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見つかった瞬間、物語になる。 見つからなければ、何も始まらない。 ——異世界アイドル☆パラレルパレード 召喚▶︎ https://t.co/KzKk7ydTp5

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異世界アイドル☆パラレルパレード NEO AKIBA ARCHIVE LOG R-23 ―未確認― 港の夜は、まだ終わっていなかった。 荷を運び終えた台車が、濡れた石畳の上で止まっている。水面を擦る係留鎖。遠くで交わされる作業員の声。誰かが笑い、誰かが扉を閉める。 普通の人間が、普通の夜を過ごしている音だった。 オルフェンは、その中を一人で歩いていた。 船室を出てから、何度も足を止めそうになった。 グンソは、もう何も話せない顔をしていた。 それでも、オルフェンは言った。 戻ります。 言った以上、戻らなければならない。 問題は、戻ったところで何を話せばいいのか分からないことだった。 チェ・ソナ。十三歳。未登録歌姫。保護対象。 妹の名前。 白い車。 消毒薬の匂い。 何度も沈む床。 長い鉄の音。 三度鳴る警告音。 それだけだった。 それだけしかないのに、グンソは十年近く、その断片だけを抱えて生きてきた。 オルフェンは、管理者の部屋の前で立ち止まった。 青紫の灯りが、廊下の床を細く照らしている。壁面の観測端末には、港の各所から送られてくる数値が流れていた。 扉を叩こうとした、その時だった。 「入れ」 オルフェンは、手を止めた。 「起きていらしたんですか?」 「お前の足音が、三度止まった」 「三度も止まりましたか」 「迷っていた時間を含めれば、もっと多い」 オルフェンは、小さく息を吐いた。 「……失礼します」 部屋の中には、港を見下ろす観測窓があった。 天蓋の空は、青紫色に揺らめいている。雲はない。雨もない。ただ、空の内側だけが、遠い海のように明滅していた。 管理者は机の前に座っていた。 机上には、何も書かれていない紙が一枚置かれている。 「報告か」 「相談です」 「同じことだ」 「では、報告を兼ねた相談です」 「話せ」 オルフェンは、グンソから聞いたことを、一つずつ伝えた。 北方人民共和国。 一千年近く続いている国家。 何度崩されても、別の形になって残り続けた国。 地図に載らない村。 偽の救助所。 本当の国境へ着くまでに、三度、国境を越えたと思わされる道。 そして、ソナの記憶。 白い車。 消毒薬の匂い。 舗装されていない道を走る車体。 何度も沈む床。 橋を渡る感覚。 長い鉄の音。 三度鳴る警告音。 オルフェンが話し終えても、管理者はすぐには口を開かなかった。 室内には、観測端末の駆動音だけが残った。 「その男の証言を、どこまで信用する」 「分かりません」 オルフェンは正直に答えた。 「信用していないわけではありません。ただ、見たものすべてを正確に説明できているとも思いません」 「恐怖は、記憶の順番を変える」 「はい」 「逃げた人間は、見捨てた村を“消えた”と語ることもある」 「はい」 「警告音も、北方の合図とは限らない。鉄道かもしれない。工場かもしれない。古い港の警報かもしれない」 「はい」 「それでも調べたいのか」 オルフェンは、机の上の白紙を見た。 「はい」 「理由は」 「ソナさんが、まだ人間として扱われているかどうかを確認したいからです」 管理者の視線が、初めてわずかに動いた。 「救出ではなく?」 「救出できるなら、その方がいいです」 オルフェンは、言葉を選びながら続けた。 「でも、最初から救出だと決めてしまうと、見落とすものがある気がします」 「何を」 「彼女が、もう名前を失っているのかどうかを」 白紙の上には、まだ何も書かれていない。 番号も、場所も、施設名もない。 グンソが覚えていたのは、記録から消された妹の名前と、途切れた感覚だけだった。 「ソナさんは、保護対象として連れていかれた」 「そう聞いた」 「でも、保護されたのか、収容されたのか、それすら分かりません」 「言葉が違うだけで、同じ場所へ送られることもある」 オルフェンは、黙った。 管理者は、机の引き出しから数枚の記録を取り出した。 「三度の警告音について、過去の観測記録を確認した」 「もう調べてくださったんですか?」 「確認しただけだ」 一枚目の紙には、港湾施設の警報形式が並んでいた。 短音一回。 長音二回。 連続音。 その中に、三音を一組として繰り返す形式があった。 「この音は、かつて複数の施設で使われていた」 「北方人民共和国のものですか?」 「違う」 管理者は即答した。 「北方だけのものではない。古い検疫区画、隔離施設、軍用港。危険区域への接近を知らせるために、各地で使われていた」 「では、三音だけでは何も分からない」 「何も分からないわけではない」 管理者は、記録の一部を指で押さえた。 「この形式は、現在ほとんど使われていない」 「ほとんど?」 「最後に使用された記録は、三十七年前だ」 オルフェンは、その日付を見た。 ソナが連れていかれた時期とは、まだ大きく離れている。 「同じ音が、その後も使われていた可能性は?」 「ある。ただし、記録がない」 「記録がないというのは」 「使われていないのか、記録されなかったのか、消されたのか。区別できない」 管理者は、別の紙を重ねた。 そこには、北方へ続くいくつかの経路が記されていた。 どの線も、途中で途切れている。 「北方人民共和国へ向かう道は、地図に描かれていないのではない」 「違うんですか?」 「描かれた後で、意味を失う」 オルフェンは、地図を見下ろした。 「道が消える?」 「道は消えない。道の先にあるものが、別のものへ置き換わる」 「村が、ですか」 「村。救助所。検問所。国境」 管理者は、淡々と続けた。 「その場所が本当に存在するのか。誰が管理しているのか。そこで渡される名前が本物なのか。入った人間は、出た後も同じ人間なのか」 オルフェンは、言葉を失った。 「北方人民共和国は、壁で閉じた国ではない」 管理者の目が、地図の白い部分へ向く。 「入れる。出られる。道もある。案内人もいる」 「それなら、なぜ」 「入った人間が、入ったことを証明できなくなるからだ」 部屋の空気が、少しだけ重くなった。 オルフェンは、受け取った記録を見た。 名前。 番号。 施設の印。 しかし、そのどれもが途中で途切れている。 「管理者さん」 「何だ」 「もし、ソナさんがその国の中にいるとして」 「仮定だ」 「はい。もし、いるとして。彼女の名前が残っている可能性はありますか?」 管理者は、すぐには答えなかった。 「名前は、最初に消される」 「……」 「年齢、出身、血縁。次に消えるのは、歌った記録だ」 オルフェンは、ゆっくりと拳を握った。 「それでも、何か残ることは」 「残る」 管理者は、白紙の上へ視線を落とした。 「記録する人間がいる限りは」 その言葉に、オルフェンはグンソの姿を思い出した。 紙の上に、妹の名前を書いた。 番号へ戻さずに。 「では、探す方法はあります」 「方法ではない」 「入口ですか」 「入口を探すための、断片だ」 管理者は、記録を三つに分けた。 「ソナの移送時期」 一枚目。 「白い車の所属、または移送に使われた経路」 二枚目。 「三音の警告音が鳴った場所」 三枚目。 「この三つが必要だ」 「三つが揃えば、北方へ入る方法を教えてくださいますか?」 「教えるとは言っていない」 「はい」 「相談には乗る」 「はい」 オルフェンは、少しだけ困ったように笑った。 「かなり厳しい条件ですね」 「妹を探しに行くのだろう」 「はい」 「なら、厳しくて当然だ」 オルフェンは立ち上がった。 「グンソさんに、もう一度訊いてきます」 「訊くな」 「え?」 「今夜は、もう訊くな」 オルフェンの手が止まった。 「ですが、移送時期が分からないと」 「十年近く抱えていた記憶を、港へ着いたばかりの夜に掘り返すな」 「……はい」 「人間は、記憶を話すたびに、その記憶を少しずつ作り替える」 管理者は、紙の上に並んだ項目を見つめた。 「今夜の彼から、これ以上の正確さを引き出そうとするな」 オルフェンは、しばらく黙っていた。 「では、まず三音を調べます」 「そうしろ」 「どこから?」 管理者は、古い記録を一枚だけ抜き取った。 「港の外れに、使われていない観測塔がある」 「観測塔」 「かつて、船舶と検疫区画の警告音を記録していた」 「今も使えるんですか?」 「使えるかどうかを調べる」 管理者は、紙をオルフェンへ渡した。 「音を調べろ」 オルフェンは、紙を受け取った。 「ありがとうございます」 「礼を言われることはしていない」 「でも、調べていいと言ってくださったので」 「調べるだけだ」 「はい」 オルフェンは扉へ向かった。 「管理者さん」 「何だ」 「もし、三つの条件が揃わなかったら」 管理者は、窓の外を見た。 青紫の空が、遠くで一度だけ明滅している。 「未確認のものを、確認できなかったという理由だけで、存在しないことにするな」 オルフェンは黙って聞いていた。 「ただし、存在すると決めつけるな」 「はい」 「分からないまま、両方を持って歩け」 オルフェンは、わずかに微笑んだ。 「難しいですね」 「簡単だと思っていたのか」 「思っていません」 「なら、行け」 「はい」 オルフェンが部屋を出る。 扉が閉じると、管理者は一人になった。 机の上には、三音の警告記録と、名前のない白紙が残っている。 管理者は、さらに奥から一枚の記録を取り出した。 北方人民共和国へ向かった調査隊。 出発者、十二名。 帰還者、なし。 死亡記録、なし。 最後の報告から、二百三十一年。 記録の末尾には、短い文章が残されていた。 帰還者は、帰還したことを証明できなかった。 管理者は、紙を裏返した。 裏面には、別の筆跡で、さらに短い言葉が書かれている。 三度鳴った。 管理者は、港の方へ顔を向けた。 警告鐘が鳴る。 短く三度。 間を置いて、三度。 管理者は、その音を聞き終えるまで、立ち上がらなかった。 机の上の白紙には、まだ何も書かれていない。 チェ・ソナ。 その名前も、まだ。

異世界アイドル☆パラレルパレード NEO AKIBA ARCHIVE LOG R-23 ―未確認― 港の夜は、まだ終わっていなかった。 荷を運び終えた台車が、濡れた石畳の上で止まっている。水面を擦る係留鎖。遠くで交わされる作業員の声。誰かが笑い、誰かが扉を閉める。 普通の人間が、普通の夜を過ごしている音だった。 オルフェンは、その中を一人で歩いていた。 船室を出てから、何度も足を止めそうになった。 グンソは、もう何も話せない顔をしていた。 それでも、オルフェンは言った。 戻ります。 言った以上、戻らなければならない。 問題は、戻ったところで何を話せばいいのか分からないことだった。 チェ・ソナ。十三歳。未登録歌姫。保護対象。 妹の名前。 白い車。 消毒薬の匂い。 何度も沈む床。 長い鉄の音。 三度鳴る警告音。 それだけだった。 それだけしかないのに、グンソは十年近く、その断片だけを抱えて生きてきた。 オルフェンは、管理者の部屋の前で立ち止まった。 青紫の灯りが、廊下の床を細く照らしている。壁面の観測端末には、港の各所から送られてくる数値が流れていた。 扉を叩こうとした、その時だった。 「入れ」 オルフェンは、手を止めた。 「起きていらしたんですか?」 「お前の足音が、三度止まった」 「三度も止まりましたか」 「迷っていた時間を含めれば、もっと多い」 オルフェンは、小さく息を吐いた。 「……失礼します」 部屋の中には、港を見下ろす観測窓があった。 天蓋の空は、青紫色に揺らめいている。雲はない。雨もない。ただ、空の内側だけが、遠い海のように明滅していた。 管理者は机の前に座っていた。 机上には、何も書かれていない紙が一枚置かれている。 「報告か」 「相談です」 「同じことだ」 「では、報告を兼ねた相談です」 「話せ」 オルフェンは、グンソから聞いたことを、一つずつ伝えた。 北方人民共和国。 一千年近く続いている国家。 何度崩されても、別の形になって残り続けた国。 地図に載らない村。 偽の救助所。 本当の国境へ着くまでに、三度、国境を越えたと思わされる道。 そして、ソナの記憶。 白い車。 消毒薬の匂い。 舗装されていない道を走る車体。 何度も沈む床。 橋を渡る感覚。 長い鉄の音。 三度鳴る警告音。 オルフェンが話し終えても、管理者はすぐには口を開かなかった。 室内には、観測端末の駆動音だけが残った。 「その男の証言を、どこまで信用する」 「分かりません」 オルフェンは正直に答えた。 「信用していないわけではありません。ただ、見たものすべてを正確に説明できているとも思いません」 「恐怖は、記憶の順番を変える」 「はい」 「逃げた人間は、見捨てた村を“消えた”と語ることもある」 「はい」 「警告音も、北方の合図とは限らない。鉄道かもしれない。工場かもしれない。古い港の警報かもしれない」 「はい」 「それでも調べたいのか」 オルフェンは、机の上の白紙を見た。 「はい」 「理由は」 「ソナさんが、まだ人間として扱われているかどうかを確認したいからです」 管理者の視線が、初めてわずかに動いた。 「救出ではなく?」 「救出できるなら、その方がいいです」 オルフェンは、言葉を選びながら続けた。 「でも、最初から救出だと決めてしまうと、見落とすものがある気がします」 「何を」 「彼女が、もう名前を失っているのかどうかを」 白紙の上には、まだ何も書かれていない。 番号も、場所も、施設名もない。 グンソが覚えていたのは、記録から消された妹の名前と、途切れた感覚だけだった。 「ソナさんは、保護対象として連れていかれた」 「そう聞いた」 「でも、保護されたのか、収容されたのか、それすら分かりません」 「言葉が違うだけで、同じ場所へ送られることもある」 オルフェンは、黙った。 管理者は、机の引き出しから数枚の記録を取り出した。 「三度の警告音について、過去の観測記録を確認した」 「もう調べてくださったんですか?」 「確認しただけだ」 一枚目の紙には、港湾施設の警報形式が並んでいた。 短音一回。 長音二回。 連続音。 その中に、三音を一組として繰り返す形式があった。 「この音は、かつて複数の施設で使われていた」 「北方人民共和国のものですか?」 「違う」 管理者は即答した。 「北方だけのものではない。古い検疫区画、隔離施設、軍用港。危険区域への接近を知らせるために、各地で使われていた」 「では、三音だけでは何も分からない」 「何も分からないわけではない」 管理者は、記録の一部を指で押さえた。 「この形式は、現在ほとんど使われていない」 「ほとんど?」 「最後に使用された記録は、三十七年前だ」 オルフェンは、その日付を見た。 ソナが連れていかれた時期とは、まだ大きく離れている。 「同じ音が、その後も使われていた可能性は?」 「ある。ただし、記録がない」 「記録がないというのは」 「使われていないのか、記録されなかったのか、消されたのか。区別できない」 管理者は、別の紙を重ねた。 そこには、北方へ続くいくつかの経路が記されていた。 どの線も、途中で途切れている。 「北方人民共和国へ向かう道は、地図に描かれていないのではない」 「違うんですか?」 「描かれた後で、意味を失う」 オルフェンは、地図を見下ろした。 「道が消える?」 「道は消えない。道の先にあるものが、別のものへ置き換わる」 「村が、ですか」 「村。救助所。検問所。国境」 管理者は、淡々と続けた。 「その場所が本当に存在するのか。誰が管理しているのか。そこで渡される名前が本物なのか。入った人間は、出た後も同じ人間なのか」 オルフェンは、言葉を失った。 「北方人民共和国は、壁で閉じた国ではない」 管理者の目が、地図の白い部分へ向く。 「入れる。出られる。道もある。案内人もいる」 「それなら、なぜ」 「入った人間が、入ったことを証明できなくなるからだ」 部屋の空気が、少しだけ重くなった。 オルフェンは、受け取った記録を見た。 名前。 番号。 施設の印。 しかし、そのどれもが途中で途切れている。 「管理者さん」 「何だ」 「もし、ソナさんがその国の中にいるとして」 「仮定だ」 「はい。もし、いるとして。彼女の名前が残っている可能性はありますか?」 管理者は、すぐには答えなかった。 「名前は、最初に消される」 「……」 「年齢、出身、血縁。次に消えるのは、歌った記録だ」 オルフェンは、ゆっくりと拳を握った。 「それでも、何か残ることは」 「残る」 管理者は、白紙の上へ視線を落とした。 「記録する人間がいる限りは」 その言葉に、オルフェンはグンソの姿を思い出した。 紙の上に、妹の名前を書いた。 番号へ戻さずに。 「では、探す方法はあります」 「方法ではない」 「入口ですか」 「入口を探すための、断片だ」 管理者は、記録を三つに分けた。 「ソナの移送時期」 一枚目。 「白い車の所属、または移送に使われた経路」 二枚目。 「三音の警告音が鳴った場所」 三枚目。 「この三つが必要だ」 「三つが揃えば、北方へ入る方法を教えてくださいますか?」 「教えるとは言っていない」 「はい」 「相談には乗る」 「はい」 オルフェンは、少しだけ困ったように笑った。 「かなり厳しい条件ですね」 「妹を探しに行くのだろう」 「はい」 「なら、厳しくて当然だ」 オルフェンは立ち上がった。 「グンソさんに、もう一度訊いてきます」 「訊くな」 「え?」 「今夜は、もう訊くな」 オルフェンの手が止まった。 「ですが、移送時期が分からないと」 「十年近く抱えていた記憶を、港へ着いたばかりの夜に掘り返すな」 「……はい」 「人間は、記憶を話すたびに、その記憶を少しずつ作り替える」 管理者は、紙の上に並んだ項目を見つめた。 「今夜の彼から、これ以上の正確さを引き出そうとするな」 オルフェンは、しばらく黙っていた。 「では、まず三音を調べます」 「そうしろ」 「どこから?」 管理者は、古い記録を一枚だけ抜き取った。 「港の外れに、使われていない観測塔がある」 「観測塔」 「かつて、船舶と検疫区画の警告音を記録していた」 「今も使えるんですか?」 「使えるかどうかを調べる」 管理者は、紙をオルフェンへ渡した。 「音を調べろ」 オルフェンは、紙を受け取った。 「ありがとうございます」 「礼を言われることはしていない」 「でも、調べていいと言ってくださったので」 「調べるだけだ」 「はい」 オルフェンは扉へ向かった。 「管理者さん」 「何だ」 「もし、三つの条件が揃わなかったら」 管理者は、窓の外を見た。 青紫の空が、遠くで一度だけ明滅している。 「未確認のものを、確認できなかったという理由だけで、存在しないことにするな」 オルフェンは黙って聞いていた。 「ただし、存在すると決めつけるな」 「はい」 「分からないまま、両方を持って歩け」 オルフェンは、わずかに微笑んだ。 「難しいですね」 「簡単だと思っていたのか」 「思っていません」 「なら、行け」 「はい」 オルフェンが部屋を出る。 扉が閉じると、管理者は一人になった。 机の上には、三音の警告記録と、名前のない白紙が残っている。 管理者は、さらに奥から一枚の記録を取り出した。 北方人民共和国へ向かった調査隊。 出発者、十二名。 帰還者、なし。 死亡記録、なし。 最後の報告から、二百三十一年。 記録の末尾には、短い文章が残されていた。 帰還者は、帰還したことを証明できなかった。 管理者は、紙を裏返した。 裏面には、別の筆跡で、さらに短い言葉が書かれている。 三度鳴った。 管理者は、港の方へ顔を向けた。 警告鐘が鳴る。 短く三度。 間を置いて、三度。 管理者は、その音を聞き終えるまで、立ち上がらなかった。 机の上の白紙には、まだ何も書かれていない。 チェ・ソナ。 その名前も、まだ。

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異世界アイドル☆パラレルパレード NEO AKIBA OBSERVATION LOG 1-32 ― 未検出 ― 小説の断片が発見された。 観測局第四監視室には換気扇の音だけが響いていた。 机の隅には缶コーヒーが横倒しになっている。底には黒い液体が少しだけ残り、乾きかけた輪が机の表面に広がっていた。機械油の匂いは消えず、観測炉から送られてくる熱が部屋の空気を僅かに暖めている。 少女は画面を見る。 『管理者信号 未検出』 確認キーを押す。表示は変わらない。もう一度押す。それでも変わらない。少女は指を止める。数秒だけ画面を見つめ、再びキーへ触れる。 変わらない。 少女は隣のモニターへ視線を移した。通信ログ。観測塔。時刻表示。何度も見慣れた画面が並んでいる。 異常は見当たらない。 少女は椅子へ深く座り直す。机の上のペンを手に取ると、報告書作成画面を開いた。件名を入力する。数文字だけ表示される。手が止まる。換気扇が回る。 少女は入力欄を見つめる。 やがて全て消した。 数秒後、再び同じ画面を開く。 今度は何も入力しない。 机の隅には古い通行証が置かれていた。角だけが白く擦れている。少女は視線を向けるが、手には取らない。すぐに画面へ視線を戻した。 カン。 部屋の隅で工具箱が閉じられる。 少女は振り返る。 第五層観測炉整備主任の男が立ち上がっていた。作業着の袖には黒い油汚れが残り、工具箱の角は長い年月で丸く削れている。男は留め金を親指で押し込み、画面を一瞥した。 「へえ」 少女は何も言わない。 男は煙草を咥える。ポケットを探る。ライターが見つからない。煙草を戻す。 「ほう」 カツ。 小さな音がした。 少女は自分の手を見る。握ったペンの先が机に当たっていた。換気扇は回り続けている。男は画面を見る。少女も画面を見る。 数秒。 誰も何も言わない。 やがて少女は画面を指差した。 「ほう、ではありません」 男は黙ったまま表示を見つめる。 「そうか」 それだけ言うと工具箱を持ち直した。 「どちらへ?」 少女が問う。 男は歩き出す。 「仕事だ」 男は振り返らない。 扉が開く。 第五層から流れ込んだ暖かい空気が監視室を撫でた。 扉が閉まる。 再び換気扇だけが回っている。 少女は画面を見る。報告書作成画面は開いたままだった。入力欄は空白のまま。 観測炉の低い唸りが壁の向こうから聞こえてくる。机の隅で缶コーヒーが転がる。換気扇は回り続けていた。 『管理者信号 未検出』

異世界アイドル☆パラレルパレード NEO AKIBA OBSERVATION LOG 1-32 ― 未検出 ― 小説の断片が発見された。 観測局第四監視室には換気扇の音だけが響いていた。 机の隅には缶コーヒーが横倒しになっている。底には黒い液体が少しだけ残り、乾きかけた輪が机の表面に広がっていた。機械油の匂いは消えず、観測炉から送られてくる熱が部屋の空気を僅かに暖めている。 少女は画面を見る。 『管理者信号 未検出』 確認キーを押す。表示は変わらない。もう一度押す。それでも変わらない。少女は指を止める。数秒だけ画面を見つめ、再びキーへ触れる。 変わらない。 少女は隣のモニターへ視線を移した。通信ログ。観測塔。時刻表示。何度も見慣れた画面が並んでいる。 異常は見当たらない。 少女は椅子へ深く座り直す。机の上のペンを手に取ると、報告書作成画面を開いた。件名を入力する。数文字だけ表示される。手が止まる。換気扇が回る。 少女は入力欄を見つめる。 やがて全て消した。 数秒後、再び同じ画面を開く。 今度は何も入力しない。 机の隅には古い通行証が置かれていた。角だけが白く擦れている。少女は視線を向けるが、手には取らない。すぐに画面へ視線を戻した。 カン。 部屋の隅で工具箱が閉じられる。 少女は振り返る。 第五層観測炉整備主任の男が立ち上がっていた。作業着の袖には黒い油汚れが残り、工具箱の角は長い年月で丸く削れている。男は留め金を親指で押し込み、画面を一瞥した。 「へえ」 少女は何も言わない。 男は煙草を咥える。ポケットを探る。ライターが見つからない。煙草を戻す。 「ほう」 カツ。 小さな音がした。 少女は自分の手を見る。握ったペンの先が机に当たっていた。換気扇は回り続けている。男は画面を見る。少女も画面を見る。 数秒。 誰も何も言わない。 やがて少女は画面を指差した。 「ほう、ではありません」 男は黙ったまま表示を見つめる。 「そうか」 それだけ言うと工具箱を持ち直した。 「どちらへ?」 少女が問う。 男は歩き出す。 「仕事だ」 男は振り返らない。 扉が開く。 第五層から流れ込んだ暖かい空気が監視室を撫でた。 扉が閉まる。 再び換気扇だけが回っている。 少女は画面を見る。報告書作成画面は開いたままだった。入力欄は空白のまま。 観測炉の低い唸りが壁の向こうから聞こえてくる。机の隅で缶コーヒーが転がる。換気扇は回り続けていた。 『管理者信号 未検出』

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異世界アイドル☆パラレルパレード NEO AKIBA ARCHIVE LOG R-21 ―接舷― 船が止まったのは、夜明けとも呼べない時刻だった。 ネオアキバに朝は来ない。それでも、機関が唸りを止め、船体が軋みながら岸壁へ寄っていく感覚だけは、はっきりと五人の体に伝わった。 甲板の上から響いていた声が、次第に人の輪郭を持ち始める。積み下ろしの号令、鎖の擦れる音、重い荷が下ろされる鈍い響き。船底の暗闇に慣れた耳には、それすら眩しいほどの生活音だった。 上屋の灯りが、隙間から差し込んでくる。 青紫の、規則正しい光だった。観測塔から引かれた残晄灯りが、必要な分だけ、無駄なく灯っている。 「屋根の下は安全だ」 ソンミンが、隙間から目だけを覗かせて言った。作業員たちが、普通に荷を運んでいる。それだけで、ここが安全な場所だと分かった。 「だが、乗員確認に引っかかれば、それで終わる」 グンソは何も言わず、外套の内側にそっと触れた。押し花はまだそこにある。 乗員確認の声が響く。 「正規、十七名」 数字が読み上げられるたび、誰かが息を止めた。名簿にない五人分の呼吸は、その数字のどこにも含まれていない。 長い沈黙の後、確認が終わる。 「残晄灯りが切り替わる前だ」 ソンミンが低く言った。探索組は自分とヘジュ、ドンチョルの三人。灯りが変わりきる前に街の様子を見て、情報と、できれば食料を持ち帰る。 「テジュンは船に残れ。何かあれば、すぐ出せる状態にしておけ」 「分かってる」 テジュンの声は震えていなかったが、癖のある前髪に触れる指先だけが、落ち着かなく動いていた。 「戻らなかったら?」 「戻る」 ドンチョルが短く言った。それ以上の言葉は、誰も必要としなかった。 三人は上屋の陰を伝い、灯りの薄い区画を選んで岸壁の奥へ消えていく。その背中が見えなくなるまで、グンソは息を殺して見送っていた。 その夜から数日、五人は船底で息を潜めた。 やがて、港の奥にある古い水質調査船へ移った。 登録を失い、台帳からも消された船だった。誰も使わない場所こそが、今の自分たちにふさわしいと、誰かが言った。 窓には厚い布が掛けられ、船室には乾いたパンと水差しだけが置かれていた。だが日中、グンソは船内よりも、船外に立っていることが多かった。狭い船室の中にいると、息が詰まる気がした。 他の四人は、街の空気に慣れるため、あるいは次の当てを探すため、別々に動いていた。 外套の内側に触れる。押し花はまだそこにある。潮に負けず、崩れずに残っている。 青紫の残晄灯りが水面に揺れていた。天蓋の遥か向こう、黒い雲が渦を巻いているのが、歪んだ曲面越しに見えている。天蓋の内側に、雨はなかった。 誰かが、こちらへ向かって歩いてくる気配がした。 グンソは息を潜めた。刃物はない。あるのは、もう何の役にも立たない布切れと、押し花だけだった。 ―ARCHIVE LOG R-14 ―・無窮花―へそのまま続く――

