
Rain Konno | 境界の外側
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見つかった瞬間、物語になる。 見つからなければ、何も始まらない。 ——異世界アイドル☆パラレルパレード 召喚▶︎ https://t.co/KzKk7ydTp5
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異世界アイドル☆パラレルパレード NEO AKIBA ARCHIVE LOG R-28 ―万に一つ― 日が落ちてから、オルフェンは坂を上った。 屋敷の窓には、今夜も青紫の光が滲んでいる。 扉の前に立つと、手を上げるより先に声がした。 「入れ」 管理者は、観測窓の前の机に座っていた。昨夜積まれていた記録は、もう片付けられている。管理者は、窓の外の夜を見ていた。 「管理者さん。お願いがあります」 「話せ」 「北へ行きます。ソナさんを迎えに。……作戦を、一緒に考えていただけませんか」 管理者は、窓から目を離さなかった。 「座れ」 机の端に、湯気の立つ茶が一つ置かれた。 * 五人が知っているのは、自分たちが暮らしていた街と、逃げてきた道だけだった。ソナが送られた施設の場所も、北の城塞の形も、誰も知らない。 オルフェンが話せることは、それで終わりだった。 管理者は立ち上がり、部屋の奥の棚を開けた。 中には、浅い引き出しがいくつも並んでいた。木を削った城壁。高さの違う塔。門。橋。真鍮の歯車。青く塗られた薄い板。部品の一つひとつに、細かな札が貼られている。 「……これ、何ですか」 「城だ」 「どの城の」 「どの城でも組める」 管理者は、記録も地図も開かなかった。 平たい板を机いっぱいに敷き、その上に岩の部品を積んでいく。岬。外郭。中郭。内郭。崖に食い込む細い塔。塔の天辺には、豆粒ほどの鐘が吊られた。 オルフェンは、部品が置かれるたびに、北の城塞が机の上へ立ち上がっていくのを見ていた。 「……これ、全部ご自分で作ったんですか」 「暇な時期があった」 管理者は板の縁に真鍮のつまみを差し込んだ。 一目盛り、回す。 カチ、と音がした。 中郭の環が、ゆっくりと回り始めた。歯車が噛み合い、門の位置がずれていく。さっきまで外郭の門と向かい合っていた中郭の門が、壁の向こうへ隠れた。 「城が、動くんですか」 「夜に三度回る」 それ以上は言わなかった。 オルフェンは身を乗り出していた。目の高さを盤に合わせ、隠れた門の行方を追う。 それから、自分が身を乗り出していることに気づいた。 「……すみません。わくわくしてしまいました」 「好きなだけ見ろ」 管理者は盤の下へ別の板を差し込んだ。細い溝が、根のように城の下を走っている。溝の底には、青く塗られた薄い板が敷かれていた。 「排水路だ。潮が引けば通れる。満ちれば、天井まで沈む」 * 「施設は内郭の北の端だ。崖を背にしている」 管理者の指が止まった場所に、青いガラス玉が一つ置かれた。 小さな玉が、灯りを受けて光った。 「……ソナさん」 オルフェンが、小さく言った。 それから白い駒を取り出し、一つずつ、盤の外の港の端に並べていく。置くたびに、小さく名前を呼んだ。 「グンソさん。ソンミンさん。ヘジュさん。ドンチョルさん。テジュンさん」 六つ目を、少し前に置いた。 「これが私です」 「見れば分かる」 管理者は黒い駒を摘まみ、盤に置き始めた。門に。城壁の上に。塔に。路地の角に。 盤が黒く埋まりかけたところで、管理者は手を止めた。 それから、置いたばかりの黒い駒を、手の甲で盤の外へ払い落とした。 駒が、机の上を転がった。 「兵は問題にならない」 オルフェンは、転がった駒を見た。 「お前は強い。お前一人なら、正面から門を抜けて、内郭まで歩いて行ける」 「では」 「問題は、城そのものだ」 管理者は、渦を巻く三重の城壁を見下ろした。 「この城は、千年以上、一度も落ちていない」 オルフェンは、木で組まれた小さな城壁を見た。 千年。そのあいだに、何人がこの壁の前に立ったのだろうと思った。 管理者は、灰色の札を数枚取り出した。 外郭の城壁。排水路の入口。中郭の歯車の継ぎ目。塔の鐘の下。施設の扉の前。 それぞれの場所へ、札を裏返して置いていく。 「これは」 「行けば分かる」 「……一つだけ、教えていただけますか」 管理者は、外郭の壁の札を見た。 「力を吸う」 それだけだった。 「触れたものの力を?」 「そうだ」 管理者は、最後の札を置いた。 「動かしてみろ」 * オルフェンは、盤の上の潮を見た。 「潮が引くのを待って、排水路から入ります」 「いいだろう」 管理者が、盤の縁の別のつまみを回した。溝の底の青い板が、かたかたと沈んでいく。潮が引いた。 六つの白い駒が、排水路の入口へ降りた。 先頭の駒が札の脇を抜けた。二つ目も、三つ目も抜けた。 最後尾の駒が、札の上に乗った。 管理者が、入口の上の小さな板を指で倒した。格子だった。格子が落ちて、溝を塞いだ。 最後尾の駒だけが、格子の外に残った。 管理者は、その駒を盤から下ろした。 テジュン。 オルフェンは、名前を口に出さなかった。 五つの駒が、根のような溝を進む。外郭の下を抜けた。中郭の下へ入る。 管理者の指が、潮のつまみに触れた。 青い板が、かたかたと上がり始めた。 「急ぎます」 オルフェンが駒を進める。四つは、中郭の下を抜けた。 五つ目が、溝の曲がり角で止まった。 青い板が、その駒の上まで上がった。 ドンチョル。 管理者は、少し前に出ている白い駒を見た。 「泳げば抜ける」 「では、進めますね」 「お前だけならな」 オルフェンの手が、駒の上で止まった。 それから、残りの三つと一緒に、自分の駒を前へ進めた。 四つの駒が、内郭の下から地上へ上がった。 施設まで、あと路地を二本。 その時、管理者が真鍮のつまみを一目盛り回した。 カチ。 中郭の環が回った。歯車の継ぎ目に置かれていた札が、ちょうど路地の出口へ滑り込んでくる。 塔の天辺で、豆粒ほどの鐘が揺れた。管理者の指が、鐘を軽く弾いたのだ。 小さな、澄んだ音がした。 盤のあちこちで、細い板が一斉に倒れた。路地という路地が、隔壁で区切られていく。 四つの駒のうち、二つが隔壁の手前に取り残された。 隔壁を、背中で押さえているように見えた。 管理者は、二つの駒を盤から下ろした。 ヘジュ。ソンミン。 施設の前に、白い駒が二つ。 管理者が、施設の扉の前の札に指を置いた。 青いガラス玉が、白い駒に寄り添うように動かされた。 「玉に触れた時から、帰り道は別のものになる」 扉の脇の小さな板が、ばたんと倒れた。 扉が閉じた。 扉の内側に、ガラス玉ともう一つの駒。扉の外側に、一つの駒。 管理者は、扉の外の駒を下ろした。 グンソ。 オルフェンの指が、机の縁を掴んでいた。 最後に残った白い駒と、青いガラス玉。 施設の裏の崖を伝い、内郭を抜ける。中郭は回っていた。門が見つからない。オルフェンは駒を、回る環の隙間へ滑り込ませた。 抜けた。 外郭の壁が、目の前にあった。 その向こうは、海だった。 管理者は、外郭の壁の札を指先で叩いた。 「力を吸う」 オルフェンの駒が、そこで止まった。 管理者は、その駒を摘まみ上げて、盤の外へ置いた。 盤の上には、青いガラス玉だけが残った。 裏返しの札と、倒れた隔壁と、沈んだ水路に囲まれて、灯りを受けて光っている。 * オルフェンは、長いあいだそれを見ていた。 迎えに行くということは、連れて帰るということだった。 「これは、記録に残っている城だ」 管理者が言った。 「城は、千年かけて育つ」 それ以上は言わなかった。 「お前は強い」 管理者は、盤の外に並んだ六つの駒を見た。 「だが、無理だ。やめておけ」 オルフェンは、しばらく黙っていた。それから、一つだけ訊いた。 「成功の見込みは」 「ない」 「……まったく、ですか」 管理者は、盤上の玉を見た。 「万に一つもない」 オルフェンは、盤から顔を上げた。 「では、ゼロではないんですね」 管理者は答えなかった。 部品を一つずつ外し、引き出しへ戻していく。城壁が消え、塔が消え、歯車が消えた。 最後に、青いガラス玉が箱へ戻される。 「今夜は帰って寝ろ」 オルフェンは立ち上がりかけて、机の端の茶に気づいた。手に取り、冷めきったそれを一息に飲む。 それから、深く頭を下げた。 「ありがとうございました。お茶も、ごちそうさまでした」 「冷めていただろう」 「冷めても、おいしかったです」 管理者は、もう引き出しを棚へ戻していた。 * 自分の家に戻っても、オルフェンは灯りを点けなかった。 万に一つもない。 管理者さんがそう言うなら、そうなのだ。疑う理由は一つもなかった。 だから、五人は連れていけない。 命がけで出てきた人たちを、万に一つもない場所へ戻すわけにはいかない。 賭けるのは、自分一人でいい。 支度は少なかった。 最後に、聖剣ルクシオンを手に取った。 暗い部屋の中でも、刀身はかすかに白い光を返した。 柄を握ると、返事のように微かな温もりが伝わってきた。 五人宛ての短い手紙を一通書いた。最後の一行だけ、何度か書き直した。港を通る時に、船へ置いていくつもりだった。 手紙を、ポケットに入れる。 * 夜明け前。 オルフェンは、音を立てないように扉を閉めた。 「行ってきます」 誰もいない家に向かって、小さく言った。 坂道は、まだ薄暗かった。海から上がってきた靄が、石畳の上を低く流れている。 オルフェンは、港へ向かって歩き出した。
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異世界アイドル☆パラレルパレード NEO AKIBA OBSERVATION LOG 1-32 ― 未検出 ― 小説の断片が発見された。 観測局第四監視室には換気扇の音だけが響いていた。 机の隅には缶コーヒーが横倒しになっている。底には黒い液体が少しだけ残り、乾きかけた輪が机の表面に広がっていた。機械油の匂いは消えず、観測炉から送られてくる熱が部屋の空気を僅かに暖めている。 少女は画面を見る。 『管理者信号 未検出』 確認キーを押す。表示は変わらない。もう一度押す。それでも変わらない。少女は指を止める。数秒だけ画面を見つめ、再びキーへ触れる。 変わらない。 少女は隣のモニターへ視線を移した。通信ログ。観測塔。時刻表示。何度も見慣れた画面が並んでいる。 異常は見当たらない。 少女は椅子へ深く座り直す。机の上のペンを手に取ると、報告書作成画面を開いた。件名を入力する。数文字だけ表示される。手が止まる。換気扇が回る。 少女は入力欄を見つめる。 やがて全て消した。 数秒後、再び同じ画面を開く。 今度は何も入力しない。 机の隅には古い通行証が置かれていた。角だけが白く擦れている。少女は視線を向けるが、手には取らない。すぐに画面へ視線を戻した。 カン。 部屋の隅で工具箱が閉じられる。 少女は振り返る。 第五層観測炉整備主任の男が立ち上がっていた。作業着の袖には黒い油汚れが残り、工具箱の角は長い年月で丸く削れている。男は留め金を親指で押し込み、画面を一瞥した。 「へえ」 少女は何も言わない。 男は煙草を咥える。ポケットを探る。ライターが見つからない。煙草を戻す。 「ほう」 カツ。 小さな音がした。 少女は自分の手を見る。握ったペンの先が机に当たっていた。換気扇は回り続けている。男は画面を見る。少女も画面を見る。 数秒。 誰も何も言わない。 やがて少女は画面を指差した。 「ほう、ではありません」 男は黙ったまま表示を見つめる。 「そうか」 それだけ言うと工具箱を持ち直した。 「どちらへ?」 少女が問う。 男は歩き出す。 「仕事だ」 男は振り返らない。 扉が開く。 第五層から流れ込んだ暖かい空気が監視室を撫でた。 扉が閉まる。 再び換気扇だけが回っている。 少女は画面を見る。報告書作成画面は開いたままだった。入力欄は空白のまま。 観測炉の低い唸りが壁の向こうから聞こえてくる。机の隅で缶コーヒーが転がる。換気扇は回り続けていた。 『管理者信号 未検出』
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異世界アイドル☆パラレルパレード NEO AKIBA ARCHIVE LOG R-26 ―鍵― 紙の裏に、文字が増えていた。 まだ、戻れる。 オルフェンが思ったことと、同じ言葉だった。句点の位置まで、同じだった。 オルフェンは紙を折り目に沿って閉じた。開いたままにしておくと、続きを書かれそうな気がした。 顔を上げると、管理者はもう背を向けていた。 「管理者さん。記録庫は、どこに」 「港の外れの観測塔だ。地下にある」 昨夜、三音を調べろと言われた場所だった。 「管理者さんは」 「戻る。読みたいものがある」 それだけ言って、管理者は廊下の奥へ歩いていった。 手の中の鍵は黒く、古く、冷たいのに、握っていた場所だけが温かい。 背後で、船室の扉が開いた。 「その紙、船の外へ出すのか」 グンソだった。 オルフェンは、ポケットの上から紙に触れた。 「置いていく方が、怖いです」 グンソはしばらく黙っていた。それから、上着を掴んで廊下へ出てきた。 「なら、俺も行く」 「グンソさんは、船にいた方が」 「その紙が外で何をするか、見てないと落ち着かない」 * 夜の港は、静かだった。 係留鎖の音が、背中の方で遠ざかっていく。倉庫の並ぶ通りを抜け、灯りのない路地を二つ曲がる。 港の外れに、観測塔が立っていた。 天蓋の青紫を背に、黒い影だけになっている。窓の灯りは一つもない。てっぺんの観測器は、とうに止まっていた。 扉に鍵はかかっていなかった。 中に入ると、上へ向かう螺旋階段と、地下へ降りる細い階段があった。 一段降りるごとに、外の波の音が遠くなる。代わりに、別の音が近づいてくる。 ――サー……。 雨ではない。波でもない。 「聞こえるか」 グンソが小声で言った。 「はい」 「数えるなよ」 「もう数えています」 階段は、十三段だった。 降りきった先に、鉄の扉があった。錆びた表面の文字はほとんど削られていて、一つの言葉だけが残っている。 記録庫 鍵穴は扉の中央より少し低い。子どもの背丈なら、ちょうど目の高さになる位置だった。 鍵を差し込む。 回す前に、ポケットの中で紙が動いた。開いた覚えはないのに、折り目の内側に文字が浮かんでいる。 《右へ回す》 《左へ回す》 《回さない》 「見せるな」 グンソが言った。 「紙に訊くな。お前の手で回せ」 オルフェンは紙をしまい、鍵を右へ回した。 カチ、と一つ。 カチ、と二つ。 三つ目の音は、鳴らなかった。扉は、それだけで開いた。 オルフェンは、開いた扉を二回ノックした。 「失礼します」 「……誰に言ってる」 「中の方に」 「誰もいないだろ」 「念のためです」 グンソは何か言いかけて、やめた。 「俺はここにいる」 扉の脇の壁にもたれる。 「中のものは、俺は見ない。お前も長居するな」 * 記録庫の中は、乾いていた。港のすぐそばなのに、潮の匂いがしない。古い紙と、乾ききったインクの匂いだけがする。 棚に並ぶ記録には、番号しか振られていなかった。名前のついたものは一冊もない。 三音。警告音。検疫区画。 探すべき言葉を頭の中で並べながら、オルフェンは棚の端から一冊ずつ確かめていった。 開くたびに、知らない港の、知らない日の数字が並んでいる。三度鳴る警告を記した頁は、どこにもなかった。 最後の棚で、番号が一か所だけ途切れていた。 隙間に、白い帳面が差し込まれている。他の記録より、ずっと新しく見えた。 オルフェンは帳面を引き抜き、灯りの下で開いた。 日付。場所。記録者。そして最後の欄に、《次に記録される者》。 一行目の最後の欄には、一文だけが書かれていた。 次に記録されるのは、誰か。 二行目には、名前があった。文字の形ははっきりしているのに、読もうとするとその一行だけが目から遠ざかっていく。 