの職員。 制服姿の学生。 皆どこか疲れている。 それでも窯が開く瞬間だけは少し幸せそうだった。 市場の片隅ではアコーディオンが鳴っている。 老人が弾いていた。 何度も音を外す。 途中で咳き込む。 曲を忘れる。 近くの子供達が続きを歌う。 老人が笑う。 また弾く。 市場の誰も驚かない。 毎晩そうだからだ。 老人の足元には古い木箱が置かれている。 擦り切れた文字が残っている。 白百合劇場。 今はもう閉鎖された劇場の名前だった。 市場の奥では観測炉飴が売られている。職人は何も喋らない。ただ紫色の飴を細く引き伸ばし続けている。甘い香りが漂う。 祭りの匂いだった。 祭りの最中ではない。 終わったあとの匂いだった。 片付けられた屋台。 遠ざかる足音。 誰もいなくなった広場。 それでも少しだけ残っている熱。 管理者は飴を買わない。 ただ香りだけを吸い込む。 その瞬間。 何かを思い出しかける。 放課後だった気がする。 夕方だった気がする。 誰かと話していた気がする。 だが輪郭だけが残り、記憶はそこで途切れる。 市場の最奥部。巨大観測炉へ続く保守昇降路の影に白百合茶の屋台がある。老女が一人で店を開いていた。湯気が白い。提灯の光がその向こうで揺れている。 常連らしい老人が空になった湯呑みを置く。 老女は何も聞かない。 二杯目を注ぐ。 老人が少し笑う。 「雨だな。」 老女が頷く。 「雨だねぇ。」 会話は終わる。 湯気だけが二人の間を流れていく。 市場を歩いていると、不思議な感覚になる。初めて来たはずなのに懐かしい。知らない街なのに、昔どこかで通った帰り道みたいだった。思い出せそうで思い出せない。名前の出てこない夢みたいに、何かだけが胸の奥へ残る。 市場の出口近く、高架柱の影には小さな修理屋がある。壊れた観測端末。古い時計。折れたペンライト。濡れた忘れ物達。店主は黙ったまま作業を続けていた。 小さな木製看板だけが雨に濡れながら揺れている。 『白百合区域通行証 修復承ります』 管理者は立ち止まらない。 市場も変わらない。 パンは焼けている。 アコーディオンも鳴っている。 観測炉は脈打っている。 夜市は続いている。 それなのに。 坂を上り始めた時、管理者はふと立ち止まった。 何かを忘れている気がした。 しばらく考える。 思い出せない。 だが。 夜市へ戻ろうとは思わなかった。 市場は明日もある。 パン屋もある。 老人もいる。 雨も降る。 だから今日は帰ろう。 そう思った。

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