異世界アイドル☆パラレルパレード NEO AKIBA ARCHIVE LOG R-21 ―接舷― 船が止まったのは、夜明けとも呼べない時刻だった。 ネオアキバに朝は来ない。それでも、機関が唸りを止め、船体が軋みながら岸壁へ寄っていく感覚だけは、はっきりと五人の体に伝わった。 甲板の上から響いていた声が、次第に人の輪郭を持ち始める。積み下ろしの号令、鎖の擦れる音、重い荷が下ろされる鈍い響き。船底の暗闇に慣れた耳には、それすら眩しいほどの生活音だった。 上屋の灯りが、隙間から差し込んでくる。 青紫の、規則正しい光だった。観測塔から引かれた残晄灯りが、必要な分だけ、無駄なく灯っている。 「屋根の下は安全だ」 ソンミンが、隙間から目だけを覗かせて言った。作業員たちが、普通に荷を運んでいる。それだけで、ここが安全な場所だと分かった。 「だが、乗員確認に引っかかれば、それで終わる」 グンソは何も言わず、外套の内側にそっと触れた。押し花はまだそこにある。 乗員確認の声が響く。 「正規、十七名」 数字が読み上げられるたび、誰かが息を止めた。名簿にない五人分の呼吸は、その数字のどこにも含まれていない。 長い沈黙の後、確認が終わる。 「残晄灯りが切り替わる前だ」 ソンミンが低く言った。探索組は自分とヘジュ、ドンチョルの三人。灯りが変わりきる前に街の様子を見て、情報と、できれば食料を持ち帰る。 「テジュンは船に残れ。何かあれば、すぐ出せる状態にしておけ」 「分かってる」 テジュンの声は震えていなかったが、癖のある前髪に触れる指先だけが、落ち着かなく動いていた。 「戻らなかったら?」 「戻る」 ドンチョルが短く言った。それ以上の言葉は、誰も必要としなかった。 三人は上屋の陰を伝い、灯りの薄い区画を選んで岸壁の奥へ消えていく。その背中が見えなくなるまで、グンソは息を殺して見送っていた。 その夜から数日、五人は船底で息を潜めた。 やがて、港の奥にある古い水質調査船へ移った。 登録を失い、台帳からも消された船だった。誰も使わない場所こそが、今の自分たちにふさわしいと、誰かが言った。 窓には厚い布が掛けられ、船室には乾いたパンと水差しだけが置かれていた。だが日中、グンソは船内よりも、船外に立っていることが多かった。狭い船室の中にいると、息が詰まる気がした。 他の四人は、街の空気に慣れるため、あるいは次の当てを探すため、別々に動いていた。 外套の内側に触れる。押し花はまだそこにある。潮に負けず、崩れずに残っている。 青紫の残晄灯りが水面に揺れていた。天蓋の遥か向こう、黒い雲が渦を巻いているのが、歪んだ曲面越しに見えている。天蓋の内側に、雨はなかった。 誰かが、こちらへ向かって歩いてくる気配がした。 グンソは息を潜めた。刃物はない。あるのは、もう何の役にも立たない布切れと、押し花だけだった。 ―ARCHIVE LOG R-14 ―・無窮花―へそのまま続く――

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異世界アイドル☆パラレルパレード NEO AKIBA ARCHIVE LOG R-19 ―港へ― 地下水路の奥で、五人の足音が重なっていた。 誰も振り返らなかった。 背後から追手の声は聞こえない。銃声も、怒号もない。 だが、それは安全を意味していなかった。 ムジンが作った時間が、まだ残っているだけだ。その時間が尽きれば、追手はここまで来る。 「止まるな」 先頭を歩くソンミンが言った。 グンソは返事をしなかった。 耳の奥では、あの音がまだ鳴っている。 一度目。 二度目。 そして、遠くなった三度目。 ムジンがまだ立っているのか。 倒れたのか。 生きているのか。 もう、確かめることはできない。 グンソの胸元には、テジュンが拾った記録片があった。焼け焦げた金属片。その表面には、消されかけた名前が残っている。 ソナ。 名前を守った者たちが、自分たちの名前を隠して逃げている。 その矛盾が、グンソの胸を締めつけていた。 「……ムジンは、俺たちに生きろと言った」 グンソが呟いた。 「だから生きる」 ソンミンは前を見たまま答えた。 「名前を隠してでもか」 「捨てるんじゃない」 暗い水路に、ソンミンの声が落ちる。 「取り戻すために隠すんだ」 その先に、薄い光が見えた。 風の音。 潮の匂い。 遠くで鳴る汽笛。 港が近い。 だが、出口の手前でヘジュが足を止めた。 「待って」 五人は崩れた配管の陰へ身を寄せた。 地上から、複数の靴音が聞こえる。 一定の間隔。 乱れのない歩幅。 人間が歩いているというより、決められた巡回手順そのものが通過しているようだった。 「地下側は?」 「異常なし。逃亡者は港へ向かった可能性が高い」 「船渠側の照合を強化しろ。未登録者の乗船を確認した場合、現場判断で拘束して構わない」 「危険度判定は?」 「保留。対象の身元が確定していない」 「身元がないのではなく、記録がないだけだ」 乾いた声が答えた。 「記録がない人間は、存在しないのと同じだ」 靴音が遠ざかっていく。 それでも五人は動かなかった。 やがて、港の汽笛が鳴った。 ソンミンが手を上げる。 「今だ」 地上へ出た瞬間、港の照合灯が一度だけ点滅した。 青紫の光が、五人の姿をなぞる。 顔。 衣服。 人数。 歩行速度。 灯りは人間を照らしているのではなかった。通過したものを、数字と判定へ変えている。 「見られたか」 ドンチョルが囁いた。 「違う」 ヘジュが港の柱を見た。 「照合された」 柱の表面に、淡い文字が浮かんだ。 《未登録集団の通過を確認》 《構成人数:五》 《危険度判定:保留》 警報は鳴らなかった。 追手も現れなかった。 それでも、五人はすでに港のどこかへ残されていた。 「走るな」 ソンミンが言った。 「走れば、逃亡行動として確定される」 五人は歩いた。 追われている人間ほど、追われていないふりをしなければならない。 港の作業員たちは、五人を見ても見ないふりをした。視線を合わせない。足を止めない。余計なことを尋ねない。 見ないこともまた、この場所で生きるための手順だった。 積み上げられた木箱。鉄籠。浄化用鉱石の袋。壁面に並ぶ管理番号。 荷物にも、人間にも、行き先と扱いが定められている。 番号を持たない者だけが、静かに消される。 「船が必要だ」 テジュンが言った。 「正規の船には乗れない」 ヘジュが答える。 「なら、正規ではない船を探す」 五人は貨物の影を縫うように、港の奥へ進んだ。 途中、グンソの足が止まった。 掲示板に、捜索指名の紙が貼られていた。 顔写真はない。 名前もない。 ただ、五人分の特徴だけが記されている。 《反国家活動の疑い》 《武装逃亡者》 《発見時、直ちに通報せよ》 その紙に、ムジンの名はなかった。 グンソはしばらく掲示板を見つめた。 存在しなかったことにされている。 だが、ムジンは確かにそこにいた。 銃声の前に立ち、五人を逃がすために時間を残した。 名前がないことは、何も残さなかったという意味ではない。 「グンソ」 ソンミンが呼んだ。 グンソは掲示板から目を離し、歩き出した。 港の一番奥。 照合灯の届かない古い船渠に、一隻の貨物船が係留されていた。 船体は黒く汚れ、塗装は剥がれている。 船名は削り取られ、側面には古い水質調査船の刻印だけが残っていた。登録番号も消されている。 それでも、船尾の機関室からは低い振動が伝わってきた。 古い機械が、苦しそうに息をしている。 「人の気配がない」 ドンチョルが船内を覗き込んだ。 「荷下ろしの途中で離れたのかもしれない」 テジュンが船体脇の木箱を調べた。 その隙間に、破れかけた積荷票が挟まっている。 テジュンが引き抜いた。 紙面には、かろうじて文字が残っていた。 《搬送先――アルトリウス》 「アルトリウス……?」 ドンチョルが呟いた。 「知っているか」 テジュンが尋ねる。 誰も答えなかった。 聞いたことのない名前だった。 それが都市なのか、港なのか、国なのかすら分からない。地図のどこにあるのか。どれほど遠いのか。そこに何があるのか。 何一つ、分からない。 「この船は、どこへ行くんだ」 グンソが言った。 ソンミンは積荷票を見つめた。 「分からない」 「分からない場所へ行くのか」 「分かる場所に残れば、捕まる」 ソンミンは船体の奥を見た。 「分からない場所なら、まだ追手も来ていない」 船体脇には、船底へ続く狭い整備扉があった。 錆びた鍵が掛かっている。 テジュンが工具を取り出し、音を立てないように鍵を外した。 扉の向こうから、湿った鉄と油の匂いが流れてくる。 人が五人、身を寄せれば隠れられる程度の空間だった。 「ここに入る」 ソンミンが言った。 グンソは動かなかった。 扉の向こうにあるのは、ただの暗闇ではない。 故郷を出ること。 名前を隠すこと。 ムジンを置いていくこと。 すべてが、その狭い船底の向こうにあった。 「グンソ」 テジュンが低く呼んだ。 「ムジンは、俺たちをここまで通した」 グンソは目を閉じた。 鉄扉の向こうから聞こえた、最後の衝撃音を思い出す。 胸元の記録片を強く握った。 「……入れ」 ソンミンが先に入った。 ヘジュ、ドンチョル、テジュンが続く。 最後にグンソが振り返った。 港の照合灯が、ひとつ点滅した。 《対象の移動を確認》 《危険度判定:保留》 警報は鳴らなかった。 だが、保留という言葉は許可ではない。 まだ処理されていないだけだ。 グンソは船底へ身を滑り込ませた。 扉が閉じる。 外の青紫の灯が細い線になり、やがて消えた。 狭い船底で、五人は息を殺した。 しばらくして、甲板の上から足音が響く。 「積み込みは終わったか」 「まもなくです」 「出港を急げ。今夜の潮を逃すな」 誰かが扉の近くを通り過ぎる。 足音が遠ざかる。 機関が低く唸った。 船体が震えた。 鉄板の隙間から差し込んでいた港の光が、ゆっくりと後ろへ流れていく。 船が岸を離れたのだ。 故郷が遠ざかっていく。 グンソは目を閉じた。 ムジンの声は、もう聞こえなかった。 それでも、胸の奥には残っている。 生きろ。 誰も知らない場所へ。 誰も知らない名前の街へ。 行先として残されていたのは、アルトリウスという文字だけだった。 それがどこにあるのか。 何が待っているのか。 五人には、何一つ分からない。 ただ、背後に残れば捕らえられる。 だから彼らは、行き先の分からない船の底で、初めて故郷の外へ出た。 記録の外側へ。 名前を失った者たちの、最初の航海へ。 機関の音が、暗闇の奥で深く鳴った。 五人を乗せた船は、未知の水路へ進み始めた。

異世界アイドル☆パラレルパレード NEO AKIBA ARCHIVE LOG R-19 ―港へ― 地下水路の奥で、五人の足音が重なっていた。 誰も振り返らなかった。 背後から追手の声は聞こえない。銃声も、怒号もない。 だが、それは安全を意味していなかった。 ムジンが作った時間が、まだ残っているだけだ。その時間が尽きれば、追手はここまで来る。 「止まるな」 先頭を歩くソンミンが言った。 グンソは返事をしなかった。 耳の奥では、あの音がまだ鳴っている。 一度目。 二度目。 そして、遠くなった三度目。 ムジンがまだ立っているのか。 倒れたのか。 生きているのか。 もう、確かめることはできない。 グンソの胸元には、テジュンが拾った記録片があった。焼け焦げた金属片。その表面には、消されかけた名前が残っている。 ソナ。 名前を守った者たちが、自分たちの名前を隠して逃げている。 その矛盾が、グンソの胸を締めつけていた。 「……ムジンは、俺たちに生きろと言った」 グンソが呟いた。 「だから生きる」 ソンミンは前を見たまま答えた。 「名前を隠してでもか」 「捨てるんじゃない」 暗い水路に、ソンミンの声が落ちる。 「取り戻すために隠すんだ」 その先に、薄い光が見えた。 風の音。 潮の匂い。 遠くで鳴る汽笛。 港が近い。 だが、出口の手前でヘジュが足を止めた。 「待って」 五人は崩れた配管の陰へ身を寄せた。 地上から、複数の靴音が聞こえる。 一定の間隔。 乱れのない歩幅。 人間が歩いているというより、決められた巡回手順そのものが通過しているようだった。 「地下側は?」 「異常なし。逃亡者は港へ向かった可能性が高い」 「船渠側の照合を強化しろ。未登録者の乗船を確認した場合、現場判断で拘束して構わない」 「危険度判定は?」 「保留。対象の身元が確定していない」 「身元がないのではなく、記録がないだけだ」 乾いた声が答えた。 「記録がない人間は、存在しないのと同じだ」 靴音が遠ざかっていく。 それでも五人は動かなかった。 やがて、港の汽笛が鳴った。 ソンミンが手を上げる。 「今だ」 地上へ出た瞬間、港の照合灯が一度だけ点滅した。 青紫の光が、五人の姿をなぞる。 顔。 衣服。 人数。 歩行速度。 灯りは人間を照らしているのではなかった。通過したものを、数字と判定へ変えている。 「見られたか」 ドンチョルが囁いた。 「違う」 ヘジュが港の柱を見た。 「照合された」 柱の表面に、淡い文字が浮かんだ。 《未登録集団の通過を確認》 《構成人数:五》 《危険度判定:保留》 警報は鳴らなかった。 追手も現れなかった。 それでも、五人はすでに港のどこかへ残されていた。 「走るな」 ソンミンが言った。 「走れば、逃亡行動として確定される」 五人は歩いた。 追われている人間ほど、追われていないふりをしなければならない。 港の作業員たちは、五人を見ても見ないふりをした。視線を合わせない。足を止めない。余計なことを尋ねない。 見ないこともまた、この場所で生きるための手順だった。 積み上げられた木箱。鉄籠。浄化用鉱石の袋。壁面に並ぶ管理番号。 荷物にも、人間にも、行き先と扱いが定められている。 番号を持たない者だけが、静かに消される。 「船が必要だ」 テジュンが言った。 「正規の船には乗れない」 ヘジュが答える。 「なら、正規ではない船を探す」 五人は貨物の影を縫うように、港の奥へ進んだ。 途中、グンソの足が止まった。 掲示板に、捜索指名の紙が貼られていた。 顔写真はない。 名前もない。 ただ、五人分の特徴だけが記されている。 《反国家活動の疑い》 《武装逃亡者》 《発見時、直ちに通報せよ》 その紙に、ムジンの名はなかった。 グンソはしばらく掲示板を見つめた。 存在しなかったことにされている。 だが、ムジンは確かにそこにいた。 銃声の前に立ち、五人を逃がすために時間を残した。 名前がないことは、何も残さなかったという意味ではない。 「グンソ」 ソンミンが呼んだ。 グンソは掲示板から目を離し、歩き出した。 港の一番奥。 照合灯の届かない古い船渠に、一隻の貨物船が係留されていた。 船体は黒く汚れ、塗装は剥がれている。 船名は削り取られ、側面には古い水質調査船の刻印だけが残っていた。登録番号も消されている。 それでも、船尾の機関室からは低い振動が伝わってきた。 古い機械が、苦しそうに息をしている。 「人の気配がない」 ドンチョルが船内を覗き込んだ。 「荷下ろしの途中で離れたのかもしれない」 テジュンが船体脇の木箱を調べた。 その隙間に、破れかけた積荷票が挟まっている。 テジュンが引き抜いた。 紙面には、かろうじて文字が残っていた。 《搬送先――アルトリウス》 「アルトリウス……?」 ドンチョルが呟いた。 「知っているか」 テジュンが尋ねる。 誰も答えなかった。 聞いたことのない名前だった。 それが都市なのか、港なのか、国なのかすら分からない。地図のどこにあるのか。どれほど遠いのか。そこに何があるのか。 何一つ、分からない。 「この船は、どこへ行くんだ」 グンソが言った。 ソンミンは積荷票を見つめた。 「分からない」 「分からない場所へ行くのか」 「分かる場所に残れば、捕まる」 ソンミンは船体の奥を見た。 「分からない場所なら、まだ追手も来ていない」 船体脇には、船底へ続く狭い整備扉があった。 錆びた鍵が掛かっている。 テジュンが工具を取り出し、音を立てないように鍵を外した。 扉の向こうから、湿った鉄と油の匂いが流れてくる。 人が五人、身を寄せれば隠れられる程度の空間だった。 「ここに入る」 ソンミンが言った。 グンソは動かなかった。 扉の向こうにあるのは、ただの暗闇ではない。 故郷を出ること。 名前を隠すこと。 ムジンを置いていくこと。 すべてが、その狭い船底の向こうにあった。 「グンソ」 テジュンが低く呼んだ。 「ムジンは、俺たちをここまで通した」 グンソは目を閉じた。 鉄扉の向こうから聞こえた、最後の衝撃音を思い出す。 胸元の記録片を強く握った。 「……入れ」 ソンミンが先に入った。 ヘジュ、ドンチョル、テジュンが続く。 最後にグンソが振り返った。 港の照合灯が、ひとつ点滅した。 《対象の移動を確認》 《危険度判定:保留》 警報は鳴らなかった。 だが、保留という言葉は許可ではない。 まだ処理されていないだけだ。 グンソは船底へ身を滑り込ませた。 扉が閉じる。 外の青紫の灯が細い線になり、やがて消えた。 狭い船底で、五人は息を殺した。 しばらくして、甲板の上から足音が響く。 「積み込みは終わったか」 「まもなくです」 「出港を急げ。今夜の潮を逃すな」 誰かが扉の近くを通り過ぎる。 足音が遠ざかる。 機関が低く唸った。 船体が震えた。 鉄板の隙間から差し込んでいた港の光が、ゆっくりと後ろへ流れていく。 船が岸を離れたのだ。 故郷が遠ざかっていく。 グンソは目を閉じた。 ムジンの声は、もう聞こえなかった。 それでも、胸の奥には残っている。 生きろ。 誰も知らない場所へ。 誰も知らない名前の街へ。 行先として残されていたのは、アルトリウスという文字だけだった。 それがどこにあるのか。 何が待っているのか。 五人には、何一つ分からない。 ただ、背後に残れば捕らえられる。 だから彼らは、行き先の分からない船の底で、初めて故郷の外へ出た。 記録の外側へ。 名前を失った者たちの、最初の航海へ。 機関の音が、暗闇の奥で深く鳴った。 五人を乗せた船は、未知の水路へ進み始めた。

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異世界アイドル☆パラレルパレード NEO AKIBA ARCHIVE LOG R-22 ―航路未定― 押し花の花弁は、何年も前に枯れている。それでも、色だけは失っていなかった。 グンソは、机の上の無窮花を見つめたまま、長いあいだ動かなかった。 船室の外では、港の生活音が続いている。荷を運ぶ台車。水面を擦る係留鎖。遠くで交わされる作業員の声。誰かが笑っている。普通の人間が、普通の夜を過ごしている音だった。 その時、港の奥で警告鐘が鳴った。 短く三度。 グンソの肩が跳ねた。手が、外套の内側へ伸びる。 オルフェンは気づいたが、何も言わなかった。言うより先に、グンソが口を開いた。 「聞くな」 「……はい」 鐘は、もう一度だけ鳴った。三度。間を置いて、三度。 グンソの指が、押し花を握りつぶしそうになっている。 オルフェンは、その手には触れなかった。代わりに机の上から紙を一枚取り、端だけを持って、花を包める形に折った。 「しまうなら、こちらを使ってください」 「触らないのか」 「大切なものに、勝手に触れてはいけないと思いますので」 グンソは、しばらくオルフェンを見ていた。それから自分の手で、押し花を紙の中へ戻した。オルフェンは、包み終わるまで待った。 「北方の音だ」 グンソが言った。 「警告鐘が、ですか」 「三度鳴る。少し間を置いて、また三度」 「同じ音ですか」 「似ているだけだ」 「では、同じではない」 グンソは答えなかった。紙に包まれた無窮花を、外套の内側へしまう。 「北方では、音にも意味がある。誰が聞いたか。どこで鳴ったか。何回鳴ったか。それで、人間の扱いが変わる」 「今の鐘は」 「港の警告だろう」 「北方とは関係ない」 「そうだ」 グンソは、自分の手を見た。 「だから、余計に怖い」 オルフェンは、少しだけ目を伏せた。それから、机の上の記録へ視線を戻す。 「ソナさんの居場所は、分かりません」 「……ああ」 「私も、正確な場所は知りません」 「資料を持っていたのに?」 「資料に書かれているのは、処置の記録と、収容された可能性だけです」 オルフェンは、書類筒から一枚の紙を取り出した。名前の代わりに、番号が並んでいる。 A-12。 B-07。 C-03。 紙の端には、赤い線が引かれていた。 「場所は」 「記載されていません」 「施設名は」 「ありません」 「担当者は」 「ありません」 グンソは、紙を見下ろした。 「それが北方の記録だ」 「はい」 「分からないのではない」 紙の端を、指で叩く。 「分からないようにされている」 オルフェンは、静かに頷いた。 「そうですね」 簡単には、否定しなかった。 グンソが航路図を引き寄せる。アルトリウスから北へ伸びる線。いくつもの国境線。記録の途切れた地域。その先には、広大な白紙が広がっていた。 「北方人民共和国は、建国からおよそ一千年になる」 鉛筆が、地図の上をゆっくり移動する。王朝が変わり、軍が国を握り、革命が起き、旗も支配者も入れ替わった土地を、線がなぞっていく。 「それでも国は残った」 「なぜですか」 「崩れるたびに、別の形になるからだ」 鉛筆が、国境線の上で止まった。 「城壁を壊せば地下へ逃げる。地下を塞げば山へ移る。王を殺せば別の王を立てる。軍を倒せば、記録官が新しい軍を作る」 「国家そのものが、逃げる」 「違う」 グンソは、オルフェンを見た。 「逃げた人間を、国家の中へ戻す」 鉛筆の先が、白紙の手前で止まった。 「この辺りに、村がある」 「地図には」 「載っていない。実在もしていない」 オルフェンは、口を挟まなかった。 「三年前だ。俺たちは、そこで飯を食った」 鉛筆が、白紙をわずかに掻いた。 「屋根があって、井戸があって、子どもが走っていた。年寄りが、南から来たのかと訊いた」 「答えたんですか」 「頷いた。一度だけだ」 グンソは、鉛筆を置いた。 「その晩、村の半分が消えた。家も、井戸も、子どもも。朝には草地に戻っていた」 「……人は」 「ソンミンが気づいて、五人で夜通し走った」 それ以上は言わなかった。 「道路標識が違う。川の流れが違う。村人の言葉も違う。それでも、全部偽物だ」 「見分ける方法は」 グンソは首を振った。 「本当の国境へ着くまでに、三度、国境を越えたと思わされる」 「三度」 「俺たちは二度で気づいた。運が良かっただけだ」 オルフェンは、地図を見つめた。 「北へ向かえば、見つかる可能性が――」 「北へ行けば見つかるわけじゃない」 グンソが遮った。 「北へ向かう道そのものが、罠だ」 オルフェンは、すぐに言葉を止めた。 「……そうですね。すみません。私は、まだ何も知りませんでした」 指先で、地図の白紙部分をなぞる。 「では、北へ行く方法ではなく、北へ行かない方法から考えます」 「どういう意味だ」 「偽の村へ入らない。偽の救助所へ行かない。記録に書かれた道を、そのまま信じない」 「それだけでは、どこにも進めない」 「そうですね」 「進めないぞ」 「では、進めないことを前提に考えます」 「前提にするのか」 「はい」 オルフェンは、少しだけ眉を下げた。 「進めると思い込んで捕まるより、進めない場所を一つずつ避けた方が、たぶん長く生きられます」 グンソは、初めてわずかに口元を緩めた。 「勇者らしくない」 「よく言われます」 「褒めていない」 「それも、よく言われます」 短い間があった。それきり、どちらも笑わなかった。 グンソが、外套の内側へ手を入れる。 「ソナが保護施設へ送られたことだけは、確かだ」 短い沈黙があった。 「それ以外は、何も」 さらに短い沈黙があった。 「今、生きているのかも」 オルフェンは、黙って聞いた。 グンソは、目を伏せた。 「覚えているのは、白い車だけだ」 「車両番号は」 「見えなかった」 「護送員の顔は」 「覚えていない」 「他には」 「……消毒薬の匂い」 オルフェンは、紙へ書き留める。 「それから、床の振動」 「振動」 「舗装された道を走っていなかった。何度も沈んだ。橋を渡った。長い鉄の音がした」 「線路ですか」 グンソは、首を振った。 「音は」 「警告音。三度鳴って、少し間があって、また三度」 オルフェンの筆が止まった。 「さっきの鐘と同じですね」 「似ているだけだ」 「はい」 オルフェンは、断定しなかった。ただ、その横に小さく記録した。 《三音。要確認》 「他には、何か」 返事はなかった。 顔を上げて、オルフェンは初めて、自分が何をしていたのかに気づいた。 紙の上には、匂いと、振動と、音が並んでいる。妹が連れていかれた夜が、そのまま項目になっていた。 オルフェンは、筆を置いた。 「……すみません。訊き方が悪かったです」 「構わない」 「構いません」 言ってから、続きを探した。見つからなかった。 「必ず見つかります、と言いかけました」 「言えばいい」 「言えません」 オルフェンは、自分の手元を見た。指が、わずかに強張っている。 「私は、まだ何も知らないので」 グンソは、答えなかった。 「それだけで、見つけられると思うか」 しばらくして、そう訊いた。 「それだけでは難しいと思います」 「では、何になる」 「探すための入口です」 グンソは、紙を見た。 名前。年齢。番号。消毒薬。白い車。鉄の音。三度の警告。 場所はない。施設名もない。 それでも、何もないわけではなかった。 「お前は、怖くないのか」 「怖いですよ」 オルフェンは、あっさり答えた。 「北方人民共和国へ入ることも。ソナさんを見つけられないことも。途中で捕まることも」 「それでも行くのか」 「怖いから、行かないという理由にはなりません」 紙を、丁寧に畳む。 「怖くないふりをすると、危険な場所を見落としそうなので」 「怖いまま行くのか」 「怖いまま考えます」 「考えて、どうにかなるか」 「どうにもならないこともあります」 オルフェンは、畳んだ紙の角を揃えた。 「でも、どうにかなるかもしれないことまで、最初から諦めたくはありません」 グンソは、押し花の包みを見た。 「管理者を信用しているのか」 「ええ。少なくとも、私が知る限り、この世界で最も信頼できるお方です」 「助けてくれると思うか」 「助けてくださるかどうかは、まだ分かりません」 グンソの目が細くなる。 オルフェンは、すぐに首を振った。 「信用できないという意味ではありません。私たちが、まだ助けを求めるための材料を持っていない、という意味です」 机の上には、名前と、断片的な記憶しかない。場所もない。経路もない。敵の配置も、罠の仕組みも見えていない。 「これで助けを求めに行くのは、少し失礼かもしれません」 「なぜ」 「管理者さんは、分からないものを分からないままにしない方なので」 オルフェンは、記録をまとめた。 「分からないことも、分からないまま持っていきます」 「それでいいのか」 「はい」 「なぜ」 「嘘をついて、分かったふりをするよりは」 紙を胸元へしまう。 「きっと、ずっといいです」 グンソは、しばらく彼を見ていた。 「管理者に会うのか」 「はい」 「何を話す」 「北方人民共和国へ入る方法を相談します」 「許可が出なかったら」 「困ります」 「それだけか」 「かなり困ります」 オルフェンは、真剣な顔で答えた。あまりに素直な返事に、グンソは思わず息を吐いた。 「お前は、本当に勇者なのか」 「私も、時々そう思います」 オルフェンは、扉へ向かった。 「ここで待っていてください」 「戻るのか」 「戻ります」 「約束できるのか」 オルフェンは、扉の前で振り返った。 「約束は、守れる人間だけがするものではありません」 グンソが黙る。 「守ろうとする人間も、していいものだと思います」 扉に手をかけて、一拍だけ、そのまま止まった。 それから開けた。港の冷たい空気が、船室へ流れ込んでくる。 オルフェンは外へ出た。扉が閉じる直前、グンソが呼び止める。 「オルフェン」 「はい」 「もし、見つからなかったら」 オルフェンは、少しだけ考えた。 「見つからなかった時に、考えましょう」 「今は考えないのか」 「今は、見つける方法を考えたいので」 グンソは、何も言わなかった。 オルフェンは、最後にもう一度だけ微笑んだ。そして、港の青紫の灯りの中へ歩いていった。 船室に残されたグンソは、机の上の記録を見つめた。 チェ・ソナ。十三歳。未登録歌姫。保護対象。 その名前の下には、まだ何も書かれていない。 それでも、初めて誰かが、その名前を番号へ戻さずに記録した。 グンソは、無窮花の包みを、紙の上へ置いた。 北方人民共和国。一千年を生き延びた国家。何度崩されても形を変え、どの国にも、どの軍にも、完全には倒されなかった国。 そのどこかに、妹がいる。 地図はない。道もない。名前と、消毒薬の匂いと、三度鳴る警告音だけが残っている。 港の外で、警告鐘が鳴った。 短く三度。 グンソは顔を上げた。 今度は、逃げなかった。