三行目。また、あの一文。 四行目。また、読めない名前。 問い。名前。問い。名前。 ページをめくるたびに、同じ並びが続いていく。 「……訊いた人が、次の行になる」 声に出した瞬間、オルフェンは自分の口を押さえた。 船室で、自分は何を言った。 ――誰が書いたんでしょう。 ――私ですか。 指先が冷たくなる。それでも、最後のページを開いた。開かないままにしておく方が、ずっと怖かった。 最後の一行は、途中で止まっていた。 記録者の欄に、二文字だけ。 未確 自分の字だった。 ついさっき、船室で《未確認》と書いた。その最初の二文字が、払いの角度まで同じまま、いつからここにあるのか分からない帳面に残っている。 船室で係留鎖の音を三つ目まで数えたのは、自分だった。 オルフェンは、しばらくその二文字を見つめていた。 怖くないわけではなかった。ただ、ここで自分が崩れたら、外で待っている人が中へ入ってきてしまう。 帳面を閉じようと、表紙に手をかけた。 その指先が、棚に当たった。 棚が、軋んだ。 「オルフェン?」 扉の外から、グンソの声がした。 返事をする前に、足音が入ってきた。 * 「どうした、何が――」 グンソは、そこで言葉を切った。 開いたままの帳面を見ていた。 逸らそうとしているのが分かる。首の筋が張っている。それなのに、視線だけが最後の行から離れない。 「グンソさん、見ないでください」 唇が、動いた。 「次に、記録されるのは」 「読まないで!」 「――誰か」 グンソの声ではなかった。グンソの口から出た、帳面の声だった。 ――サー……。 音が、すぐ耳元まで来た。 最後の欄に、文字が滲み出す。 一画目。 オルフェンは帳面を閉じようとした。 オルフェンは帳面を閉じた。 オルフェンは、まだ帳面を閉じていない。 閉じない。表紙が、指の下でびくともしない。 二画目が、引かれる。 「……おい」 グンソが自分の胸を押さえていた。 「俺、今、なんて名前だ」 オルフェンは答えようとした。 答えられなかった。 知っている。逃げてきた五人のうちの一人で、船で何度も話した。北へ行くかどうかを、一緒に決めた人だ。声も、顔も、指の震え方も覚えている。 名前だけが、出てこない。 口の中で、空白が形になっていく。 ポケットの紙が、勝手に開いた。 《書き留める》 《帳面を燃やす》 《名前を呼ぶ》 呼べない。呼ぶ名前が、ない。 三画目が、引かれ始める。 その時、グンソの上着から何かが落ちた。 押し花だった。 色の褪せた、小さな花。彼がずっと持ち歩いているもの。逃げてきた日からずっと、手放さなかったもの。 無窮花。 その花の名前を思い出した瞬間、隣にあった名前が一緒に戻ってきた。 「グンソさん!」 帳面の上で、筆が止まった。 「グンソさん」 二度目。 三つ目を誰が数えるのか。今度は、自分で決めた。 「グンソさん」 三度目で、最後の欄の文字が途切れた。 書きかけの一文字だけを残して、インクがそれ以上進まない。 グンソが、その場に膝をついた。 オルフェンは帳面を閉じた。今度は、ちゃんと閉じた。 床の押し花を拾い上げる。花弁の端が一枚、紙のように白く抜けているように見えた。 瞬きをすると、元の色に戻っていた。 見間違いだったのかもしれない。 * 階段の途中で、グンソが言った。 「俺の名前、言えるか」 「グンソさん」 「もう一回」 「グンソさん」 「……次に忘れたら、どうする」 「額に書いておきます」 「それが一番やばいやつだろ」 オルフェンは、二段ほど黙って上った。 「……あ」 「今気づいたのか」 「すみません。本気で言いました」 グンソは、押し花を握ったまま、今度は声を出して笑った。 階段を上りきったところで、オルフェンは足を止めた。 十四段だった。 降りた時より、一段多い。 * 管理者の家は、港から少し離れた坂の上にある。 窓という窓に、青紫の光が滲んでいた。 扉の前に立つと、手を上げるより先に声がした。 「入れ」 部屋の中では、管理者が観測窓の前の机に座っていた。机の上には、昨夜と同じ白紙が一枚。その横に、古い記録が何冊も積まれている。 「何があった」 「三音の記録は、見つかりませんでした」 オルフェンは、まずそれを伝えた。 「代わりに、別のものがありました」 そして、見たことを順に話した。 番号のない帳面。問いと名前が交互に並んでいたこと。問いを口にした者が、次の行になること。書かれ始めると名前が抜けていくこと。三度呼んで、止まったこと。 最後に、記録者の欄に自分の字があったこと。 管理者は、一度も口を挟まなかった。 「名前は」 「まだ、書かれていません」 「そうか」 「そういえば」 グンソが、横から口を挟んだ。 「こいつ、記録庫でノックしてたぞ。誰もいない部屋に」 「グンソさん」 「失礼します、まで言ってた」 管理者は、窓の外を見たまま何も言わなかった。 ただ、口元がほんの少しだけ動いた気がした。 気のせいかもしれない。オルフェンが確かめようとした時には、もういつもの顔に戻っていた。 「顔色が悪い。今夜はもう寝ておけ」 その時、オルフェンのポケットの中で、紙がかすかに鳴った気がした。 ――サ……。 オルフェンは、それ以上耳を澄まさなかった。 坂を下りる途中で、グンソが低く言った。 「……落ち着いてるな、あの人」 「管理者さんですから」 オルフェンは答えた。 管理者さんは、一つも聞き返さなかった。それだけ、ちゃんと聞いてくれていたのだと思った。 船に戻り、自分の船室で紙を開く。 次に記録されるのは、 続きは、まだ来ない。 ただ、その後ろの余白に、さっき帳面の上で止まった一文字の跡だけが、薄く残っていた。
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異世界アイドル☆パラレルパレード NEO AKIBA ARCHIVE LOG R-23 ―未確認― 港の夜は、まだ終わっていなかった。 荷を運び終えた台車が、濡れた石畳の上で止まっている。水面を擦る係留鎖。遠くで交わされる作業員の声。誰かが笑い、誰かが扉を閉める。 普通の人間が、普通の夜を過ごしている音だった。 オルフェンは、その中を一人で歩いていた。 船室を出てから、何度も足を止めそうになった。 グンソは、もう何も話せない顔をしていた。 それでも、オルフェンは言った。 戻ります。 言った以上、戻らなければならない。 問題は、戻ったところで何を話せばいいのか分からないことだった。 チェ・ソナ。十三歳。未登録歌姫。保護対象。 妹の名前。 白い車。 消毒薬の匂い。 何度も沈む床。 長い鉄の音。 三度鳴る警告音。 それだけだった。 それだけしかないのに、グンソは十年近く、その断片だけを抱えて生きてきた。 オルフェンは、管理者の部屋の前で立ち止まった。 青紫の灯りが、廊下の床を細く照らしている。壁面の観測端末には、港の各所から送られてくる数値が流れていた。 扉を叩こうとした、その時だった。 「入れ」 オルフェンは、手を止めた。 「起きていらしたんですか?」 「お前の足音が、三度止まった」 「三度も止まりましたか」 「迷っていた時間を含めれば、もっと多い」 オルフェンは、小さく息を吐いた。 「……失礼します」 部屋の中には、港を見下ろす観測窓があった。 天蓋の空は、青紫色に揺らめいている。雲はない。雨もない。ただ、空の内側だけが、遠い海のように明滅していた。 管理者は机の前に座っていた。 机上には、何も書かれていない紙が一枚置かれている。 「報告か」 「相談です」 「同じことだ」 「では、報告を兼ねた相談です」 「話せ」 オルフェンは、グンソから聞いたことを、一つずつ伝えた。 北方人民共和国。 一千年近く続いている国家。 何度崩されても、別の形になって残り続けた国。 地図に載らない村。 偽の救助所。 本当の国境へ着くまでに、三度、国境を越えたと思わされる道。 そして、ソナの記憶。 白い車。 消毒薬の匂い。 舗装されていない道を走る車体。 何度も沈む床。 橋を渡る感覚。 長い鉄の音。 三度鳴る警告音。 オルフェンが話し終えても、管理者はすぐには口を開かなかった。 室内には、観測端末の駆動音だけが残った。 「その男の証言を、どこまで信用する」 「分かりません」 オルフェンは正直に答えた。 「信用していないわけではありません。ただ、見たものすべてを正確に説明できているとも思いません」 「恐怖は、記憶の順番を変える」 「はい」 「逃げた人間は、見捨てた村を“消えた”と語ることもある」 「はい」 「警告音も、北方の合図とは限らない。鉄道かもしれない。工場かもしれない。古い港の警報かもしれない」 「はい」 「それでも調べたいのか」 オルフェンは、机の上の白紙を見た。 「はい」 「理由は」 「ソナさんが、まだ人間として扱われているかどうかを確認したいからです」 管理者の視線が、初めてわずかに動いた。 「救出ではなく?」 「救出できるなら、その方がいいです」 オルフェンは、言葉を選びながら続けた。 「でも、最初から救出だと決めてしまうと、見落とすものがある気がします」 「何を」 「彼女が、もう名前を失っているのかどうかを」 白紙の上には、まだ何も書かれていない。 番号も、場所も、施設名もない。 グンソが覚えていたのは、記録から消された妹の名前と、途切れた感覚だけだった。 「ソナさんは、保護対象として連れていかれた」 「そう聞いた」 「でも、保護されたのか、収容されたのか、それすら分かりません」 「言葉が違うだけで、同じ場所へ送られることもある」 オルフェンは、黙った。 管理者は、机の引き出しから数枚の記録を取り出した。 「三度の警告音について、過去の観測記録を確認した」 「もう調べてくださったんですか?」 「確認しただけだ」 一枚目の紙には、港湾施設の警報形式が並んでいた。 短音一回。 長音二回。 連続音。 その中に、三音を一組として繰り返す形式があった。 「この音は、かつて複数の施設で使われていた」 「北方人民共和国のものですか?」 「違う」 管理者は即答した。 「北方だけのものではない。古い検疫区画、隔離施設、軍用港。危険区域への接近を知らせるために、各地で使われていた」 「では、三音だけでは何も分からない」 「何も分からないわけではない」 管理者は、記録の一部を指で押さえた。 「この形式は、現在ほとんど使われていない」 「ほとんど?」 「最後に使用された記録は、三十七年前だ」 オルフェンは、その日付を見た。 ソナが連れていかれた時期とは、まだ大きく離れている。 「同じ音が、その後も使われていた可能性は?」 「ある。ただし、記録がない」 「記録がないというのは」 「使われていないのか、記録されなかったのか、消されたのか。区別できない」 管理者は、別の紙を重ねた。 そこには、北方へ続くいくつかの経路が記されていた。 どの線も、途中で途切れている。 「北方人民共和国へ向かう道は、地図に描かれていないのではない」 「違うんですか?」 「描かれた後で、意味を失う」 オルフェンは、地図を見下ろした。 「道が消える?」 「道は消えない。道の先にあるものが、別のものへ置き換わる」 「村が、ですか」 「村。救助所。検問所。国境」 管理者は、淡々と続けた。 「その場所が本当に存在するのか。誰が管理しているのか。そこで渡される名前が本物なのか。入った人間は、出た後も同じ人間なのか」 オルフェンは、言葉を失った。 「北方人民共和国は、壁で閉じた国ではない」 管理者の目が、地図の白い部分へ向く。 「入れる。出られる。道もある。案内人もいる」 「それなら、なぜ」 「入った人間が、入ったことを証明できなくなるからだ」 部屋の空気が、少しだけ重くなった。 オルフェンは、受け取った記録を見た。 名前。 番号。 施設の印。 しかし、そのどれもが途中で途切れている。 「管理者さん」 「何だ」 「もし、ソナさんがその国の中にいるとして」 「仮定だ」 「はい。もし、いるとして。彼女の名前が残っている可能性はありますか?」 管理者は、すぐには答えなかった。 「名前は、最初に消される」 「……」 「年齢、出身、血縁。次に消えるのは、歌った記録だ」 オルフェンは、ゆっくりと拳を握った。 「それでも、何か残ることは」 「残る」 管理者は、白紙の上へ視線を落とした。 「記録する人間がいる限りは」 その言葉に、オルフェンはグンソの姿を思い出した。 紙の上に、妹の名前を書いた。 番号へ戻さずに。 「では、探す方法はあります」 「方法ではない」 「入口ですか」 「入口を探すための、断片だ」 管理者は、記録を三つに分けた。 「ソナの移送時期」 一枚目。 「白い車の所属、または移送に使われた経路」 二枚目。 「三音の警告音が鳴った場所」 三枚目。 「この三つが必要だ」 「三つが揃えば、北方へ入る方法を教えてくださいますか?」 「教えるとは言っていない」 「はい」 「相談には乗る」 「はい」 オルフェンは、少しだけ困ったように笑った。 「かなり厳しい条件ですね」 「妹を探しに行くのだろう」 「はい」 「なら、厳しくて当然だ」 オルフェンは立ち上がった。 「グンソさんに、もう一度訊いてきます」 「訊くな」 「え?」 「今夜は、もう訊くな」 オルフェンの手が止まった。 「ですが、移送時期が分からないと」 「十年近く抱えていた記憶を、港へ着いたばかりの夜に掘り返すな」 「……はい」 「人間は、記憶を話すたびに、その記憶を少しずつ作り替える」 管理者は、紙の上に並んだ項目を見つめた。 「今夜の彼から、これ以上の正確さを引き出そうとするな」 オルフェンは、しばらく黙っていた。 「では、まず三音を調べます」 「そうしろ」 「どこから?」 管理者は、古い記録を一枚だけ抜き取った。 「港の外れに、使われていない観測塔がある」 「観測塔」 「かつて、船舶と検疫区画の警告音を記録していた」 「今も使えるんですか?」 「使えるかどうかを調べる」 管理者は、紙をオルフェンへ渡した。 「音を調べろ」 オルフェンは、紙を受け取った。 「ありがとうございます」 「礼を言われることはしていない」 「でも、調べていいと言ってくださったので」 「調べるだけだ」 「はい」 オルフェンは扉へ向かった。 「管理者さん」 「何だ」 「もし、三つの条件が揃わなかったら」 管理者は、窓の外を見た。 青紫の空が、遠くで一度だけ明滅している。 「未確認のものを、確認できなかったという理由だけで、存在しないことにするな」 オルフェンは黙って聞いていた。 「ただし、存在すると決めつけるな」 「はい」 「分からないまま、両方を持って歩け」 オルフェンは、わずかに微笑んだ。 「難しいですね」 「簡単だと思っていたのか」 「思っていません」 「なら、行け」 「はい」 オルフェンが部屋を出る。 扉が閉じると、管理者は一人になった。 机の上には、三音の警告記録と、名前のない白紙が残っている。 管理者は、さらに奥から一枚の記録を取り出した。 北方人民共和国へ向かった調査隊。 出発者、十二名。 帰還者、なし。 死亡記録、なし。 最後の報告から、二百三十一年。 記録の末尾には、短い文章が残されていた。 帰還者は、帰還したことを証明できなかった。 管理者は、紙を裏返した。 裏面には、別の筆跡で、さらに短い言葉が書かれている。 三度鳴った。 管理者は、港の方へ顔を向けた。 警告鐘が鳴る。 短く三度。 間を置いて、三度。 管理者は、その音を聞き終えるまで、立ち上がらなかった。 机の上の白紙には、まだ何も書かれていない。 チェ・ソナ。 その名前も、まだ。
