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Ana Sayfaya Dön

ガーリックライスって、焼肉の締めなのに主役級なんだよな。 あの香りが立った瞬間、もう一口だけのつもりが止まらない。

154,513 görüntüleme • 2 gün önce •via X (Twitter)

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Benzer Videolar

「グエー死んだンゴ」ってさ、ネットだと軽いノリの断末魔ギャグみたいに見えるんだけど、現実でそれが最後の言葉になった瞬間、笑いってやつが急に重たくなるのよね。笑っていいのか、泣いていいのか、手が止まる。で、止まったところに気づく。「この言葉、ふざけてるんじゃなくて、ふざけるしかなかったんだ」って。 映像の中のお父さんが言う「なんでうちの子が」 これね、親の口から出る言葉として一番まっとうで、一番残酷。答えが出ないから。病気は抽選会じゃないのに、当たった側だけが人生ごと持っていかれる。 しかも類上皮肉腫みたいな希少がんって、名前すら知られてない、、、だから余計に「うちの子が」になるんじゃないかな? で、この話の刺さるところは、息子さんが亡くなったあとに物語が動き出すところです。 予約投稿って、便利な機能だと思う。 だけどあれが今回は時間差の手紙になった。本人はもういないのに、言葉だけが世界に届く。 まるで、遅れて届いた花束に、棘が混じってるみたいなもんだ。 嬉しい。 ありがたい。 でも痛い。 痛いけど、花なのよね。 しかも、普段SNSを見ないお父さんが、葬儀が終わってから息子の人生の続きをスマホで知るわけだよ。 これ、「生きてる時に言えなかったことが、死んだあとに通知で届く」っていう奇跡でもある。 親子って近いようで、いちばん遠い時がある。 照れくさくて、忙しくて、まあそのうちでいいかって先送りして、気づいたら電池切れ、、、 お父さんが「ありがとうって言えなかった」って話、あれは胸に来る。時計の電池より先に、言葉の電池が切れちゃったんだよね、、、 でもさ、希望もあるんだよ。 この件がすごくバズったって事実には、アルゴリズムが悲しみを燃料にして回してる感じは確かにある。 命の尊さでバズらせるな!って声もあるけど、あの投稿が、希少がんの存在を人に知らせたり、寄付が集まったり、「一人じゃなかった」を可視化したのも事実じゃない? つまりSNSってのは、包丁なんだよ。 料理にもなるし、怪我もする。使う側の手つきが問われる💡 息子さんが、病気に「デカすぎ」ってあだ名をつけて、検査のことまで面白い面白くないで語ってた。 これね、強がりってより礼儀なんだよ。 周りを暗くさせないための礼儀。 自分の恐怖を、自分で笑いに変換して、他人の心の負担を軽くする。 芸人みたいなことを、死にかけの若者が病室でやってた。そりゃ人を引き寄せるって言われるよ。笑いは才能だけど、笑いの裏にある痛みは、本人しか背負えない。 「グエー死んだンゴ」をただのネタにしちゃいけない。 あれは、令和に投下された遺言の形式なんだよ。ふざけた形でしか出せない本音がある。 そして、見てる側も、拡散する側も、たまには一拍おいて、リポストの指が動く前に、線香一本分くらいの間を心に置くのもいいんじゃないかしら? 笑っていい。 でも敬意を忘れない。 最後に、親も子も、言葉をケチるなと言いたい。 照れくさいありがとうってのは、もったいぶるほど高くつく。これ、言ったら減るんじゃない。言わないと、気がつくと残高ゼロになる。 息子さんが最後に残したのは、バズでも名言でもなくて、「人間ってやつは、弱い時ほど誰かを笑わせようとする」っていう、静かな証明だったんじゃないかな?