異世界アイドル☆パラレルパレード NEO AKIBA ARCHIVE LOG R-22 ―航路未定― 押し花の花弁は、何年も前に枯れている。それでも、色だけは失っていなかった。 グンソは、机の上の無窮花を見つめたまま、長いあいだ動かなかった。 船室の外では、港の生活音が続いている。荷を運ぶ台車。水面を擦る係留鎖。遠くで交わされる作業員の声。誰かが笑っている。普通の人間が、普通の夜を過ごしている音だった。 その時、港の奥で警告鐘が鳴った。 短く三度。 グンソの肩が跳ねた。手が、外套の内側へ伸びる。 オルフェンは気づいたが、何も言わなかった。言うより先に、グンソが口を開いた。 「聞くな」 「……はい」 鐘は、もう一度だけ鳴った。三度。間を置いて、三度。 グンソの指が、押し花を握りつぶしそうになっている。 オルフェンは、その手には触れなかった。代わりに机の上から紙を一枚取り、端だけを持って、花を包める形に折った。 「しまうなら、こちらを使ってください」 「触らないのか」 「大切なものに、勝手に触れてはいけないと思いますので」 グンソは、しばらくオルフェンを見ていた。それから自分の手で、押し花を紙の中へ戻した。オルフェンは、包み終わるまで待った。 「北方の音だ」 グンソが言った。 「警告鐘が、ですか」 「三度鳴る。少し間を置いて、また三度」 「同じ音ですか」 「似ているだけだ」 「では、同じではない」 グンソは答えなかった。紙に包まれた無窮花を、外套の内側へしまう。 「北方では、音にも意味がある。誰が聞いたか。どこで鳴ったか。何回鳴ったか。それで、人間の扱いが変わる」 「今の鐘は」 「港の警告だろう」 「北方とは関係ない」 「そうだ」 グンソは、自分の手を見た。 「だから、余計に怖い」 オルフェンは、少しだけ目を伏せた。それから、机の上の記録へ視線を戻す。 「ソナさんの居場所は、分かりません」 「……ああ」 「私も、正確な場所は知りません」 「資料を持っていたのに?」 「資料に書かれているのは、処置の記録と、収容された可能性だけです」 オルフェンは、書類筒から一枚の紙を取り出した。名前の代わりに、番号が並んでいる。 A-12。 B-07。 C-03。 紙の端には、赤い線が引かれていた。 「場所は」 「記載されていません」 「施設名は」 「ありません」 「担当者は」 「ありません」 グンソは、紙を見下ろした。 「それが北方の記録だ」 「はい」 「分からないのではない」 紙の端を、指で叩く。 「分からないようにされている」 オルフェンは、静かに頷いた。 「そうですね」 簡単には、否定しなかった。 グンソが航路図を引き寄せる。アルトリウスから北へ伸びる線。いくつもの国境線。記録の途切れた地域。その先には、広大な白紙が広がっていた。 「北方人民共和国は、建国からおよそ一千年になる」 鉛筆が、地図の上をゆっくり移動する。王朝が変わり、軍が国を握り、革命が起き、旗も支配者も入れ替わった土地を、線がなぞっていく。 「それでも国は残った」 「なぜですか」 「崩れるたびに、別の形になるからだ」 鉛筆が、国境線の上で止まった。 「城壁を壊せば地下へ逃げる。地下を塞げば山へ移る。王を殺せば別の王を立てる。軍を倒せば、記録官が新しい軍を作る」 「国家そのものが、逃げる」 「違う」 グンソは、オルフェンを見た。 「逃げた人間を、国家の中へ戻す」 鉛筆の先が、白紙の手前で止まった。 「この辺りに、村がある」 「地図には」 「載っていない。実在もしていない」 オルフェンは、口を挟まなかった。 「三年前だ。俺たちは、そこで飯を食った」 鉛筆が、白紙をわずかに掻いた。 「屋根があって、井戸があって、子どもが走っていた。年寄りが、南から来たのかと訊いた」 「答えたんですか」 「頷いた。一度だけだ」 グンソは、鉛筆を置いた。 「その晩、村の半分が消えた。家も、井戸も、子どもも。朝には草地に戻っていた」 「……人は」 「ソンミンが気づいて、五人で夜通し走った」 それ以上は言わなかった。 「道路標識が違う。川の流れが違う。村人の言葉も違う。それでも、全部偽物だ」 「見分ける方法は」 グンソは首を振った。 「本当の国境へ着くまでに、三度、国境を越えたと思わされる」 「三度」 「俺たちは二度で気づいた。運が良かっただけだ」 オルフェンは、地図を見つめた。 「北へ向かえば、見つかる可能性が――」 「北へ行けば見つかるわけじゃない」 グンソが遮った。 「北へ向かう道そのものが、罠だ」 オルフェンは、すぐに言葉を止めた。 「……そうですね。すみません。私は、まだ何も知りませんでした」 指先で、地図の白紙部分をなぞる。 「では、北へ行く方法ではなく、北へ行かない方法から考えます」 「どういう意味だ」 「偽の村へ入らない。偽の救助所へ行かない。記録に書かれた道を、そのまま信じない」 「それだけでは、どこにも進めない」 「そうですね」 「進めないぞ」 「では、進めないことを前提に考えます」 「前提にするのか」 「はい」 オルフェンは、少しだけ眉を下げた。 「進めると思い込んで捕まるより、進めない場所を一つずつ避けた方が、たぶん長く生きられます」 グンソは、初めてわずかに口元を緩めた。 「勇者らしくない」 「よく言われます」 「褒めていない」 「それも、よく言われます」 短い間があった。それきり、どちらも笑わなかった。 グンソが、外套の内側へ手を入れる。 「ソナが保護施設へ送られたことだけは、確かだ」 短い沈黙があった。 「それ以外は、何も」 さらに短い沈黙があった。 「今、生きているのかも」 オルフェンは、黙って聞いた。 グンソは、目を伏せた。 「覚えているのは、白い車だけだ」 「車両番号は」 「見えなかった」 「護送員の顔は」 「覚えていない」 「他には」 「……消毒薬の匂い」 オルフェンは、紙へ書き留める。 「それから、床の振動」 「振動」 「舗装された道を走っていなかった。何度も沈んだ。橋を渡った。長い鉄の音がした」 「線路ですか」 グンソは、首を振った。 「音は」 「警告音。三度鳴って、少し間があって、また三度」 オルフェンの筆が止まった。 「さっきの鐘と同じですね」 「似ているだけだ」 「はい」 オルフェンは、断定しなかった。ただ、その横に小さく記録した。 《三音。要確認》 「他には、何か」 返事はなかった。 顔を上げて、オルフェンは初めて、自分が何をしていたのかに気づいた。 紙の上には、匂いと、振動と、音が並んでいる。妹が連れていかれた夜が、そのまま項目になっていた。 オルフェンは、筆を置いた。 「……すみません。訊き方が悪かったです」 「構わない」 「構いません」 言ってから、続きを探した。見つからなかった。 「必ず見つかります、と言いかけました」 「言えばいい」 「言えません」 オルフェンは、自分の手元を見た。指が、わずかに強張っている。 「私は、まだ何も知らないので」 グンソは、答えなかった。 「それだけで、見つけられると思うか」 しばらくして、そう訊いた。 「それだけでは難しいと思います」 「では、何になる」 「探すための入口です」 グンソは、紙を見た。 名前。年齢。番号。消毒薬。白い車。鉄の音。三度の警告。 場所はない。施設名もない。 それでも、何もないわけではなかった。 「お前は、怖くないのか」 「怖いですよ」 オルフェンは、あっさり答えた。 「北方人民共和国へ入ることも。ソナさんを見つけられないことも。途中で捕まることも」 「それでも行くのか」 「怖いから、行かないという理由にはなりません」 紙を、丁寧に畳む。 「怖くないふりをすると、危険な場所を見落としそうなので」 「怖いまま行くのか」 「怖いまま考えます」 「考えて、どうにかなるか」 「どうにもならないこともあります」 オルフェンは、畳んだ紙の角を揃えた。 「でも、どうにかなるかもしれないことまで、最初から諦めたくはありません」 グンソは、押し花の包みを見た。 「管理者を信用しているのか」 「ええ。少なくとも、私が知る限り、この世界で最も信頼できるお方です」 「助けてくれると思うか」 「助けてくださるかどうかは、まだ分かりません」 グンソの目が細くなる。 オルフェンは、すぐに首を振った。 「信用できないという意味ではありません。私たちが、まだ助けを求めるための材料を持っていない、という意味です」 机の上には、名前と、断片的な記憶しかない。場所もない。経路もない。敵の配置も、罠の仕組みも見えていない。 「これで助けを求めに行くのは、少し失礼かもしれません」 「なぜ」 「管理者さんは、分からないものを分からないままにしない方なので」 オルフェンは、記録をまとめた。 「分からないことも、分からないまま持っていきます」 「それでいいのか」 「はい」 「なぜ」 「嘘をついて、分かったふりをするよりは」 紙を胸元へしまう。 「きっと、ずっといいです」 グンソは、しばらく彼を見ていた。 「管理者に会うのか」 「はい」 「何を話す」 「北方人民共和国へ入る方法を相談します」 「許可が出なかったら」 「困ります」 「それだけか」 「かなり困ります」 オルフェンは、真剣な顔で答えた。あまりに素直な返事に、グンソは思わず息を吐いた。 「お前は、本当に勇者なのか」 「私も、時々そう思います」 オルフェンは、扉へ向かった。 「ここで待っていてください」 「戻るのか」 「戻ります」 「約束できるのか」 オルフェンは、扉の前で振り返った。 「約束は、守れる人間だけがするものではありません」 グンソが黙る。 「守ろうとする人間も、していいものだと思います」 扉に手をかけて、一拍だけ、そのまま止まった。 それから開けた。港の冷たい空気が、船室へ流れ込んでくる。 オルフェンは外へ出た。扉が閉じる直前、グンソが呼び止める。 「オルフェン」 「はい」 「もし、見つからなかったら」 オルフェンは、少しだけ考えた。 「見つからなかった時に、考えましょう」 「今は考えないのか」 「今は、見つける方法を考えたいので」 グンソは、何も言わなかった。 オルフェンは、最後にもう一度だけ微笑んだ。そして、港の青紫の灯りの中へ歩いていった。 船室に残されたグンソは、机の上の記録を見つめた。 チェ・ソナ。十三歳。未登録歌姫。保護対象。 その名前の下には、まだ何も書かれていない。 それでも、初めて誰かが、その名前を番号へ戻さずに記録した。 グンソは、無窮花の包みを、紙の上へ置いた。 北方人民共和国。一千年を生き延びた国家。何度崩されても形を変え、どの国にも、どの軍にも、完全には倒されなかった国。 そのどこかに、妹がいる。 地図はない。道もない。名前と、消毒薬の匂いと、三度鳴る警告音だけが残っている。 港の外で、警告鐘が鳴った。 短く三度。 グンソは顔を上げた。 今度は、逃げなかった。

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異世界アイドル☆パラレルパレード NEO AKIBA ARCHIVE LOG R-20 ―船底― 船底に、時間の感覚はなかった。 昼も夜も、光では分からない。ただ機関の唸りが、腹の底に響く低い痛みとして続いているだけだった。 空気は湿り、鉄と油と、微かな死臭に似た匂いが混じっていた。誰かが以前ここで死んだのか、それとも運ばれてきた荷が腐っていたのか、確かめる気にはなれなかった。 グンソは膝を抱え、目を閉じていた。 眠っているわけではない。 眠れば、あの音を忘れてしまう気がした。 一度目。 二度目。 そして、間延びした三度目。 耳の奥で、その音は今も鳴っている。骨に響くような、鈍い衝撃音。あれが何だったのか、グンソは考えないようにしていた。考えれば、想像してしまう。 想像すれば、たぶん壊れる。 その数を、指の関節で数えていた。爪が掌に食い込んでいることに、しばらく気づかなかった。 「……何を数えてる」 ヘジュの声だった。掠れて、疲れきっている。 グンソは答えなかった。 「音か」 ヘジュは、それ以上聞かなかった。聞いても、答えが誰の救いにもならないことを知っていた。 暗闇の中で、五人はそれぞれの姿勢を保っていた。ソンミンは扉に背をつけ、刃物の柄に手をかけたまま動かない。ドンチョルは膝に顔を伏せ、時折、喉の奥で押し殺した音を漏らした。泣いているのか、それとも吐き気を堪えているのか、誰も確かめなかった。テジュンは記録片を握ったまま、指の皮が擦り切れるほど強く握り続けていた。 誰も、故郷の話をしなかった。 話せば、戻りたくなる。 戻れば、今度は自分の番になる。 だから、誰も口を開かなかった。沈黙は五人を守る最後の壁だった。 「……テジュン」 長い沈黙の後、ドンチョルが言った。声に張りがなかった。 「その紙、まだ持ってるのか」 テジュンは答える代わりに、握った拳を少しだけ開いた。 焼け焦げた記録片。端は炭化し、触れるだけで崩れそうだった。かろうじて読めるのは、消えかけた「ソナ」という二文字だけ。それ以外の文字は、熱で歪んで判読できない。 「捨てろとは言わない」 ドンチョルが目を伏せた。 「ただ、それを見るたび、俺たちがまだ何かを背負ってるんだと分かる」 「重いか」 「軽い方が、おかしいだろう」 「軽くなったら、それこそ終わりだ」 テジュンが低く言った。 「忘れた瞬間、俺たちはあいつらと同じになる」 誰も、その言葉を否定しなかった。 船体が、大きく傾いた。 外洋に出たのだと、誰かが呟いた。壁を伝う振動が変わり、機関の音が一段低く沈んだ。それからどれほどの間、その振動が続いたのか、誰も正確には言えない。世界は、故郷の外へ出た者が思うより、はるかに大きかった。 グンソは膝の間に顔を埋めた。 無窮花の押し花は、外套の裏地に縫い付けてある。潰さないように。失わないように。指先で、その硬い感触を確かめる。花弁はとうに乾き、触れるたびに崩れそうな脆さを保っていた。それでも、まだそこにある。 「兄さん、これ、押し花にしたの」 「帰る場所を、忘れないように」 あの時のソナの声を、グンソはまだ覚えている。震えていて、それでも笑おうとしていた声。 だが今、故郷はもう帰る場所ではない。 帰れば、殺される。あるいは、殺されるより先に、存在ごと消される。 名簿には、五人分の特徴だけが載っていた。 顔写真もなく、名前もなく。ただ身長、瘦せ型、逃走経路の推定、目撃時の服装。 存在しなかったことにされた人間が、存在しなかったことにされた船で、地図にすら残らない街へ向かっている。 生きているのに、記録から消されている。 それは、死ぬことよりも静かで、死ぬことよりも長く続く消え方だった。 「……テジュン」 グンソが、初めて自分から口を開いた。声が掠れていた。 「アルトリウスって、本当にあるのか」 「積荷票にはあった」 「地図にはない」 「地図が古いだけかもしれない」 テジュンの声には、確信がなかった。それでも、その言葉にすがるしかなかった。縋る場所がなければ、この暗闇の中で、五人は自分たちが本当に存在しているのかすら疑い始めていた。 どれだけ進んだのか、誰にも分からなかった。 食料は幾度も尽きかけ、そのたびに甲板の誰かがどこかで調達してきた。水も、燃料も、同じだった。積荷票に記された行き先はひとつなのに、船は幾つもの港に立ち寄り、また離れた。地図にない土地、灯継ぎの噂だけが残る土地、名前すら伝わっていない土地。世界は、グンソが思っていたよりも遥かに広かった。故郷から一歩も出たことのなかった頃には、想像もできない広さだった。 船底の暗闇は、時間の感覚を等しく腐らせていく。日数を数えることを、いつからか誰もしなくなった。数えても意味がないほど、長かった。 ただ、機関の音だけが、暗闇の中でずっと鳴り続けていた。何日も、何十日も。 一度、遠くで何かが軋む音がした。ソンミンが刃物の柄を握り直し、全員が息を止めた。 それは船体の継ぎ目が軋んだだけだった。誰も、それを声に出して確かめようとはしなかった。 そんな夜が、何度も繰り返された後―― 甲板の上から、誰かの声が響いた。くぐもって、遠く、それでも確かに聞こえた。 「見えたぞ」 その一言に、五人は同時に顔を上げた。 「灯りだ……街の灯りが、見える」 グンソは、狭い隙間に顔を押し付けた。錆びた金属の縁が頬を切ったが、痛みは感じなかった。 黒く濁った空の下、遠くに、青紫の光が滲んでいた。 一つではない。 無数の灯りが、まるで水面に映る星のように、連なって光っていた。 それは、故郷にあったどの灯りとも違っていた。 故郷の灯りは、暖かく、生活の匂いがした。この灯りは違う。冷たく、静かで、まるで誰かが息を潜めて灯し続けているような、そんな光だった。 ネオンでも、松明でもない。 祈りに似た、灯りだった。 「あれが……」 ドンチョルが息を呑んだ。目の縁が赤く濡れていた。 テジュンが、震える声で言った。 「あれが、アルトリウスか」 誰も答えられなかった。 だが、その光を見た瞬間、グンソの中で何かが冷たく凝固した。 存在を消された自分たちが、それでも進んだ先に、灯りがあった。 名前を失っても、灯りは消えていない。 それが希望なのか、それとも次に消される場所なのか、グンソには判断できなかった。この世界では、優しく見えるものほど、後で牙を剥くことを、もう嫌というほど知っていた。 グンソは、狭い隙間の水たまりに映った自分の顔を見た。 何ヶ月も梳かれていない黒髪が、潮を吸って束になり、頬に張り付いている。無精髭が伸び、頬はこけ、目の下には濃い影が沈んでいた。故郷を出た時の自分とは、もう別人のようだった。 それでも―― グンソは、外套の内側の押し花にそっと触れた。乾いた花弁が、指先でわずかに崩れる感触があった。 「……着いたら」 グンソが呟いた。声に、初めて何かが戻っていた。怒りに似た、何か。 「ここで、また名前を取り戻す」 ソンミンが、初めて小さく笑った。乾いた、痛みを堪えるような笑い方だった。 「取り戻すためにここまで来たんだろう」 「ムジンの分も」 ドンチョルが呟いた。 誰も、それに答えなかった。答える必要はなかった。 船は、青紫の灯りへ向かって進み続けた。 暗い海の向こうに、まだ誰も知らない街が――五人がまだ知らない何かを内側に隠した街が――静かに待っていた。 機関の音が、一段と深く鳴った。 まるで、船そのものが、これから起きることを知っていて、それでも進むしかないと諦めたかのように。

異世界アイドル☆パラレルパレード NEO AKIBA ARCHIVE LOG R-20 ―船底― 船底に、時間の感覚はなかった。 昼も夜も、光では分からない。ただ機関の唸りが、腹の底に響く低い痛みとして続いているだけだった。 空気は湿り、鉄と油と、微かな死臭に似た匂いが混じっていた。誰かが以前ここで死んだのか、それとも運ばれてきた荷が腐っていたのか、確かめる気にはなれなかった。 グンソは膝を抱え、目を閉じていた。 眠っているわけではない。 眠れば、あの音を忘れてしまう気がした。 一度目。 二度目。 そして、間延びした三度目。 耳の奥で、その音は今も鳴っている。骨に響くような、鈍い衝撃音。あれが何だったのか、グンソは考えないようにしていた。考えれば、想像してしまう。 想像すれば、たぶん壊れる。 その数を、指の関節で数えていた。爪が掌に食い込んでいることに、しばらく気づかなかった。 「……何を数えてる」 ヘジュの声だった。掠れて、疲れきっている。 グンソは答えなかった。 「音か」 ヘジュは、それ以上聞かなかった。聞いても、答えが誰の救いにもならないことを知っていた。 暗闇の中で、五人はそれぞれの姿勢を保っていた。ソンミンは扉に背をつけ、刃物の柄に手をかけたまま動かない。ドンチョルは膝に顔を伏せ、時折、喉の奥で押し殺した音を漏らした。泣いているのか、それとも吐き気を堪えているのか、誰も確かめなかった。テジュンは記録片を握ったまま、指の皮が擦り切れるほど強く握り続けていた。 誰も、故郷の話をしなかった。 話せば、戻りたくなる。 戻れば、今度は自分の番になる。 だから、誰も口を開かなかった。沈黙は五人を守る最後の壁だった。 「……テジュン」 長い沈黙の後、ドンチョルが言った。声に張りがなかった。 「その紙、まだ持ってるのか」 テジュンは答える代わりに、握った拳を少しだけ開いた。 焼け焦げた記録片。端は炭化し、触れるだけで崩れそうだった。かろうじて読めるのは、消えかけた「ソナ」という二文字だけ。それ以外の文字は、熱で歪んで判読できない。 「捨てろとは言わない」 ドンチョルが目を伏せた。 「ただ、それを見るたび、俺たちがまだ何かを背負ってるんだと分かる」 「重いか」 「軽い方が、おかしいだろう」 「軽くなったら、それこそ終わりだ」 テジュンが低く言った。 「忘れた瞬間、俺たちはあいつらと同じになる」 誰も、その言葉を否定しなかった。 船体が、大きく傾いた。 外洋に出たのだと、誰かが呟いた。壁を伝う振動が変わり、機関の音が一段低く沈んだ。それからどれほどの間、その振動が続いたのか、誰も正確には言えない。世界は、故郷の外へ出た者が思うより、はるかに大きかった。 グンソは膝の間に顔を埋めた。 無窮花の押し花は、外套の裏地に縫い付けてある。潰さないように。失わないように。指先で、その硬い感触を確かめる。花弁はとうに乾き、触れるたびに崩れそうな脆さを保っていた。それでも、まだそこにある。 「兄さん、これ、押し花にしたの」 「帰る場所を、忘れないように」 あの時のソナの声を、グンソはまだ覚えている。震えていて、それでも笑おうとしていた声。 だが今、故郷はもう帰る場所ではない。 帰れば、殺される。あるいは、殺されるより先に、存在ごと消される。 名簿には、五人分の特徴だけが載っていた。 顔写真もなく、名前もなく。ただ身長、瘦せ型、逃走経路の推定、目撃時の服装。 存在しなかったことにされた人間が、存在しなかったことにされた船で、地図にすら残らない街へ向かっている。 生きているのに、記録から消されている。 それは、死ぬことよりも静かで、死ぬことよりも長く続く消え方だった。 「……テジュン」 グンソが、初めて自分から口を開いた。声が掠れていた。 「アルトリウスって、本当にあるのか」 「積荷票にはあった」 「地図にはない」 「地図が古いだけかもしれない」 テジュンの声には、確信がなかった。それでも、その言葉にすがるしかなかった。縋る場所がなければ、この暗闇の中で、五人は自分たちが本当に存在しているのかすら疑い始めていた。 どれだけ進んだのか、誰にも分からなかった。 食料は幾度も尽きかけ、そのたびに甲板の誰かがどこかで調達してきた。水も、燃料も、同じだった。積荷票に記された行き先はひとつなのに、船は幾つもの港に立ち寄り、また離れた。地図にない土地、灯継ぎの噂だけが残る土地、名前すら伝わっていない土地。世界は、グンソが思っていたよりも遥かに広かった。故郷から一歩も出たことのなかった頃には、想像もできない広さだった。 船底の暗闇は、時間の感覚を等しく腐らせていく。日数を数えることを、いつからか誰もしなくなった。数えても意味がないほど、長かった。 ただ、機関の音だけが、暗闇の中でずっと鳴り続けていた。何日も、何十日も。 一度、遠くで何かが軋む音がした。ソンミンが刃物の柄を握り直し、全員が息を止めた。 それは船体の継ぎ目が軋んだだけだった。誰も、それを声に出して確かめようとはしなかった。 そんな夜が、何度も繰り返された後―― 甲板の上から、誰かの声が響いた。くぐもって、遠く、それでも確かに聞こえた。 「見えたぞ」 その一言に、五人は同時に顔を上げた。 「灯りだ……街の灯りが、見える」 グンソは、狭い隙間に顔を押し付けた。錆びた金属の縁が頬を切ったが、痛みは感じなかった。 黒く濁った空の下、遠くに、青紫の光が滲んでいた。 一つではない。 無数の灯りが、まるで水面に映る星のように、連なって光っていた。 それは、故郷にあったどの灯りとも違っていた。 故郷の灯りは、暖かく、生活の匂いがした。この灯りは違う。冷たく、静かで、まるで誰かが息を潜めて灯し続けているような、そんな光だった。 ネオンでも、松明でもない。 祈りに似た、灯りだった。 「あれが……」 ドンチョルが息を呑んだ。目の縁が赤く濡れていた。 テジュンが、震える声で言った。 「あれが、アルトリウスか」 誰も答えられなかった。 だが、その光を見た瞬間、グンソの中で何かが冷たく凝固した。 存在を消された自分たちが、それでも進んだ先に、灯りがあった。 名前を失っても、灯りは消えていない。 それが希望なのか、それとも次に消される場所なのか、グンソには判断できなかった。この世界では、優しく見えるものほど、後で牙を剥くことを、もう嫌というほど知っていた。 グンソは、狭い隙間の水たまりに映った自分の顔を見た。 何ヶ月も梳かれていない黒髪が、潮を吸って束になり、頬に張り付いている。無精髭が伸び、頬はこけ、目の下には濃い影が沈んでいた。故郷を出た時の自分とは、もう別人のようだった。 それでも―― グンソは、外套の内側の押し花にそっと触れた。乾いた花弁が、指先でわずかに崩れる感触があった。 「……着いたら」 グンソが呟いた。声に、初めて何かが戻っていた。怒りに似た、何か。 「ここで、また名前を取り戻す」 ソンミンが、初めて小さく笑った。乾いた、痛みを堪えるような笑い方だった。 「取り戻すためにここまで来たんだろう」 「ムジンの分も」 ドンチョルが呟いた。 誰も、それに答えなかった。答える必要はなかった。 船は、青紫の灯りへ向かって進み続けた。 暗い海の向こうに、まだ誰も知らない街が――五人がまだ知らない何かを内側に隠した街が――静かに待っていた。 機関の音が、一段と深く鳴った。 まるで、船そのものが、これから起きることを知っていて、それでも進むしかないと諦めたかのように。