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異世界アイドル☆パラレルパレード NEO AKIBA ARCHIVE LOG R-19 ―港へ― 地下水路の奥で、五人の足音が重なっていた。 誰も振り返らなかった。 背後から追手の声は聞こえない。銃声も、怒号もない。 だが、それは安全を意味していなかった。 ムジンが作った時間が、まだ残っているだけだ。その時間が尽きれば、追手はここまで来る。 「止まるな」 先頭を歩くソンミンが言った。 グンソは返事をしなかった。 耳の奥では、あの音がまだ鳴っている。 一度目。 二度目。 そして、遠くなった三度目。 ムジンがまだ立っているのか。 倒れたのか。 生きているのか。 もう、確かめることはできない。 グンソの胸元には、テジュンが拾った記録片があった。焼け焦げた金属片。その表面には、消されかけた名前が残っている。 ソナ。 名前を守った者たちが、自分たちの名前を隠して逃げている。 その矛盾が、グンソの胸を締めつけていた。 「……ムジンは、俺たちに生きろと言った」 グンソが呟いた。 「だから生きる」 ソンミンは前を見たまま答えた。 「名前を隠してでもか」 「捨てるんじゃない」 暗い水路に、ソンミンの声が落ちる。 「取り戻すために隠すんだ」 その先に、薄い光が見えた。 風の音。 潮の匂い。 遠くで鳴る汽笛。 港が近い。 だが、出口の手前でヘジュが足を止めた。 「待って」 五人は崩れた配管の陰へ身を寄せた。 地上から、複数の靴音が聞こえる。 一定の間隔。 乱れのない歩幅。 人間が歩いているというより、決められた巡回手順そのものが通過しているようだった。 「地下側は?」 「異常なし。逃亡者は港へ向かった可能性が高い」 「船渠側の照合を強化しろ。未登録者の乗船を確認した場合、現場判断で拘束して構わない」 「危険度判定は?」 「保留。対象の身元が確定していない」 「身元がないのではなく、記録がないだけだ」 乾いた声が答えた。 「記録がない人間は、存在しないのと同じだ」 靴音が遠ざかっていく。 それでも五人は動かなかった。 やがて、港の汽笛が鳴った。 ソンミンが手を上げる。 「今だ」 地上へ出た瞬間、港の照合灯が一度だけ点滅した。 青紫の光が、五人の姿をなぞる。 顔。 衣服。 人数。 歩行速度。 灯りは人間を照らしているのではなかった。通過したものを、数字と判定へ変えている。 「見られたか」 ドンチョルが囁いた。 「違う」 ヘジュが港の柱を見た。 「照合された」 柱の表面に、淡い文字が浮かんだ。 《未登録集団の通過を確認》 《構成人数:五》 《危険度判定:保留》 警報は鳴らなかった。 追手も現れなかった。 それでも、五人はすでに港のどこかへ残されていた。 「走るな」 ソンミンが言った。 「走れば、逃亡行動として確定される」 五人は歩いた。 追われている人間ほど、追われていないふりをしなければならない。 港の作業員たちは、五人を見ても見ないふりをした。視線を合わせない。足を止めない。余計なことを尋ねない。 見ないこともまた、この場所で生きるための手順だった。 積み上げられた木箱。鉄籠。浄化用鉱石の袋。壁面に並ぶ管理番号。 荷物にも、人間にも、行き先と扱いが定められている。 番号を持たない者だけが、静かに消される。 「船が必要だ」 テジュンが言った。 「正規の船には乗れない」 ヘジュが答える。 「なら、正規ではない船を探す」 五人は貨物の影を縫うように、港の奥へ進んだ。 途中、グンソの足が止まった。 掲示板に、捜索指名の紙が貼られていた。 顔写真はない。 名前もない。 ただ、五人分の特徴だけが記されている。 《反国家活動の疑い》 《武装逃亡者》 《発見時、直ちに通報せよ》 その紙に、ムジンの名はなかった。 グンソはしばらく掲示板を見つめた。 存在しなかったことにされている。 だが、ムジンは確かにそこにいた。 銃声の前に立ち、五人を逃がすために時間を残した。 名前がないことは、何も残さなかったという意味ではない。 「グンソ」 ソンミンが呼んだ。 グンソは掲示板から目を離し、歩き出した。 港の一番奥。 照合灯の届かない古い船渠に、一隻の貨物船が係留されていた。 船体は黒く汚れ、塗装は剥がれている。 船名は削り取られ、側面には古い水質調査船の刻印だけが残っていた。登録番号も消されている。 それでも、船尾の機関室からは低い振動が伝わってきた。 古い機械が、苦しそうに息をしている。 「人の気配がない」 ドンチョルが船内を覗き込んだ。 「荷下ろしの途中で離れたのかもしれない」 テジュンが船体脇の木箱を調べた。 その隙間に、破れかけた積荷票が挟まっている。 テジュンが引き抜いた。 紙面には、かろうじて文字が残っていた。 《搬送先――アルトリウス》 「アルトリウス……?」 ドンチョルが呟いた。 「知っているか」 テジュンが尋ねる。 誰も答えなかった。 聞いたことのない名前だった。 それが都市なのか、港なのか、国なのかすら分からない。地図のどこにあるのか。どれほど遠いのか。そこに何があるのか。 何一つ、分からない。 「この船は、どこへ行くんだ」 グンソが言った。 ソンミンは積荷票を見つめた。 「分からない」 「分からない場所へ行くのか」 「分かる場所に残れば、捕まる」 ソンミンは船体の奥を見た。 「分からない場所なら、まだ追手も来ていない」 船体脇には、船底へ続く狭い整備扉があった。 錆びた鍵が掛かっている。 テジュンが工具を取り出し、音を立てないように鍵を外した。 扉の向こうから、湿った鉄と油の匂いが流れてくる。 人が五人、身を寄せれば隠れられる程度の空間だった。 「ここに入る」 ソンミンが言った。 グンソは動かなかった。 扉の向こうにあるのは、ただの暗闇ではない。 故郷を出ること。 名前を隠すこと。 ムジンを置いていくこと。 すべてが、その狭い船底の向こうにあった。 「グンソ」 テジュンが低く呼んだ。 「ムジンは、俺たちをここまで通した」 グンソは目を閉じた。 鉄扉の向こうから聞こえた、最後の衝撃音を思い出す。 胸元の記録片を強く握った。 「……入れ」 ソンミンが先に入った。 ヘジュ、ドンチョル、テジュンが続く。 最後にグンソが振り返った。 港の照合灯が、ひとつ点滅した。 《対象の移動を確認》 《危険度判定:保留》 警報は鳴らなかった。 だが、保留という言葉は許可ではない。 まだ処理されていないだけだ。 グンソは船底へ身を滑り込ませた。 扉が閉じる。 外の青紫の灯が細い線になり、やがて消えた。 狭い船底で、五人は息を殺した。 しばらくして、甲板の上から足音が響く。 「積み込みは終わったか」 「まもなくです」 「出港を急げ。今夜の潮を逃すな」 誰かが扉の近くを通り過ぎる。 足音が遠ざかる。 機関が低く唸った。 船体が震えた。 鉄板の隙間から差し込んでいた港の光が、ゆっくりと後ろへ流れていく。 船が岸を離れたのだ。 故郷が遠ざかっていく。 グンソは目を閉じた。 ムジンの声は、もう聞こえなかった。 それでも、胸の奥には残っている。 生きろ。 誰も知らない場所へ。 誰も知らない名前の街へ。 行先として残されていたのは、アルトリウスという文字だけだった。 それがどこにあるのか。 何が待っているのか。 五人には、何一つ分からない。 ただ、背後に残れば捕らえられる。 だから彼らは、行き先の分からない船の底で、初めて故郷の外へ出た。 記録の外側へ。 名前を失った者たちの、最初の航海へ。 機関の音が、暗闇の奥で深く鳴った。 五人を乗せた船は、未知の水路へ進み始めた。
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異世界アイドル☆パラレルパレード NEO AKIBA ARCHIVE LOG R-25 ―記録者― グンソは、否定もしなかった。 船室には、船を岸につなぐ係留鎖の音だけが残っている。 一度。 二度。 三度目の音が消えてからも、オルフェンは動かなかった。 机の上には、三枚の紙がある。 ソナの移送時期。 白い車の経路。 三音の警告音が鳴った場所。 そのうち一枚だけが、裏返ったままになっていた。 オルフェンは、紙へ手を伸ばした。 「管理者さんへ報告します」 「持っていくな」 グンソが言った。 迷いのない声だった。 「なぜですか」 「その紙を、船の外へ出すな」 「紙が危険なんですか」 「紙じゃない」 グンソは、裏返った紙を見た。 「書かれたものが、外へ出たがる」 オルフェンの指が止まった。 「分かりません」 「分からなくていい」 「分からないままでは、判断できません」 「判断するな」 グンソは、紙から目を逸らさなかった。 「選ぶな。書くな。名前を与えるな」 その瞬間、紙の上に文字が浮かんだ。 インクが染み出すように、ゆっくりと。 オルフェンは、管理者へ報告するために立ち上がった。 オルフェンは、まだ座っている。 グンソが息を呑んだ。 「……見たか」 「はい」 「まだ立っていない」 「はい」 紙の上で、文字が増えていく。 オルフェンは、紙を持った。 オルフェンは、扉へ向かった。 オルフェンは、名前を呼ばれた。 「読むな」 グンソが言った。 「もう読んでいます」 「読むな!」 グンソが紙を掴もうとする。 だが、指が触れる直前で止まった。 爪の先が、細かく震えている。 オルフェンは、紙を引き寄せた。 そこに、新しい文字が現れた。 《破る》 《燃やす》 《持ち出す》 まるで、選択肢のようだった。 オルフェンは、三つを見比べる。 「どれを選んでも、書かれた通りになるんでしょうか」 「選ぶな」 「では、何もできません」 「何もしない方がいい時もある」 オルフェンは、机の上から筆を取った。 「それは、昨日の管理者さんと同じですね」 グンソが顔を上げる。 「何が」 「分からないものを、分からないまま持って歩けと言われました」 「書くな」 「だから、選びません」 オルフェンは、三つの選択肢の下に筆を置いた。 《未確認》 筆を離した瞬間、船室の中で音がした。 ――サー……。 紙の上の《破る》が消えた。 《燃やす》が消えた。 《持ち出す》が消えた。 その下に、新しい文章が浮かぶ。 まだ、信じていない。 オルフェンは、紙を見つめた。 「誰が書いたんでしょう」 グンソは答えなかった。 「私ですか」 沈黙。 紙の端に、黒い染みが広がった。 書いた者ではない。 オルフェンの指先が止まる。 それ以上、文字は増えなかった。 グンソが、かすかに息を吐いた。 「もう訊くな」 「一つだけ、確認します」 「やめろ」 「記憶を掘り返す質問ではありません」 オルフェンは、白い車の経路を記した紙を見た。 「三音が鳴ったのは、車で移動している間ですか」 グンソの顔が強張った。 「……違う」 「車が止まった後ですか」 「分からない」 「どちらに近いですか」 グンソは目を閉じた。 白い壁。 二つの扉。 消毒薬の匂い。 長い鉄の音。 そして、三度の警告。 「車は、止まっていた」 「はい」 「扉が開いた」 「はい」 「ソナが、運ばれた」 グンソの呼吸が乱れる。 「その後だ」 オルフェンの筆が止まった。 「三音は、その後に鳴った」 「そうだ」 「施設へ着いた後」 「分からない」 「でも、車が止まった後です」 グンソは、こめかみを押さえた。 その時、紙の上に文字が浮かんだ。 三音は、移送の途中ではない。 オルフェンは、すぐには書き留めなかった。 「これは、事実ですか」 グンソは答えない。 文字の下に、さらに一行が浮かぶ。 まだ、未確認。 オルフェンは、ゆっくりと息を吐いた。 「訂正された」 「違う」 グンソが言った。 「訂正されたんじゃない」 「では?」 「選ばされたんだ」 船室の外で、誰かが歩いた。 一度。 二度。 オルフェンとグンソは、同時に扉を見た。 三度目の足音は、聞こえなかった。 けれど、扉の向こうから声がした。 「オルフェン」 管理者の声だった。 オルフェンは立ち上がる。 グンソが腕を掴んだ。 「その紙を持っていくな」 「管理者さんが呼んでいます」 「だからだ」 「なぜですか」 グンソは答えなかった。 オルフェンは、紙を折りたたんだ。 「これは、証拠ではありません」 「なら、なぜ持っていく」 「一人で持っていると、いつか信じてしまいそうなので」 グンソの手が、ゆっくり離れる。 オルフェンは、扉を開けた。 廊下には、管理者が立っていた。 いつからそこにいたのか、分からない。 管理者は、オルフェンの手元を見た。 「それを見せろ」 オルフェンは、紙を差し出した。 管理者は触れなかった。 ただ、文字だけを見た。 《未確認》 「三音は、移送中ではありませんでした」 オルフェンが言った。 「そう書かれているな」 「グンソさんの記憶と、紙の記録が一致しました」 「一致したから、正しいと思うのか」 「いいえ」 オルフェンは答えた。 「だから、確認したいんです」 管理者の視線が、紙からオルフェンへ移る。 「何を」 「三音が鳴った施設を」 「場所は分からない」 「はい」 「名前もない」 「はい」 「時期も曖昧だ」 「それでも、移送の途中ではない可能性が出ました」 管理者は、紙へ視線を戻した。 「可能性を、証拠にするな」 「分かっています」 「では、なぜ持ってきた」 「分からないものを、分からないまま見せるためです」 管理者は、しばらく黙っていた。 それから、古い記録庫の鍵を取り出した。 「三音が使われていた施設の記録を探す」 「調べていいんですか?」 「まだ、許可はしていない」 「では、これは」 「調査の入口だ」 管理者は、鍵をオルフェンへ渡した。 「ただし、紙には余計な名前を書くな」 「名前を書くと、どうなるんですか」 管理者は、船室の中にいるグンソへ視線を向けた。 「記録される」 それ以上は言わなかった。 オルフェンは鍵を握りしめた。 紙の裏面に、また一行、文字が浮かんでいる。 次に記録されるのは、誰か。 オルフェンは、それを管理者に見せなかった。 まだ、誰の名前も書かれていない。 だから、まだ戻れる。 そう思った。 その考えが、紙に記録されるまでは。
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異世界アイドル☆パラレルパレード NEO AKIBA ARCHIVE LOG R-21 ―接舷― 船が止まったのは、夜明けとも呼べない時刻だった。 ネオアキバに朝は来ない。それでも、機関が唸りを止め、船体が軋みながら岸壁へ寄っていく感覚だけは、はっきりと五人の体に伝わった。 甲板の上から響いていた声が、次第に人の輪郭を持ち始める。積み下ろしの号令、鎖の擦れる音、重い荷が下ろされる鈍い響き。船底の暗闇に慣れた耳には、それすら眩しいほどの生活音だった。 上屋の灯りが、隙間から差し込んでくる。 青紫の、規則正しい光だった。観測塔から引かれた残晄灯りが、必要な分だけ、無駄なく灯っている。 「屋根の下は安全だ」 ソンミンが、隙間から目だけを覗かせて言った。作業員たちが、普通に荷を運んでいる。それだけで、ここが安全な場所だと分かった。 「だが、乗員確認に引っかかれば、それで終わる」 グンソは何も言わず、外套の内側にそっと触れた。押し花はまだそこにある。 乗員確認の声が響く。 「正規、十七名」 数字が読み上げられるたび、誰かが息を止めた。名簿にない五人分の呼吸は、その数字のどこにも含まれていない。 長い沈黙の後、確認が終わる。 「残晄灯りが切り替わる前だ」 ソンミンが低く言った。探索組は自分とヘジュ、ドンチョルの三人。灯りが変わりきる前に街の様子を見て、情報と、できれば食料を持ち帰る。 「テジュンは船に残れ。何かあれば、すぐ出せる状態にしておけ」 「分かってる」 テジュンの声は震えていなかったが、癖のある前髪に触れる指先だけが、落ち着かなく動いていた。 「戻らなかったら?」 「戻る」 ドンチョルが短く言った。それ以上の言葉は、誰も必要としなかった。 三人は上屋の陰を伝い、灯りの薄い区画を選んで岸壁の奥へ消えていく。その背中が見えなくなるまで、グンソは息を殺して見送っていた。 その夜から数日、五人は船底で息を潜めた。 やがて、港の奥にある古い水質調査船へ移った。 登録を失い、台帳からも消された船だった。誰も使わない場所こそが、今の自分たちにふさわしいと、誰かが言った。 窓には厚い布が掛けられ、船室には乾いたパンと水差しだけが置かれていた。だが日中、グンソは船内よりも、船外に立っていることが多かった。狭い船室の中にいると、息が詰まる気がした。 他の四人は、街の空気に慣れるため、あるいは次の当てを探すため、別々に動いていた。 外套の内側に触れる。押し花はまだそこにある。潮に負けず、崩れずに残っている。 青紫の残晄灯りが水面に揺れていた。天蓋の遥か向こう、黒い雲が渦を巻いているのが、歪んだ曲面越しに見えている。天蓋の内側に、雨はなかった。 誰かが、こちらへ向かって歩いてくる気配がした。 グンソは息を潜めた。刃物はない。あるのは、もう何の役にも立たない布切れと、押し花だけだった。 ―ARCHIVE LOG R-14 ―・無窮花―へそのまま続く――
