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Sakamoto Shin-ichi

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PhD in Economics | 西田哲学・日本思想史・数理経済学・科学哲学/ AI・資本主義・文明論と日本の立ち位置について/分野を問わず若手研究者を応援中/ 著書『西田哲学の仏教と科学』(春秋社) 🌱Open to meaningful conversations worldwide.

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京都学派の双璧であった西田幾多郎と田辺元は非常に険悪な仲でした。当初は西田が田辺の「数学の哲学」を評価して京都帝大に招いたのですが、西田が「場所」の論理を主張し出して以降、田辺がこれを繰り返し批判し、両者の仲は修復困難になりました。 田辺による批判は、要するに「場所」の論理とは神秘説であり、これを哲学に持ち込むのはおかしい、ということにつきます。 「場所」の論理を一種の神秘説と見なした田辺の判断は、今日見ておおよそ正しかったと言えます。「場所」の論理は密教に由来します。西田を一番厳しく批判していた人が、やはり一番よくその本質を理解していました。 当時は鎌倉新仏教中心観が主流で、それが社会の常識でもありました。田辺が自分の考えに強い自信を持っていたのも無理はありません。密教の再評価が始まったのは1970〜80年代です。西田は半世紀も前にその思想を先取りしていたのでした。

京都学派の双璧であった西田幾多郎と田辺元は非常に険悪な仲でした。当初は西田が田辺の「数学の哲学」を評価して京都帝大に招いたのですが、西田が「場所」の論理を主張し出して以降、田辺がこれを繰り返し批判し、両者の仲は修復困難になりました。 田辺による批判は、要するに「場所」の論理とは神秘説であり、これを哲学に持ち込むのはおかしい、ということにつきます。 「場所」の論理を一種の神秘説と見なした田辺の判断は、今日見ておおよそ正しかったと言えます。「場所」の論理は密教に由来します。西田を一番厳しく批判していた人が、やはり一番よくその本質を理解していました。 当時は鎌倉新仏教中心観が主流で、それが社会の常識でもありました。田辺が自分の考えに強い自信を持っていたのも無理はありません。密教の再評価が始まったのは1970〜80年代です。西田は半世紀も前にその思想を先取りしていたのでした。

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博士課程進学については中途半端な書き方になってしまったので、改めてきちんと書きます。学問の道を選ぶなら、西田幾多郎が32歳のときに残した言葉が参考になると思います。 「一生下級の教師に甘んじて厚く道を養ひ深く学を研む 断じて余事を顧みず」 当時高校教師だった西田は、ずっと薄給のまま、地位や名誉には一切興味を持たず、ただひたすら学問的真理の探究に打ち込むと宣言していました。それ以外のことには全く目を向けなかったのです。 その後、縁あって京都帝国大学の教授となりますが、51歳のときにはまだ自分が納得できる哲学を見つけられず、「赤は赤い」とは何かという問いすら解けていないとして歌を詠んでいます。 「赤きもの赤しといはで あげつらひ 五十あまりの年をひにけり」 当時の50歳は、今でいう60歳くらいの感覚だったのかもしれません。すべてを捨てて研究に没頭してきたのに、成果も得られないまま人生が終わるのかという、あきらめにも似た感情がうかがえます。しかし、その3年後、西田は「場所」の論理を見出し、「西田哲学」と呼ばれる独自の思想を切り開いたのです。 後年には学士院会員や文化勲章受章といった、学者としてほぼ最高の栄誉を手にしました。京都と鎌倉に家を構え、残された蔵書の多さからもかなり裕福だったことがうかがえます。それでも死の直前にはこう記しています。 「私の論理と云ふのは学界からは理解せられない、否、未だ一顧も与へられないと云つてよいのである」 彼は自分の成果が理解されないと記しながら人生を終えました。こうした生き方に共感できるかどうかが、学問の道を進むかどうかを決める基準になると思います↓ (動画はAIによるイメージです。歴史的映像ではありませんので念のため)

博士課程進学については中途半端な書き方になってしまったので、改めてきちんと書きます。学問の道を選ぶなら、西田幾多郎が32歳のときに残した言葉が参考になると思います。 「一生下級の教師に甘んじて厚く道を養ひ深く学を研む 断じて余事を顧みず」 当時高校教師だった西田は、ずっと薄給のまま、地位や名誉には一切興味を持たず、ただひたすら学問的真理の探究に打ち込むと宣言していました。それ以外のことには全く目を向けなかったのです。 その後、縁あって京都帝国大学の教授となりますが、51歳のときにはまだ自分が納得できる哲学を見つけられず、「赤は赤い」とは何かという問いすら解けていないとして歌を詠んでいます。 「赤きもの赤しといはで あげつらひ 五十あまりの年をひにけり」 当時の50歳は、今でいう60歳くらいの感覚だったのかもしれません。すべてを捨てて研究に没頭してきたのに、成果も得られないまま人生が終わるのかという、あきらめにも似た感情がうかがえます。しかし、その3年後、西田は「場所」の論理を見出し、「西田哲学」と呼ばれる独自の思想を切り開いたのです。 後年には学士院会員や文化勲章受章といった、学者としてほぼ最高の栄誉を手にしました。京都と鎌倉に家を構え、残された蔵書の多さからもかなり裕福だったことがうかがえます。それでも死の直前にはこう記しています。 「私の論理と云ふのは学界からは理解せられない、否、未だ一顧も与へられないと云つてよいのである」 彼は自分の成果が理解されないと記しながら人生を終えました。こうした生き方に共感できるかどうかが、学問の道を進むかどうかを決める基準になると思います↓ (動画はAIによるイメージです。歴史的映像ではありませんので念のため)

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