クレア

2,858,313 görüntüleme • 7 ay önce

【猫のリンパ腫と飼い主の苦悩】 大切な動画 終活に入る少し前の時のもの 「抗がん剤の副作用があまりにきつそう。もう、治療やめた方がいいのかな」 そう考える毎日 なのに 抗がん剤が効いてくると、こうして大好きなみんなの横で、気持ちよさそうな寝顔でいるのを見ると、こう思うんだ 「あと一回だけ、頑張ろう」 そしてまた抗がん剤を打ち、体調が芳しくない状態を見て、こう思うんだ。 「ごめん…もうやめたいよね…」 でも、数日が過ぎると、うっすら調子が良くなりこうしてみんなと寝たり、少しだけ、お散歩したりする。 戻らない食欲、痩せていって、遊ぶなんてありえない。 それでも続けたいと思うのは、飼い主のエゴかもしれない。 それでも 「まだ一緒に過ごしたい」 そう思ってしまう。 「もう苦しめたくない」 とも思ってしまう。 でも、まだ、もう、でも こんなのの繰り返し。 気がつけば1週間のうちたった1日程度しか元気(といっても“辛そうではない“程度)な日はなくなって。 でも、それでも、こう思う 「たった1日でも、元気な姿が見られるなら」 この選択が正しいかどうか、それはいまだに、わからない。 闘病をする前は「苦しそうなんだからやらない方がいいんじゃ、、、」と思っていた。 でもいざ目の前で直面すると あまりの進行の速さと、日に日に、どころか毎時間変わっていく見た目に耐えられず、どうにかしてあげたいと思ってしまうんだ。 「あの時この選択をしなければ」 「あの子を苦しめていたのは自分だ」 「自分のせいで」 こう思い悩むことがたくさんあるだろう でも僕は胸を張って言える ここまで一緒に暮らしてきて、愛してきた子。 ここまで一緒に暮らしてきた全ては最適解で 治療だろうとなんだろうと、自分が選んできた選択全てが最適解なんだ、と。 間違いだった、なんてことは、ない。 過去の闘病でいまだに苦しむ方、あなたは何も間違ったことはしてない。愛がゆえ。 だから僕はいざその時が来ても、ごめんは言わない。 いざその時が来るならはっきりと明るく ありがとう 愛してるよ またおにごっこしよう と伝えるのみ! だいすきー!

響介

75,738 görüntüleme • 11 ay önce

母の愛ってのはな、だいたい弁当箱のフタを開けた瞬間に全部つまっているのよね。高校最後の昼休み、学ランの兄ちゃんがワクワクしながらフタ開けたら、真っ白な白米だけ。隣の坊主の子は、ピカチュウのキャラ弁。ランチクロスの上に、エビだ卵焼きだ野菜だって、色まで完璧。パッと見りゃ、どっちが「愛されてるか」って話になりそうでしょ? でもさ、そう単純じゃないのが親子って関係。 白米だけの弁当ってのはさ、「何も考えてない手抜き」か、「いろいろあったけど、とりあえず今日はここまでが限界だった」か、そのどっちか。 朝から仕事、下の子の世話、介護、パート、家事、バタバタの中で、せめて腹だけはいっぱいになれよって、ギュウギュウに詰めたコメ。 おかずはゼロでも、「あんたにだけは腹減ったまま卒業してほしくない」っていう、ギリギリの愛情のにぎりこぶしみたいなもの。 一方のピカチュウ弁当はどう? 海苔でほっぺ描いて、黄色いご飯丸めて、揚げ物揃えて、色のバランスも完璧。モンスターボールのおにぎりまである。 あれはもう、母ちゃんの18年分のアルバムを、最後の一個にぶち込んだって感じだね。 「ここまでよく育ってくれた」「あんたの好きなもん全部入れたよ」「もう明日からは一緒に通学しないんだね」っていう、言葉にならないセリフが、卵焼きの層の数だけ重なってる。 で、極めつけがさ、研修医一年目の娘が救急でクタクタになってるって聞いた途端、弁当屋、おふくろ支店を開店しちまう母ちゃんだよ。 あれなんかもう、愛情と言う名の執念。社会人になっても、白衣着てても、医者になっても、母ちゃんの頭の中じゃ「ちゃんと食べてるの?あんた、痩せたんじゃない?」で止まっている。 面白いのはさ、どの弁当にも共通してるのは儲けじゃなくて損だよ。 時間も手間も睡眠も削って、材料費だってバカにならない。 経営として見たら赤字もいいとこなのに、本人はニコニコしながらキッチンに立ってる。 これが資本主義じゃ計算できない、母のバカさであり、日本の強さなんだよ。 台湾だのパレスチナだの、世の中ギスギスしてるけどさ、教室の片隅で白米だけかき込んでる男子と、キャラ弁崩すのがもったいなくて写真撮ってる男子と、病院の休憩室で弁当をかき込む研修医。 その全部の背中の向こうに、台所の電気だけポツンとついてる朝5時のキッチンがある。 母の愛ってのは、「お前のためなら、今日も自分を後回しにしてやるか」っていう、世界一採算の合わないビジネスを、誰にも褒められずに続ける覚悟だよ。 白米だけの弁当だって、ピカチュウ弁当だって、大量の研修医弁当だって、あれは全部、「まだお前を諦めてないぞ」っていう愛情。 だから、フタ開けてガッカリしたやつも、泣きそうになったやつも、大人になってから一度でいい、こう言ってやりゃいいと思う。 「あの弁当さ。ちゃんと届いてたよ。うるさいほど愛が詰まってたよ」ってね。 それが言えたときに初めて、あの白米もキャラ弁も、完成する。

クレア

13,575,590 görüntüleme • 8 ay önce