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異世界アイドル☆パラレルパレード NEO AKIBA ARCHIVE LOG R-20 ―船底― 船底に、時間の感覚はなかった。 昼も夜も、光では分からない。ただ機関の唸りが、腹の底に響く低い痛みとして続いているだけだった。 空気は湿り、鉄と油と、微かな死臭に似た匂いが混じっていた。誰かが以前ここで死んだのか、それとも運ばれてきた荷が腐っていたのか、確かめる気にはなれなかった。 グンソは膝を抱え、目を閉じていた。 眠っているわけではない。 眠れば、あの音を忘れてしまう気がした。 一度目。 二度目。 そして、間延びした三度目。 耳の奥で、その音は今も鳴っている。骨に響くような、鈍い衝撃音。あれが何だったのか、グンソは考えないようにしていた。考えれば、想像してしまう。 想像すれば、たぶん壊れる。 その数を、指の関節で数えていた。爪が掌に食い込んでいることに、しばらく気づかなかった。 「……何を数えてる」 ヘジュの声だった。掠れて、疲れきっている。 グンソは答えなかった。 「音か」 ヘジュは、それ以上聞かなかった。聞いても、答えが誰の救いにもならないことを知っていた。 暗闇の中で、五人はそれぞれの姿勢を保っていた。ソンミンは扉に背をつけ、刃物の柄に手をかけたまま動かない。ドンチョルは膝に顔を伏せ、時折、喉の奥で押し殺した音を漏らした。泣いているのか、それとも吐き気を堪えているのか、誰も確かめなかった。テジュンは記録片を握ったまま、指の皮が擦り切れるほど強く握り続けていた。 誰も、故郷の話をしなかった。 話せば、戻りたくなる。 戻れば、今度は自分の番になる。 だから、誰も口を開かなかった。沈黙は五人を守る最後の壁だった。 「……テジュン」 長い沈黙の後、ドンチョルが言った。声に張りがなかった。 「その紙、まだ持ってるのか」 テジュンは答える代わりに、握った拳を少しだけ開いた。 焼け焦げた記録片。端は炭化し、触れるだけで崩れそうだった。かろうじて読めるのは、消えかけた「ソナ」という二文字だけ。それ以外の文字は、熱で歪んで判読できない。 「捨てろとは言わない」 ドンチョルが目を伏せた。 「ただ、それを見るたび、俺たちがまだ何かを背負ってるんだと分かる」 「重いか」 「軽い方が、おかしいだろう」 「軽くなったら、それこそ終わりだ」 テジュンが低く言った。 「忘れた瞬間、俺たちはあいつらと同じになる」 誰も、その言葉を否定しなかった。 船体が、大きく傾いた。 外洋に出たのだと、誰かが呟いた。壁を伝う振動が変わり、機関の音が一段低く沈んだ。それからどれほどの間、その振動が続いたのか、誰も正確には言えない。世界は、故郷の外へ出た者が思うより、はるかに大きかった。 グンソは膝の間に顔を埋めた。 無窮花の押し花は、外套の裏地に縫い付けてある。潰さないように。失わないように。指先で、その硬い感触を確かめる。花弁はとうに乾き、触れるたびに崩れそうな脆さを保っていた。それでも、まだそこにある。 「兄さん、これ、押し花にしたの」 「帰る場所を、忘れないように」 あの時のソナの声を、グンソはまだ覚えている。震えていて、それでも笑おうとしていた声。 だが今、故郷はもう帰る場所ではない。 帰れば、殺される。あるいは、殺されるより先に、存在ごと消される。 名簿には、五人分の特徴だけが載っていた。 顔写真もなく、名前もなく。ただ身長、瘦せ型、逃走経路の推定、目撃時の服装。 存在しなかったことにされた人間が、存在しなかったことにされた船で、地図にすら残らない街へ向かっている。 生きているのに、記録から消されている。 それは、死ぬことよりも静かで、死ぬことよりも長く続く消え方だった。 「……テジュン」 グンソが、初めて自分から口を開いた。声が掠れていた。 「アルトリウスって、本当にあるのか」 「積荷票にはあった」 「地図にはない」 「地図が古いだけかもしれない」 テジュンの声には、確信がなかった。それでも、その言葉にすがるしかなかった。縋る場所がなければ、この暗闇の中で、五人は自分たちが本当に存在しているのかすら疑い始めていた。 どれだけ進んだのか、誰にも分からなかった。 食料は幾度も尽きかけ、そのたびに甲板の誰かがどこかで調達してきた。水も、燃料も、同じだった。積荷票に記された行き先はひとつなのに、船は幾つもの港に立ち寄り、また離れた。地図にない土地、灯継ぎの噂だけが残る土地、名前すら伝わっていない土地。世界は、グンソが思っていたよりも遥かに広かった。故郷から一歩も出たことのなかった頃には、想像もできない広さだった。 船底の暗闇は、時間の感覚を等しく腐らせていく。日数を数えることを、いつからか誰もしなくなった。数えても意味がないほど、長かった。 ただ、機関の音だけが、暗闇の中でずっと鳴り続けていた。何日も、何十日も。 一度、遠くで何かが軋む音がした。ソンミンが刃物の柄を握り直し、全員が息を止めた。 それは船体の継ぎ目が軋んだだけだった。誰も、それを声に出して確かめようとはしなかった。 そんな夜が、何度も繰り返された後―― 甲板の上から、誰かの声が響いた。くぐもって、遠く、それでも確かに聞こえた。 「見えたぞ」 その一言に、五人は同時に顔を上げた。 「灯りだ……街の灯りが、見える」 グンソは、狭い隙間に顔を押し付けた。錆びた金属の縁が頬を切ったが、痛みは感じなかった。 黒く濁った空の下、遠くに、青紫の光が滲んでいた。 一つではない。 無数の灯りが、まるで水面に映る星のように、連なって光っていた。 それは、故郷にあったどの灯りとも違っていた。 故郷の灯りは、暖かく、生活の匂いがした。この灯りは違う。冷たく、静かで、まるで誰かが息を潜めて灯し続けているような、そんな光だった。 ネオンでも、松明でもない。 祈りに似た、灯りだった。 「あれが……」 ドンチョルが息を呑んだ。目の縁が赤く濡れていた。 テジュンが、震える声で言った。 「あれが、アルトリウスか」 誰も答えられなかった。 だが、その光を見た瞬間、グンソの中で何かが冷たく凝固した。 存在を消された自分たちが、それでも進んだ先に、灯りがあった。 名前を失っても、灯りは消えていない。 それが希望なのか、それとも次に消される場所なのか、グンソには判断できなかった。この世界では、優しく見えるものほど、後で牙を剥くことを、もう嫌というほど知っていた。 グンソは、狭い隙間の水たまりに映った自分の顔を見た。 何ヶ月も梳かれていない黒髪が、潮を吸って束になり、頬に張り付いている。無精髭が伸び、頬はこけ、目の下には濃い影が沈んでいた。故郷を出た時の自分とは、もう別人のようだった。 それでも―― グンソは、外套の内側の押し花にそっと触れた。乾いた花弁が、指先でわずかに崩れる感触があった。 「……着いたら」 グンソが呟いた。声に、初めて何かが戻っていた。怒りに似た、何か。 「ここで、また名前を取り戻す」 ソンミンが、初めて小さく笑った。乾いた、痛みを堪えるような笑い方だった。 「取り戻すためにここまで来たんだろう」 「ムジンの分も」 ドンチョルが呟いた。 誰も、それに答えなかった。答える必要はなかった。 船は、青紫の灯りへ向かって進み続けた。 暗い海の向こうに、まだ誰も知らない街が――五人がまだ知らない何かを内側に隠した街が――静かに待っていた。 機関の音が、一段と深く鳴った。 まるで、船そのものが、これから起きることを知っていて、それでも進むしかないと諦めたかのように。
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異世界アイドル☆パラレルパレード NEO AKIBA ARCHIVE LOG R-22 ―航路未定― 押し花の花弁は、何年も前に枯れている。それでも、色だけは失っていなかった。 グンソは、机の上の無窮花を見つめたまま、長いあいだ動かなかった。 船室の外では、港の生活音が続いている。荷を運ぶ台車。水面を擦る係留鎖。遠くで交わされる作業員の声。誰かが笑っている。普通の人間が、普通の夜を過ごしている音だった。 その時、港の奥で警告鐘が鳴った。 短く三度。 グンソの肩が跳ねた。手が、外套の内側へ伸びる。 オルフェンは気づいたが、何も言わなかった。言うより先に、グンソが口を開いた。 「聞くな」 「……はい」 鐘は、もう一度だけ鳴った。三度。間を置いて、三度。 グンソの指が、押し花を握りつぶしそうになっている。 オルフェンは、その手には触れなかった。代わりに机の上から紙を一枚取り、端だけを持って、花を包める形に折った。 「しまうなら、こちらを使ってください」 「触らないのか」 「大切なものに、勝手に触れてはいけないと思いますので」 グンソは、しばらくオルフェンを見ていた。それから自分の手で、押し花を紙の中へ戻した。オルフェンは、包み終わるまで待った。 「北方の音だ」 グンソが言った。 「警告鐘が、ですか」 「三度鳴る。少し間を置いて、また三度」 「同じ音ですか」 「似ているだけだ」 「では、同じではない」 グンソは答えなかった。紙に包まれた無窮花を、外套の内側へしまう。 「北方では、音にも意味がある。誰が聞いたか。どこで鳴ったか。何回鳴ったか。それで、人間の扱いが変わる」 「今の鐘は」 「港の警告だろう」 「北方とは関係ない」 「そうだ」 グンソは、自分の手を見た。 「だから、余計に怖い」 オルフェンは、少しだけ目を伏せた。それから、机の上の記録へ視線を戻す。 「ソナさんの居場所は、分かりません」 「……ああ」 「私も、正確な場所は知りません」 「資料を持っていたのに?」 「資料に書かれているのは、処置の記録と、収容された可能性だけです」 オルフェンは、書類筒から一枚の紙を取り出した。名前の代わりに、番号が並んでいる。 A-12。 B-07。 C-03。 紙の端には、赤い線が引かれていた。 「場所は」 「記載されていません」 「施設名は」 「ありません」 「担当者は」 「ありません」 グンソは、紙を見下ろした。 「それが北方の記録だ」 「はい」 「分からないのではない」 紙の端を、指で叩く。 「分からないようにされている」 オルフェンは、静かに頷いた。 「そうですね」 簡単には、否定しなかった。 グンソが航路図を引き寄せる。アルトリウスから北へ伸びる線。いくつもの国境線。記録の途切れた地域。その先には、広大な白紙が広がっていた。 「北方人民共和国は、建国からおよそ一千年になる」 鉛筆が、地図の上をゆっくり移動する。王朝が変わり、軍が国を握り、革命が起き、旗も支配者も入れ替わった土地を、線がなぞっていく。 「それでも国は残った」 「なぜですか」 「崩れるたびに、別の形になるからだ」 鉛筆が、国境線の上で止まった。 「城壁を壊せば地下へ逃げる。地下を塞げば山へ移る。王を殺せば別の王を立てる。軍を倒せば、記録官が新しい軍を作る」 「国家そのものが、逃げる」 「違う」 グンソは、オルフェンを見た。 「逃げた人間を、国家の中へ戻す」 鉛筆の先が、白紙の手前で止まった。 「この辺りに、村がある」 「地図には」 「載っていない。実在もしていない」 オルフェンは、口を挟まなかった。 「三年前だ。俺たちは、そこで飯を食った」 鉛筆が、白紙をわずかに掻いた。 「屋根があって、井戸があって、子どもが走っていた。年寄りが、南から来たのかと訊いた」 「答えたんですか」 「頷いた。一度だけだ」 グンソは、鉛筆を置いた。 「その晩、村の半分が消えた。家も、井戸も、子どもも。朝には草地に戻っていた」 「……人は」 「ソンミンが気づいて、五人で夜通し走った」 それ以上は言わなかった。 「道路標識が違う。川の流れが違う。村人の言葉も違う。それでも、全部偽物だ」 「見分ける方法は」 グンソは首を振った。 「本当の国境へ着くまでに、三度、国境を越えたと思わされる」 「三度」 「俺たちは二度で気づいた。運が良かっただけだ」 オルフェンは、地図を見つめた。 「北へ向かえば、見つかる可能性が――」 「北へ行けば見つかるわけじゃない」 グンソが遮った。 「北へ向かう道そのものが、罠だ」 オルフェンは、すぐに言葉を止めた。 「……そうですね。すみません。私は、まだ何も知りませんでした」 指先で、地図の白紙部分をなぞる。 「では、北へ行く方法ではなく、北へ行かない方法から考えます」 「どういう意味だ」 「偽の村へ入らない。偽の救助所へ行かない。記録に書かれた道を、そのまま信じない」 「それだけでは、どこにも進めない」 「そうですね」 「進めないぞ」 「では、進めないことを前提に考えます」 「前提にするのか」 「はい」 オルフェンは、少しだけ眉を下げた。 「進めると思い込んで捕まるより、進めない場所を一つずつ避けた方が、たぶん長く生きられます」 グンソは、初めてわずかに口元を緩めた。 「勇者らしくない」 「よく言われます」 「褒めていない」 「それも、よく言われます」 短い間があった。それきり、どちらも笑わなかった。 グンソが、外套の内側へ手を入れる。 「ソナが保護施設へ送られたことだけは、確かだ」 短い沈黙があった。 「それ以外は、何も」 さらに短い沈黙があった。 「今、生きているのかも」 オルフェンは、黙って聞いた。 グンソは、目を伏せた。 「覚えているのは、白い車だけだ」 「車両番号は」 「見えなかった」 「護送員の顔は」 「覚えていない」 「他には」 「……消毒薬の匂い」 オルフェンは、紙へ書き留める。 「それから、床の振動」 「振動」 「舗装された道を走っていなかった。何度も沈んだ。橋を渡った。長い鉄の音がした」 「線路ですか」 グンソは、首を振った。 「音は」 「警告音。三度鳴って、少し間があって、また三度」 オルフェンの筆が止まった。 「さっきの鐘と同じですね」 「似ているだけだ」 「はい」 オルフェンは、断定しなかった。ただ、その横に小さく記録した。 《三音。要確認》 「他には、何か」 返事はなかった。 顔を上げて、オルフェンは初めて、自分が何をしていたのかに気づいた。 紙の上には、匂いと、振動と、音が並んでいる。妹が連れていかれた夜が、そのまま項目になっていた。 オルフェンは、筆を置いた。 「……すみません。訊き方が悪かったです」 「構わない」 「構いません」 言ってから、続きを探した。見つからなかった。 「必ず見つかります、と言いかけました」 「言えばいい」 「言えません」 オルフェンは、自分の手元を見た。指が、わずかに強張っている。 「私は、まだ何も知らないので」 グンソは、答えなかった。 「それだけで、見つけられると思うか」 しばらくして、そう訊いた。 「それだけでは難しいと思います」 「では、何になる」 「探すための入口です」 グンソは、紙を見た。 名前。年齢。番号。消毒薬。白い車。鉄の音。三度の警告。 場所はない。施設名もない。 