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Ana Sayfaya Dön

【 グラングの遠吠えを見る方法(レアイベント) 】 獣の神殿にいる「獣の司祭、グラング」は、稀に、神殿の外で遠吠えをしている 一度も目にしたことがない褪せ人もいるかもしれないが、実はこれを簡単に見る方法がある ① グラングに「死の根」を1つ以上渡す ② 時間帯を「夜」まで進める ③ 祝福「獣の神殿」で休む ④ 神殿内のグラングの姿が消えたか確かめる ⑤ グラングの姿が消えてなかったら③と④を繰り返す ⑥ グラングの姿が消えたら外に出てグラングを探す ⑦ 獣の神殿の裏で元気よく遠吠えしている なお、グラングが遠吠えをしたからといって、報酬を得られる訳でもないし、今後のイベントに変化がある訳でもない 遠吠えしている方向の先には、黄金樹がある ただ、それだけだ #エルデンリング #ELDENRING

319,006 görüntüleme • 7 gün önce •via X (Twitter)

4 Yorum

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mk7 gün önce

これ、プレステやPCでは、見たことなかったけど、スィッチ2やってて偶然、出会った。声がするからなんだ?と、盾構えながら近づいた(笑)

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重厚なトマトちゃん7 gün önce

最初に見た時はめっちゃビビった!!

ありすゑ@具合悪い profil fotoğrafı
ありすゑ@具合悪い7 gün önce

すげぇ!これは知らなかった! 意味の有無関係無く、示唆が多いのはフロムゲーっぽくて良いですね

重厚なトマトちゃん profil fotoğrafı
重厚なトマトちゃん7 gün önce

この世界観が大好きです!

Benzer Videolar

『映画ちいかわ 人魚の島のひみつ』は、 友情の美しさを描いた作品ではありません。 友情の怖さを描いた作品です。 この動画には、大きなネタバレを含みます。 動画も作成しましたので、テキスト・動画お好みでご覧ください。 二人の関係を見て、「友達のためにここまでできるなんて」と感じた人もいると思う。 実際、ヒトハとフタバの絆は、この作品の重要なテーマとして描かれている。 だが私は、あの関係を単純に美しい友情と呼ぶことに、抵抗がある。 なぜならヒトハは、フタバを救うために、フタバ自身の意思を越えてしまったからだ。 物語の発端は、海での事故である。 ヒトハとフタバが乗っていた船が、海で遊んでいたセイレーンたちの影響で転覆し、 フタバが瀕死の状態になる。 そこでヒトハは、「人魚の肉を食べれば永遠の命を得られる」という情報を頼りに、 人魚を殺し、その肉をフタバに食べさせる。 結果として、フタバは助かった。 ここだけ見れば、「親友を救った」という話である。 だが、その後のフタバの反応が重要だ。 フタバは、ヒトハのしたことを素直に喜んでいない。 なぜなら、自分を救うために別の命が犠牲になったからである。 つまりヒトハは、フタバを救った。 だが同時に、「人魚を殺してまで生きたいのか」という選択を、 フタバ自身にさせなかった。 ここに、この友情の危うさがある。 大切だから救いたい。これは間違いなく愛情である。 だが、大切だからこそ相手の意思を無視してもいいのか。これは別の問題だ。 現実でもそうである。 「あなたのためを思って」 「絶対にこっちの方が幸せだから」 「私があなたを守るから」 善意から出た言葉でも、相手の意思を無視した瞬間、それは支配へ変わることがある。 ヒトハの行動も、まさにその境界線に立っている。 さらに強烈なのが、その後だ。 永遠の命を得てしまったフタバに対し、ヒトハ自身も人魚の肉を食べる。 二人で永遠に生きることを選ぶ。 ここだけ見れば、とても美しい。 「一人にはしない」「ずっと一緒にいる」。 友情の極致にも見える。 だが逆から考えると、ものすごく怖い。 永遠である。10年でも、100年でもない。終わりがない。 しかも、その永遠は人魚の命を犠牲にして手に入れたものだ。 だから二人が一緒にいる限り、自分たちが犯した罪から完全に逃れることもできない。 永遠の友情が、そのまま永遠の罪にもなっている。 そして私は、ここでハチワレとちいかわの友情との対比が効いてくると思っている。 ちいかわとハチワレも、お互いをものすごく大切にしている。 危険になれば助ける。一緒に喜ぶ。一緒に怖がる。 だが基本的には、相手を自分のものにはしない。 相手が何を感じているのかを、知ろうとする。 一方、ヒトハはフタバを失うことに耐えられず、 「生かす」という決断を自分一人で下してしまった。 同じ「友達を大切にする」でも、決定的な違いがある。 相手のために何かをすることと、相手の人生を代わりに決めることは違う。 『人魚の島のひみつ』は、その境界線を、ものすごく残酷な形で見せている。 だから私は、ヒトハを悪人だとは思わない。 むしろ、気持ちは理解できる。 目の前で一番大切な友達が死にそうになっている。 助けられる方法を知ってしまった。 そこで冷静に倫理を考えられる人が、どれだけいるだろうか。 だからこそ怖い。 悪意ではなく、愛情が悲劇を生んでいるからだ。 そして最後には、二人は誰もいない島で一緒に暮らそうとする。 二人だけなら幸せになれる。そう見える。 だが、その島にはセイレーンが近づいてくる。 友情によって命を救ったはずなのに、 その友情が生み出した罪から、永遠に逃げられない。 私は、このラストを「友情の勝利」とは到底思えない。 むしろ問いかけられているのは、 「大切な人のためなら、どこまでしていいのか」。 そして、 「相手を失いたくないという気持ちは、本当にすべて愛情と呼べるのか」。 なのではないだろうか。 ヒトハとフタバは、間違いなく大切な友達同士である。 だからこそ、その友情は美しくて、同時にものすごく怖い。 『人魚の島のひみつ』は、「友情は素晴らしい」で終わる作品ではない。 友情ですら、一線を越えれば誰かを傷つける。 その危うさまで描いたからこそ、この物語はここまで後味が残るのだと思う。 あなたなら、大切な友達を救うために、ヒトハと同じ選択をしますか。 コメントで教えてください。