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異世界アイドル☆パラレルパレード NEO AKIBA ARCHIVE LOG R-13 現在から四年前。 ―保護対象― その夜、管理者の部屋の扉が三度鳴った。 いつもの訪問なら、オルフェンは二度しか叩かない。 管理者は机の上の書類から目を上げた。 「入れ」 扉が開く。 オルフェンは白い外套を脱がずに立っていた。手には、黒い革の書類筒を抱えている。 「遅くにすみません、管理者さん」 「何だ」 「少し、見ていただきたいものがあります」 オルフェンは部屋へ入り、机の前まで歩いた。 書類筒の封を切る。 中から出てきたのは、数枚の名簿、折り畳まれた地図、赤い印の押された記録だった。 紙の端は何度も折られ、何枚かには乾いた泥が付いている。 管理者は一枚目を手に取った。 「どこから持ってきた」 「内部にいる方々からです」 「抵抗組織か」 「正式な名前は、聞いていません」 「なぜ、お前に渡した」 オルフェンは一枚の紙を机へ置いた。 救援要請。 収容区画、北部監視都市。 候補生、百二十七名。 処刑予定、三十一名。 家族との連絡、全面禁止。 外部協力者、確認出来ず。 管理者は紙を読み終えた。 「議会へ提出したか」 「はい」 「返答は」 「軍事介入は承認出来ない、と」 「理由は」 「全面戦争になる可能性がある。国境を越えれば、アルトリウスが攻撃対象になる。救助対象の人数も、正確には確認出来ない」 オルフェンは、そこで一度だけ息を止めた。 「だから、何もしないそうです」 管理者は書類を机へ置いた。 「お前は、何をしたい」 「相談に来ただけです」 「この資料を持って来て、相談だけか」 オルフェンは、いつものように笑おうとした。 けれど、口元は動かなかった。 「はい。私は、戦争を始めたいわけではありません」 管理者は机の上を片付け、空いた場所へ大きな地図を広げた。 その上に、小さな木製の駒を並べる。 黒い兵士。 銀色の観測塔。 青銀の騎士。 白い人形。 「どこだ」 「北部監視都市です」 オルフェンが地図の一点を指す。 管理者は黒い駒を城壁の前へ置いた。 「巡回兵」 次に、細長い魔導銃の駒を並べる。 「射手。正門には重装部隊」 オルフェンは青銀の騎士を正門へ動かした。 「では、ここから入ります」 「正門だ」 「分かりやすいので……」 いつもの軽さが、途中で消えた。 管理者は騎士を指で押し戻した。 「三分で囲まれる」 「では、地下水路は?」 「封鎖されている」 「こちらは?」 「崩れる」 「こちらは?」 「落とし穴がある」 オルフェンは、地図を見つめた。 「ずいぶん歓迎されていますね」 「歓迎ではない」 黒い駒が増えていく。 青銀の騎士は、逃げ道を失っていった。 オルフェンは書類へ手を伸ばす。 一枚目。 二枚目。 赤い印の押された三枚目。 保護対象者名簿。 名前の代わりに、番号が並んでいる。 A-12。 B-07。 C-03。 その中に、一枚だけ詳細な記録が挟まっていた。 A-12。八歳。 母親の呼称に強く反応。 夜間音声刺激、実施。 02:13。母親の音声記録を再生。 対象、三度発声。 「おかあさん」 発声器官の使用を停止。 音声記録の再生を禁止。 記憶刺激を遮断。 情緒安定処置、継続。 治療終了。 オルフェンの指が、紙の上で止まった。 「この“治療終了”は、何ですか?」 管理者は答えなかった。 オルフェンは別の紙をめくった。 死亡者一覧。 急性衰弱。 治療反応なし。 観測終了。 さらに裏面には、死亡後の処置が記録されていた。 神経組織、保存。 発声器官、摘出。 魔力反応部位、分離。 残余組織、廃棄。 オルフェンの手から、青銀の騎士駒が落ちた。 木の駒が地図の上を転がり、城壁の手前で止まる。 「治療終了というのは……」 「死亡だ」 「死亡と書かないんですか?」 声が、少し低くなっていた。 「死亡と書けば、誰かが責任を負う」 オルフェンはA-12の記録へ目を戻した。 「この子は、母親の声を聞いただけで治療が必要だったんですか?」 「母親を呼ぶ声が残っていると、命令に反応しなくなる」 「だから、声を消した」 「そうだ」 管理者は、別の欄を指で示した。 「発声器官の使用停止。記憶刺激の遮断。音声記録の再生禁止」 机の端には、本人同意書が添えられていた。 署名欄には文字ではなく、小さな指紋が押されている。 保護者欄には、すでに死亡した母親の指紋があった。 「この子は、同意したんですか?」 「指紋がある」 「文字も書けない子供が?」 「制度上は、同意したことになっている」 オルフェンの指が、紙の端をさらに強く押さえた。 「この指紋は、母親のものですね」 「ああ」 「亡くなった後に、同意したことにされた」 管理者は答えなかった。 オルフェンは白い人形を一つ取り上げた。 人形の裏側には、名前ではなくA-12と刻まれている。 それを収容区画へ置く。 「この子は、兵士になる前に、子供であることを奪われたんですね」 声は静かだった。 その静けさの奥に、抑え込まれた怒りがあった。 管理者は、家族への返却申請書を机へ置いた。 申請却下。 理由。 帰属意識の再形成により、適応率が低下する可能性。 オルフェンはその一文を読んだ。 「帰る場所があると、兵器になれないんですか?」 「帰る場所がある人間は、死ぬ命令にも疑問を持つ」 「だから、帰れなくする」 「ああ」 オルフェンは、白い人形を見つめた。 「議会は動かない」 「ああ」 「管理局も?」 「ああ」 「軍勢は?」 「ない」 「補給は?」 「ない」 オルフェンは、地図の上に並ぶ黒い駒を見た。 「それでも、この子たちは待っています」 「お前一人で行っても、全員は救えない」 「全員を救えないから、誰も救わないんですか?」 管理者は答えなかった。 オルフェンは白い人形を、収容区画から外へ向かう道へ動かした。 「この国は、壊さなければ止まりません」 「止めた後の責任はどうする」 「私が持ちます」 「お前一人でか」 「一人ではありません」 オルフェンは管理者を見た。 「ここに、管理者さんがいますので」 短い沈黙が落ちた。 オルフェンは視線を逸らし、青銀の騎士を地図の端へ戻した。 アルトリウスの側へ。 「今回は、議会の判断を待つしかありませんね」 管理者が顔を上げる。 「待つのか」 「はい」 オルフェンは書類をまとめた。 「明日は水車の修理を手伝う約束がありますので」 「そうか」 「それに、私一人で国境を越えるのは無理でしょう」 「珍しく分かっているな」 「管理者さんに、何度も言われていますから」 オルフェンは立ち上がった。 「遅くまでありがとうございました、管理者さん」 「何の礼だ」 「作戦会議に付き合ってくださったので」 「作戦ではない」 「そうでしたね」 「おやすみなさい」 「おやすみ」 オルフェンは扉へ向かった。 その直前、机の上を振り返る。 青銀の騎士は、アルトリウスの側へ戻っている。 A-12だけが、収容区画の前に残っていた。 オルフェンは何も言わず、部屋を出ていった。 扉が閉じる。 青紫の灯りが、保護対象者名簿を照らしていた。

異世界アイドル☆パラレルパレード NEO AKIBA ARCHIVE LOG R-13 現在から四年前。 ―保護対象― その夜、管理者の部屋の扉が三度鳴った。 いつもの訪問なら、オルフェンは二度しか叩かない。 管理者は机の上の書類から目を上げた。 「入れ」 扉が開く。 オルフェンは白い外套を脱がずに立っていた。手には、黒い革の書類筒を抱えている。 「遅くにすみません、管理者さん」 「何だ」 「少し、見ていただきたいものがあります」 オルフェンは部屋へ入り、机の前まで歩いた。 書類筒の封を切る。 中から出てきたのは、数枚の名簿、折り畳まれた地図、赤い印の押された記録だった。 紙の端は何度も折られ、何枚かには乾いた泥が付いている。 管理者は一枚目を手に取った。 「どこから持ってきた」 「内部にいる方々からです」 「抵抗組織か」 「正式な名前は、聞いていません」 「なぜ、お前に渡した」 オルフェンは一枚の紙を机へ置いた。 救援要請。 収容区画、北部監視都市。 候補生、百二十七名。 処刑予定、三十一名。 家族との連絡、全面禁止。 外部協力者、確認出来ず。 管理者は紙を読み終えた。 「議会へ提出したか」 「はい」 「返答は」 「軍事介入は承認出来ない、と」 「理由は」 「全面戦争になる可能性がある。国境を越えれば、アルトリウスが攻撃対象になる。救助対象の人数も、正確には確認出来ない」 オルフェンは、そこで一度だけ息を止めた。 「だから、何もしないそうです」 管理者は書類を机へ置いた。 「お前は、何をしたい」 「相談に来ただけです」 「この資料を持って来て、相談だけか」 オルフェンは、いつものように笑おうとした。 けれど、口元は動かなかった。 「はい。私は、戦争を始めたいわけではありません」 管理者は机の上を片付け、空いた場所へ大きな地図を広げた。 その上に、小さな木製の駒を並べる。 黒い兵士。 銀色の観測塔。 青銀の騎士。 白い人形。 「どこだ」 「北部監視都市です」 オルフェンが地図の一点を指す。 管理者は黒い駒を城壁の前へ置いた。 「巡回兵」 次に、細長い魔導銃の駒を並べる。 「射手。正門には重装部隊」 オルフェンは青銀の騎士を正門へ動かした。 「では、ここから入ります」 「正門だ」 「分かりやすいので……」 いつもの軽さが、途中で消えた。 管理者は騎士を指で押し戻した。 「三分で囲まれる」 「では、地下水路は?」 「封鎖されている」 「こちらは?」 「崩れる」 「こちらは?」 「落とし穴がある」 オルフェンは、地図を見つめた。 「ずいぶん歓迎されていますね」 「歓迎ではない」 黒い駒が増えていく。 青銀の騎士は、逃げ道を失っていった。 オルフェンは書類へ手を伸ばす。 一枚目。 二枚目。 赤い印の押された三枚目。 保護対象者名簿。 名前の代わりに、番号が並んでいる。 A-12。 B-07。 C-03。 その中に、一枚だけ詳細な記録が挟まっていた。 A-12。八歳。 母親の呼称に強く反応。 夜間音声刺激、実施。 02:13。母親の音声記録を再生。 対象、三度発声。 「おかあさん」 発声器官の使用を停止。 音声記録の再生を禁止。 記憶刺激を遮断。 情緒安定処置、継続。 治療終了。 オルフェンの指が、紙の上で止まった。 「この“治療終了”は、何ですか?」 管理者は答えなかった。 オルフェンは別の紙をめくった。 死亡者一覧。 急性衰弱。 治療反応なし。 観測終了。 さらに裏面には、死亡後の処置が記録されていた。 神経組織、保存。 発声器官、摘出。 魔力反応部位、分離。 残余組織、廃棄。 オルフェンの手から、青銀の騎士駒が落ちた。 木の駒が地図の上を転がり、城壁の手前で止まる。 「治療終了というのは……」 「死亡だ」 「死亡と書かないんですか?」 声が、少し低くなっていた。 「死亡と書けば、誰かが責任を負う」 オルフェンはA-12の記録へ目を戻した。 「この子は、母親の声を聞いただけで治療が必要だったんですか?」 「母親を呼ぶ声が残っていると、命令に反応しなくなる」 「だから、声を消した」 「そうだ」 管理者は、別の欄を指で示した。 「発声器官の使用停止。記憶刺激の遮断。音声記録の再生禁止」 机の端には、本人同意書が添えられていた。 署名欄には文字ではなく、小さな指紋が押されている。 保護者欄には、すでに死亡した母親の指紋があった。 「この子は、同意したんですか?」 「指紋がある」 「文字も書けない子供が?」 「制度上は、同意したことになっている」 オルフェンの指が、紙の端をさらに強く押さえた。 「この指紋は、母親のものですね」 「ああ」 「亡くなった後に、同意したことにされた」 管理者は答えなかった。 オルフェンは白い人形を一つ取り上げた。 人形の裏側には、名前ではなくA-12と刻まれている。 それを収容区画へ置く。 「この子は、兵士になる前に、子供であることを奪われたんですね」 声は静かだった。 その静けさの奥に、抑え込まれた怒りがあった。 管理者は、家族への返却申請書を机へ置いた。 申請却下。 理由。 帰属意識の再形成により、適応率が低下する可能性。 オルフェンはその一文を読んだ。 「帰る場所があると、兵器になれないんですか?」 「帰る場所がある人間は、死ぬ命令にも疑問を持つ」 「だから、帰れなくする」 「ああ」 オルフェンは、白い人形を見つめた。 「議会は動かない」 「ああ」 「管理局も?」 「ああ」 「軍勢は?」 「ない」 「補給は?」 「ない」 オルフェンは、地図の上に並ぶ黒い駒を見た。 「それでも、この子たちは待っています」 「お前一人で行っても、全員は救えない」 「全員を救えないから、誰も救わないんですか?」 管理者は答えなかった。 オルフェンは白い人形を、収容区画から外へ向かう道へ動かした。 「この国は、壊さなければ止まりません」 「止めた後の責任はどうする」 「私が持ちます」 「お前一人でか」 「一人ではありません」 オルフェンは管理者を見た。 「ここに、管理者さんがいますので」 短い沈黙が落ちた。 オルフェンは視線を逸らし、青銀の騎士を地図の端へ戻した。 アルトリウスの側へ。 「今回は、議会の判断を待つしかありませんね」 管理者が顔を上げる。 「待つのか」 「はい」 オルフェンは書類をまとめた。 「明日は水車の修理を手伝う約束がありますので」 「そうか」 「それに、私一人で国境を越えるのは無理でしょう」 「珍しく分かっているな」 「管理者さんに、何度も言われていますから」 オルフェンは立ち上がった。 「遅くまでありがとうございました、管理者さん」 「何の礼だ」 「作戦会議に付き合ってくださったので」 「作戦ではない」 「そうでしたね」 「おやすみなさい」 「おやすみ」 オルフェンは扉へ向かった。 その直前、机の上を振り返る。 青銀の騎士は、アルトリウスの側へ戻っている。 A-12だけが、収容区画の前に残っていた。 オルフェンは何も言わず、部屋を出ていった。 扉が閉じる。 青紫の灯りが、保護対象者名簿を照らしていた。

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異世界アイドル☆パラレルパレード NEO AKIBA ARCHIVE LOG R-15 ―ソナ― 面会の許可が下りたのは、申請から四か月目だった。 一度目は該当者不明。二度目は収容記録の不備。三度目は、必要性が認められないとして却下された。 ソナがどこにいるのか、グンソには知らされていなかった。 今回、許可を通したのは施設内の協力者だった。書類を差し替え、面会理由を別の収容者の親族訪問へ紛れ込ませたらしい。 誰なのか、グンソは知らない。知れば、その人間まで消される。 施設は病院に似ていた。白い壁、狭い窓、整えられた植木。 だが、ここは病院ではない。 人間を分類し、記録し、必要な形へ整える場所だった。 面会室の前で、記録官が言った。 「武器は」 「ない」 「通信具は」 「預けた」 「名前で呼ぶことも認められません。会話は記録されます」 グンソは記録官を見た。 「妹だ」 「関係を聞いています」 「妹だ」 扉が開いた。 ソナは、面会室の中央に座っていた。 白い服。整えられた髪。記憶の中の少女より、ずっと細くなっている。崩れないよう、椅子へ身体を預けていた。 グンソが入ると、ソナはゆっくり顔を上げた。 「……兄さん?」 声は細かった。 グンソは、ようやく言葉を絞り出した。 「……背、伸びたな」 ソナはわずかに目を瞬かせた。 「……うん。昔は、兄さんの肩にも届かなかったのにね」 「そうだったな」 二人は机を挟んで向かい合った。 「久しぶりだな」 「……うん」 昔なら、ソナは沈黙を嫌がった。兄の隣で、何時間でも話していた。 今は、話しても許される内容を探しているようだった。 「ずっと探していた」 「……そう」 「場所を教えてもらえなかった。面会も何度も申請した」 「……そうなんだ」 感情がないのではない。感情が、言葉になる前に止められている。 グンソは監視窓へ目を向けた。 「ここでは、よくしてもらっているか」 ソナは答えなかった。黒い窓を見て、ほんの少し首を横に振る。 グンソが手を伸ばしかけると、ソナの身体が反射的に引いた。 手が、空中で止まる。 「……ごめん」 「謝るな」 「でも……」 「謝るな」 ソナは俯き、かすかに笑った。 「兄さん、変わらないね」 「お前は変わった」 言ってから、グンソは後悔した。 その笑顔は、誰かに教えられたものを再現しているようだった。 グンソは、あの日を思い出した。 床へ押さえつけられた自分。白い識別帯を巻かれるソナ。 「兄さん! 帰って!」 自分を拒絶したのではない。兄まで奪われることを恐れていたのだ。 グンソは、現在の面会室で言った。 「家に帰ろう」 「……帰れないよ」 「帰れる。俺が連れて帰る」 「兄さんには……無理」 「無理でも行く」 「ここは、そういう場所じゃない」 「なら、俺が壊す」 その瞬間、ソナの瞳に恐怖が浮かんだ。 自分へ向けられたものではない。 グンソまで、この場所に奪われることへの恐怖だった。 「兄さん……帰って」 「嫌だ」 「帰って……お願い」 扉の外で鍵が回った。 刑務官が入り、ソナの腕を掴む。 「面会を終了します」 「まだ時間がある」 「規定です」 グンソは立ち上がった。 「触るな」 監視窓の向こうで、複数の気配が動いた。 ソナの声が震える。 「兄さん、帰って!」 もう二度と会えないかもしれない。名前を呼ぶことさえ、ここでは記録される。 それでも、グンソは声に出した。 「ソナ」 記録官が顔を上げる。 ソナの目が揺れた。 「帰って、兄さん……!」 刑務官がソナを引いていく。グンソは手を伸ばした。 だが、ソナは首を振った。 扉が閉じる。 最後まで、ソナはグンソを見ていた。 唇が動く。 声は届かなかった。 それでも、グンソには分かった。 あの日と同じだった。 帰って、と言っている。 自分を守ろうとしている。 ソナの姿が、扉の向こうへ消えた。 グンソは動けなかった。 ようやく会えたのに、交わせた言葉は昔の半分にも満たなかった。 ただ、消えなかった妹の名前だけが、胸の奥で繰り返されていた。 ソナ。

異世界アイドル☆パラレルパレード NEO AKIBA ARCHIVE LOG R-15 ―ソナ― 面会の許可が下りたのは、申請から四か月目だった。 一度目は該当者不明。二度目は収容記録の不備。三度目は、必要性が認められないとして却下された。 ソナがどこにいるのか、グンソには知らされていなかった。 今回、許可を通したのは施設内の協力者だった。書類を差し替え、面会理由を別の収容者の親族訪問へ紛れ込ませたらしい。 誰なのか、グンソは知らない。知れば、その人間まで消される。 施設は病院に似ていた。白い壁、狭い窓、整えられた植木。 だが、ここは病院ではない。 人間を分類し、記録し、必要な形へ整える場所だった。 面会室の前で、記録官が言った。 「武器は」 「ない」 「通信具は」 「預けた」 「名前で呼ぶことも認められません。会話は記録されます」 グンソは記録官を見た。 「妹だ」 「関係を聞いています」 「妹だ」 扉が開いた。 ソナは、面会室の中央に座っていた。 白い服。整えられた髪。記憶の中の少女より、ずっと細くなっている。崩れないよう、椅子へ身体を預けていた。 グンソが入ると、ソナはゆっくり顔を上げた。 「……兄さん?」 声は細かった。 グンソは、ようやく言葉を絞り出した。 「……背、伸びたな」 ソナはわずかに目を瞬かせた。 「……うん。昔は、兄さんの肩にも届かなかったのにね」 「そうだったな」 二人は机を挟んで向かい合った。 「久しぶりだな」 「……うん」 昔なら、ソナは沈黙を嫌がった。兄の隣で、何時間でも話していた。 今は、話しても許される内容を探しているようだった。 「ずっと探していた」 「……そう」 「場所を教えてもらえなかった。面会も何度も申請した」 「……そうなんだ」 感情がないのではない。感情が、言葉になる前に止められている。 グンソは監視窓へ目を向けた。 「ここでは、よくしてもらっているか」 ソナは答えなかった。黒い窓を見て、ほんの少し首を横に振る。 グンソが手を伸ばしかけると、ソナの身体が反射的に引いた。 手が、空中で止まる。 「……ごめん」 「謝るな」 「でも……」 「謝るな」 ソナは俯き、かすかに笑った。 「兄さん、変わらないね」 「お前は変わった」 言ってから、グンソは後悔した。 その笑顔は、誰かに教えられたものを再現しているようだった。 グンソは、あの日を思い出した。 床へ押さえつけられた自分。白い識別帯を巻かれるソナ。 「兄さん! 帰って!」 自分を拒絶したのではない。兄まで奪われることを恐れていたのだ。 グンソは、現在の面会室で言った。 「家に帰ろう」 「……帰れないよ」 「帰れる。俺が連れて帰る」 「兄さんには……無理」 「無理でも行く」 「ここは、そういう場所じゃない」 「なら、俺が壊す」 その瞬間、ソナの瞳に恐怖が浮かんだ。 自分へ向けられたものではない。 グンソまで、この場所に奪われることへの恐怖だった。 「兄さん……帰って」 「嫌だ」 「帰って……お願い」 扉の外で鍵が回った。 刑務官が入り、ソナの腕を掴む。 「面会を終了します」 「まだ時間がある」 「規定です」 グンソは立ち上がった。 「触るな」 監視窓の向こうで、複数の気配が動いた。 ソナの声が震える。 「兄さん、帰って!」 もう二度と会えないかもしれない。名前を呼ぶことさえ、ここでは記録される。 それでも、グンソは声に出した。 「ソナ」 記録官が顔を上げる。 ソナの目が揺れた。 「帰って、兄さん……!」 刑務官がソナを引いていく。グンソは手を伸ばした。 だが、ソナは首を振った。 扉が閉じる。 最後まで、ソナはグンソを見ていた。 唇が動く。 声は届かなかった。 それでも、グンソには分かった。 あの日と同じだった。 帰って、と言っている。 自分を守ろうとしている。 ソナの姿が、扉の向こうへ消えた。 グンソは動けなかった。 ようやく会えたのに、交わせた言葉は昔の半分にも満たなかった。 ただ、消えなかった妹の名前だけが、胸の奥で繰り返されていた。 ソナ。

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異世界アイドル☆パラレルパレード NEO AKIBA ARCHIVE LOG R-16 ―完全包囲網― 面会室を出た時点で、グンソは尾行されていることに気づいていた。施設の出口。階段の踊り場。交差路の向こう。一定の距離を保った靴音が、近づきすぎず、離れすぎずについてくる。 ソナと面会した人間が、何も追われずに帰れるはずがない。 グンソは歩調を変えなかった。逃げるためではなく、仲間のいる場所へ戻るために歩いていた。自分が尾を引き受けたまま戻らなければ、特高は周辺の家を調べ、店主を脅し、関係のない人間まで連れていく。だから戻る。それが、面会を許された時点で決まっていた最後の手順だった。 南側の旧居住区。青紫の灯が途切れた細い路地の先に、古い借家がある。表札はなく、窓には布が掛かり、玄関灯も消えていた。 グンソは扉を二度、短く叩いた。間を置いて、もう一度。 内側から鍵が外れた。 扉を開けたドンチョルが、グンソを見た。 「遅かったな」 「見られている」 「知っている」 家の中には、ソンミン、ヘジュ、テジュンがいた。机は片付けられ、壁に貼られていた地図は外されている。床には小さな鞄が並び、棚の奥では書類を燃やす炉が赤くなっていた。 ここはもう、普段のアジトではない。 すでに、終わりの形へ変わっていた。 「全員いるのか」 グンソが尋ねる。 「必要な人間はな」 ヘジュの横に、見慣れない男が立っていた。背が高く、短く刈った髪。眉からこめかみへ伸びる古い傷。壁にもたれず、両足を床へ置き、いつでも動ける姿勢を崩していない。 「誰だ」 「カン・ムジン。旧国家軍の近接戦闘教導師範だ」 ムジンはグンソを一度見ただけで、玄関へ視線を戻した。握手もしなければ、挨拶もしない。 「外に、少なくとも八人。裏にもいる」 ドンチョルが床板の下から銃を取り出した。 「早いな」 「早くない。面会が終わった時から、向こうはこの家を囲んでいる」 ソンミンは小さな金属筒をテジュンへ渡した。テジュンが筒の中から記録片を取り出し、炉へ投げ込む。青い炎が一瞬だけ揺れ、記録片の表面に浮かんでいた文字が消えていった。 「面会申請の経路は消した。施設内部の協力者へ届く連絡も切った。ここを調べられても、次の拠点へ繋がるものは残らない」 「なら、俺も残る」 グンソが言った。 ヘジュが小さく笑う。 「それを言うと思った」 「六人いれば戦える」 「戦うために集まったんじゃない」 ソンミンが答えた。 「お前を通すために集まった」 その時、外で靴音が止まった。 玄関前だけではない。裏口にも、人の気配が散っていく。家の周囲を囲むように、複数の足音が位置を変えていた。 通りの灯が、端から順番に消えていく。 逃げ道を塞ぐためだ。 最後に、玄関前の灯だけが残った。青紫の光が窓布の隙間から差し込み、部屋の中にいる全員の顔を薄く照らしていた。 扉の向こうから、低い声が響く。 「中にいる者へ告げる。この家は、国家転覆に関わる未登録組織の活動拠点として確認された。抵抗しなければ、処分手続きは簡略化する」 ヘジュが銃を構えた。 「処分手続きって何だ」 扉の向こうの男は、感情のない声で答えた。 「名前が消えるだけだ」 短い沈黙が落ちる。 「死んだことにもならない。記録上、最初から存在しなかったことになる」 ソンミンがグンソへ視線を向けた。その目に、恐怖はなかった。自分たちがここで何をするのかを、ずっと前から決めていた人間の目だった。 「始めるぞ」 「俺も残る」 「お前は次へ行く」 「嫌だ」 「これは命令だ」 「嫌だ」 玄関の向こうで、金属を装填する音が重なった。 ムジンが一歩、廊下へ出る。彼はグンソを見ず、裏口へ続く暗い通路へ目を向けた。 「グンソ」 「何だ」 「お前は、まだ使える」 「仲間を置いて逃げろと言うのか」 「違う」 ムジンは、暗い通路の先を見たまま言った。 「俺たちが、お前を通す」 直後、玄関の向こうで小さな金属音がした。 次の瞬間、家全体を揺るがす轟音が響いた。 玄関が吹き飛ぶ。 白い煙と破片が家の中へ流れ込み、青紫の灯が激しく揺れた。ヘジュが銃を抜き、ドンチョルが窓際へ走る。テジュンは炉の蓋を閉じ、ソンミンがグンソの肩を掴んだ。 煙の向こうから、特高警察たちが踏み込んでくる。 その先頭に立つ男の影が、炎の向こうでゆっくりと姿を現した。 ソンミンが、グンソの肩を強く押す。 「行け」 グンソは動かなかった。 「行け!」 完全に閉じられた夜の中で、銃声が夜を引き裂いた。