それでも、何もないわけではなかった。 「お前は、怖くないのか」 「怖いですよ」 オルフェンは、あっさり答えた。 「北方人民共和国へ入ることも。ソナさんを見つけられないことも。途中で捕まることも」 「それでも行くのか」 「怖いから、行かないという理由にはなりません」 紙を、丁寧に畳む。 「怖くないふりをすると、危険な場所を見落としそうなので」 「怖いまま行くのか」 「怖いまま考えます」 「考えて、どうにかなるか」 「どうにもならないこともあります」 オルフェンは、畳んだ紙の角を揃えた。 「でも、どうにかなるかもしれないことまで、最初から諦めたくはありません」 グンソは、押し花の包みを見た。 「管理者を信用しているのか」 「ええ。少なくとも、私が知る限り、この世界で最も信頼できるお方です」 「助けてくれると思うか」 「助けてくださるかどうかは、まだ分かりません」 グンソの目が細くなる。 オルフェンは、すぐに首を振った。 「信用できないという意味ではありません。私たちが、まだ助けを求めるための材料を持っていない、という意味です」 机の上には、名前と、断片的な記憶しかない。場所もない。経路もない。敵の配置も、罠の仕組みも見えていない。 「これで助けを求めに行くのは、少し失礼かもしれません」 「なぜ」 「管理者さんは、分からないものを分からないままにしない方なので」 オルフェンは、記録をまとめた。 「分からないことも、分からないまま持っていきます」 「それでいいのか」 「はい」 「なぜ」 「嘘をついて、分かったふりをするよりは」 紙を胸元へしまう。 「きっと、ずっといいです」 グンソは、しばらく彼を見ていた。 「管理者に会うのか」 「はい」 「何を話す」 「北方人民共和国へ入る方法を相談します」 「許可が出なかったら」 「困ります」 「それだけか」 「かなり困ります」 オルフェンは、真剣な顔で答えた。あまりに素直な返事に、グンソは思わず息を吐いた。 「お前は、本当に勇者なのか」 「私も、時々そう思います」 オルフェンは、扉へ向かった。 「ここで待っていてください」 「戻るのか」 「戻ります」 「約束できるのか」 オルフェンは、扉の前で振り返った。 「約束は、守れる人間だけがするものではありません」 グンソが黙る。 「守ろうとする人間も、していいものだと思います」 扉に手をかけて、一拍だけ、そのまま止まった。 それから開けた。港の冷たい空気が、船室へ流れ込んでくる。 オルフェンは外へ出た。扉が閉じる直前、グンソが呼び止める。 「オルフェン」 「はい」 「もし、見つからなかったら」 オルフェンは、少しだけ考えた。 「見つからなかった時に、考えましょう」 「今は考えないのか」 「今は、見つける方法を考えたいので」 グンソは、何も言わなかった。 オルフェンは、最後にもう一度だけ微笑んだ。そして、港の青紫の灯りの中へ歩いていった。 船室に残されたグンソは、机の上の記録を見つめた。 チェ・ソナ。十三歳。未登録歌姫。保護対象。 その名前の下には、まだ何も書かれていない。 それでも、初めて誰かが、その名前を番号へ戻さずに記録した。 グンソは、無窮花の包みを、紙の上へ置いた。 北方人民共和国。一千年を生き延びた国家。何度崩されても形を変え、どの国にも、どの軍にも、完全には倒されなかった国。 そのどこかに、妹がいる。 地図はない。道もない。名前と、消毒薬の匂いと、三度鳴る警告音だけが残っている。 港の外で、警告鐘が鳴った。 短く三度。 グンソは顔を上げた。 今度は、逃げなかった。
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異世界アイドル☆パラレルパレード NEO AKIBA ARCHIVE LOG R-24 ―再構成― 時間が進んでも、船室の中は暗かった。 天蓋の向こうに朝はない。青紫の光が舷窓の外でゆっくりと明滅している。 船を岸につなぐ係留鎖が軋む。一度。二度。少し間を置いて、また一度。 まるで、船そのものが呼吸をしているようだった。 オルフェンは、机の上に三枚の紙を並べた。 「やりましょう」 「……朝から元気だな」 簡易ベッドに座ったグンソが、片眉を上げる。 「元気なわけではありません。腹を括っただけです」 オルフェンは紙を指で叩いた。 「ソナさんの移送時期。白い車の経路。三音が鳴った場所。この三つが揃わない限り、管理者さんは北方への相談に乗ってくれません」 「昨日も聞いた」 「昨日は聞いただけです。今日は取りに行きます」 オルフェンは、一枚目の紙を引き寄せた。 「まずは、時期から」 「なぜだ」 「一番、記憶が壊れていなさそうだからです」 グンソは鼻を鳴らした。 「壊れていない記憶なんて、あるのか」 「あります。壊れ方が浅いものが」 オルフェンは紙の中央に線を引いた。左に「連行される前」、右に「連行された後」。 「正確な日付はいりません。季節だけでも」 「雪はなかった」 「寒くは?」 「なかった」 「雨は」 「降っていない」 「昼か、夜か」 グンソの指が、膝の上でぴくりと動いた。 「夜だ」 「周りは明るかった?」 「白かった」 「車が?」 「違う」 グンソは目を閉じた。 「壁だ。壁が、白かった」 オルフェンの筆が止まる。 「建物の壁ですか」 「分からない」 「大きさは」 「大きかった」 「扉は」 「二つ」 「白い扉と、黒い扉――」 グンソが、勢いよく顔を上げた。 「なぜ知っている」 「昨夜、そう聞きました」 「……そうだったか」 「ソナさんは、その扉から出てきていない」 オルフェンは、確認するように続けた。 「車の後ろから、でしたね」 グンソの表情が、初めてはっきりと歪んだ。 「なぜ、そこまで覚えている」 「覚えているのは、あなたです。私は書いているだけです」 オルフェンは紙の上で、白い壁の位置を少しだけずらして書き直した。 白い車。白い壁。黒い扉。 「周囲に人は?」 「二人」 「護送員?」 「顔は覚えていない」 「声は」 グンソが、答えを止めた。 沈黙が長い。 ――サー……。 紙の上に、微かな音が乗った。 いや、乗ったように聞こえた。 空耳だと思った。 けれど、もう一度。 ――サー……。 今度は、はっきりと聞こえた。 音源は、通信機ではない。 紙そのものから聞こえている。 「……今、何か」 「気のせいだ」 グンソの声が、わずかに硬い。 オルフェンは紙を持ち上げ、裏返した。何もない。ただの紙だ。 そっと、机に戻す。 「続けましょう」 「……ああ」 グンソは、通信機のある壁際を、一度だけ見た。 そして、目を逸らした。 「声は」 「聞いていない」 「聞こえなかった、ではなく?」 「聞いていない」 グンソは、明確に言い直した。 「聞かないようにしていた」 「なぜですか」 「聞けば、覚えてしまう」 「覚えることの、何がいけないんですか」 グンソは答えなかった。 代わりに、彼の視線が、また通信機へ向いた。 オルフェンもつられて見る。 電源ランプは、消えている。 けれど―― ――ザザ、ザザ、ザ――。 砂粒を撒いたような音が、壁の向こうから滲み出てきた。 オルフェンの背筋を、冷たいものが這い上がる。 これは、遠くから届く音ではない。 すぐそこ、壁一枚の向こうで、誰かがざらざらとした布を擦り合わせているような、そういう近さの音だった。 「グンソさん」 「動くな」 グンソが低く言った。 「音がしても、動くな。見るな。数えるな」 「数える?」 言った瞬間、オルフェンは、自分がすでに数えていることに気づいた。 一つ。 二つ。 ――ノイズが止まった。 三つ目を数える前に。 船室が、耳が痛くなるほどの静寂に包まれた。 係留鎖の音すら、聞こえない。 オルフェンは、自分の心臓の音だけを聞いていた。 やけに大きく、やけに速い。 「……止まりましたね」 「止まったんじゃない」 グンソの声は、囁きより小さかった。 「待ってるんだ」 「何を」 「三つ目を、誰が数えるか」 その言葉が終わるより早く、通信機のランプが、真っ赤に灯った。 電源など、入っていないのに。 「――!」 オルフェンが振り向くのと、グンソが飛びついて通信機を掴むのは、ほぼ同時だった。 「止まれ! 消えろ!」 グンソが叫ぶ。素手で殴りつけるように機体を叩く。 火花も、電流も、何も走らない。 それでも、ランプは消えない。 ノイズが、悲鳴のように膨れ上がった。 ――ザザザザザザザ――。 その中に、声が混ざる。 複数。 いや、一つの声が、何重にも折り重なって聞こえているだけかもしれない。 ……しろ。 ……戻すな。 ……記録者。 ……見つけた。 最後の一言だけ、はっきりと、船室の空気を震わせて響いた。 オルフェンの手足から、力が抜けかけた。 恐怖ではない。 もっと生理的な、“見られている”という感覚だった。 「グンソさん、これは――」 「知らない!」 グンソが怒鳴った。振り返った顔は、汗と、それだけではない何かで濡れていた。 「知らないと言っている。知らない、知らない――」 繰り返すたびに、声が小さくなっていく。 まるで、自分に言い聞かせて、記憶に蓋をしようとしているようだった。 甲板の上を、何かが駆け抜ける音がした。 一度。 二度。 ――そして、三度目。 その足音が、船室の扉の真ん前で、ぴたりと止まった。 オルフェンとグンソは、同時に扉を見た。 ノブが、ゆっくりと回る。 誰もいないはずの、廊下から。 「……開けるな」 グンソが、震える声で言った。 オルフェンは、答えられなかった。 ノブは、回り切ったところで――止まった。 扉は、開かなかった。 通信機のランプが、ふっと消える。 ノイズも、声も、一瞬で消えた。 まるで、最初から何もなかったかのように。 船室に、係留鎖の音が戻ってくる。 一度。 二度。 三度。 三つ目を数えたのが自分だと気づいたのは、音が消えてからだった。 グンソは、その場に崩れるように座り込んだ。 肩で息をしている。 「……グンソさん」 「悪い」 「なぜ、謝るんですか」 「巻き込んだ」 グンソは、床を見たまま言った。 「お前を、あっち側に近づけた」 「あっち側とは」 グンソは床を見たまま、震える指で、自分のこめかみを叩いた。 「ここに、何かが埋まってる」 「記憶、ではなく?」 「記憶なら、俺のものだ」 グンソは、初めて、まっすぐにオルフェンを見た。 「これは、俺のものじゃない」 その時だった。 机の上、三枚の紙のうち一枚だけが、風もないのに、ひとりでにめくれ上がった。 三音の警告音が鳴った場所を記す紙だった。 裏面に、見覚えのない筆跡で、一行だけ。 聞いた者を、記録者とする。 インクは、まだ乾いていないように見えた。 指で触れれば、滲むのではないかと思うほどに。 オルフェンは、触れなかった。 「……いつ、書かれたんでしょう」 返事はなかった。 オルフェンも、それ以上は訊けなかった。 紙にも、何も書けなかった。 船室の外で、係留鎖が鳴る。 今度は、数えなかった。 やがて、オルフェンが口を開いた。 「一つだけ、分かったことがあります」 「……何だ」 「今日の調査対象は、時期でも、車でも、音でもありませんでした」 オルフェンは、裏返った紙をそっと重ねた。 「あなたです、グンソさん」 グンソは、何も言わなかった。 否定も、しなかった。
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異世界アイドル☆パラレルパレード NEO AKIBA ARCHIVE LOG R-13 現在から四年前。 ―保護対象― その夜、管理者の部屋の扉が三度鳴った。 いつもの訪問なら、オルフェンは二度しか叩かない。 管理者は机の上の書類から目を上げた。 「入れ」 扉が開く。 オルフェンは白い外套を脱がずに立っていた。手には、黒い革の書類筒を抱えている。 「遅くにすみません、管理者さん」 「何だ」 「少し、見ていただきたいものがあります」 オルフェンは部屋へ入り、机の前まで歩いた。 書類筒の封を切る。 中から出てきたのは、数枚の名簿、折り畳まれた地図、赤い印の押された記録だった。 紙の端は何度も折られ、何枚かには乾いた泥が付いている。 管理者は一枚目を手に取った。 「どこから持ってきた」 「内部にいる方々からです」 「抵抗組織か」 「正式な名前は、聞いていません」 「なぜ、お前に渡した」 オルフェンは一枚の紙を机へ置いた。 救援要請。 収容区画、北部監視都市。 候補生、百二十七名。 処刑予定、三十一名。 家族との連絡、全面禁止。 外部協力者、確認出来ず。 管理者は紙を読み終えた。 「議会へ提出したか」 「はい」 「返答は」 「軍事介入は承認出来ない、と」 「理由は」 「全面戦争になる可能性がある。国境を越えれば、アルトリウスが攻撃対象になる。救助対象の人数も、正確には確認出来ない」 オルフェンは、そこで一度だけ息を止めた。 「だから、何もしないそうです」 管理者は書類を机へ置いた。 「お前は、何をしたい」 「相談に来ただけです」 「この資料を持って来て、相談だけか」 オルフェンは、いつものように笑おうとした。 けれど、口元は動かなかった。 「はい。私は、戦争を始めたいわけではありません」 管理者は机の上を片付け、空いた場所へ大きな地図を広げた。 その上に、小さな木製の駒を並べる。 黒い兵士。 銀色の観測塔。 青銀の騎士。 白い人形。 「どこだ」 「北部監視都市です」 オルフェンが地図の一点を指す。 管理者は黒い駒を城壁の前へ置いた。 「巡回兵」 次に、細長い魔導銃の駒を並べる。 「射手。正門には重装部隊」 オルフェンは青銀の騎士を正門へ動かした。 「では、ここから入ります」 「正門だ」 「分かりやすいので……」 いつもの軽さが、途中で消えた。 管理者は騎士を指で押し戻した。 「三分で囲まれる」 「では、地下水路は?」 「封鎖されている」 「こちらは?」 「崩れる」 「こちらは?」 「落とし穴がある」 オルフェンは、地図を見つめた。 「ずいぶん歓迎されていますね」 「歓迎ではない」 黒い駒が増えていく。 青銀の騎士は、逃げ道を失っていった。 オルフェンは書類へ手を伸ばす。 一枚目。 二枚目。 赤い印の押された三枚目。 保護対象者名簿。 名前の代わりに、番号が並んでいる。 A-12。 B-07。 C-03。 その中に、一枚だけ詳細な記録が挟まっていた。 A-12。八歳。 母親の呼称に強く反応。 夜間音声刺激、実施。 02:13。母親の音声記録を再生。 対象、三度発声。 「おかあさん」 発声器官の使用を停止。 音声記録の再生を禁止。 記憶刺激を遮断。 情緒安定処置、継続。 治療終了。 オルフェンの指が、紙の上で止まった。 「この“治療終了”は、何ですか?」 管理者は答えなかった。 オルフェンは別の紙をめくった。 死亡者一覧。 急性衰弱。 治療反応なし。 観測終了。 さらに裏面には、死亡後の処置が記録されていた。 神経組織、保存。 発声器官、摘出。 魔力反応部位、分離。 残余組織、廃棄。 オルフェンの手から、青銀の騎士駒が落ちた。 木の駒が地図の上を転がり、城壁の手前で止まる。 「治療終了というのは……」 「死亡だ」 「死亡と書かないんですか?」 声が、少し低くなっていた。 「死亡と書けば、誰かが責任を負う」 オルフェンはA-12の記録へ目を戻した。 「この子は、母親の声を聞いただけで治療が必要だったんですか?」 「母親を呼ぶ声が残っていると、命令に反応しなくなる」 「だから、声を消した」 「そうだ」 管理者は、別の欄を指で示した。 「発声器官の使用停止。記憶刺激の遮断。音声記録の再生禁止」 机の端には、本人同意書が添えられていた。 署名欄には文字ではなく、小さな指紋が押されている。 保護者欄には、すでに死亡した母親の指紋があった。 「この子は、同意したんですか?」 「指紋がある」 「文字も書けない子供が?」 「制度上は、同意したことになっている」 オルフェンの指が、紙の端をさらに強く押さえた。 「この指紋は、母親のものですね」 「ああ」 「亡くなった後に、同意したことにされた」 管理者は答えなかった。 オルフェンは白い人形を一つ取り上げた。 人形の裏側には、名前ではなくA-12と刻まれている。 それを収容区画へ置く。 「この子は、兵士になる前に、子供であることを奪われたんですね」 声は静かだった。 その静けさの奥に、抑え込まれた怒りがあった。 管理者は、家族への返却申請書を机へ置いた。 申請却下。 理由。 帰属意識の再形成により、適応率が低下する可能性。 オルフェンはその一文を読んだ。 「帰る場所があると、兵器になれないんですか?」 「帰る場所がある人間は、死ぬ命令にも疑問を持つ」 「だから、帰れなくする」 「ああ」 オルフェンは、白い人形を見つめた。 「議会は動かない」 「ああ」 「管理局も?」 「ああ」 「軍勢は?」 「ない」 「補給は?」 「ない」 オルフェンは、地図の上に並ぶ黒い駒を見た。 「それでも、この子たちは待っています」 「お前一人で行っても、全員は救えない」 「全員を救えないから、誰も救わないんですか?」 管理者は答えなかった。 オルフェンは白い人形を、収容区画から外へ向かう道へ動かした。 「この国は、壊さなければ止まりません」 「止めた後の責任はどうする」 「私が持ちます」 「お前一人でか」 「一人ではありません」 オルフェンは管理者を見た。 「ここに、管理者さんがいますので」 短い沈黙が落ちた。 オルフェンは視線を逸らし、青銀の騎士を地図の端へ戻した。 アルトリウスの側へ。 「今回は、議会の判断を待つしかありませんね」 管理者が顔を上げる。 「待つのか」 「はい」 オルフェンは書類をまとめた。 「明日は水車の修理を手伝う約束がありますので」 「そうか」 「それに、私一人で国境を越えるのは無理でしょう」 「珍しく分かっているな」 「管理者さんに、何度も言われていますから」 オルフェンは立ち上がった。 「遅くまでありがとうございました、管理者さん」 「何の礼だ」 「作戦会議に付き合ってくださったので」 「作戦ではない」 「そうでしたね」 「おやすみなさい」 「おやすみ」 オルフェンは扉へ向かった。 その直前、机の上を振り返る。 青銀の騎士は、アルトリウスの側へ戻っている。 A-12だけが、収容区画の前に残っていた。 オルフェンは何も言わず、部屋を出ていった。 扉が閉じる。 青紫の灯りが、保護対象者名簿を照らしていた。
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異世界アイドル☆パラレルパレード NEO AKIBA OBSERVATION LOG 31 ― 終わらなかった祈り ― 小説の断片が発見された。 決まった時間になると、ネオアキバは静かになる。 第五層を巡る運搬列車は速度を落とし、市場の呼び声は途絶える。工房の槌音は止み、地下都市を満たしていた喧騒は少しずつ遠ざかっていく。誰も呼ばない。誰も命じない。それでも人々は歩き出す。祖父がそうしたように。その祖父がそうしたように。さらに遠い昔の誰かがそうしたように。ただ、それが当たり前だった。 雨は降り続いている。 古い鉄骨を叩く音。遠くで唸り続ける観測炉。人々は広場へ向かう。 そして。 次に気付いた時には、人々は広場に立っていた。 雨は降っている。観測炉は唸っている。広場を埋める人々も変わらない。いつも通りだった。そのはずだった。 それなのに。 誰も帰れなかった。 市場へ戻らなければならない者がいた。工房へ戻らなければならない者がいた。家族が待っている者もいた。それでも、誰一人として足を動かせなかった。 長い時間が過ぎる。 誰も話さない。誰も顔を見合わせない。ただ静かに立ち尽くしていた。やがて一人が歩き出す。また一人。さらに一人。人々は静かに広場を後にしていく。 その時だった。 気付けば頬を濡らしていた。 最初に涙を流した者が誰だったのかは分からない。気付けば多くの者が、同じように頬を濡らしていた。 翌日、市場は開いた。工房は動いた。運搬列車は第五層を巡った。 誰も昨日の話をしなかった。 雨は降り続いていた。
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異世界アイドル☆パラレルパレード NEO AKIBA ARCHIVE LOG R-15 ―ソナ― 面会の許可が下りたのは、申請から四か月目だった。 一度目は該当者不明。二度目は収容記録の不備。三度目は、必要性が認められないとして却下された。 ソナがどこにいるのか、グンソには知らされていなかった。 今回、許可を通したのは施設内の協力者だった。書類を差し替え、面会理由を別の収容者の親族訪問へ紛れ込ませたらしい。 誰なのか、グンソは知らない。知れば、その人間まで消される。 施設は病院に似ていた。白い壁、狭い窓、整えられた植木。 だが、ここは病院ではない。 人間を分類し、記録し、必要な形へ整える場所だった。 面会室の前で、記録官が言った。 「武器は」 「ない」 「通信具は」 「預けた」 「名前で呼ぶことも認められません。会話は記録されます」 グンソは記録官を見た。 「妹だ」 「関係を聞いています」 「妹だ」 扉が開いた。 ソナは、面会室の中央に座っていた。 白い服。整えられた髪。記憶の中の少女より、ずっと細くなっている。崩れないよう、椅子へ身体を預けていた。 グンソが入ると、ソナはゆっくり顔を上げた。 「……兄さん?」 声は細かった。 グンソは、ようやく言葉を絞り出した。 「……背、伸びたな」 ソナはわずかに目を瞬かせた。 「……うん。昔は、兄さんの肩にも届かなかったのにね」 「そうだったな」 二人は机を挟んで向かい合った。 「久しぶりだな」 「……うん」 昔なら、ソナは沈黙を嫌がった。兄の隣で、何時間でも話していた。 今は、話しても許される内容を探しているようだった。 「ずっと探していた」 「……そう」 「場所を教えてもらえなかった。面会も何度も申請した」 「……そうなんだ」 感情がないのではない。感情が、言葉になる前に止められている。 グンソは監視窓へ目を向けた。 「ここでは、よくしてもらっているか」 ソナは答えなかった。黒い窓を見て、ほんの少し首を横に振る。 グンソが手を伸ばしかけると、ソナの身体が反射的に引いた。 手が、空中で止まる。 「……ごめん」 「謝るな」 「でも……」 「謝るな」 ソナは俯き、かすかに笑った。 「兄さん、変わらないね」 「お前は変わった」 言ってから、グンソは後悔した。 その笑顔は、誰かに教えられたものを再現しているようだった。 グンソは、あの日を思い出した。 床へ押さえつけられた自分。白い識別帯を巻かれるソナ。 「兄さん! 帰って!」 自分を拒絶したのではない。兄まで奪われることを恐れていたのだ。 グンソは、現在の面会室で言った。 「家に帰ろう」 「……帰れないよ」 「帰れる。俺が連れて帰る」 「兄さんには……無理」 「無理でも行く」 「ここは、そういう場所じゃない」 「なら、俺が壊す」 その瞬間、ソナの瞳に恐怖が浮かんだ。 自分へ向けられたものではない。 グンソまで、この場所に奪われることへの恐怖だった。 「兄さん……帰って」 「嫌だ」 「帰って……お願い」 扉の外で鍵が回った。 刑務官が入り、ソナの腕を掴む。 「面会を終了します」 「まだ時間がある」 「規定です」 グンソは立ち上がった。 「触るな」 監視窓の向こうで、複数の気配が動いた。 ソナの声が震える。 「兄さん、帰って!」 もう二度と会えないかもしれない。名前を呼ぶことさえ、ここでは記録される。 それでも、グンソは声に出した。 「ソナ」 記録官が顔を上げる。 ソナの目が揺れた。 「帰って、兄さん……!」 刑務官がソナを引いていく。グンソは手を伸ばした。 だが、ソナは首を振った。 扉が閉じる。 最後まで、ソナはグンソを見ていた。 唇が動く。 声は届かなかった。 それでも、グンソには分かった。 あの日と同じだった。 帰って、と言っている。 自分を守ろうとしている。 ソナの姿が、扉の向こうへ消えた。 グンソは動けなかった。 ようやく会えたのに、交わせた言葉は昔の半分にも満たなかった。 ただ、消えなかった妹の名前だけが、胸の奥で繰り返されていた。 ソナ。
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異世界アイドル☆パラレルパレード NEO AKIBA ARCHIVE LOG R-16 ―完全包囲網― 面会室を出た時点で、グンソは尾行されていることに気づいていた。施設の出口。階段の踊り場。交差路の向こう。一定の距離を保った靴音が、近づきすぎず、離れすぎずについてくる。 ソナと面会した人間が、何も追われずに帰れるはずがない。 グンソは歩調を変えなかった。逃げるためではなく、仲間のいる場所へ戻るために歩いていた。自分が尾を引き受けたまま戻らなければ、特高は周辺の家を調べ、店主を脅し、関係のない人間まで連れていく。だから戻る。それが、面会を許された時点で決まっていた最後の手順だった。 南側の旧居住区。青紫の灯が途切れた細い路地の先に、古い借家がある。表札はなく、窓には布が掛かり、玄関灯も消えていた。 グンソは扉を二度、短く叩いた。間を置いて、もう一度。 内側から鍵が外れた。 扉を開けたドンチョルが、グンソを見た。 「遅かったな」 「見られている」 「知っている」 家の中には、ソンミン、ヘジュ、テジュンがいた。机は片付けられ、壁に貼られていた地図は外されている。床には小さな鞄が並び、棚の奥では書類を燃やす炉が赤くなっていた。 ここはもう、普段のアジトではない。 すでに、終わりの形へ変わっていた。 「全員いるのか」 グンソが尋ねる。 「必要な人間はな」 ヘジュの横に、見慣れない男が立っていた。背が高く、短く刈った髪。眉からこめかみへ伸びる古い傷。壁にもたれず、両足を床へ置き、いつでも動ける姿勢を崩していない。 「誰だ」 「カン・ムジン。旧国家軍の近接戦闘教導師範だ」 ムジンはグンソを一度見ただけで、玄関へ視線を戻した。握手もしなければ、挨拶もしない。 「外に、少なくとも八人。裏にもいる」 ドンチョルが床板の下から銃を取り出した。 「早いな」 「早くない。面会が終わった時から、向こうはこの家を囲んでいる」 ソンミンは小さな金属筒をテジュンへ渡した。テジュンが筒の中から記録片を取り出し、炉へ投げ込む。青い炎が一瞬だけ揺れ、記録片の表面に浮かんでいた文字が消えていった。 「面会申請の経路は消した。施設内部の協力者へ届く連絡も切った。ここを調べられても、次の拠点へ繋がるものは残らない」 「なら、俺も残る」 グンソが言った。 ヘジュが小さく笑う。 「それを言うと思った」 「六人いれば戦える」 「戦うために集まったんじゃない」 ソンミンが答えた。 「お前を通すために集まった」 その時、外で靴音が止まった。 玄関前だけではない。裏口にも、人の気配が散っていく。家の周囲を囲むように、複数の足音が位置を変えていた。 通りの灯が、端から順番に消えていく。 逃げ道を塞ぐためだ。 最後に、玄関前の灯だけが残った。青紫の光が窓布の隙間から差し込み、部屋の中にいる全員の顔を薄く照らしていた。 扉の向こうから、低い声が響く。 「中にいる者へ告げる。この家は、国家転覆に関わる未登録組織の活動拠点として確認された。抵抗しなければ、処分手続きは簡略化する」 ヘジュが銃を構えた。 「処分手続きって何だ」 扉の向こうの男は、感情のない声で答えた。 「名前が消えるだけだ」 短い沈黙が落ちる。 「死んだことにもならない。記録上、最初から存在しなかったことになる」 ソンミンがグンソへ視線を向けた。その目に、恐怖はなかった。自分たちがここで何をするのかを、ずっと前から決めていた人間の目だった。 「始めるぞ」 「俺も残る」 「お前は次へ行く」 「嫌だ」 「これは命令だ」 「嫌だ」 玄関の向こうで、金属を装填する音が重なった。 ムジンが一歩、廊下へ出る。彼はグンソを見ず、裏口へ続く暗い通路へ目を向けた。 「グンソ」 「何だ」 「お前は、まだ使える」 「仲間を置いて逃げろと言うのか」 「違う」 ムジンは、暗い通路の先を見たまま言った。 「俺たちが、お前を通す」 直後、玄関の向こうで小さな金属音がした。 次の瞬間、家全体を揺るがす轟音が響いた。 玄関が吹き飛ぶ。 白い煙と破片が家の中へ流れ込み、青紫の灯が激しく揺れた。ヘジュが銃を抜き、ドンチョルが窓際へ走る。テジュンは炉の蓋を閉じ、ソンミンがグンソの肩を掴んだ。 煙の向こうから、特高警察たちが踏み込んでくる。 その先頭に立つ男の影が、炎の向こうでゆっくりと姿を現した。 ソンミンが、グンソの肩を強く押す。 「行け」 グンソは動かなかった。 「行け!」 完全に閉じられた夜の中で、銃声が夜を引き裂いた。
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異世界アイドル☆パラレルパレード NEO AKIBA ARCHIVE LOG R-14 ―無窮花― 南港の古い荷役区画には、使われなくなった船が係留されていた。 青紫の時刻灯が水面に揺れ、巨大な透明天蓋の曲面が遠い空の歪みとして見えている。天蓋の外では黒い雲が渦を巻いていたが、港の内側に雨はなかった。 オルフェンは、管理者の机に置かれていた資料の写しを手に、錆びた船の前で足を止めた。 船体には、水質調査用だった刻印が残っている。現在は登録を失い、港湾台帳からも消された船だった。 その脇に、一人の男が立っていた。 長い外套。痩せた身体。伸びた黒髪。目の下には、眠っていない人間の色がある。 「管理局か」 「違います」 「証明しろ」 オルフェンは剣へ触れず、一枚の記録を甲板へ置いた。 A-12。八歳。 音声刺激、実施。 情緒安定処置、継続。 治療終了。 男の指が止まった。 「……どこで、それを」 「この街へ持ち込まれました」 「誰から?」 「それは、まだ答えられません」 男は記録を見下ろし、船内へ続く階段を指差した。 「入れ」 船室は狭く、窓には厚い布が掛けられていた。古い机の上には乾いたパンと水差し、それから一枚の花が置かれている。 赤紫色の押し花だった。 「綺麗ですね」 男が花を隠した。 「触るな。故郷の花だ。無窮花。ムグンファと呼ぶ」 「妹さんが?」 男の視線が上がった。 「なぜ妹を知っている」 オルフェンは別の紙を机へ置いた。 そこには、チェ・ソナという名前が記されていた。 男の呼吸が一度だけ浅くなる。 「チェ・グンソさんですね」 「その名前は使うな」 「分かりました」 「向こうでは、名前を使わない。番号で呼ぶ。番号で記録し、番号で処置し、番号で死なせる」 グンソは椅子へ腰を下ろした。 「妹は、まだ生きている」 「どこにいますか」 「北部観測都市。保護施設の地下二階」 「保護施設」 「そう呼ばれているだけだ」 グンソは花へ目を落とした。 「家族から離し、適性を調べ、情緒を整え、国家に役立つ人間へ育てる場所だ」 「実際には?」 「家族を忘れるまで、家族の声を聞かせる」 オルフェンは黙った。 「泣けば情緒不安定。怒れば攻撃性。帰りたいと言えば依存症。何も言わなくなれば、安定したと記録される」 「ソナさんは、何歳ですか」 「十三」 その数字だけ、グンソの声が低くなった。 「まだ子供です」 「向こうの記録では、保護対象であり、将来資源だ」 「会うことは?」 「許可が必要だ。面会室には記録官がいる。触れることは禁止。名前で呼ぶことも禁止」 「それでも会えたんですね」 「一度だけ」 グンソは押し花を指先でなぞった。 「妹は、私を兄と呼ばなかった。番号を呼んだ。私が施設で使っていた番号を」 船の外で、係留鎖が水面に擦れた。 「私は工作船の船底に隠れて出てきた。船荷は浄化用鉱石。船員名簿に、私の名前はない」 グンソの指が花の端を押さえる。 「検査官がすぐそばまで来た。靴音が止まった。あと少し動けば、花を潰していた」 「その花を?」 「妹が渡した」 グンソは目を閉じた。 「帰ってきて、と言った」 その声だけが揺れた。 「だから帰れなかった」 オルフェンは彼の向かいへ座った。 「故郷が嫌いなんですか」 「違う。憎んでいるのは、国だ」 グンソは花を見た。 「故郷には妹がいる。家がある。歩いた道も、花もある。だから簡単に捨てられない」 「では、戻りたい?」 「戻れば、妹の隣へ立てる」 「捕まります」 「分かっている」 「殺されるかもしれません」 「それも分かっている」 「私が手を貸しても、妹さんを必ず救えるとは言えません」 グンソはオルフェンを見た。 「あなたは、勇者だろう」 「はい」 「勇者なら、救えると言え」 「言えません」 オルフェンは穏やかに続けた。 「ソナさんが、以前の自分に戻れるとも言えません。私が行けば、状況が悪くなる可能性もあります」 「では、なぜ来た」 「見捨てる理由にはならないからです」 「妹が、もう私を兄だと思っていなくても?」 「思い出せなくても構いません」 オルフェンは、机の上の無窮花を見た。 「あなたが、妹さんを妹だと思っている限り」 グンソは答えなかった。 船室の壁には、北部観測都市へ向かう古い航路図が貼られていた。途中には検問所と軍用橋が並んでいる。 グンソは地図の一点を指で叩いた。 「ここから先は、戻れない」 「帰れない場所なら」 オルフェンは立ち上がった。 「帰れる場所を作ります」 グンソは無窮花を見た。 押し花の花弁は、何年も前に枯れている。 それでも、色だけは失っていなかった。