異世界アイドル☆パラレルパレード NEO AKIBA ARCHIVE LOG R-16 ―完全包囲網― 面会室を出た時点で、グンソは尾行されていることに気づいていた。施設の出口。階段の踊り場。交差路の向こう。一定の距離を保った靴音が、近づきすぎず、離れすぎずについてくる。 ソナと面会した人間が、何も追われずに帰れるはずがない。 グンソは歩調を変えなかった。逃げるためではなく、仲間のいる場所へ戻るために歩いていた。自分が尾を引き受けたまま戻らなければ、特高は周辺の家を調べ、店主を脅し、関係のない人間まで連れていく。だから戻る。それが、面会を許された時点で決まっていた最後の手順だった。 南側の旧居住区。青紫の灯が途切れた細い路地の先に、古い借家がある。表札はなく、窓には布が掛かり、玄関灯も消えていた。 グンソは扉を二度、短く叩いた。間を置いて、もう一度。 内側から鍵が外れた。 扉を開けたドンチョルが、グンソを見た。 「遅かったな」 「見られている」 「知っている」 家の中には、ソンミン、ヘジュ、テジュンがいた。机は片付けられ、壁に貼られていた地図は外されている。床には小さな鞄が並び、棚の奥では書類を燃やす炉が赤くなっていた。 ここはもう、普段のアジトではない。 すでに、終わりの形へ変わっていた。 「全員いるのか」 グンソが尋ねる。 「必要な人間はな」 ヘジュの横に、見慣れない男が立っていた。背が高く、短く刈った髪。眉からこめかみへ伸びる古い傷。壁にもたれず、両足を床へ置き、いつでも動ける姿勢を崩していない。 「誰だ」 「カン・ムジン。旧国家軍の近接戦闘教導師範だ」 ムジンはグンソを一度見ただけで、玄関へ視線を戻した。握手もしなければ、挨拶もしない。 「外に、少なくとも八人。裏にもいる」 ドンチョルが床板の下から銃を取り出した。 「早いな」 「早くない。面会が終わった時から、向こうはこの家を囲んでいる」 ソンミンは小さな金属筒をテジュンへ渡した。テジュンが筒の中から記録片を取り出し、炉へ投げ込む。青い炎が一瞬だけ揺れ、記録片の表面に浮かんでいた文字が消えていった。 「面会申請の経路は消した。施設内部の協力者へ届く連絡も切った。ここを調べられても、次の拠点へ繋がるものは残らない」 「なら、俺も残る」 グンソが言った。 ヘジュが小さく笑う。 「それを言うと思った」 「六人いれば戦える」 「戦うために集まったんじゃない」 ソンミンが答えた。 「お前を通すために集まった」 その時、外で靴音が止まった。 玄関前だけではない。裏口にも、人の気配が散っていく。家の周囲を囲むように、複数の足音が位置を変えていた。 通りの灯が、端から順番に消えていく。 逃げ道を塞ぐためだ。 最後に、玄関前の灯だけが残った。青紫の光が窓布の隙間から差し込み、部屋の中にいる全員の顔を薄く照らしていた。 扉の向こうから、低い声が響く。 「中にいる者へ告げる。この家は、国家転覆に関わる未登録組織の活動拠点として確認された。抵抗しなければ、処分手続きは簡略化する」 ヘジュが銃を構えた。 「処分手続きって何だ」 扉の向こうの男は、感情のない声で答えた。 「名前が消えるだけだ」 短い沈黙が落ちる。 「死んだことにもならない。記録上、最初から存在しなかったことになる」 ソンミンがグンソへ視線を向けた。その目に、恐怖はなかった。自分たちがここで何をするのかを、ずっと前から決めていた人間の目だった。 「始めるぞ」 「俺も残る」 「お前は次へ行く」 「嫌だ」 「これは命令だ」 「嫌だ」 玄関の向こうで、金属を装填する音が重なった。 ムジンが一歩、廊下へ出る。彼はグンソを見ず、裏口へ続く暗い通路へ目を向けた。 「グンソ」 「何だ」 「お前は、まだ使える」 「仲間を置いて逃げろと言うのか」 「違う」 ムジンは、暗い通路の先を見たまま言った。 「俺たちが、お前を通す」 直後、玄関の向こうで小さな金属音がした。 次の瞬間、家全体を揺るがす轟音が響いた。 玄関が吹き飛ぶ。 白い煙と破片が家の中へ流れ込み、青紫の灯が激しく揺れた。ヘジュが銃を抜き、ドンチョルが窓際へ走る。テジュンは炉の蓋を閉じ、ソンミンがグンソの肩を掴んだ。 煙の向こうから、特高警察たちが踏み込んでくる。 その先頭に立つ男の影が、炎の向こうでゆっくりと姿を現した。 ソンミンが、グンソの肩を強く押す。 「行け」 グンソは動かなかった。 「行け!」 完全に閉じられた夜の中で、銃声が夜を引き裂いた。

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異世界アイドル☆パラレルパレード NEO AKIBA OBSERVATION LOG 31 ― 終わらなかった祈り ― 小説の断片が発見された。 決まった時間になると、ネオアキバは静かになる。 第五層を巡る運搬列車は速度を落とし、市場の呼び声は途絶える。工房の槌音は止み、地下都市を満たしていた喧騒は少しずつ遠ざかっていく。誰も呼ばない。誰も命じない。それでも人々は歩き出す。祖父がそうしたように。その祖父がそうしたように。さらに遠い昔の誰かがそうしたように。ただ、それが当たり前だった。 雨は降り続いている。 古い鉄骨を叩く音。遠くで唸り続ける観測炉。人々は広場へ向かう。 そして。 次に気付いた時には、人々は広場に立っていた。 雨は降っている。観測炉は唸っている。広場を埋める人々も変わらない。いつも通りだった。そのはずだった。 それなのに。 誰も帰れなかった。 市場へ戻らなければならない者がいた。工房へ戻らなければならない者がいた。家族が待っている者もいた。それでも、誰一人として足を動かせなかった。 長い時間が過ぎる。 誰も話さない。誰も顔を見合わせない。ただ静かに立ち尽くしていた。やがて一人が歩き出す。また一人。さらに一人。人々は静かに広場を後にしていく。 その時だった。 気付けば頬を濡らしていた。 最初に涙を流した者が誰だったのかは分からない。気付けば多くの者が、同じように頬を濡らしていた。 翌日、市場は開いた。工房は動いた。運搬列車は第五層を巡った。 誰も昨日の話をしなかった。 雨は降り続いていた。

異世界アイドル☆パラレルパレード NEO AKIBA OBSERVATION LOG 31 ― 終わらなかった祈り ― 小説の断片が発見された。 決まった時間になると、ネオアキバは静かになる。 第五層を巡る運搬列車は速度を落とし、市場の呼び声は途絶える。工房の槌音は止み、地下都市を満たしていた喧騒は少しずつ遠ざかっていく。誰も呼ばない。誰も命じない。それでも人々は歩き出す。祖父がそうしたように。その祖父がそうしたように。さらに遠い昔の誰かがそうしたように。ただ、それが当たり前だった。 雨は降り続いている。 古い鉄骨を叩く音。遠くで唸り続ける観測炉。人々は広場へ向かう。 そして。 次に気付いた時には、人々は広場に立っていた。 雨は降っている。観測炉は唸っている。広場を埋める人々も変わらない。いつも通りだった。そのはずだった。 それなのに。 誰も帰れなかった。 市場へ戻らなければならない者がいた。工房へ戻らなければならない者がいた。家族が待っている者もいた。それでも、誰一人として足を動かせなかった。 長い時間が過ぎる。 誰も話さない。誰も顔を見合わせない。ただ静かに立ち尽くしていた。やがて一人が歩き出す。また一人。さらに一人。人々は静かに広場を後にしていく。 その時だった。 気付けば頬を濡らしていた。 最初に涙を流した者が誰だったのかは分からない。気付けば多くの者が、同じように頬を濡らしていた。 翌日、市場は開いた。工房は動いた。運搬列車は第五層を巡った。 誰も昨日の話をしなかった。 雨は降り続いていた。

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異世界アイドル☆パラレルパレード NEO AKIBA ARCHIVE LOG R-14 ―無窮花― 南港の古い荷役区画には、使われなくなった船が係留されていた。 青紫の時刻灯が水面に揺れ、巨大な透明天蓋の曲面が遠い空の歪みとして見えている。天蓋の外では黒い雲が渦を巻いていたが、港の内側に雨はなかった。 オルフェンは、管理者の机に置かれていた資料の写しを手に、錆びた船の前で足を止めた。 船体には、水質調査用だった刻印が残っている。現在は登録を失い、港湾台帳からも消された船だった。 その脇に、一人の男が立っていた。 長い外套。痩せた身体。伸びた黒髪。目の下には、眠っていない人間の色がある。 「管理局か」 「違います」 「証明しろ」 オルフェンは剣へ触れず、一枚の記録を甲板へ置いた。 A-12。八歳。 音声刺激、実施。 情緒安定処置、継続。 治療終了。 男の指が止まった。 「……どこで、それを」 「この街へ持ち込まれました」 「誰から?」 「それは、まだ答えられません」 男は記録を見下ろし、船内へ続く階段を指差した。 「入れ」 船室は狭く、窓には厚い布が掛けられていた。古い机の上には乾いたパンと水差し、それから一枚の花が置かれている。 赤紫色の押し花だった。 「綺麗ですね」 男が花を隠した。 「触るな。故郷の花だ。無窮花。ムグンファと呼ぶ」 「妹さんが?」 男の視線が上がった。 「なぜ妹を知っている」 オルフェンは別の紙を机へ置いた。 そこには、チェ・ソナという名前が記されていた。 男の呼吸が一度だけ浅くなる。 「チェ・グンソさんですね」 「その名前は使うな」 「分かりました」 「向こうでは、名前を使わない。番号で呼ぶ。番号で記録し、番号で処置し、番号で死なせる」 グンソは椅子へ腰を下ろした。 「妹は、まだ生きている」 「どこにいますか」 「北部観測都市。保護施設の地下二階」 「保護施設」 「そう呼ばれているだけだ」 グンソは花へ目を落とした。 「家族から離し、適性を調べ、情緒を整え、国家に役立つ人間へ育てる場所だ」 「実際には?」 「家族を忘れるまで、家族の声を聞かせる」 オルフェンは黙った。 「泣けば情緒不安定。怒れば攻撃性。帰りたいと言えば依存症。何も言わなくなれば、安定したと記録される」 「ソナさんは、何歳ですか」 「十三」 その数字だけ、グンソの声が低くなった。 「まだ子供です」 「向こうの記録では、保護対象であり、将来資源だ」 「会うことは?」 「許可が必要だ。面会室には記録官がいる。触れることは禁止。名前で呼ぶことも禁止」 「それでも会えたんですね」 「一度だけ」 グンソは押し花を指先でなぞった。 「妹は、私を兄と呼ばなかった。番号を呼んだ。私が施設で使っていた番号を」 船の外で、係留鎖が水面に擦れた。 「私は工作船の船底に隠れて出てきた。船荷は浄化用鉱石。船員名簿に、私の名前はない」 グンソの指が花の端を押さえる。 「検査官がすぐそばまで来た。靴音が止まった。あと少し動けば、花を潰していた」 「その花を?」 「妹が渡した」 グンソは目を閉じた。 「帰ってきて、と言った」 その声だけが揺れた。 「だから帰れなかった」 オルフェンは彼の向かいへ座った。 「故郷が嫌いなんですか」 「違う。憎んでいるのは、国だ」 グンソは花を見た。 「故郷には妹がいる。家がある。歩いた道も、花もある。だから簡単に捨てられない」 「では、戻りたい?」 「戻れば、妹の隣へ立てる」 「捕まります」 「分かっている」 「殺されるかもしれません」 「それも分かっている」 「私が手を貸しても、妹さんを必ず救えるとは言えません」 グンソはオルフェンを見た。 「あなたは、勇者だろう」 「はい」 「勇者なら、救えると言え」 「言えません」 オルフェンは穏やかに続けた。 「ソナさんが、以前の自分に戻れるとも言えません。私が行けば、状況が悪くなる可能性もあります」 「では、なぜ来た」 「見捨てる理由にはならないからです」 「妹が、もう私を兄だと思っていなくても?」 「思い出せなくても構いません」 オルフェンは、机の上の無窮花を見た。 「あなたが、妹さんを妹だと思っている限り」 グンソは答えなかった。 船室の壁には、北部観測都市へ向かう古い航路図が貼られていた。途中には検問所と軍用橋が並んでいる。 グンソは地図の一点を指で叩いた。 「ここから先は、戻れない」 「帰れない場所なら」 オルフェンは立ち上がった。 「帰れる場所を作ります」 グンソは無窮花を見た。 押し花の花弁は、何年も前に枯れている。 それでも、色だけは失っていなかった。

異世界アイドル☆パラレルパレード NEO AKIBA ARCHIVE LOG R-14 ―無窮花― 南港の古い荷役区画には、使われなくなった船が係留されていた。 青紫の時刻灯が水面に揺れ、巨大な透明天蓋の曲面が遠い空の歪みとして見えている。天蓋の外では黒い雲が渦を巻いていたが、港の内側に雨はなかった。 オルフェンは、管理者の机に置かれていた資料の写しを手に、錆びた船の前で足を止めた。 船体には、水質調査用だった刻印が残っている。現在は登録を失い、港湾台帳からも消された船だった。 その脇に、一人の男が立っていた。 長い外套。痩せた身体。伸びた黒髪。目の下には、眠っていない人間の色がある。 「管理局か」 「違います」 「証明しろ」 オルフェンは剣へ触れず、一枚の記録を甲板へ置いた。 A-12。八歳。 音声刺激、実施。 情緒安定処置、継続。 治療終了。 男の指が止まった。 「……どこで、それを」 「この街へ持ち込まれました」 「誰から?」 「それは、まだ答えられません」 男は記録を見下ろし、船内へ続く階段を指差した。 「入れ」 船室は狭く、窓には厚い布が掛けられていた。古い机の上には乾いたパンと水差し、それから一枚の花が置かれている。 赤紫色の押し花だった。 「綺麗ですね」 男が花を隠した。 「触るな。故郷の花だ。無窮花。ムグンファと呼ぶ」 「妹さんが?」 男の視線が上がった。 「なぜ妹を知っている」 オルフェンは別の紙を机へ置いた。 そこには、チェ・ソナという名前が記されていた。 男の呼吸が一度だけ浅くなる。 「チェ・グンソさんですね」 「その名前は使うな」 「分かりました」 「向こうでは、名前を使わない。番号で呼ぶ。番号で記録し、番号で処置し、番号で死なせる」 グンソは椅子へ腰を下ろした。 「妹は、まだ生きている」 「どこにいますか」 「北部観測都市。保護施設の地下二階」 「保護施設」 「そう呼ばれているだけだ」 グンソは花へ目を落とした。 「家族から離し、適性を調べ、情緒を整え、国家に役立つ人間へ育てる場所だ」 「実際には?」 「家族を忘れるまで、家族の声を聞かせる」 オルフェンは黙った。 「泣けば情緒不安定。怒れば攻撃性。帰りたいと言えば依存症。何も言わなくなれば、安定したと記録される」 「ソナさんは、何歳ですか」 「十三」 その数字だけ、グンソの声が低くなった。 「まだ子供です」 「向こうの記録では、保護対象であり、将来資源だ」 「会うことは?」 「許可が必要だ。面会室には記録官がいる。触れることは禁止。名前で呼ぶことも禁止」 「それでも会えたんですね」 「一度だけ」 グンソは押し花を指先でなぞった。 「妹は、私を兄と呼ばなかった。番号を呼んだ。私が施設で使っていた番号を」 船の外で、係留鎖が水面に擦れた。 「私は工作船の船底に隠れて出てきた。船荷は浄化用鉱石。船員名簿に、私の名前はない」 グンソの指が花の端を押さえる。 「検査官がすぐそばまで来た。靴音が止まった。あと少し動けば、花を潰していた」 「その花を?」 「妹が渡した」 グンソは目を閉じた。 「帰ってきて、と言った」 その声だけが揺れた。 「だから帰れなかった」 オルフェンは彼の向かいへ座った。 「故郷が嫌いなんですか」 「違う。憎んでいるのは、国だ」 グンソは花を見た。 「故郷には妹がいる。家がある。歩いた道も、花もある。だから簡単に捨てられない」 「では、戻りたい?」 「戻れば、妹の隣へ立てる」 「捕まります」 「分かっている」 「殺されるかもしれません」 「それも分かっている」 「私が手を貸しても、妹さんを必ず救えるとは言えません」 グンソはオルフェンを見た。 「あなたは、勇者だろう」 「はい」 「勇者なら、救えると言え」 「言えません」 オルフェンは穏やかに続けた。 「ソナさんが、以前の自分に戻れるとも言えません。私が行けば、状況が悪くなる可能性もあります」 「では、なぜ来た」 「見捨てる理由にはならないからです」 「妹が、もう私を兄だと思っていなくても?」 「思い出せなくても構いません」 オルフェンは、机の上の無窮花を見た。 「あなたが、妹さんを妹だと思っている限り」 グンソは答えなかった。 船室の壁には、北部観測都市へ向かう古い航路図が貼られていた。途中には検問所と軍用橋が並んでいる。 グンソは地図の一点を指で叩いた。 「ここから先は、戻れない」 「帰れない場所なら」 オルフェンは立ち上がった。 「帰れる場所を作ります」 グンソは無窮花を見た。 押し花の花弁は、何年も前に枯れている。 それでも、色だけは失っていなかった。

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異世界アイドル☆パラレルパレード NEO AKIBA ARCHIVE LOG R-12 ―青い封書― 翌朝。診療所の窓に、巨大な透明天蓋の曲面が淡く歪んで見えていた。青紫の灯が街路を照らし、水車の回る音と運河を進む小舟の音が静かに重なっている。診療所の前を薬売りの荷車が通り、向かいの食堂からは焼いたパンと温めたスープの香りが流れていた。 アルトリウスは、昨日と変わらない朝を迎えていた。 オルフェンは、診療所の長椅子に並んだ六人を見ていた。巡水隊の隊長はまだ眠っており、負傷した隊員の脚には包帯が巻かれている。熱を出していた男の額には冷却布が置かれ、エレナは一人ずつの記録を確認していた。 「全員、今日中には帰れそうです」 エレナが記録板を閉じると、オルフェンはようやく肩の力を抜いた。 「よかったです^^」 「あなたは帰らないんですか」 「私はもう帰っていますよ」 「ここを家にしないでください。診療所は家ではありません」 エレナに注意され、オルフェンは長椅子に並ぶ六人へ目を向けた。 「でも、皆さんがいますので……^^;」 「あなたは、誰かがいる場所ならどこでも家にするんですね」 「そうかもしれません^^」 オルフェンが長椅子の端へ腰掛ける。右手には、前日の救助で出来た傷が残っていた。指の付け根が裂け、石壁と剣の柄で擦れた皮膚には薄く血が滲んでいる。 それに気付いたエレナが、オルフェンの前へ手を差し出した。 「右手を見せてください」 「これは大したことありません」 「大したことがあるかどうかは、診る側が決めます」 「では、お願いします^^;」 オルフェンが素直に右手を差し出す。エレナは傷口を洗い、薬を塗ってから、新しい包帯をゆっくりと巻いた。その手つきは、口調よりずっと柔らかかった。 「昨日、あれだけ水圧を受けて、よく骨を痛めませんでしたね」 「皆さんが先に出られましたので」 「質問に答えていません」 「運がよかったんですよ^^;」 「あなたは何でも運で済ませますね」 エレナは指が動くことを確かめてから、包帯の端を結んだ。 「きつくありませんか?」 「大丈夫です」 「本当に?」 「はい。ありがとうございます^^」 「痛みが増したら、すぐに戻ってきてください。我慢して悪化させたら怒ります」 「もう少し怒っているように見えますが……^^;」 エレナは一度だけ手を止めた。 「心配しているんです」 そう言ってから、何事もなかったように薬箱を閉じる。 「今日は剣を振らないでください。水車の修理も禁止です」 「分かりました」 「返事だけで終わらせないでくださいね」 「気をつけます^^;」 そこへ、入口から子供の声がした。 「オルフェンさん!」 振り向くと、昨日救助された隊員の娘が立っていた。小さな手には、欠けた青い灯器が握られている。 「これ、お父さんのです。返してくれてありがとう」 「私が返したわけではありませんよ」 オルフェンは少女の前へしゃがみ込み、灯器を受け取った。表面には傷があり、灯芯も少し曲がっている。彼は腰の道具袋から布を取り出し、灯器についた泥を丁寧に拭った。 「この灯器が、お父さんを帰り道まで照らしたんです」 「でも、オルフェンさんが行かなかったら、お父さん帰ってこなかったよ」 少女がまっすぐに言う。オルフェンは少し困ったように笑い、灯器を両手で返した。 「では、次はお父さんがあなたを照らす番ですね^^」 少女は嬉しそうに笑った。 「オルフェンさんは、どこへ行くの?」 「少し中央へ行く予定です」 「冒険?」 「お仕事です」 「勇者なのに?」 「勇者もお仕事をしますよ」 少女は灯器を胸へ抱えた。 「中央にも水路はある?」 「あります。アルトリウスとは形が違うそうですよ」 「見てきて!」 「よく見てきます^^」 少女が父親の眠る長椅子へ駆け寄る。オルフェンはその様子を見届けてから立ち上がった。 診療所の外では、街がいつも通り動いていた。水車が回り、運河を小舟が進み、石橋の上を荷車が渡っていく。水売りの老人が配給所へ向かう樽を積み、仕立て屋の前では職人が布を広げ、通りの隅では子供達が木片を使って小さな船を作っていた。 通りの向こうから、水売りの老人が声を飛ばした。 「オルフェン! 今日も中央からの手紙か?」 「まだ一通だけです」 「なら燃やしてしまえ!」 「それは少し乱暴ですね^^;」 「お前は乱暴さが足りん!」 オルフェンが足を止める。 「そうでしょうか」 「そうだ。勇者なら、もっと怒れ!」 「怒るとお腹が空きますので」 「そこか!」 周囲から笑い声が起こった。オルフェンは老人へ軽く手を振り、そのまま街長の執務室へ向かった。 途中、水車の前で足を止める。昨日の揺れで木製の歯車が少しずれており、職人が工具を広げていた。 オルフェンが近付くと、職人は手を止めずに言った。 「触るなよ」 「今日は手を使えないので、見ているだけです^^;」 「エレナに言われたな」 「はい」 「なら座っていろ」 「見ているだけなら大丈夫です」 「それが一番信用できん」 オルフェンは水車の軸を眺め、歯車の噛み合わせを確認した。 「右側の木楔が少し浮いています」 「分かっている」 「失礼しました」 職人は木楔を見直すと、オルフェンを手招きした。 「いや、そこを押さえてくれ。手は使うなよ」 「それは手を使うのでは?」 「体で押さえろ」 オルフェンは言われた通り、水車の支柱へ肩を当てた。職人が木楔を打ち込み、歯車がゆっくりと噛み合っていく。 「回すぞ」 「はい」 水が流れ、水車が動き出した。軋んでいた音が整い、規則正しい回転音へ変わる。 職人が満足そうに頷いた。 「助かった」 「私は立っていただけです」 「立っているだけで役に立つ奴が、世の中に何人いると思う?」 「分かりません」 「だからお前は困るんだ」 職人は笑いながら、オルフェンの背中を軽く叩いた。 「中央へ行くんだろ。向こうで変なものを食わされるなよ」 「前回は飲み物が冷めていました」 「そこを気にするのか」 「大切なことです^^」 街長の執務室には、昨日の青い封書が置かれていた。封蝋には観測管理局中央の紋章が押されている。街長は封書を開き、内容を読み終えてからオルフェンへ差し出した。 「中央から、合同調査の申し入れだ。水質、医療記録、浄化設備、取水路の構造。中央の観測設備も使えるらしい」 「それは助かりますね」 「代表者会談も同時に行う。お前に来てほしいそうだ」 オルフェンは自分を指した。 「私ですか」 「水都の代表として、最も知られているからな」 「街長の方が、ずっと詳しいと思いますが」 「私は中央で褒められても、街の水車を直せん」 「私も直せませんよ^^;」 街長は苦笑してから、窓の外へ目を向けた。 「管理者は、まだ北部境界の任務から戻っていない。帰還を待ってから決めてもいい」 オルフェンは書面へ目を落とした。診療所の六人、増え続ける患者、水路の異常、そして中央の観測設備。必要なものが揃っているなら、まず話を聞く意味はある。 「先に話を聞いてきます」 街長が顔を上げる。 「行くのか?」 「はい。調査に必要なものがあるなら、確認しておきたいです」 「中央で長く引き止められるかもしれない」 「その時は、早く帰れるようにお願いしてみます^^」 「お願いで済む相手かどうかを聞いている」 「では、丁寧に交渉します」 「お前は、中央の貴族相手でもその調子なのか」 「相手に合わせて、少しだけ丁寧にします」 「今も十分丁寧だろう」 「では、かなり丁寧にします^^;」 街長は額へ手を当てた。 オルフェンは青い封書を手に取った。 「薬品、観測資料、浄化技術。街へ持ち帰れるものがあるなら、持ち帰ります」 「誰を連れて行く」 「副官と記録官を。医療関係の話が必要なら、エレナにも確認します」 「エレナは診療所を離れられん」 「では、必要なことを全部書いてもらいます」 街長は椅子へ座り直した。 「お前は、いつも簡単に引き受けるな」 「簡単ではありませんよ」 オルフェンは封書を見つめた。 「皆さんが安心して暮らせるようになるなら、行く意味はあります」 街長は、しばらく彼を見ていた。 「中央は、お前を歓迎するだろう」 「褒められるのは苦手です」 「表彰されるかもしれん」 「それはもっと苦手です^^;」 「銀杯を渡されたら?」 「口をつけないようにします」 「そこだけは覚えているのか」 「前回、飲み物が冷めていましたので」 街長は呆れたように首を振った。オルフェンは穏やかに笑い、青い封書を懐へしまった。 その日の午後、出発の準備が始まった。副官は必要な書類をまとめ、記録官は水路図を整理する。エレナは診療所で使う薬品の一覧を書き出し、中央へ確認する項目を一つずつ並べた。 エレナが書類を差し出す。 「中央の医師へ渡してください」 「分かりました」 「診療記録の写しです。患者数の推移、水の使用量、取水路ごとの異常。できるだけ正確な資料が必要です」 「はい。忘れないように、三回確認します」 「あなたは確認する前に出発しそうなので、今ここで確認してください」 「では、今確認します^^;」 オルフェンが書類を読み始めると、エレナは小さな布包みを荷物の上へ置いた。中には移動中の食事と、交換用の包帯、傷薬が入っている。 「食事を忘れそうなので、入れておきました」 「ありがとうございます^^」 「右手の傷が開いたら、すぐに使ってください。我慢して悪化させたら怒ります」 「もう十分怒られているような……^^;」 「今は心配しているだけです」 エレナは目を逸らし、確認事項を指で示した。 「それから、食事を抜かないこと。睡眠を取ること。一人で勝手に動かないこと」 オルフェンは少しだけ考えた。 「努力します」 エレナは記録板を下ろした。 「そこは、はいと言ってください」 「はい。気をつけます^^」 その後、オルフェンは配給所へ顔を出し、戻ってきた巡水隊の隊員達へ声を掛けた。 「もう歩けるんですか」 「隊長が寝ていろと言うんですが、暇でして」 隊員が答えると、オルフェンは水車の方を指した。 「それなら、退院祝いに水車の修理を手伝ってください^^」 「結局働かせるんですか!」 「軽い作業だけですよ^^;」 「勇者様の退院祝いが、ずいぶん実用的ですね」 「水車が回ると、皆さんが助かりますので」 「そういうところですよ!」 オルフェンは首を傾げた。 「何がですか?」 隊員達は顔を見合わせ、笑った。 夕刻、アルトリウスの街門が開いた。オルフェンは白い外套を羽織り、聖剣を腰へ帯びた。副官は書類袋を抱え、記録官は水路図を巻いて背負っている。 街門の前には、診療所の子供達、巡水隊の隊員、配給所の老人、水車職人、街長まで集まっていた。 一人の子供が大きな声で叫んだ。 「オルフェンさん、中央のお菓子!」 「街長にも同じことを言われました^^」 「じゃあ、いっぱい買ってきて!」 「食べきれないほど買うと、帰りの荷物が大変ですよ」 「勇者なら大丈夫!」 「勇者にも荷物の限界はあります^^;」 街長が門の脇から声を掛けた。 「オルフェン!」 「はい!」 「中央の菓子を買ってこい!」 「水都の菓子より美味しかったら考えます^^」 「絶対に買ってこい!」 「分かりました^^」 「返事だけはいいな!」 「昔から褒められています^^;」 診療所の窓が開き、エレナが顔を出した。 「布包み、途中で置き忘れないでください」 オルフェンは荷物の中を確認し、エレナへ振り返った。 「ちゃんと入っています^^」 「食事も傷薬も使ってくださいね」 「はい。ありがとうございます」 エレナはそれを聞いて、ようやく小さく笑った。 オルフェンは見送りの人々へ手を振り、街門の外へ歩き出した。副官と記録官が、その後ろへ続いていく。門の内側では子供達が声を上げ、水車職人が手を振り、巡水隊の隊員達が笑いながら見送っていた。 青い封書は、オルフェンの懐に収まっていた。