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異世界アイドル☆パラレルパレード NEO AKIBA ARCHIVE LOG R-12 ―青い封書― 翌朝。診療所の窓に、巨大な透明天蓋の曲面が淡く歪んで見えていた。青紫の灯が街路を照らし、水車の回る音と運河を進む小舟の音が静かに重なっている。診療所の前を薬売りの荷車が通り、向かいの食堂からは焼いたパンと温めたスープの香りが流れていた。 アルトリウスは、昨日と変わらない朝を迎えていた。 オルフェンは、診療所の長椅子に並んだ六人を見ていた。巡水隊の隊長はまだ眠っており、負傷した隊員の脚には包帯が巻かれている。熱を出していた男の額には冷却布が置かれ、エレナは一人ずつの記録を確認していた。 「全員、今日中には帰れそうです」 エレナが記録板を閉じると、オルフェンはようやく肩の力を抜いた。 「よかったです^^」 「あなたは帰らないんですか」 「私はもう帰っていますよ」 「ここを家にしないでください。診療所は家ではありません」 エレナに注意され、オルフェンは長椅子に並ぶ六人へ目を向けた。 「でも、皆さんがいますので……^^;」 「あなたは、誰かがいる場所ならどこでも家にするんですね」 「そうかもしれません^^」 オルフェンが長椅子の端へ腰掛ける。右手には、前日の救助で出来た傷が残っていた。指の付け根が裂け、石壁と剣の柄で擦れた皮膚には薄く血が滲んでいる。 それに気付いたエレナが、オルフェンの前へ手を差し出した。 「右手を見せてください」 「これは大したことありません」 「大したことがあるかどうかは、診る側が決めます」 「では、お願いします^^;」 オルフェンが素直に右手を差し出す。エレナは傷口を洗い、薬を塗ってから、新しい包帯をゆっくりと巻いた。その手つきは、口調よりずっと柔らかかった。 「昨日、あれだけ水圧を受けて、よく骨を痛めませんでしたね」 「皆さんが先に出られましたので」 「質問に答えていません」 「運がよかったんですよ^^;」 「あなたは何でも運で済ませますね」 エレナは指が動くことを確かめてから、包帯の端を結んだ。 「きつくありませんか?」 「大丈夫です」 「本当に?」 「はい。ありがとうございます^^」 「痛みが増したら、すぐに戻ってきてください。我慢して悪化させたら怒ります」 「もう少し怒っているように見えますが……^^;」 エレナは一度だけ手を止めた。 「心配しているんです」 そう言ってから、何事もなかったように薬箱を閉じる。 「今日は剣を振らないでください。水車の修理も禁止です」 「分かりました」 「返事だけで終わらせないでくださいね」 「気をつけます^^;」 そこへ、入口から子供の声がした。 「オルフェンさん!」 振り向くと、昨日救助された隊員の娘が立っていた。小さな手には、欠けた青い灯器が握られている。 「これ、お父さんのです。返してくれてありがとう」 「私が返したわけではありませんよ」 オルフェンは少女の前へしゃがみ込み、灯器を受け取った。表面には傷があり、灯芯も少し曲がっている。彼は腰の道具袋から布を取り出し、灯器についた泥を丁寧に拭った。 「この灯器が、お父さんを帰り道まで照らしたんです」 「でも、オルフェンさんが行かなかったら、お父さん帰ってこなかったよ」 少女がまっすぐに言う。オルフェンは少し困ったように笑い、灯器を両手で返した。 「では、次はお父さんがあなたを照らす番ですね^^」 少女は嬉しそうに笑った。 「オルフェンさんは、どこへ行くの?」 「少し中央へ行く予定です」 「冒険?」 「お仕事です」 「勇者なのに?」 「勇者もお仕事をしますよ」 少女は灯器を胸へ抱えた。 「中央にも水路はある?」 「あります。アルトリウスとは形が違うそうですよ」 「見てきて!」 「よく見てきます^^」 少女が父親の眠る長椅子へ駆け寄る。オルフェンはその様子を見届けてから立ち上がった。 診療所の外では、街がいつも通り動いていた。水車が回り、運河を小舟が進み、石橋の上を荷車が渡っていく。水売りの老人が配給所へ向かう樽を積み、仕立て屋の前では職人が布を広げ、通りの隅では子供達が木片を使って小さな船を作っていた。 通りの向こうから、水売りの老人が声を飛ばした。 「オルフェン! 今日も中央からの手紙か?」 「まだ一通だけです」 「なら燃やしてしまえ!」 「それは少し乱暴ですね^^;」 「お前は乱暴さが足りん!」 オルフェンが足を止める。 「そうでしょうか」 「そうだ。勇者なら、もっと怒れ!」 「怒るとお腹が空きますので」 「そこか!」 周囲から笑い声が起こった。オルフェンは老人へ軽く手を振り、そのまま街長の執務室へ向かった。 途中、水車の前で足を止める。昨日の揺れで木製の歯車が少しずれており、職人が工具を広げていた。 オルフェンが近付くと、職人は手を止めずに言った。 「触るなよ」 「今日は手を使えないので、見ているだけです^^;」 「エレナに言われたな」 「はい」 「なら座っていろ」 「見ているだけなら大丈夫です」 「それが一番信用できん」 オルフェンは水車の軸を眺め、歯車の噛み合わせを確認した。 「右側の木楔が少し浮いています」 「分かっている」 「失礼しました」 職人は木楔を見直すと、オルフェンを手招きした。 「いや、そこを押さえてくれ。手は使うなよ」 「それは手を使うのでは?」 「体で押さえろ」 オルフェンは言われた通り、水車の支柱へ肩を当てた。職人が木楔を打ち込み、歯車がゆっくりと噛み合っていく。 「回すぞ」 「はい」 水が流れ、水車が動き出した。軋んでいた音が整い、規則正しい回転音へ変わる。 職人が満足そうに頷いた。 「助かった」 「私は立っていただけです」 「立っているだけで役に立つ奴が、世の中に何人いると思う?」 「分かりません」 「だからお前は困るんだ」 職人は笑いながら、オルフェンの背中を軽く叩いた。 「中央へ行くんだろ。向こうで変なものを食わされるなよ」 「前回は飲み物が冷めていました」 「そこを気にするのか」 「大切なことです^^」 街長の執務室には、昨日の青い封書が置かれていた。封蝋には観測管理局中央の紋章が押されている。街長は封書を開き、内容を読み終えてからオルフェンへ差し出した。 「中央から、合同調査の申し入れだ。水質、医療記録、浄化設備、取水路の構造。中央の観測設備も使えるらしい」 「それは助かりますね」 「代表者会談も同時に行う。お前に来てほしいそうだ」 オルフェンは自分を指した。 「私ですか」 「水都の代表として、最も知られているからな」 「街長の方が、ずっと詳しいと思いますが」 「私は中央で褒められても、街の水車を直せん」 「私も直せませんよ^^;」 街長は苦笑してから、窓の外へ目を向けた。 「管理者は、まだ北部境界の任務から戻っていない。帰還を待ってから決めてもいい」 オルフェンは書面へ目を落とした。診療所の六人、増え続ける患者、水路の異常、そして中央の観測設備。必要なものが揃っているなら、まず話を聞く意味はある。 「先に話を聞いてきます」 街長が顔を上げる。 「行くのか?」 「はい。調査に必要なものがあるなら、確認しておきたいです」 「中央で長く引き止められるかもしれない」 「その時は、早く帰れるようにお願いしてみます^^」 「お願いで済む相手かどうかを聞いている」 「では、丁寧に交渉します」 「お前は、中央の貴族相手でもその調子なのか」 「相手に合わせて、少しだけ丁寧にします」 「今も十分丁寧だろう」 「では、かなり丁寧にします^^;」 街長は額へ手を当てた。 オルフェンは青い封書を手に取った。 「薬品、観測資料、浄化技術。街へ持ち帰れるものがあるなら、持ち帰ります」 「誰を連れて行く」 「副官と記録官を。医療関係の話が必要なら、エレナにも確認します」 「エレナは診療所を離れられん」 「では、必要なことを全部書いてもらいます」 街長は椅子へ座り直した。 「お前は、いつも簡単に引き受けるな」 「簡単ではありませんよ」 オルフェンは封書を見つめた。 「皆さんが安心して暮らせるようになるなら、行く意味はあります」 街長は、しばらく彼を見ていた。 「中央は、お前を歓迎するだろう」 「褒められるのは苦手です」 「表彰されるかもしれん」 「それはもっと苦手です^^;」 「銀杯を渡されたら?」 「口をつけないようにします」 「そこだけは覚えているのか」 「前回、飲み物が冷めていましたので」 街長は呆れたように首を振った。オルフェンは穏やかに笑い、青い封書を懐へしまった。 その日の午後、出発の準備が始まった。副官は必要な書類をまとめ、記録官は水路図を整理する。エレナは診療所で使う薬品の一覧を書き出し、中央へ確認する項目を一つずつ並べた。 エレナが書類を差し出す。 「中央の医師へ渡してください」 「分かりました」 「診療記録の写しです。患者数の推移、水の使用量、取水路ごとの異常。できるだけ正確な資料が必要です」 「はい。忘れないように、三回確認します」 「あなたは確認する前に出発しそうなので、今ここで確認してください」 「では、今確認します^^;」 オルフェンが書類を読み始めると、エレナは小さな布包みを荷物の上へ置いた。中には移動中の食事と、交換用の包帯、傷薬が入っている。 「食事を忘れそうなので、入れておきました」 「ありがとうございます^^」 「右手の傷が開いたら、すぐに使ってください。我慢して悪化させたら怒ります」 「もう十分怒られているような……^^;」 「今は心配しているだけです」 エレナは目を逸らし、確認事項を指で示した。 「それから、食事を抜かないこと。睡眠を取ること。一人で勝手に動かないこと」 オルフェンは少しだけ考えた。 「努力します」 エレナは記録板を下ろした。 「そこは、はいと言ってください」 「はい。気をつけます^^」 その後、オルフェンは配給所へ顔を出し、戻ってきた巡水隊の隊員達へ声を掛けた。 「もう歩けるんですか」 「隊長が寝ていろと言うんですが、暇でして」 隊員が答えると、オルフェンは水車の方を指した。 「それなら、退院祝いに水車の修理を手伝ってください^^」 「結局働かせるんですか!」 「軽い作業だけですよ^^;」 「勇者様の退院祝いが、ずいぶん実用的ですね」 「水車が回ると、皆さんが助かりますので」 「そういうところですよ!」 オルフェンは首を傾げた。 「何がですか?」 隊員達は顔を見合わせ、笑った。 夕刻、アルトリウスの街門が開いた。オルフェンは白い外套を羽織り、聖剣を腰へ帯びた。副官は書類袋を抱え、記録官は水路図を巻いて背負っている。 街門の前には、診療所の子供達、巡水隊の隊員、配給所の老人、水車職人、街長まで集まっていた。 一人の子供が大きな声で叫んだ。 「オルフェンさん、中央のお菓子!」 「街長にも同じことを言われました^^」 「じゃあ、いっぱい買ってきて!」 「食べきれないほど買うと、帰りの荷物が大変ですよ」 「勇者なら大丈夫!」 「勇者にも荷物の限界はあります^^;」 街長が門の脇から声を掛けた。 「オルフェン!」 「はい!」 「中央の菓子を買ってこい!」 「水都の菓子より美味しかったら考えます^^」 「絶対に買ってこい!」 「分かりました^^」 「返事だけはいいな!」 「昔から褒められています^^;」 診療所の窓が開き、エレナが顔を出した。 「布包み、途中で置き忘れないでください」 オルフェンは荷物の中を確認し、エレナへ振り返った。 「ちゃんと入っています^^」 「食事も傷薬も使ってくださいね」 「はい。ありがとうございます」 エレナはそれを聞いて、ようやく小さく笑った。 オルフェンは見送りの人々へ手を振り、街門の外へ歩き出した。副官と記録官が、その後ろへ続いていく。門の内側では子供達が声を上げ、水車職人が手を振り、巡水隊の隊員達が笑いながら見送っていた。 青い封書は、オルフェンの懐に収まっていた。