異世界アイドル☆パラレルパレード NEO AKIBA ARCHIVE LOG R-12 ―青い封書― 翌朝。診療所の窓に、巨大な透明天蓋の曲面が淡く歪んで見えていた。青紫の灯が街路を照らし、水車の回る音と運河を進む小舟の音が静かに重なっている。診療所の前を薬売りの荷車が通り、向かいの食堂からは焼いたパンと温めたスープの香りが流れていた。 アルトリウスは、昨日と変わらない朝を迎えていた。 オルフェンは、診療所の長椅子に並んだ六人を見ていた。巡水隊の隊長はまだ眠っており、負傷した隊員の脚には包帯が巻かれている。熱を出していた男の額には冷却布が置かれ、エレナは一人ずつの記録を確認していた。 「全員、今日中には帰れそうです」 エレナが記録板を閉じると、オルフェンはようやく肩の力を抜いた。 「よかったです^^」 「あなたは帰らないんですか」 「私はもう帰っていますよ」 「ここを家にしないでください。診療所は家ではありません」 エレナに注意され、オルフェンは長椅子に並ぶ六人へ目を向けた。 「でも、皆さんがいますので……^^;」 「あなたは、誰かがいる場所ならどこでも家にするんですね」 「そうかもしれません^^」 オルフェンが長椅子の端へ腰掛ける。右手には、前日の救助で出来た傷が残っていた。指の付け根が裂け、石壁と剣の柄で擦れた皮膚には薄く血が滲んでいる。 それに気付いたエレナが、オルフェンの前へ手を差し出した。 「右手を見せてください」 「これは大したことありません」 「大したことがあるかどうかは、診る側が決めます」 「では、お願いします^^;」 オルフェンが素直に右手を差し出す。エレナは傷口を洗い、薬を塗ってから、新しい包帯をゆっくりと巻いた。その手つきは、口調よりずっと柔らかかった。 「昨日、あれだけ水圧を受けて、よく骨を痛めませんでしたね」 「皆さんが先に出られましたので」 「質問に答えていません」 「運がよかったんですよ^^;」 「あなたは何でも運で済ませますね」 エレナは指が動くことを確かめてから、包帯の端を結んだ。 「きつくありませんか?」 「大丈夫です」 「本当に?」 「はい。ありがとうございます^^」 「痛みが増したら、すぐに戻ってきてください。我慢して悪化させたら怒ります」 「もう少し怒っているように見えますが……^^;」 エレナは一度だけ手を止めた。 「心配しているんです」 そう言ってから、何事もなかったように薬箱を閉じる。 「今日は剣を振らないでください。水車の修理も禁止です」 「分かりました」 「返事だけで終わらせないでくださいね」 「気をつけます^^;」 そこへ、入口から子供の声がした。 「オルフェンさん!」 振り向くと、昨日救助された隊員の娘が立っていた。小さな手には、欠けた青い灯器が握られている。 「これ、お父さんのです。返してくれてありがとう」 「私が返したわけではありませんよ」 オルフェンは少女の前へしゃがみ込み、灯器を受け取った。表面には傷があり、灯芯も少し曲がっている。彼は腰の道具袋から布を取り出し、灯器についた泥を丁寧に拭った。 「この灯器が、お父さんを帰り道まで照らしたんです」 「でも、オルフェンさんが行かなかったら、お父さん帰ってこなかったよ」 少女がまっすぐに言う。オルフェンは少し困ったように笑い、灯器を両手で返した。 「では、次はお父さんがあなたを照らす番ですね^^」 少女は嬉しそうに笑った。 「オルフェンさんは、どこへ行くの?」 「少し中央へ行く予定です」 「冒険?」 「お仕事です」 「勇者なのに?」 「勇者もお仕事をしますよ」 少女は灯器を胸へ抱えた。 「中央にも水路はある?」 「あります。アルトリウスとは形が違うそうですよ」 「見てきて!」 「よく見てきます^^」 少女が父親の眠る長椅子へ駆け寄る。オルフェンはその様子を見届けてから立ち上がった。 診療所の外では、街がいつも通り動いていた。水車が回り、運河を小舟が進み、石橋の上を荷車が渡っていく。水売りの老人が配給所へ向かう樽を積み、仕立て屋の前では職人が布を広げ、通りの隅では子供達が木片を使って小さな船を作っていた。 通りの向こうから、水売りの老人が声を飛ばした。 「オルフェン! 今日も中央からの手紙か?」 「まだ一通だけです」 「なら燃やしてしまえ!」 「それは少し乱暴ですね^^;」 「お前は乱暴さが足りん!」 オルフェンが足を止める。 「そうでしょうか」 「そうだ。勇者なら、もっと怒れ!」 「怒るとお腹が空きますので」 「そこか!」 周囲から笑い声が起こった。オルフェンは老人へ軽く手を振り、そのまま街長の執務室へ向かった。 途中、水車の前で足を止める。昨日の揺れで木製の歯車が少しずれており、職人が工具を広げていた。 オルフェンが近付くと、職人は手を止めずに言った。 「触るなよ」 「今日は手を使えないので、見ているだけです^^;」 「エレナに言われたな」 「はい」 「なら座っていろ」 「見ているだけなら大丈夫です」 「それが一番信用できん」 オルフェンは水車の軸を眺め、歯車の噛み合わせを確認した。 「右側の木楔が少し浮いています」 「分かっている」 「失礼しました」 職人は木楔を見直すと、オルフェンを手招きした。 「いや、そこを押さえてくれ。手は使うなよ」 「それは手を使うのでは?」 「体で押さえろ」 オルフェンは言われた通り、水車の支柱へ肩を当てた。職人が木楔を打ち込み、歯車がゆっくりと噛み合っていく。 「回すぞ」 「はい」 水が流れ、水車が動き出した。軋んでいた音が整い、規則正しい回転音へ変わる。 職人が満足そうに頷いた。 「助かった」 「私は立っていただけです」 「立っているだけで役に立つ奴が、世の中に何人いると思う?」 「分かりません」 「だからお前は困るんだ」 職人は笑いながら、オルフェンの背中を軽く叩いた。 「中央へ行くんだろ。向こうで変なものを食わされるなよ」 「前回は飲み物が冷めていました」 「そこを気にするのか」 「大切なことです^^」 街長の執務室には、昨日の青い封書が置かれていた。封蝋には観測管理局中央の紋章が押されている。街長は封書を開き、内容を読み終えてからオルフェンへ差し出した。 「中央から、合同調査の申し入れだ。水質、医療記録、浄化設備、取水路の構造。中央の観測設備も使えるらしい」 「それは助かりますね」 「代表者会談も同時に行う。お前に来てほしいそうだ」 オルフェンは自分を指した。 「私ですか」 「水都の代表として、最も知られているからな」 「街長の方が、ずっと詳しいと思いますが」 「私は中央で褒められても、街の水車を直せん」 「私も直せませんよ^^;」 街長は苦笑してから、窓の外へ目を向けた。 「管理者は、まだ北部境界の任務から戻っていない。帰還を待ってから決めてもいい」 オルフェンは書面へ目を落とした。診療所の六人、増え続ける患者、水路の異常、そして中央の観測設備。必要なものが揃っているなら、まず話を聞く意味はある。 「先に話を聞いてきます」 街長が顔を上げる。 「行くのか?」 「はい。調査に必要なものがあるなら、確認しておきたいです」 「中央で長く引き止められるかもしれない」 「その時は、早く帰れるようにお願いしてみます^^」 「お願いで済む相手かどうかを聞いている」 「では、丁寧に交渉します」 「お前は、中央の貴族相手でもその調子なのか」 「相手に合わせて、少しだけ丁寧にします」 「今も十分丁寧だろう」 「では、かなり丁寧にします^^;」 街長は額へ手を当てた。 オルフェンは青い封書を手に取った。 「薬品、観測資料、浄化技術。街へ持ち帰れるものがあるなら、持ち帰ります」 「誰を連れて行く」 「副官と記録官を。医療関係の話が必要なら、エレナにも確認します」 「エレナは診療所を離れられん」 「では、必要なことを全部書いてもらいます」 街長は椅子へ座り直した。 「お前は、いつも簡単に引き受けるな」 「簡単ではありませんよ」 オルフェンは封書を見つめた。 「皆さんが安心して暮らせるようになるなら、行く意味はあります」 街長は、しばらく彼を見ていた。 「中央は、お前を歓迎するだろう」 「褒められるのは苦手です」 「表彰されるかもしれん」 「それはもっと苦手です^^;」 「銀杯を渡されたら?」 「口をつけないようにします」 「そこだけは覚えているのか」 「前回、飲み物が冷めていましたので」 街長は呆れたように首を振った。オルフェンは穏やかに笑い、青い封書を懐へしまった。 その日の午後、出発の準備が始まった。副官は必要な書類をまとめ、記録官は水路図を整理する。エレナは診療所で使う薬品の一覧を書き出し、中央へ確認する項目を一つずつ並べた。 エレナが書類を差し出す。 「中央の医師へ渡してください」 「分かりました」 「診療記録の写しです。患者数の推移、水の使用量、取水路ごとの異常。できるだけ正確な資料が必要です」 「はい。忘れないように、三回確認します」 「あなたは確認する前に出発しそうなので、今ここで確認してください」 「では、今確認します^^;」 オルフェンが書類を読み始めると、エレナは小さな布包みを荷物の上へ置いた。中には移動中の食事と、交換用の包帯、傷薬が入っている。 「食事を忘れそうなので、入れておきました」 「ありがとうございます^^」 「右手の傷が開いたら、すぐに使ってください。我慢して悪化させたら怒ります」 「もう十分怒られているような……^^;」 「今は心配しているだけです」 エレナは目を逸らし、確認事項を指で示した。 「それから、食事を抜かないこと。睡眠を取ること。一人で勝手に動かないこと」 オルフェンは少しだけ考えた。 「努力します」 エレナは記録板を下ろした。 「そこは、はいと言ってください」 「はい。気をつけます^^」 その後、オルフェンは配給所へ顔を出し、戻ってきた巡水隊の隊員達へ声を掛けた。 「もう歩けるんですか」 「隊長が寝ていろと言うんですが、暇でして」 隊員が答えると、オルフェンは水車の方を指した。 「それなら、退院祝いに水車の修理を手伝ってください^^」 「結局働かせるんですか!」 「軽い作業だけですよ^^;」 「勇者様の退院祝いが、ずいぶん実用的ですね」 「水車が回ると、皆さんが助かりますので」 「そういうところですよ!」 オルフェンは首を傾げた。 「何がですか?」 隊員達は顔を見合わせ、笑った。 夕刻、アルトリウスの街門が開いた。オルフェンは白い外套を羽織り、聖剣を腰へ帯びた。副官は書類袋を抱え、記録官は水路図を巻いて背負っている。 街門の前には、診療所の子供達、巡水隊の隊員、配給所の老人、水車職人、街長まで集まっていた。 一人の子供が大きな声で叫んだ。 「オルフェンさん、中央のお菓子!」 「街長にも同じことを言われました^^」 「じゃあ、いっぱい買ってきて!」 「食べきれないほど買うと、帰りの荷物が大変ですよ」 「勇者なら大丈夫!」 「勇者にも荷物の限界はあります^^;」 街長が門の脇から声を掛けた。 「オルフェン!」 「はい!」 「中央の菓子を買ってこい!」 「水都の菓子より美味しかったら考えます^^」 「絶対に買ってこい!」 「分かりました^^」 「返事だけはいいな!」 「昔から褒められています^^;」 診療所の窓が開き、エレナが顔を出した。 「布包み、途中で置き忘れないでください」 オルフェンは荷物の中を確認し、エレナへ振り返った。 「ちゃんと入っています^^」 「食事も傷薬も使ってくださいね」 「はい。ありがとうございます」 エレナはそれを聞いて、ようやく小さく笑った。 オルフェンは見送りの人々へ手を振り、街門の外へ歩き出した。副官と記録官が、その後ろへ続いていく。門の内側では子供達が声を上げ、水車職人が手を振り、巡水隊の隊員達が笑いながら見送っていた。 青い封書は、オルフェンの懐に収まっていた。

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異世界アイドル☆パラレルパレード NEO AKIBA ARCHIVE LOG R-17 ―口封じ― 銃声が、煙の充満した家を揺らした。 「裏口へ行け!」 ソンミンがグンソを押し出す。テジュンは、焼却寸前の記録片を拾い上げた。 玄関側から、特高の兵士たちが押し寄せてきた。 その前に、ムジンが立ちはだかる。 肩を撃ち抜かれても、額から血を流しても、姿勢は崩れない。銃床を受け流し、兵士の手首を捻り、壁へ叩きつける。 ただ、誰一人として通さなかった。 その動きを見ていた兵士の一人が、銃を構えたまま足を止めた。 「……師範」 ムジンの拳が、わずかに止まる。 兵士は、かつてムジンのもとで武術を学んでいた。 黒い制服。胸元の徽章。整えられた髪。銃を持つ手の角度まで、規則に合わせたように揃っている。 「その呼び方は、もう必要ありません」 兵士が銃を構え直した。 「……そうか」 銃床が振り下ろされる。 ムジンは半歩だけ身を引いた。 かつて教えた足運びだった。 兵士も同じ足運びで踏み込んだ。 二人の距離が消える。 ムジンが手首を取り、銃口を逸らす。兵士は肘を返し、ムジンの脇腹へ打ち込んだ。 鈍い音が響いた。 それでも、ムジンは手を離さない。 兵士の目が、ムジンの動きを追った。 「動作記録と一致します」 「そうか」 「修正されていません」 ムジンの目が細くなる。 「お前もな」 兵士の指が、わずかに止まった。 その隙に、ムジンは兵士を壁へ叩きつける。 「戻るな!」 ソンミンがグンソの腕を掴む。 「でも、ムジンが!」 「置いていくんじゃない! あの人が、お前を通しているんだ!」 ムジンが兵士を押し返す。 「行け!」 グンソは歯を食いしばり、裏口へ走った。 燃えかけた家を出ると、旧居住区の路地が広がっていた。 青紫の灯が、遠くから順番に消えていく。 屋根の上にも、交差路にも、特高の影が現れた。 「第三取水路の旧点検口へ!」 ドンチョルが鉄輪を引く。 石畳が沈み、地下から湿った空気が吹き上がった。 その時、路地の奥から穏やかな声が響いた。 「そこまでにしていただけますか」 特高の兵士たちが、一斉に道を空ける。 消えかけた青紫の灯の向こうから、ひとりの男が歩いてきた。 二メートルを超える細身の身体。 乱れひとつない黒い上級制服。 胸元で冷たく光る銀徽章。 黒い制帽の影に、端正な顔が浮かんでいる。 男は倒れている兵士へ視線を向けた。 「止血を。死なせてはいけません」 命じられた兵士が、慌てて仲間へ駆け寄る。 男はそれを確認してから、グンソたちへ微笑んだ。 「ご安心ください。皆さんを無闇に傷つけるつもりはありません」 ヘジュが銃を向ける。 「近づくな」 「ええ。そうなさるのがよいでしょう」 男は素直に足を止めた。 「その記録片を、こちらへ渡していただけますか」 グンソが記録片を握りしめる。 「ソナの名前を、また消すつもりか!」 「消す?」 男は静かに瞬きをした。 「記録は保存されます。適切な場所へ、適切な形式で」 「人間を番号に変えておいてか!」 「番号なら、間違いがありません」 ヘジュの指が、引き金へかかる。 「撃て」 銃声が響いた。 弾丸が男の肩を抉る。 黒い制服が裂け、血が流れた。 男は一歩だけ後退した。 傷口を見下ろし、指先についた血を確認する。 「……失礼しました」 男は顔を上げた。 「その距離で撃つのであれば、もう少し左を狙った方が確実です」 その時、背後の家から大きな音が響いた。 ムジンが路地へ姿を現す。 黒い外套は裂け、肩から血が流れていた。 その背後に、先ほどの兵士が立っている。 兵士は銃を構えたまま、ムジンを見た。 「師範」 「その名で呼ぶな」 「承知しました」 兵士は一歩前へ出る。 「ムジン」 名前だけが、路地に平坦に響いた。 男が、二人を見比べる。 「教え子ですか」 「過去の話です」 ムジンは兵士から視線を外さなかった。 兵士の銃口が、ゆっくりとムジンへ向く。 ムジンは何も言わない。 ただ、グンソたちへ顔を向けた。 「地下へ入れ」 「でも、あなたが!」 「早くしろ」 ソンミンがグンソの腕を掴んだ。 ヘジュ、ドンチョル、テジュンが、次々と地下水路へ入っていく。 グンソだけが動かなかった。 「ムジン!」 ムジンは振り返らない。 「生き残れ」 グンソは記録片を胸元へ押し当てた。 そして、地下水路へ飛び込んだ。 鉄扉が閉じ始める。 最後に見えたのは、青紫の灯の下で銃を向ける、ムジンのかつての弟子。 その隣で、傷口を眺めながら微笑む男。 ムジンは、二人の前に立っていた。 男が静かに頭を下げる。 「それでは、少しだけお時間をいただきます」 鉄扉が閉じた。 直後、地上から低い衝撃音が響いた。 一度。 二度。 グンソは振り返らなかった。 ソナの名前を、外へ持ち出すために。

異世界アイドル☆パラレルパレード NEO AKIBA ARCHIVE LOG R-17 ―口封じ― 銃声が、煙の充満した家を揺らした。 「裏口へ行け!」 ソンミンがグンソを押し出す。テジュンは、焼却寸前の記録片を拾い上げた。 玄関側から、特高の兵士たちが押し寄せてきた。 その前に、ムジンが立ちはだかる。 肩を撃ち抜かれても、額から血を流しても、姿勢は崩れない。銃床を受け流し、兵士の手首を捻り、壁へ叩きつける。 ただ、誰一人として通さなかった。 その動きを見ていた兵士の一人が、銃を構えたまま足を止めた。 「……師範」 ムジンの拳が、わずかに止まる。 兵士は、かつてムジンのもとで武術を学んでいた。 黒い制服。胸元の徽章。整えられた髪。銃を持つ手の角度まで、規則に合わせたように揃っている。 「その呼び方は、もう必要ありません」 兵士が銃を構え直した。 「……そうか」 銃床が振り下ろされる。 ムジンは半歩だけ身を引いた。 かつて教えた足運びだった。 兵士も同じ足運びで踏み込んだ。 二人の距離が消える。 ムジンが手首を取り、銃口を逸らす。兵士は肘を返し、ムジンの脇腹へ打ち込んだ。 鈍い音が響いた。 それでも、ムジンは手を離さない。 兵士の目が、ムジンの動きを追った。 「動作記録と一致します」 「そうか」 「修正されていません」 ムジンの目が細くなる。 「お前もな」 兵士の指が、わずかに止まった。 その隙に、ムジンは兵士を壁へ叩きつける。 「戻るな!」 ソンミンがグンソの腕を掴む。 「でも、ムジンが!」 「置いていくんじゃない! あの人が、お前を通しているんだ!」 ムジンが兵士を押し返す。 「行け!」 グンソは歯を食いしばり、裏口へ走った。 燃えかけた家を出ると、旧居住区の路地が広がっていた。 青紫の灯が、遠くから順番に消えていく。 屋根の上にも、交差路にも、特高の影が現れた。 「第三取水路の旧点検口へ!」 ドンチョルが鉄輪を引く。 石畳が沈み、地下から湿った空気が吹き上がった。 その時、路地の奥から穏やかな声が響いた。 「そこまでにしていただけますか」 特高の兵士たちが、一斉に道を空ける。 消えかけた青紫の灯の向こうから、ひとりの男が歩いてきた。 二メートルを超える細身の身体。 乱れひとつない黒い上級制服。 胸元で冷たく光る銀徽章。 黒い制帽の影に、端正な顔が浮かんでいる。 男は倒れている兵士へ視線を向けた。 「止血を。死なせてはいけません」 命じられた兵士が、慌てて仲間へ駆け寄る。 男はそれを確認してから、グンソたちへ微笑んだ。 「ご安心ください。皆さんを無闇に傷つけるつもりはありません」 ヘジュが銃を向ける。 「近づくな」 「ええ。そうなさるのがよいでしょう」 男は素直に足を止めた。 「その記録片を、こちらへ渡していただけますか」 グンソが記録片を握りしめる。 「ソナの名前を、また消すつもりか!」 「消す?」 男は静かに瞬きをした。 「記録は保存されます。適切な場所へ、適切な形式で」 「人間を番号に変えておいてか!」 「番号なら、間違いがありません」 ヘジュの指が、引き金へかかる。 「撃て」 銃声が響いた。 弾丸が男の肩を抉る。 黒い制服が裂け、血が流れた。 男は一歩だけ後退した。 傷口を見下ろし、指先についた血を確認する。 「……失礼しました」 男は顔を上げた。 「その距離で撃つのであれば、もう少し左を狙った方が確実です」 その時、背後の家から大きな音が響いた。 ムジンが路地へ姿を現す。 黒い外套は裂け、肩から血が流れていた。 その背後に、先ほどの兵士が立っている。 兵士は銃を構えたまま、ムジンを見た。 「師範」 「その名で呼ぶな」 「承知しました」 兵士は一歩前へ出る。 「ムジン」 名前だけが、路地に平坦に響いた。 男が、二人を見比べる。 「教え子ですか」 「過去の話です」 ムジンは兵士から視線を外さなかった。 兵士の銃口が、ゆっくりとムジンへ向く。 ムジンは何も言わない。 ただ、グンソたちへ顔を向けた。 「地下へ入れ」 「でも、あなたが!」 「早くしろ」 ソンミンがグンソの腕を掴んだ。 ヘジュ、ドンチョル、テジュンが、次々と地下水路へ入っていく。 グンソだけが動かなかった。 「ムジン!」 ムジンは振り返らない。 「生き残れ」 グンソは記録片を胸元へ押し当てた。 そして、地下水路へ飛び込んだ。 鉄扉が閉じ始める。 最後に見えたのは、青紫の灯の下で銃を向ける、ムジンのかつての弟子。 その隣で、傷口を眺めながら微笑む男。 ムジンは、二人の前に立っていた。 男が静かに頭を下げる。 「それでは、少しだけお時間をいただきます」 鉄扉が閉じた。 直後、地上から低い衝撃音が響いた。 一度。 二度。 グンソは振り返らなかった。 ソナの名前を、外へ持ち出すために。

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異世界アイドル☆パラレルパレード NEO AKIBA ARCHIVE LOG R-07 ―勇者と医者― 管理局の使節団がアルトリウスを去ってから、三か月が過ぎていた。 診療所の廊下に、簡易寝台が並び始めていた。東区の運送人。北水門の作業員。市場で働く女。熱、倦怠感、咳。症状は似ているが、住む場所も仕事も違う。 医師エレナは患者の額から手を離し、記録板へ目を落とした。袖は肘まで捲られ、まとめた髪から何本かが頬へ落ちている。 「同じ食事は?」 助手は首を振った。 「取っていません。職場も水場も別です」 「工房の煙、輸入された薬、空調孔、寝具、職場で触れた物まで確認してください。最初から一つに決めないように」 助手が感染症の可能性を尋ねると、エレナは次の患者へ清潔な布を掛けた。 「分かりません。分からないなら、分かるものから潰します」 玄関の扉が開いた。 オルフェンが老人を背負って立っている。片手には老人の工具箱。泣き疲れた子供が、外套の裾を握って後ろを歩いていた。 エレナはすぐに空いている寝台を示す。 「三番へ。ゆっくり下ろしてください」 老人は荷車の修理中に倒れたらしい。子供はその孫だった。オルフェンは老人を寝かせ、子供を椅子へ座らせると、水差しを手の届く場所へ置いた。 「荷車は?」 老人が尋ねた。 「道の端へ寄せてあります。車輪も付け直しました」 「頼んでないぞ」 オルフェンは柔らかく笑った。 「倒れたままでは危ないですから」 エレナは老人を診察しながら、オルフェンの背と膝に付いた泥を見た。 「担架を呼んでくださいと、何度言えば分かるんですか」 「待つより早かったので」 「あなたまで倒れたら、誰が運ぶんです」 「エレナ先生が治してくださるかと」 「寝台が足りません。椅子で我慢してください」 オルフェンは素直に座った。 エレナは瞳、喉、手首を順に確認する。熱はない。呼吸にも異常はない。ただ右手に新しい切り傷があった。 「これは?」 「荷車で少し」 「大丈夫ではありませんね」 「申し訳ありません」 傷を洗われている間も、オルフェンは診療所の奥を見ていた。いつもより寝台が多い。薬棚の空きも目立つ。 「増えていますか」 エレナは包帯を結んだ。 「昨日から、新しく十二人。原因は、まだ分かりません」 「私にできることは?」 エレナは薬箱を一つ渡した。 「東区へ。解熱薬と咳止めです」 オルフェンが立ち上がる。 「承知しました」 「その前に」 机の隅へ、二つの銀杯が置かれていた。青薄荷の葉を浮かべた茶から、細い湯気が昇っている。 エレナが片方を差し出す。オルフェンが受け取ろうとした時、外から鐘が鳴った。 二度。間を置いて、もう二度。 水路事故を知らせる鐘だった。 エレナが窓の外へ目を向ける。 「西水路ですね」 オルフェンは銀杯を戻し、薬箱を背負った。 「先に向かいます」 「薬は東区です」 「西水路の後に届けます」 「逆方向ですよ」 「急げば、どちらも間に合います」 止めても無駄だと分かっている顔で、エレナは薬箱へ救急布と止血具を追加した。 「では、全部済ませてきてください」 オルフェンは穏やかに頷いた。 「帰ったら、お茶をいただきます」 「冷める前に帰ってください」 扉が閉じた。 エレナは見送らず、次の患者を呼んだ。 夜が深くなっても、診療所の灯は消えなかった。 最後の患者を奥の寝台へ移した頃、玄関の扉が静かに開く。泥と水に汚れたオルフェンが立っていた。 「遅くなりました」 西水路では作業員を七人救助し、東区へ薬を届け、その帰りに迷子を一人、家まで送り届けたらしい。 エレナは二つの銀杯を見た。 湯気は、もう消えている。 「冷めていますよ」 オルフェンは向かいの椅子へ座った。 「帰ってきましたので」 「それは飲む理由になっていません」 「約束でしたから」 「私は約束していません」 「私が勝手にしました」 エレナは小さく息を吐き、自分の銀杯を持ち上げた。オルフェンも冷めた茶を飲む。 冷めた茶を挟み、エレナは不足する薬を書き出した。オルフェンは翌朝運ぶ箱の数を確認した。 その夜、二つの銀杯は空になった。

異世界アイドル☆パラレルパレード NEO AKIBA ARCHIVE LOG R-07 ―勇者と医者― 管理局の使節団がアルトリウスを去ってから、三か月が過ぎていた。 診療所の廊下に、簡易寝台が並び始めていた。東区の運送人。北水門の作業員。市場で働く女。熱、倦怠感、咳。症状は似ているが、住む場所も仕事も違う。 医師エレナは患者の額から手を離し、記録板へ目を落とした。袖は肘まで捲られ、まとめた髪から何本かが頬へ落ちている。 「同じ食事は?」 助手は首を振った。 「取っていません。職場も水場も別です」 「工房の煙、輸入された薬、空調孔、寝具、職場で触れた物まで確認してください。最初から一つに決めないように」 助手が感染症の可能性を尋ねると、エレナは次の患者へ清潔な布を掛けた。 「分かりません。分からないなら、分かるものから潰します」 玄関の扉が開いた。 オルフェンが老人を背負って立っている。片手には老人の工具箱。泣き疲れた子供が、外套の裾を握って後ろを歩いていた。 エレナはすぐに空いている寝台を示す。 「三番へ。ゆっくり下ろしてください」 老人は荷車の修理中に倒れたらしい。子供はその孫だった。オルフェンは老人を寝かせ、子供を椅子へ座らせると、水差しを手の届く場所へ置いた。 「荷車は?」 老人が尋ねた。 「道の端へ寄せてあります。車輪も付け直しました」 「頼んでないぞ」 オルフェンは柔らかく笑った。 「倒れたままでは危ないですから」 エレナは老人を診察しながら、オルフェンの背と膝に付いた泥を見た。 「担架を呼んでくださいと、何度言えば分かるんですか」 「待つより早かったので」 「あなたまで倒れたら、誰が運ぶんです」 「エレナ先生が治してくださるかと」 「寝台が足りません。椅子で我慢してください」 オルフェンは素直に座った。 エレナは瞳、喉、手首を順に確認する。熱はない。呼吸にも異常はない。ただ右手に新しい切り傷があった。 「これは?」 「荷車で少し」 「大丈夫ではありませんね」 「申し訳ありません」 傷を洗われている間も、オルフェンは診療所の奥を見ていた。いつもより寝台が多い。薬棚の空きも目立つ。 「増えていますか」 エレナは包帯を結んだ。 「昨日から、新しく十二人。原因は、まだ分かりません」 「私にできることは?」 エレナは薬箱を一つ渡した。 「東区へ。解熱薬と咳止めです」 オルフェンが立ち上がる。 「承知しました」 「その前に」 机の隅へ、二つの銀杯が置かれていた。青薄荷の葉を浮かべた茶から、細い湯気が昇っている。 エレナが片方を差し出す。オルフェンが受け取ろうとした時、外から鐘が鳴った。 二度。間を置いて、もう二度。 水路事故を知らせる鐘だった。 エレナが窓の外へ目を向ける。 「西水路ですね」 オルフェンは銀杯を戻し、薬箱を背負った。 「先に向かいます」 「薬は東区です」 「西水路の後に届けます」 「逆方向ですよ」 「急げば、どちらも間に合います」 止めても無駄だと分かっている顔で、エレナは薬箱へ救急布と止血具を追加した。 「では、全部済ませてきてください」 オルフェンは穏やかに頷いた。 「帰ったら、お茶をいただきます」 「冷める前に帰ってください」 扉が閉じた。 エレナは見送らず、次の患者を呼んだ。 夜が深くなっても、診療所の灯は消えなかった。 最後の患者を奥の寝台へ移した頃、玄関の扉が静かに開く。泥と水に汚れたオルフェンが立っていた。 「遅くなりました」 西水路では作業員を七人救助し、東区へ薬を届け、その帰りに迷子を一人、家まで送り届けたらしい。 エレナは二つの銀杯を見た。 湯気は、もう消えている。 「冷めていますよ」 オルフェンは向かいの椅子へ座った。 「帰ってきましたので」 「それは飲む理由になっていません」 「約束でしたから」 「私は約束していません」 「私が勝手にしました」 エレナは小さく息を吐き、自分の銀杯を持ち上げた。オルフェンも冷めた茶を飲む。 冷めた茶を挟み、エレナは不足する薬を書き出した。オルフェンは翌朝運ぶ箱の数を確認した。 その夜、二つの銀杯は空になった。

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異世界アイドル☆パラレルパレード NEO AKIBA ARCHIVE LOG R-10 ―帰り道が同じでしたので― 二人で出たはずの遠征隊は、十九人で帰ってきた。 管理局使節団がアルトリウスを訪れる、五年前。二十歳のオルフェンは、青革の柄巻きと鞘を与えられたルクシオンを腰に差し、管理者と天蓋内西方の旧導水路を調査していた。 帰路、水路峡谷から警笛が聞こえた。 補修中の石橋を迂回した交易隊が、古い鎖橋の中央で立ち往生している。三台の交易車と十七人。最後尾車は床板を突き破り、車体の半分が峡谷へ落ちていた。 車内では商人が鉄枠へ脚を挟まれ、その奥で老人が動けずにいる。対岸では母親が泣く子供を抱えていた。 管理者が主鎖を見る。 「切れる。残り三十秒だ」 オルフェンは白い外套を外した。 「全員、助けられますか?」 「質問を変えろ。何秒必要だ」 「二十秒、増やしてください」 「無茶を言うな」 「管理者さんなら大丈夫です」 「勝手に決めるな」 言いながら、管理者は外套から術式固定用の銀環を抜いていた。銀環は四つの爪を持つ固定具へ展開し、切れかけた主鎖へ食い込む。そこを起点に術式が橋脚へ走り、沈んでいた橋床が持ち上がった。 「二十秒だけ延ばす。それ以上は知らん」 「ありがとうございます」 オルフェンは橋へ走った。 二本目の鎖が切れ、最後尾車が大きく傾く。オルフェンは車体の下へ滑り込み、肩と両腕で落下を止めた。足元の床板が砕け、ロングブーツの踵が橋床へ沈む。 管理者は手袋からミスリル糸を射出し、対岸の橋塔へ固定した。母親と子供、負傷者を吊り具へ繋ぎ、安全な場所へ送っていく。 オルフェンは車体を支えたまま、ルクシオンへ声を掛けた。 「すみません。またお願いします」 鞘の中で聖剣が短く鳴る。オルフェンは片腕で車体を支え、ルクシオンで商人の脚を締め付ける鉄枠だけを斬った。老人と商人が荷台から引き出される。 固定具から警告音が鳴った。 「あと五秒だ」 その時、荷台の奥から白い箱が滑り落ちた。封蝋には《水都東診療所・至急》と刻まれている。 「待ってくれ! 今夜までに届ける薬だ!」 「積荷は捨てろ。戻れ!」 オルフェンは車体を持ち上げ、落下する薬箱を橋上へ蹴り出した。 「馬鹿者!」 管理者の黒い外套が広がり、空中で薬箱を受け止める。 固定具が砕けた。 最後の一人が対岸へ着いた瞬間、主鎖が切れる。鎖橋と交易車が峡谷へ落ち、オルフェンも足場を失った。 落下する交易車を蹴り、その反動で崖へ跳ぶ。 伸ばした右手を、銀の指輪を重ねた手が掴んだ。 管理者は手を離さず、オルフェンを地上へ引き上げる。 「二十秒と言ったな」 「少し越えました」 「三十二秒だ」 「申し訳ありません」 「反省していない顔で言うな」 交易車と橋を失った十七人は、オルフェン達と徒歩でアルトリウスへ戻ることになった。商人が頭を下げる。 「我々まで同行していただいて、申し訳ない」 オルフェンは簡易担架の前を持った。 「帰り道が同じでしたので」 十九人になった一行が、水都へ向かった。 管理者は途中で一人だけ先行した。 オルフェン達が宿場の酒場へ着くと、長机には十九人分の根菜煮とパンが並び、大人達には薄い麦酒が用意されていた。壁際には治療道具と寝具も積まれている。 店主が呆れる。 「二人で出たんじゃなかったのか」 管理者は酒杯を持ったまま答えた。 「私に訊くな」 東診療所へ薬が届き、負傷者の手当ても終わった。最後にオルフェンが管理者の向かいへ座る。 「先に帰ったと思ったら、準備してくださっていたんですね」 「お前を待っていれば、全員野宿になる」 「ありがとうございます」 管理者は酒杯を傾けた。 「相変わらず、面倒ばかり拾う」 「落ちているものは拾うでしょう」 「人を物のように言うな」 「管理者さんが先に面倒と呼びましたよ」 オルフェンはルクシオンを壁へ立て掛け、自分の麦酒を鞘の前へ置く。 「あなたも飲みますか?」 鞘の中で刀身が小さく鳴った。 「この方も飲みたいそうです」 「剣に酒を飲ませるな」 夜が深くなる頃、オルフェンは一杯目を半分残し、机へ伏せて眠っていた。管理者は白い外套を拾い、その背へ掛ける。 店主が空の器を重ねながら尋ねた。 「起こさなくていいのか」 管理者は向かいの席へ座り直す。 「ようやく静かになった。寝かせておけ」 鞘の中でルクシオンが小さく鳴った。 管理者は聖剣を見る。 「お前もだ」

異世界アイドル☆パラレルパレード NEO AKIBA ARCHIVE LOG R-10 ―帰り道が同じでしたので― 二人で出たはずの遠征隊は、十九人で帰ってきた。 管理局使節団がアルトリウスを訪れる、五年前。二十歳のオルフェンは、青革の柄巻きと鞘を与えられたルクシオンを腰に差し、管理者と天蓋内西方の旧導水路を調査していた。 帰路、水路峡谷から警笛が聞こえた。 補修中の石橋を迂回した交易隊が、古い鎖橋の中央で立ち往生している。三台の交易車と十七人。最後尾車は床板を突き破り、車体の半分が峡谷へ落ちていた。 車内では商人が鉄枠へ脚を挟まれ、その奥で老人が動けずにいる。対岸では母親が泣く子供を抱えていた。 管理者が主鎖を見る。 「切れる。残り三十秒だ」 オルフェンは白い外套を外した。 「全員、助けられますか?」 「質問を変えろ。何秒必要だ」 「二十秒、増やしてください」 「無茶を言うな」 「管理者さんなら大丈夫です」 「勝手に決めるな」 言いながら、管理者は外套から術式固定用の銀環を抜いていた。銀環は四つの爪を持つ固定具へ展開し、切れかけた主鎖へ食い込む。そこを起点に術式が橋脚へ走り、沈んでいた橋床が持ち上がった。 「二十秒だけ延ばす。それ以上は知らん」 「ありがとうございます」 オルフェンは橋へ走った。 二本目の鎖が切れ、最後尾車が大きく傾く。オルフェンは車体の下へ滑り込み、肩と両腕で落下を止めた。足元の床板が砕け、ロングブーツの踵が橋床へ沈む。 管理者は手袋からミスリル糸を射出し、対岸の橋塔へ固定した。母親と子供、負傷者を吊り具へ繋ぎ、安全な場所へ送っていく。 オルフェンは車体を支えたまま、ルクシオンへ声を掛けた。 「すみません。またお願いします」 鞘の中で聖剣が短く鳴る。オルフェンは片腕で車体を支え、ルクシオンで商人の脚を締め付ける鉄枠だけを斬った。老人と商人が荷台から引き出される。 固定具から警告音が鳴った。 「あと五秒だ」 その時、荷台の奥から白い箱が滑り落ちた。封蝋には《水都東診療所・至急》と刻まれている。 「待ってくれ! 今夜までに届ける薬だ!」 「積荷は捨てろ。戻れ!」 オルフェンは車体を持ち上げ、落下する薬箱を橋上へ蹴り出した。 「馬鹿者!」 管理者の黒い外套が広がり、空中で薬箱を受け止める。 固定具が砕けた。 最後の一人が対岸へ着いた瞬間、主鎖が切れる。鎖橋と交易車が峡谷へ落ち、オルフェンも足場を失った。 落下する交易車を蹴り、その反動で崖へ跳ぶ。 伸ばした右手を、銀の指輪を重ねた手が掴んだ。 管理者は手を離さず、オルフェンを地上へ引き上げる。 「二十秒と言ったな」 「少し越えました」 「三十二秒だ」 「申し訳ありません」 「反省していない顔で言うな」 交易車と橋を失った十七人は、オルフェン達と徒歩でアルトリウスへ戻ることになった。商人が頭を下げる。 「我々まで同行していただいて、申し訳ない」 オルフェンは簡易担架の前を持った。 「帰り道が同じでしたので」 十九人になった一行が、水都へ向かった。 管理者は途中で一人だけ先行した。 オルフェン達が宿場の酒場へ着くと、長机には十九人分の根菜煮とパンが並び、大人達には薄い麦酒が用意されていた。壁際には治療道具と寝具も積まれている。 店主が呆れる。 「二人で出たんじゃなかったのか」 管理者は酒杯を持ったまま答えた。 「私に訊くな」 東診療所へ薬が届き、負傷者の手当ても終わった。最後にオルフェンが管理者の向かいへ座る。 「先に帰ったと思ったら、準備してくださっていたんですね」 「お前を待っていれば、全員野宿になる」 「ありがとうございます」 管理者は酒杯を傾けた。 「相変わらず、面倒ばかり拾う」 「落ちているものは拾うでしょう」 「人を物のように言うな」 「管理者さんが先に面倒と呼びましたよ」 オルフェンはルクシオンを壁へ立て掛け、自分の麦酒を鞘の前へ置く。 「あなたも飲みますか?」 鞘の中で刀身が小さく鳴った。 「この方も飲みたいそうです」 「剣に酒を飲ませるな」 夜が深くなる頃、オルフェンは一杯目を半分残し、机へ伏せて眠っていた。管理者は白い外套を拾い、その背へ掛ける。 店主が空の器を重ねながら尋ねた。 「起こさなくていいのか」 管理者は向かいの席へ座り直す。 「ようやく静かになった。寝かせておけ」 鞘の中でルクシオンが小さく鳴った。 管理者は聖剣を見る。 「お前もだ」

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異世界アイドル☆パラレルパレード NEO AKIBA ARCHIVE LOG R-18 ―沈黙― 鉄扉が閉じた直後、地下水路の奥まで低い衝撃音が響いた。 一度。 水面が震え、グンソは振り返る。 二度目の音が響いた。 「戻る」 踵を返したグンソの腕を、ソンミンが掴んだ。 「戻ってどうする」 「ムジンを置いていけるか!」 「置いていくんじゃない。あの人がお前を通したんだ」 「それでも!」 「戻れば、あの人の命令を無駄にする!」 グンソの拳がソンミンの胸を打つ。それでもソンミンは腕を離さなかった。 「生き残れって言われただろう!」 その言葉に、グンソの動きが止まる。 三度目の衝撃音が鳴った。 今度は、遠かった。 ムジンがまだ戦っているのか。もう倒れたのか。誰にも分からない。 テジュンは胸元の記録片を青紫の灯へかざした。焼け焦げた金属片に、わずかな文字が浮かぶ。 《対象名……ソナ》 《収容確認》 《移送記録……あり》 《登録抹消……未完了》 グンソの呼吸が止まった。 ソナは、確かにそこにいた。 名前を奪われ、番号へ変えられ、記録から消されかけていた。それでも完全には消えていなかった。 ムジンが守ったのは、記録片ではない。 ソナが生きていたという事実だった。 「……ソナだけじゃない」 テジュンが記録片の端を示す。そこには、他にもいくつもの番号が並んでいた。 同じ施設へ送られた人間たちの痕跡。 グンソは記録片を握りしめる。 「行くぞ」 ソンミンが言った。 「ムジンは?」 誰も答えられなかった。 やがてグンソは、鉄扉から視線を外した。 「ソナを連れ出す」 低い声だった。 「それだけじゃない。この記録に載っている全員を、消させない」 五人は地下水路の奥へ進んだ。 誰も振り返らなかった。振り返れば、歩けなくなる気がした。 * 地上では、青紫の灯がひとつずつ消えていた。 煙の残る路地の中央で、ムジンは片膝をついていた。外套は裂け、肩と脇腹から血が流れている。それでも姿勢を崩していなかった。 目の前には、かつての弟子。 銃口は、ムジンの胸へ向いている。 その隣には、二メートルを超える男が立っていた。ムジンの最後の一撃で傷ついた頬から、血が静かに流れている。 「記録片の出所をお聞きします」 ムジンは黙っていた。 「地下水路の経路でも構いません。協力者の名前でも」 返事はない。 男は穏やかに首を傾けた。 「沈黙は、たいへん誤解されやすい選択です」 ムジンはゆっくりと立ち上がった。 「……お前たちに渡す名前はない」 男の微笑みが深くなる。 ムジンは、かつての弟子を見た。 「お前は、まだ戻れる」 銃を持つ手が震えた。 一瞬だけ、少年の顔が戻る。 だが、黒い制服の男は目を伏せた。 「その呼び方は、もう必要ありません」 「そうか」 ムジンは静かに答えた。 「ならば、もう何も言うな」 銃床が振り下ろされた。 青紫の灯が、またひとつ消えた。 * ムジンが目を開けると、そこに窓はなかった。 白い壁。低い天井。床に固定された椅子。壁際には、用途の分からない金属器具が整然と並んでいる。 男は机の向こうに座っていた。 「もう一度だけ確認します。記録片の出所は?」 ムジンは答えなかった。 「協力者は?」 答えなかった。 「地下へ逃げた者たちの行き先は?」 ムジンは顔を上げた。 唇は切れ、片目は腫れている。それでも、何も渡さなかった。 男は紙を閉じた。 「たいへん頑固な方ですね」 ムジンは目を閉じる。 男が立ち上がった。 「それでは、特別な尋問へ移りましょう」 扉が開く。 廊下の向こうから、複数の足音が近づいてきた。 ムジンは連れていかれる。 最後まで、誰の名前も呼ばなかった。 扉が閉じた後、男は机へ戻り、書類へ記録を書き込んだ。 《対象:ムジン》 《供述:なし》 《協力者情報:なし》 《記録片の出所:未確認》 《処置区分:特別尋問へ移行》 紙の上で、墨がゆっくりと乾いていく。 その下にある名前だけが、まだ消えずに残っていた。 ――ムジン。

異世界アイドル☆パラレルパレード NEO AKIBA ARCHIVE LOG R-18 ―沈黙― 鉄扉が閉じた直後、地下水路の奥まで低い衝撃音が響いた。 一度。 水面が震え、グンソは振り返る。 二度目の音が響いた。 「戻る」 踵を返したグンソの腕を、ソンミンが掴んだ。 「戻ってどうする」 「ムジンを置いていけるか!」 「置いていくんじゃない。あの人がお前を通したんだ」 「それでも!」 「戻れば、あの人の命令を無駄にする!」 グンソの拳がソンミンの胸を打つ。それでもソンミンは腕を離さなかった。 「生き残れって言われただろう!」 その言葉に、グンソの動きが止まる。 三度目の衝撃音が鳴った。 今度は、遠かった。 ムジンがまだ戦っているのか。もう倒れたのか。誰にも分からない。 テジュンは胸元の記録片を青紫の灯へかざした。焼け焦げた金属片に、わずかな文字が浮かぶ。 《対象名……ソナ》 《収容確認》 《移送記録……あり》 《登録抹消……未完了》 グンソの呼吸が止まった。 ソナは、確かにそこにいた。 名前を奪われ、番号へ変えられ、記録から消されかけていた。それでも完全には消えていなかった。 ムジンが守ったのは、記録片ではない。 ソナが生きていたという事実だった。 「……ソナだけじゃない」 テジュンが記録片の端を示す。そこには、他にもいくつもの番号が並んでいた。 同じ施設へ送られた人間たちの痕跡。 グンソは記録片を握りしめる。 「行くぞ」 ソンミンが言った。 「ムジンは?」 誰も答えられなかった。 やがてグンソは、鉄扉から視線を外した。 「ソナを連れ出す」 低い声だった。 「それだけじゃない。この記録に載っている全員を、消させない」 五人は地下水路の奥へ進んだ。 誰も振り返らなかった。振り返れば、歩けなくなる気がした。 * 地上では、青紫の灯がひとつずつ消えていた。 煙の残る路地の中央で、ムジンは片膝をついていた。外套は裂け、肩と脇腹から血が流れている。それでも姿勢を崩していなかった。 目の前には、かつての弟子。 銃口は、ムジンの胸へ向いている。 その隣には、二メートルを超える男が立っていた。ムジンの最後の一撃で傷ついた頬から、血が静かに流れている。 「記録片の出所をお聞きします」 ムジンは黙っていた。 「地下水路の経路でも構いません。協力者の名前でも」 返事はない。 男は穏やかに首を傾けた。 「沈黙は、たいへん誤解されやすい選択です」 ムジンはゆっくりと立ち上がった。 「……お前たちに渡す名前はない」 男の微笑みが深くなる。 ムジンは、かつての弟子を見た。 「お前は、まだ戻れる」 銃を持つ手が震えた。 一瞬だけ、少年の顔が戻る。 だが、黒い制服の男は目を伏せた。 「その呼び方は、もう必要ありません」 「そうか」 ムジンは静かに答えた。 「ならば、もう何も言うな」 銃床が振り下ろされた。 青紫の灯が、またひとつ消えた。 * ムジンが目を開けると、そこに窓はなかった。 白い壁。低い天井。床に固定された椅子。壁際には、用途の分からない金属器具が整然と並んでいる。 男は机の向こうに座っていた。 「もう一度だけ確認します。記録片の出所は?」 ムジンは答えなかった。 「協力者は?」 答えなかった。 「地下へ逃げた者たちの行き先は?」 ムジンは顔を上げた。 唇は切れ、片目は腫れている。それでも、何も渡さなかった。 男は紙を閉じた。 「たいへん頑固な方ですね」 ムジンは目を閉じる。 男が立ち上がった。 「それでは、特別な尋問へ移りましょう」 扉が開く。 廊下の向こうから、複数の足音が近づいてきた。 ムジンは連れていかれる。 最後まで、誰の名前も呼ばなかった。 扉が閉じた後、男は机へ戻り、書類へ記録を書き込んだ。 《対象:ムジン》 《供述:なし》 《協力者情報:なし》 《記録片の出所:未確認》 《処置区分:特別尋問へ移行》 紙の上で、墨がゆっくりと乾いていく。 その下にある名前だけが、まだ消えずに残っていた。 ――ムジン。

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異世界アイドル☆パラレルパレード NEO AKIBA ARCHIVE LOG R-08 ―水門の地竜― 管理局使節団が街を去ってから、三か月と六日。北水門の警鐘が五度鳴った。運河を進んでいた小舟が一斉に岸へ寄る。水門へ向かっていた荷車はその場で止められ、市場の人々が店先の子供を建物へ押し込んだ。 「地竜だ!」 叫び声の直後、北側の石壁が揺れた。青黒い巨体が、取水路の奥から姿を現す。荷車二台分はある胴体。岩盤を歩くための六本脚。首から背を覆う鱗は古い鉄板のように重なり、額から伸びた二本の角が水門の支柱を削っていた。 老門番が、地竜の首へ絡んだ水草を見る。 「夜の取水に紛れたか」 地竜の後方では、閉じた鉄格子が大きく歪んでいた。 「閉門に追われて、戻る道を失ったらしいな」 巡回兵達が槍を構える。水門の上では、大型弩の固定具が外されていた。 「撃つな! ここで暴れさせれば、水門ごと持っていかれる!」 老門番が怒鳴った直後、地竜が尾を振った。作業船が横転し、積まれていた工具と木箱が水路へ散る。船底の下から、男の手が上がった。 「一人、挟まれています!」 兵士達の動きが止まる。地竜は興奮し、横転した船の周囲を歩き回っている。近付けば踏み潰される。大型弩を撃てば、船の下にいる作業員も巻き込む。 その横を、青銀の髪が通り過ぎた。 「オルフェン!」 オルフェンは片手を上げ、そのまま地竜の前を横切った。船体へ肩を入れる。傾いた船が持ち上がり、兵士達が慌てて下へ潜った。 作業員が引き出されると、オルフェンは若い兵士へ告げた。 「左脚を固定してください。診療所へ」 兵士が負傷者を背負う。その背後で、地竜が低く唸った。 オルフェンはゆっくりと振り返り、腰の聖剣へ手を添える。柄が僅かに温かくなった。 「今回は休んでいてください」 聖剣は鞘の中で小さく鳴った。 「この方も、帰り道が分からないだけでしょう」 オルフェンは少しだけ困ったように笑う。 「大丈夫です。無理はしません」 近くの兵士が顔をしかめた。 「誰と話しているんです?」 「こちらの話です」 地竜が頭を下げる。老門番の顔色が変わった。 「来るぞ!」 六本の脚が石畳を蹴った。オルフェンの背後には閉ざされた水門がある。その向こうでは、避難の遅れた作業員と子供達が身を寄せ合っていた。 彼は逃げなかった。 地竜の二本角を、正面から受け止める。衝突音が水路中へ響いた。オルフェンの身体が後方へ押され、靴底が石畳を削り、二本の深い溝を残す。 水門まで、残り五歩。四歩。三歩。 それでも角は、水門へ届かなかった。 「申し訳ありません。こちらは通せません」 オルフェンは地竜の目を見た。地竜がさらに踏み込み、足元の石畳が耐え切れず、オルフェンの靴が踝まで沈む。 彼は押し返さない。右足を深く踏み込み、地竜の頭を僅かに左へ向ける。ほんの数度。だが巨体が進むほど、その僅かなずれは大きくなっていく。 老門番が気付いた。 「西の退避水路を開けろ!」 兵士達が鎖へ飛びつく。水門脇の鉄扉が持ち上がり、地下水脈へ戻る古い放水路が姿を現した。地竜の前脚が、開いた水路の方へ入る。 オルフェンは最後の瞬間に角から手を離し、巨体の横へ転がった。地竜は勢いを止められない。そのまま退避水路へ駆け込み、青黒い背を暗がりの奥へ沈めていく。 静かになった。水音だけが戻ってくる。 しばらくして、地竜が一度だけ振り返った。オルフェンは立ち上がり、泥を払う。 「お気を付けて」 地竜は鼻を鳴らし、地下水脈の奥へ消えた。 水門の裏から、子供が顔を出す。 「どうして剣を使わなかったの?」 オルフェンは沈んだ靴を石畳から引き抜いた。 「悪い事をしたわけではありませんから」 「でも、襲ってきたよ」 「怖かったのでしょう。帰れなくなれば、誰でも困ります」 子供は地竜が消えた水路を見つめた。 「オルフェンは怖くなかったの?」 オルフェンは曲がった水門の支柱を見る。 「あの角が、皆さんのいる所へ届きそうになった時は、少し」 背後から老門番の声が飛んだ。 「話しているところ悪いが、仕事は残っているぞ」 割れた石畳。曲がった支柱。横転した作業船。外れた鎖。オルフェンは周囲を見渡した。 「どれから直しましょうか」 「全部だ」 「承知しました」 その日の午後、オルフェンは砕けた石材を運び、船を起こし、水門の鎖を張り直した。腰の聖剣は一度も抜かれなかった。 作業を終えた帰り道、オルフェンが柄へ手を置く。 鞘の中から、淡い温もりが返ってきた。