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異世界アイドル☆パラレルパレード NEO AKIBA ARCHIVE LOG R-17 ―口封じ― 銃声が、煙の充満した家を揺らした。 「裏口へ行け!」 ソンミンがグンソを押し出す。テジュンは、焼却寸前の記録片を拾い上げた。 玄関側から、特高の兵士たちが押し寄せてきた。 その前に、ムジンが立ちはだかる。 肩を撃ち抜かれても、額から血を流しても、姿勢は崩れない。銃床を受け流し、兵士の手首を捻り、壁へ叩きつける。 ただ、誰一人として通さなかった。 その動きを見ていた兵士の一人が、銃を構えたまま足を止めた。 「……師範」 ムジンの拳が、わずかに止まる。 兵士は、かつてムジンのもとで武術を学んでいた。 黒い制服。胸元の徽章。整えられた髪。銃を持つ手の角度まで、規則に合わせたように揃っている。 「その呼び方は、もう必要ありません」 兵士が銃を構え直した。 「……そうか」 銃床が振り下ろされる。 ムジンは半歩だけ身を引いた。 かつて教えた足運びだった。 兵士も同じ足運びで踏み込んだ。 二人の距離が消える。 ムジンが手首を取り、銃口を逸らす。兵士は肘を返し、ムジンの脇腹へ打ち込んだ。 鈍い音が響いた。 それでも、ムジンは手を離さない。 兵士の目が、ムジンの動きを追った。 「動作記録と一致します」 「そうか」 「修正されていません」 ムジンの目が細くなる。 「お前もな」 兵士の指が、わずかに止まった。 その隙に、ムジンは兵士を壁へ叩きつける。 「戻るな!」 ソンミンがグンソの腕を掴む。 「でも、ムジンが!」 「置いていくんじゃない! あの人が、お前を通しているんだ!」 ムジンが兵士を押し返す。 「行け!」 グンソは歯を食いしばり、裏口へ走った。 燃えかけた家を出ると、旧居住区の路地が広がっていた。 青紫の灯が、遠くから順番に消えていく。 屋根の上にも、交差路にも、特高の影が現れた。 「第三取水路の旧点検口へ!」 ドンチョルが鉄輪を引く。 石畳が沈み、地下から湿った空気が吹き上がった。 その時、路地の奥から穏やかな声が響いた。 「そこまでにしていただけますか」 特高の兵士たちが、一斉に道を空ける。 消えかけた青紫の灯の向こうから、ひとりの男が歩いてきた。 二メートルを超える細身の身体。 乱れひとつない黒い上級制服。 胸元で冷たく光る銀徽章。 黒い制帽の影に、端正な顔が浮かんでいる。 男は倒れている兵士へ視線を向けた。 「止血を。死なせてはいけません」 命じられた兵士が、慌てて仲間へ駆け寄る。 男はそれを確認してから、グンソたちへ微笑んだ。 「ご安心ください。皆さんを無闇に傷つけるつもりはありません」 ヘジュが銃を向ける。 「近づくな」 「ええ。そうなさるのがよいでしょう」 男は素直に足を止めた。 「その記録片を、こちらへ渡していただけますか」 グンソが記録片を握りしめる。 「ソナの名前を、また消すつもりか!」 「消す?」 男は静かに瞬きをした。 「記録は保存されます。適切な場所へ、適切な形式で」 「人間を番号に変えておいてか!」 「番号なら、間違いがありません」 ヘジュの指が、引き金へかかる。 「撃て」 銃声が響いた。 弾丸が男の肩を抉る。 黒い制服が裂け、血が流れた。 男は一歩だけ後退した。 傷口を見下ろし、指先についた血を確認する。 「……失礼しました」 男は顔を上げた。 「その距離で撃つのであれば、もう少し左を狙った方が確実です」 その時、背後の家から大きな音が響いた。 ムジンが路地へ姿を現す。 黒い外套は裂け、肩から血が流れていた。 その背後に、先ほどの兵士が立っている。 兵士は銃を構えたまま、ムジンを見た。 「師範」 「その名で呼ぶな」 「承知しました」 兵士は一歩前へ出る。 「ムジン」 名前だけが、路地に平坦に響いた。 男が、二人を見比べる。 「教え子ですか」 「過去の話です」 ムジンは兵士から視線を外さなかった。 兵士の銃口が、ゆっくりとムジンへ向く。 ムジンは何も言わない。 ただ、グンソたちへ顔を向けた。 「地下へ入れ」 「でも、あなたが!」 「早くしろ」 ソンミンがグンソの腕を掴んだ。 ヘジュ、ドンチョル、テジュンが、次々と地下水路へ入っていく。 グンソだけが動かなかった。 「ムジン!」 ムジンは振り返らない。 「生き残れ」 グンソは記録片を胸元へ押し当てた。 そして、地下水路へ飛び込んだ。 鉄扉が閉じ始める。 最後に見えたのは、青紫の灯の下で銃を向ける、ムジンのかつての弟子。 その隣で、傷口を眺めながら微笑む男。 ムジンは、二人の前に立っていた。 男が静かに頭を下げる。 「それでは、少しだけお時間をいただきます」 鉄扉が閉じた。 直後、地上から低い衝撃音が響いた。 一度。 二度。 グンソは振り返らなかった。 ソナの名前を、外へ持ち出すために。
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異世界アイドル☆パラレルパレード NEO AKIBA ARCHIVE LOG R-07 ―勇者と医者― 管理局の使節団がアルトリウスを去ってから、三か月が過ぎていた。 診療所の廊下に、簡易寝台が並び始めていた。東区の運送人。北水門の作業員。市場で働く女。熱、倦怠感、咳。症状は似ているが、住む場所も仕事も違う。 医師エレナは患者の額から手を離し、記録板へ目を落とした。袖は肘まで捲られ、まとめた髪から何本かが頬へ落ちている。 「同じ食事は?」 助手は首を振った。 「取っていません。職場も水場も別です」 「工房の煙、輸入された薬、空調孔、寝具、職場で触れた物まで確認してください。最初から一つに決めないように」 助手が感染症の可能性を尋ねると、エレナは次の患者へ清潔な布を掛けた。 「分かりません。分からないなら、分かるものから潰します」 玄関の扉が開いた。 オルフェンが老人を背負って立っている。片手には老人の工具箱。泣き疲れた子供が、外套の裾を握って後ろを歩いていた。 エレナはすぐに空いている寝台を示す。 「三番へ。ゆっくり下ろしてください」 老人は荷車の修理中に倒れたらしい。子供はその孫だった。オルフェンは老人を寝かせ、子供を椅子へ座らせると、水差しを手の届く場所へ置いた。 「荷車は?」 老人が尋ねた。 「道の端へ寄せてあります。車輪も付け直しました」 「頼んでないぞ」 オルフェンは柔らかく笑った。 「倒れたままでは危ないですから」 エレナは老人を診察しながら、オルフェンの背と膝に付いた泥を見た。 「担架を呼んでくださいと、何度言えば分かるんですか」 「待つより早かったので」 「あなたまで倒れたら、誰が運ぶんです」 「エレナ先生が治してくださるかと」 「寝台が足りません。椅子で我慢してください」 オルフェンは素直に座った。 エレナは瞳、喉、手首を順に確認する。熱はない。呼吸にも異常はない。ただ右手に新しい切り傷があった。 「これは?」 「荷車で少し」 「大丈夫ではありませんね」 「申し訳ありません」 傷を洗われている間も、オルフェンは診療所の奥を見ていた。いつもより寝台が多い。薬棚の空きも目立つ。 「増えていますか」 エレナは包帯を結んだ。 「昨日から、新しく十二人。原因は、まだ分かりません」 「私にできることは?」 エレナは薬箱を一つ渡した。 「東区へ。解熱薬と咳止めです」 オルフェンが立ち上がる。 「承知しました」 「その前に」 机の隅へ、二つの銀杯が置かれていた。青薄荷の葉を浮かべた茶から、細い湯気が昇っている。 エレナが片方を差し出す。オルフェンが受け取ろうとした時、外から鐘が鳴った。 二度。間を置いて、もう二度。 水路事故を知らせる鐘だった。 エレナが窓の外へ目を向ける。 「西水路ですね」 オルフェンは銀杯を戻し、薬箱を背負った。 「先に向かいます」 「薬は東区です」 「西水路の後に届けます」 「逆方向ですよ」 「急げば、どちらも間に合います」 止めても無駄だと分かっている顔で、エレナは薬箱へ救急布と止血具を追加した。 「では、全部済ませてきてください」 オルフェンは穏やかに頷いた。 「帰ったら、お茶をいただきます」 「冷める前に帰ってください」 扉が閉じた。 エレナは見送らず、次の患者を呼んだ。 夜が深くなっても、診療所の灯は消えなかった。 最後の患者を奥の寝台へ移した頃、玄関の扉が静かに開く。泥と水に汚れたオルフェンが立っていた。 「遅くなりました」 西水路では作業員を七人救助し、東区へ薬を届け、その帰りに迷子を一人、家まで送り届けたらしい。 エレナは二つの銀杯を見た。 湯気は、もう消えている。 「冷めていますよ」 オルフェンは向かいの椅子へ座った。 「帰ってきましたので」 「それは飲む理由になっていません」 「約束でしたから」 「私は約束していません」 「私が勝手にしました」 エレナは小さく息を吐き、自分の銀杯を持ち上げた。オルフェンも冷めた茶を飲む。 冷めた茶を挟み、エレナは不足する薬を書き出した。オルフェンは翌朝運ぶ箱の数を確認した。 その夜、二つの銀杯は空になった。
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異世界アイドル☆パラレルパレード NEO AKIBA ARCHIVE LOG R-10 ―帰り道が同じでしたので― 二人で出たはずの遠征隊は、十九人で帰ってきた。 管理局使節団がアルトリウスを訪れる、五年前。二十歳のオルフェンは、青革の柄巻きと鞘を与えられたルクシオンを腰に差し、管理者と天蓋内西方の旧導水路を調査していた。 帰路、水路峡谷から警笛が聞こえた。 補修中の石橋を迂回した交易隊が、古い鎖橋の中央で立ち往生している。三台の交易車と十七人。最後尾車は床板を突き破り、車体の半分が峡谷へ落ちていた。 車内では商人が鉄枠へ脚を挟まれ、その奥で老人が動けずにいる。対岸では母親が泣く子供を抱えていた。 管理者が主鎖を見る。 「切れる。残り三十秒だ」 オルフェンは白い外套を外した。 「全員、助けられますか?」 「質問を変えろ。何秒必要だ」 「二十秒、増やしてください」 「無茶を言うな」 「管理者さんなら大丈夫です」 「勝手に決めるな」 言いながら、管理者は外套から術式固定用の銀環を抜いていた。銀環は四つの爪を持つ固定具へ展開し、切れかけた主鎖へ食い込む。そこを起点に術式が橋脚へ走り、沈んでいた橋床が持ち上がった。 「二十秒だけ延ばす。それ以上は知らん」 「ありがとうございます」 オルフェンは橋へ走った。 二本目の鎖が切れ、最後尾車が大きく傾く。オルフェンは車体の下へ滑り込み、肩と両腕で落下を止めた。足元の床板が砕け、ロングブーツの踵が橋床へ沈む。 管理者は手袋からミスリル糸を射出し、対岸の橋塔へ固定した。母親と子供、負傷者を吊り具へ繋ぎ、安全な場所へ送っていく。 オルフェンは車体を支えたまま、ルクシオンへ声を掛けた。 「すみません。またお願いします」 鞘の中で聖剣が短く鳴る。オルフェンは片腕で車体を支え、ルクシオンで商人の脚を締め付ける鉄枠だけを斬った。老人と商人が荷台から引き出される。 固定具から警告音が鳴った。 「あと五秒だ」 その時、荷台の奥から白い箱が滑り落ちた。封蝋には《水都東診療所・至急》と刻まれている。 「待ってくれ! 今夜までに届ける薬だ!」 「積荷は捨てろ。戻れ!」 オルフェンは車体を持ち上げ、落下する薬箱を橋上へ蹴り出した。 「馬鹿者!」 管理者の黒い外套が広がり、空中で薬箱を受け止める。 固定具が砕けた。 最後の一人が対岸へ着いた瞬間、主鎖が切れる。鎖橋と交易車が峡谷へ落ち、オルフェンも足場を失った。 落下する交易車を蹴り、その反動で崖へ跳ぶ。 伸ばした右手を、銀の指輪を重ねた手が掴んだ。 管理者は手を離さず、オルフェンを地上へ引き上げる。 「二十秒と言ったな」 「少し越えました」 「三十二秒だ」 「申し訳ありません」 「反省していない顔で言うな」 交易車と橋を失った十七人は、オルフェン達と徒歩でアルトリウスへ戻ることになった。商人が頭を下げる。 「我々まで同行していただいて、申し訳ない」 オルフェンは簡易担架の前を持った。 「帰り道が同じでしたので」 十九人になった一行が、水都へ向かった。 管理者は途中で一人だけ先行した。 オルフェン達が宿場の酒場へ着くと、長机には十九人分の根菜煮とパンが並び、大人達には薄い麦酒が用意されていた。壁際には治療道具と寝具も積まれている。 店主が呆れる。 「二人で出たんじゃなかったのか」 管理者は酒杯を持ったまま答えた。 「私に訊くな」 東診療所へ薬が届き、負傷者の手当ても終わった。最後にオルフェンが管理者の向かいへ座る。 「先に帰ったと思ったら、準備してくださっていたんですね」 「お前を待っていれば、全員野宿になる」 「ありがとうございます」 管理者は酒杯を傾けた。 「相変わらず、面倒ばかり拾う」 「落ちているものは拾うでしょう」 「人を物のように言うな」 「管理者さんが先に面倒と呼びましたよ」 オルフェンはルクシオンを壁へ立て掛け、自分の麦酒を鞘の前へ置く。 「あなたも飲みますか?」 鞘の中で刀身が小さく鳴った。 「この方も飲みたいそうです」 「剣に酒を飲ませるな」 夜が深くなる頃、オルフェンは一杯目を半分残し、机へ伏せて眠っていた。管理者は白い外套を拾い、その背へ掛ける。 店主が空の器を重ねながら尋ねた。 「起こさなくていいのか」 管理者は向かいの席へ座り直す。 「ようやく静かになった。寝かせておけ」 鞘の中でルクシオンが小さく鳴った。 管理者は聖剣を見る。 「お前もだ」
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異世界アイドル☆パラレルパレード NEO AKIBA ARCHIVE LOG R-18 ―沈黙― 鉄扉が閉じた直後、地下水路の奥まで低い衝撃音が響いた。 一度。 水面が震え、グンソは振り返る。 二度目の音が響いた。 「戻る」 踵を返したグンソの腕を、ソンミンが掴んだ。 「戻ってどうする」 「ムジンを置いていけるか!」 「置いていくんじゃない。あの人がお前を通したんだ」 「それでも!」 「戻れば、あの人の命令を無駄にする!」 グンソの拳がソンミンの胸を打つ。それでもソンミンは腕を離さなかった。 「生き残れって言われただろう!」 その言葉に、グンソの動きが止まる。 三度目の衝撃音が鳴った。 今度は、遠かった。 ムジンがまだ戦っているのか。もう倒れたのか。誰にも分からない。 テジュンは胸元の記録片を青紫の灯へかざした。焼け焦げた金属片に、わずかな文字が浮かぶ。 《対象名……ソナ》 《収容確認》 《移送記録……あり》 《登録抹消……未完了》 グンソの呼吸が止まった。 ソナは、確かにそこにいた。 名前を奪われ、番号へ変えられ、記録から消されかけていた。それでも完全には消えていなかった。 ムジンが守ったのは、記録片ではない。 ソナが生きていたという事実だった。 「……ソナだけじゃない」 テジュンが記録片の端を示す。そこには、他にもいくつもの番号が並んでいた。 同じ施設へ送られた人間たちの痕跡。 グンソは記録片を握りしめる。 「行くぞ」 ソンミンが言った。 「ムジンは?」 誰も答えられなかった。 やがてグンソは、鉄扉から視線を外した。 「ソナを連れ出す」 低い声だった。 「それだけじゃない。この記録に載っている全員を、消させない」 五人は地下水路の奥へ進んだ。 誰も振り返らなかった。振り返れば、歩けなくなる気がした。 * 地上では、青紫の灯がひとつずつ消えていた。 煙の残る路地の中央で、ムジンは片膝をついていた。外套は裂け、肩と脇腹から血が流れている。それでも姿勢を崩していなかった。 目の前には、かつての弟子。 銃口は、ムジンの胸へ向いている。 その隣には、二メートルを超える男が立っていた。ムジンの最後の一撃で傷ついた頬から、血が静かに流れている。 「記録片の出所をお聞きします」 ムジンは黙っていた。 「地下水路の経路でも構いません。協力者の名前でも」 返事はない。 男は穏やかに首を傾けた。 「沈黙は、たいへん誤解されやすい選択です」 ムジンはゆっくりと立ち上がった。 「……お前たちに渡す名前はない」 男の微笑みが深くなる。 ムジンは、かつての弟子を見た。 「お前は、まだ戻れる」 銃を持つ手が震えた。 一瞬だけ、少年の顔が戻る。 だが、黒い制服の男は目を伏せた。 「その呼び方は、もう必要ありません」 「そうか」 ムジンは静かに答えた。 「ならば、もう何も言うな」 銃床が振り下ろされた。 青紫の灯が、またひとつ消えた。 * ムジンが目を開けると、そこに窓はなかった。 白い壁。低い天井。床に固定された椅子。壁際には、用途の分からない金属器具が整然と並んでいる。 男は机の向こうに座っていた。 「もう一度だけ確認します。記録片の出所は?」 ムジンは答えなかった。 「協力者は?」 答えなかった。 「地下へ逃げた者たちの行き先は?」 ムジンは顔を上げた。 唇は切れ、片目は腫れている。それでも、何も渡さなかった。 男は紙を閉じた。 「たいへん頑固な方ですね」 ムジンは目を閉じる。 男が立ち上がった。 「それでは、特別な尋問へ移りましょう」 扉が開く。 廊下の向こうから、複数の足音が近づいてきた。 ムジンは連れていかれる。 最後まで、誰の名前も呼ばなかった。 扉が閉じた後、男は机へ戻り、書類へ記録を書き込んだ。 《対象:ムジン》 《供述:なし》 《協力者情報:なし》 《記録片の出所:未確認》 《処置区分:特別尋問へ移行》 紙の上で、墨がゆっくりと乾いていく。 その下にある名前だけが、まだ消えずに残っていた。 ――ムジン。
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Rain Konno | 境界の外側16,575 views • 11 months ago
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