異世界アイドル☆パラレルパレード NEO AKIBA ARCHIVE LOG R-08 ―水門の地竜― 管理局使節団が街を去ってから、三か月と六日。北水門の警鐘が五度鳴った。運河を進んでいた小舟が一斉に岸へ寄る。水門へ向かっていた荷車はその場で止められ、市場の人々が店先の子供を建物へ押し込んだ。 「地竜だ!」 叫び声の直後、北側の石壁が揺れた。青黒い巨体が、取水路の奥から姿を現す。荷車二台分はある胴体。岩盤を歩くための六本脚。首から背を覆う鱗は古い鉄板のように重なり、額から伸びた二本の角が水門の支柱を削っていた。 老門番が、地竜の首へ絡んだ水草を見る。 「夜の取水に紛れたか」 地竜の後方では、閉じた鉄格子が大きく歪んでいた。 「閉門に追われて、戻る道を失ったらしいな」 巡回兵達が槍を構える。水門の上では、大型弩の固定具が外されていた。 「撃つな! ここで暴れさせれば、水門ごと持っていかれる!」 老門番が怒鳴った直後、地竜が尾を振った。作業船が横転し、積まれていた工具と木箱が水路へ散る。船底の下から、男の手が上がった。 「一人、挟まれています!」 兵士達の動きが止まる。地竜は興奮し、横転した船の周囲を歩き回っている。近付けば踏み潰される。大型弩を撃てば、船の下にいる作業員も巻き込む。 その横を、青銀の髪が通り過ぎた。 「オルフェン!」 オルフェンは片手を上げ、そのまま地竜の前を横切った。船体へ肩を入れる。傾いた船が持ち上がり、兵士達が慌てて下へ潜った。 作業員が引き出されると、オルフェンは若い兵士へ告げた。 「左脚を固定してください。診療所へ」 兵士が負傷者を背負う。その背後で、地竜が低く唸った。 オルフェンはゆっくりと振り返り、腰の聖剣へ手を添える。柄が僅かに温かくなった。 「今回は休んでいてください」 聖剣は鞘の中で小さく鳴った。 「この方も、帰り道が分からないだけでしょう」 オルフェンは少しだけ困ったように笑う。 「大丈夫です。無理はしません」 近くの兵士が顔をしかめた。 「誰と話しているんです?」 「こちらの話です」 地竜が頭を下げる。老門番の顔色が変わった。 「来るぞ!」 六本の脚が石畳を蹴った。オルフェンの背後には閉ざされた水門がある。その向こうでは、避難の遅れた作業員と子供達が身を寄せ合っていた。 彼は逃げなかった。 地竜の二本角を、正面から受け止める。衝突音が水路中へ響いた。オルフェンの身体が後方へ押され、靴底が石畳を削り、二本の深い溝を残す。 水門まで、残り五歩。四歩。三歩。 それでも角は、水門へ届かなかった。 「申し訳ありません。こちらは通せません」 オルフェンは地竜の目を見た。地竜がさらに踏み込み、足元の石畳が耐え切れず、オルフェンの靴が踝まで沈む。 彼は押し返さない。右足を深く踏み込み、地竜の頭を僅かに左へ向ける。ほんの数度。だが巨体が進むほど、その僅かなずれは大きくなっていく。 老門番が気付いた。 「西の退避水路を開けろ!」 兵士達が鎖へ飛びつく。水門脇の鉄扉が持ち上がり、地下水脈へ戻る古い放水路が姿を現した。地竜の前脚が、開いた水路の方へ入る。 オルフェンは最後の瞬間に角から手を離し、巨体の横へ転がった。地竜は勢いを止められない。そのまま退避水路へ駆け込み、青黒い背を暗がりの奥へ沈めていく。 静かになった。水音だけが戻ってくる。 しばらくして、地竜が一度だけ振り返った。オルフェンは立ち上がり、泥を払う。 「お気を付けて」 地竜は鼻を鳴らし、地下水脈の奥へ消えた。 水門の裏から、子供が顔を出す。 「どうして剣を使わなかったの?」 オルフェンは沈んだ靴を石畳から引き抜いた。 「悪い事をしたわけではありませんから」 「でも、襲ってきたよ」 「怖かったのでしょう。帰れなくなれば、誰でも困ります」 子供は地竜が消えた水路を見つめた。 「オルフェンは怖くなかったの?」 オルフェンは曲がった水門の支柱を見る。 「あの角が、皆さんのいる所へ届きそうになった時は、少し」 背後から老門番の声が飛んだ。 「話しているところ悪いが、仕事は残っているぞ」 割れた石畳。曲がった支柱。横転した作業船。外れた鎖。オルフェンは周囲を見渡した。 「どれから直しましょうか」 「全部だ」 「承知しました」 その日の午後、オルフェンは砕けた石材を運び、船を起こし、水門の鎖を張り直した。腰の聖剣は一度も抜かれなかった。 作業を終えた帰り道、オルフェンが柄へ手を置く。 鞘の中から、淡い温もりが返ってきた。

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異世界アイドル☆パラレルパレード NEO AKIBA OBSERVATION LOG 2-09 ― 星は魚だった ― 翌日、少女は春じいを図書館へ連れて行くつもりだった。 「春じいの家、行く。図書館も行く。」 あかり亭の戸を飛び出し、少女は石畳を三歩だけ進んだ。 その時、灯町広場の真ん中に、巡灯神輿が見えた。 「でっっっか!!」 春じいの家も、図書館の新刊も、待っている春じい本人のことまで、少女の頭からきれいに消えた。 巡灯神輿(じゅんとうみこし)は、灯町祭の夜に店々が持ち寄った小さな灯器を吊り、決まった道を町じゅう巡る大きな神輿だった。太い担ぎ梁の上には黒い灯環が重なり、まだ火の入っていない灯りが、作業灯を受けて鈍く光っている。 高い天蓋の向こうでは、雨が排水路へ落ちる音だけが遠く続いていた。 父たちは神輿の横で飾り紐を結んでいた。少女は作業用の縄をくぐろうとしたが、母に前掛けの首紐をつままれる。 「入らない。」 「見るだけ。」 「見るだけの顔じゃない。」 少女は神輿の正面まで走り、黒い飾り台を指さした。 「ここ、なんか足りない。」 「何が?」 少女はしばらく見上げた。 「きらきら!」 父は笑って、広場の隅に置かれた木箱を顎で指した。 「自分で作れるなら、付けてもいいぞ。」 「作れる。あたし天才だから。」 木箱の中には、細長い光る帯が何本も入っていた。反光帯(はんこうたい)。古くなった店灯の内側に貼ってあった反射膜を細く切った、灯町祭の飾り紐だ。 灯りを受けると、白くなったり、青くなったりする。去年の子供の名前や油の染み、焦げた補修跡まで、そのまま残っていた。 「うわ、いっぱい。」 「一枚ずつ使うんだぞ。」 母が言った時には、少女はもう両腕いっぱいに抱えていた。 「いっぱいの一枚ずつ。」 「それは一枚ずつじゃない。」 少女は石畳へぺたんと座り、反光帯をねじって、折って、細い針金へ巻いていく。星を作るつもりだったらしい。 けれど帯は言うことを聞かなかった。角を作ればへなへなと垂れ、一本は髪へ絡み、もう一本は鼻水へくっついた。 「取れない。」 「まず鼻水を取る。」 母が布を出すと、少女は反光帯の方を差し出した。 「こっち。」 「先に顔。」 魚屋のおじさんが、焼き網の向こうからのぞき込んだ。 「……魚か?」 「星。」 「魚に見えるな。」 「星なの。」 「かなり魚だな。」 少女は、ぐちゃぐちゃの反光帯を抱えたまま固まった。 「星なのに……。」 少しだけ考える。 「病んだ〜……。」 その時、広場の換気管が低く鳴った。風が抜け、ほどけた反光帯が石畳の上をするすると逃げていく。 「あっ、逃げた!」 左足だけ白い靴下を履いた少女は、素足の右足をぺたぺた鳴らして追いかけた。帯は排水溝の手前でくるりと回り、ふわりと持ち上がる。 「待てぇぇぇ!」 少女は勢いよく腹ばいになり、素足で帯の端を踏んだ。 「取った!」 「素足で踏むな!」 父の声より先に、少女は帯を掲げていた。髪には二本。前掛けには三本。鼻の下には銀色の帯が一本、ぺたりと張り付いている。 修理屋のおばちゃんが、笑いをこらえながら少女の隣へしゃがんだ。 「星にするなら、折りすぎない方がいいよ。」 「折りすぎた?」 「かなり。」 少女は、魚みたいな星を見た。 それから新しい反光帯を一本だけ取る。 「じゃあ、折らない。」 「それで星になるかな。」 「なる。あたし天才だから。」 少女は新しい帯を両手でまっすぐ持った。作業灯を拾った帯が、指のあいだで白く光る。 巡灯神輿のいちばん前には、まだ何も付いていない飾り台が残っていた。 その頃、春じいは家の前で、水筒を持ったまま待っていた。

異世界アイドル☆パラレルパレード NEO AKIBA OBSERVATION LOG 2-09 ― 星は魚だった ― 翌日、少女は春じいを図書館へ連れて行くつもりだった。 「春じいの家、行く。図書館も行く。」 あかり亭の戸を飛び出し、少女は石畳を三歩だけ進んだ。 その時、灯町広場の真ん中に、巡灯神輿が見えた。 「でっっっか!!」 春じいの家も、図書館の新刊も、待っている春じい本人のことまで、少女の頭からきれいに消えた。 巡灯神輿(じゅんとうみこし)は、灯町祭の夜に店々が持ち寄った小さな灯器を吊り、決まった道を町じゅう巡る大きな神輿だった。太い担ぎ梁の上には黒い灯環が重なり、まだ火の入っていない灯りが、作業灯を受けて鈍く光っている。 高い天蓋の向こうでは、雨が排水路へ落ちる音だけが遠く続いていた。 父たちは神輿の横で飾り紐を結んでいた。少女は作業用の縄をくぐろうとしたが、母に前掛けの首紐をつままれる。 「入らない。」 「見るだけ。」 「見るだけの顔じゃない。」 少女は神輿の正面まで走り、黒い飾り台を指さした。 「ここ、なんか足りない。」 「何が?」 少女はしばらく見上げた。 「きらきら!」 父は笑って、広場の隅に置かれた木箱を顎で指した。 「自分で作れるなら、付けてもいいぞ。」 「作れる。あたし天才だから。」 木箱の中には、細長い光る帯が何本も入っていた。反光帯(はんこうたい)。古くなった店灯の内側に貼ってあった反射膜を細く切った、灯町祭の飾り紐だ。 灯りを受けると、白くなったり、青くなったりする。去年の子供の名前や油の染み、焦げた補修跡まで、そのまま残っていた。 「うわ、いっぱい。」 「一枚ずつ使うんだぞ。」 母が言った時には、少女はもう両腕いっぱいに抱えていた。 「いっぱいの一枚ずつ。」 「それは一枚ずつじゃない。」 少女は石畳へぺたんと座り、反光帯をねじって、折って、細い針金へ巻いていく。星を作るつもりだったらしい。 けれど帯は言うことを聞かなかった。角を作ればへなへなと垂れ、一本は髪へ絡み、もう一本は鼻水へくっついた。 「取れない。」 「まず鼻水を取る。」 母が布を出すと、少女は反光帯の方を差し出した。 「こっち。」 「先に顔。」 魚屋のおじさんが、焼き網の向こうからのぞき込んだ。 「……魚か?」 「星。」 「魚に見えるな。」 「星なの。」 「かなり魚だな。」 少女は、ぐちゃぐちゃの反光帯を抱えたまま固まった。 「星なのに……。」 少しだけ考える。 「病んだ〜……。」 その時、広場の換気管が低く鳴った。風が抜け、ほどけた反光帯が石畳の上をするすると逃げていく。 「あっ、逃げた!」 左足だけ白い靴下を履いた少女は、素足の右足をぺたぺた鳴らして追いかけた。帯は排水溝の手前でくるりと回り、ふわりと持ち上がる。 「待てぇぇぇ!」 少女は勢いよく腹ばいになり、素足で帯の端を踏んだ。 「取った!」 「素足で踏むな!」 父の声より先に、少女は帯を掲げていた。髪には二本。前掛けには三本。鼻の下には銀色の帯が一本、ぺたりと張り付いている。 修理屋のおばちゃんが、笑いをこらえながら少女の隣へしゃがんだ。 「星にするなら、折りすぎない方がいいよ。」 「折りすぎた?」 「かなり。」 少女は、魚みたいな星を見た。 それから新しい反光帯を一本だけ取る。 「じゃあ、折らない。」 「それで星になるかな。」 「なる。あたし天才だから。」 少女は新しい帯を両手でまっすぐ持った。作業灯を拾った帯が、指のあいだで白く光る。 巡灯神輿のいちばん前には、まだ何も付いていない飾り台が残っていた。 その頃、春じいは家の前で、水筒を持ったまま待っていた。

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異世界アイドル☆パラレルパレード NEO AKIBA OBSERVATION LOG 2-08 ― 古書灯の図書館 後編 ― 一枚の古い貸出カードが、蜂蜜色の灯りを受けて静かに光っていた。 少女は、まだ気付いていなかった。 返本灯だけが、小さく一度だけ鳴いた。 ちりん。 「ん?」 少女が顔を上げる。返本灯は本棚の下を照らしたまま、細い脚をそろえて止まっていた。光の輪の端に、薄い板が一枚だけ見えている。 少女はしゃがみ込み、指先でそっと引っぱった。角が丸くなった、古い貸出カードだった。 「これなに?」 「昔の貸出カードですね。」 図書室のお姉さんが、受付台からゆっくり近づいてくる。カードには子供の字で名前が書かれ、その上には、少女が今日返した冒険小説と同じ題名が残っていた。 少女は読もうとして、少しだけ首をかしげる。 「はる……た?」 お姉さんはカードを見て、ふっと笑った。 「春じいが、子供の頃に使っていたカードですよ。」 「春じい!?」 少女はもう一度カードを見た。そこには、今の春じいが書く字とはまるで違う、丸くて小さな『春田』の文字が残っていた。 その一番下には、返却期限を九日過ぎたことを示す赤い判が残っていた。 延滞 九日。 少女はしばらく黙った。 それから、ゆっくり返本灯を見る。 「あたしより病んでる。」 「かなりですね。」 「九日も返さなかったの?」 「そうみたいです。」 「その間に、この本を読みたかった子がいたら困る。」 「そうですね。」 「じゃあ、春じいが悪い。」 「返し忘れたのは春じいですからね。」 少女は急に元気になった。 「今日、あかり亭で言う!」 「言わなくていいと思います。」 「春じい、本返さない不良だったって。」 「それは言いすぎです。」 返本灯が、足元で小さく揺れた。 ちりん。 灯りまで笑ったように見えた。 カードの裏には、もっと薄い字が残っていた。鉛筆で書かれた、少しだけ傾いた子供の文字。 ぼうけん たのしかった 少女は、声に出して読んだ。 「ぼうけん、たのしかった。」 「春じいが、自分で選んだ本だったのかもしれませんね。」 「春じいも、ぼうけん好きだったんだ。」 「春じいも、最初は子供でしたから。」 少女はカードと、自分が返した冒険小説を見比べた。春じいも昔、この棚の前で同じ本を抱えていたのかもしれない。 返すのを忘れて、誰かに怒られて、それでもまた新しい本を借りに来たのかもしれない。 「じゃあ春じいも、ここで迷子になった?」 「春じいは、あなたほどではなかったと思います。」 「あたしは迷子じゃない。探索。」 「そうでした。」 少女は胸を張った。 「春じいにも、明日新しい本借りようって言う。」 「春じいと一緒にですか?」 「うん。九日遅れた人には、あたしが教える。」 「頼もしいですね。」 「天才だから。」 返本灯が少女の前まで、とことこと歩いた。入口の方を向き、蜂蜜色の灯りを少しだけ明るくする。 少女はしゃがみ込んだ。 「明日もいる?」 返本灯は、首を傾けるように灯りを揺らした。 ちりん。 「よし。明日また来る。」 「走らないでくださいね。」 「速い早歩き!」 少女は前掛けを揺らしながら、図書室の出口へ向かった。蜂蜜色の灯りの下を、小さな足音が遠ざかっていく。 お姉さんは、返された冒険小説を低い棚のいつもの場所へ戻した。それから春じいの古い貸出カードの隣に、少女の返却記録をそっと重ねる。 木箱の中で、春じいが子供の頃に残したカードと、少女の一日遅れの記録が静かに並んだ。 明日の昼灯になれば、また誰かが新しい本を借りに来る。 古書灯図書館は、今日の一日遅れと、明日の約束を、蜂蜜色の灯りの下で静かに預かっていた。

異世界アイドル☆パラレルパレード NEO AKIBA OBSERVATION LOG 2-08 ― 古書灯の図書館 後編 ― 一枚の古い貸出カードが、蜂蜜色の灯りを受けて静かに光っていた。 少女は、まだ気付いていなかった。 返本灯だけが、小さく一度だけ鳴いた。 ちりん。 「ん?」 少女が顔を上げる。返本灯は本棚の下を照らしたまま、細い脚をそろえて止まっていた。光の輪の端に、薄い板が一枚だけ見えている。 少女はしゃがみ込み、指先でそっと引っぱった。角が丸くなった、古い貸出カードだった。 「これなに?」 「昔の貸出カードですね。」 図書室のお姉さんが、受付台からゆっくり近づいてくる。カードには子供の字で名前が書かれ、その上には、少女が今日返した冒険小説と同じ題名が残っていた。 少女は読もうとして、少しだけ首をかしげる。 「はる……た?」 お姉さんはカードを見て、ふっと笑った。 「春じいが、子供の頃に使っていたカードですよ。」 「春じい!?」 少女はもう一度カードを見た。そこには、今の春じいが書く字とはまるで違う、丸くて小さな『春田』の文字が残っていた。 その一番下には、返却期限を九日過ぎたことを示す赤い判が残っていた。 延滞 九日。 少女はしばらく黙った。 それから、ゆっくり返本灯を見る。 「あたしより病んでる。」 「かなりですね。」 「九日も返さなかったの?」 「そうみたいです。」 「その間に、この本を読みたかった子がいたら困る。」 「そうですね。」 「じゃあ、春じいが悪い。」 「返し忘れたのは春じいですからね。」 少女は急に元気になった。 「今日、あかり亭で言う!」 「言わなくていいと思います。」 「春じい、本返さない不良だったって。」 「それは言いすぎです。」 返本灯が、足元で小さく揺れた。 ちりん。 灯りまで笑ったように見えた。 カードの裏には、もっと薄い字が残っていた。鉛筆で書かれた、少しだけ傾いた子供の文字。 ぼうけん たのしかった 少女は、声に出して読んだ。 「ぼうけん、たのしかった。」 「春じいが、自分で選んだ本だったのかもしれませんね。」 「春じいも、ぼうけん好きだったんだ。」 「春じいも、最初は子供でしたから。」 少女はカードと、自分が返した冒険小説を見比べた。春じいも昔、この棚の前で同じ本を抱えていたのかもしれない。 返すのを忘れて、誰かに怒られて、それでもまた新しい本を借りに来たのかもしれない。 「じゃあ春じいも、ここで迷子になった?」 「春じいは、あなたほどではなかったと思います。」 「あたしは迷子じゃない。探索。」 「そうでした。」 少女は胸を張った。 「春じいにも、明日新しい本借りようって言う。」 「春じいと一緒にですか?」 「うん。九日遅れた人には、あたしが教える。」 「頼もしいですね。」 「天才だから。」 返本灯が少女の前まで、とことこと歩いた。入口の方を向き、蜂蜜色の灯りを少しだけ明るくする。 少女はしゃがみ込んだ。 「明日もいる?」 返本灯は、首を傾けるように灯りを揺らした。 ちりん。 「よし。明日また来る。」 「走らないでくださいね。」 「速い早歩き!」 少女は前掛けを揺らしながら、図書室の出口へ向かった。蜂蜜色の灯りの下を、小さな足音が遠ざかっていく。 お姉さんは、返された冒険小説を低い棚のいつもの場所へ戻した。それから春じいの古い貸出カードの隣に、少女の返却記録をそっと重ねる。 木箱の中で、春じいが子供の頃に残したカードと、少女の一日遅れの記録が静かに並んだ。 明日の昼灯になれば、また誰かが新しい本を借りに来る。 古書灯図書館は、今日の一日遅れと、明日の約束を、蜂蜜色の灯りの下で静かに預かっていた。

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異世界アイドル☆パラレルパレード NEO AKIBA OBSERVATION LOG 1-28 ー封鎖昇降機ー 第五層の遺物庫で発見された観測記録には、不自然な数字が何度も残されていた。 23:47。 古い記録にも、破損した記録にも、観測者不明の断片にも、その数字だけが現れる。誰かが意図的に痕跡を残したようだった。管理者は数日かけて記録を照合した。そして辿り着く。第五層最深部。現在の路線図から削除された区域だった。 そこへ向かうほど人の気配は消えていった。湿った風が吹き抜け、古い配管の奥で機械音だけが響いている。歌姫達が暮らす第五層も広大だが、それはほんの表面に過ぎない。その下には誰も語らない空間が幾重にも眠っている。封鎖された観測所。廃棄された路線。記録ごと消された区域。管理者は何も言わず歩き続けた。長い通路の先で視界が開く。 巨大な昇降機だった。 黒鉄の塔が天井の見えない闇へ伸びている。無数のワイヤー。崩れた足場。停止した信号灯。そして中央には閉ざされた巨大な扉。第五層の建築物として見ても異様な規模だった。まるで都市そのものを上下させるために造られたような圧倒的な質量がそこにはあった。管理者はしばらく無言で見上げた後、古びた刻印へ視線を落とす。 観測局管理設備。 第六層接続昇降機。 その下の文字だけが削り取られていた。 「はぁ……」 また面倒なものを見つけてしまった。 23:47。 停止していた信号灯が一つずつ点灯する。赤。白。紫。長い眠りから目覚めるように設備全体が低く唸り始めた。重い金属音が響き、巨大な扉がゆっくり開く。その向こうには底の見えない縦穴が続いていた。観測局へ報告するのが正しい。封鎖申請を出し、調査隊を編成するのが最も効率的だ。だが、それを選べば真実は再び埋もれる。管理者は小さく息を吐き、迷わず昇降機へ乗り込んだ。 降下が始まる。 深く。 暗く。 第五層より下へ。 窓の外には崩壊したホームが流れていく。朽ちた観測局。崩れた街。誰もいない灯火。誰もいない広場。誰もいない駅。それらは一瞬だけ姿を見せ、すぐに闇へ飲まれていく。どれほどの時間が過ぎたのか分からない。やがて昇降機の速度が緩やかに落ち始める。管理者は窓の外へ視線を向けた。 そして。 初めて表情が止まる。 昇降機の遥か下方。 闇しか存在しないはずの空間に灯りが見えた。 一つではない。 二つでもない。 無数だった。 まるで夜の街だった。 窓の灯り。街路の灯り。塔の灯り。誰もいないはずの深層世界に、静かな光がどこまでも広がっている。やがて昇降機は停止した。静寂。重い金属音と共に扉が開く。管理者はゆっくりとホームへ降り立った。 空気が違う。湿度も、匂いも、音の響き方も。第五層とは別の世界だった。ホームの先には古い階段が続いている。その向こうから街の灯りが見えた。管理者は何も言わず歩き出す。階段を上る。崩れた改札を抜ける。そして視界が開いた。 街だった。 灯りが点いている。 窓辺のランプ。通りを照らす街灯。塔の先端で揺れる観測灯。静かな光だけが街全体を包んでいた。誰も歩いていない。誰も話していない。だが不思議な事に廃墟には見えなかった。まるで住人だけがいなくなり、街だけが取り残されたようだった。 管理者はしばらくその光景を見つめていた。 遠くで鐘の音が鳴る。 一度。 二度。 三度。 その音に合わせるように街の灯りが静かに揺れた。 風は無い。 人影も無い。 それでも街だけが生きているようだった。 管理者は小さく息を吐く。 「これは想定外だな」 その声は誰にも届かない。 街は何も答えない。 ただ無数の灯りだけが、静かに夜を照らしている。 管理者は黙ったまま、その光を見つめていた。

異世界アイドル☆パラレルパレード NEO AKIBA OBSERVATION LOG 1-28 ー封鎖昇降機ー 第五層の遺物庫で発見された観測記録には、不自然な数字が何度も残されていた。 23:47。 古い記録にも、破損した記録にも、観測者不明の断片にも、その数字だけが現れる。誰かが意図的に痕跡を残したようだった。管理者は数日かけて記録を照合した。そして辿り着く。第五層最深部。現在の路線図から削除された区域だった。 そこへ向かうほど人の気配は消えていった。湿った風が吹き抜け、古い配管の奥で機械音だけが響いている。歌姫達が暮らす第五層も広大だが、それはほんの表面に過ぎない。その下には誰も語らない空間が幾重にも眠っている。封鎖された観測所。廃棄された路線。記録ごと消された区域。管理者は何も言わず歩き続けた。長い通路の先で視界が開く。 巨大な昇降機だった。 黒鉄の塔が天井の見えない闇へ伸びている。無数のワイヤー。崩れた足場。停止した信号灯。そして中央には閉ざされた巨大な扉。第五層の建築物として見ても異様な規模だった。まるで都市そのものを上下させるために造られたような圧倒的な質量がそこにはあった。管理者はしばらく無言で見上げた後、古びた刻印へ視線を落とす。 観測局管理設備。 第六層接続昇降機。 その下の文字だけが削り取られていた。 「はぁ……」 また面倒なものを見つけてしまった。 23:47。 停止していた信号灯が一つずつ点灯する。赤。白。紫。長い眠りから目覚めるように設備全体が低く唸り始めた。重い金属音が響き、巨大な扉がゆっくり開く。その向こうには底の見えない縦穴が続いていた。観測局へ報告するのが正しい。封鎖申請を出し、調査隊を編成するのが最も効率的だ。だが、それを選べば真実は再び埋もれる。管理者は小さく息を吐き、迷わず昇降機へ乗り込んだ。 降下が始まる。 深く。 暗く。 第五層より下へ。 窓の外には崩壊したホームが流れていく。朽ちた観測局。崩れた街。誰もいない灯火。誰もいない広場。誰もいない駅。それらは一瞬だけ姿を見せ、すぐに闇へ飲まれていく。どれほどの時間が過ぎたのか分からない。やがて昇降機の速度が緩やかに落ち始める。管理者は窓の外へ視線を向けた。 そして。 初めて表情が止まる。 昇降機の遥か下方。 闇しか存在しないはずの空間に灯りが見えた。 一つではない。 二つでもない。 無数だった。 まるで夜の街だった。 窓の灯り。街路の灯り。塔の灯り。誰もいないはずの深層世界に、静かな光がどこまでも広がっている。やがて昇降機は停止した。静寂。重い金属音と共に扉が開く。管理者はゆっくりとホームへ降り立った。 空気が違う。湿度も、匂いも、音の響き方も。第五層とは別の世界だった。ホームの先には古い階段が続いている。その向こうから街の灯りが見えた。管理者は何も言わず歩き出す。階段を上る。崩れた改札を抜ける。そして視界が開いた。 街だった。 灯りが点いている。 窓辺のランプ。通りを照らす街灯。塔の先端で揺れる観測灯。静かな光だけが街全体を包んでいた。誰も歩いていない。誰も話していない。だが不思議な事に廃墟には見えなかった。まるで住人だけがいなくなり、街だけが取り残されたようだった。 管理者はしばらくその光景を見つめていた。 遠くで鐘の音が鳴る。 一度。 二度。 三度。 その音に合わせるように街の灯りが静かに揺れた。 風は無い。 人影も無い。 それでも街だけが生きているようだった。 管理者は小さく息を吐く。 「これは想定外だな」 その声は誰にも届かない。 街は何も答えない。 ただ無数の灯りだけが、静かに夜を照らしている。 管理者は黙ったまま、その光を見つめていた。

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