榊󠄀原清一 / 人財版 令和の虎 主宰

96,700 görüntüleme • 8 gün önce

いまのAIに決定的に欠けているのは、僕たちの背景を理解する能力だ。だから毎回プロンプトで関係性を組み立て、状況説明をし、欲しい出力へ誘導しなければならない。だが、その制約が外れ始めたとき、AIは単なる便利ツールではなくなるのだろう。その日はきっと、それほど遠くない。 サム・アルトマン「今のモデルは、将来そうなるものと比べれば、まだかなり愚かです。しかもそれ以上に、あなたの人生についての理解がきわめて限られています。今はまだ、こちらがうまく、なだめたりすかしたりしながら、欲しいものを引き出さなければならないのです。 ですが、あなたの文脈をすべて知っているようなモデルは、もうそれほど遠くありません。そのモデルは、あなたのことを知っている。あなたの人生を知っている。何をしているかを知っている。何を大事にしているかを知っている。あなたの人生にいる人たちのことも知っている。もちろん、あなたが望む形で、望む範囲においてですが、あなたのコンピュータやブラウザにもアクセスできる。そして時間がたつにつれて、現実世界であなたの周囲に起きていることにも、ますますアクセスするようになるかもしれません。 それは、コンピュータを使う感覚、そしてAIを使う感覚そのものを、完全に変えてしまうはずです。私はそれに強く興奮しています。ただ、実際それがどんな感覚になるのかは、私たち自身でさえ、まだ十分に直感できていないと思います」 グレッグ・ブロックマン「まさにその点ですが、今の私たちは、チャットでも何でも、使っているツールに対して『何が起きているのか』を説明するのに、ものすごく多くの時間を使っています。そしてそれがどれだけ苛立たしいかを考えてみてください。まるで同僚に対して、いや、私が欲しいのはこういうことで、今こういう状況なんだ、と延々説明し続けているようなものです。今のシステムの振る舞い方は、本来こうあってほしい姿ではないのです」

Tsubame

15,287 görüntüleme • 4 ay önce

スプライトを使用したゲーム機の特徴に、スプライトが横並びになるとチラつくというのがある、というか、そういう風に言われている。実際は、チラついたりはせず問答無用に消える。でも、それじゃ本当に見えなくなってしまって困るので、消えてしまうスプライトを入れ替えることで「これなら何となく見えるでしょ?」という状況を作るというテクニックがあって、これがチラついて見えるのと、大抵のゲームに実装されていたので、「スプライトが実装されている昔のゲーム機=チラつく」という言い方をされる。7、8年前くらいにUnityでファミコンの表示システムを再現してたんだけど、その時に作ったチラつきのテストをしている動画が出てきた。チラツキOFFだと、後方に並んでいるキャラが消えてしまっているのが分かると思う。チラツキONにすると、消えがかなり軽減されているのが分かる。「昔のゲーム機はメモリが足りないから、キャラがチラつくよね」みたいな言い方をされると、「そうじゃないんだよなぁ…メモリも関係ないんだよなぁ…」とか思ってしまう私であった。まあ、どうでもいい話だけどね。この表示システムは、キャラROMの内容を渡せば、それをテクスチャに変換して表示できるやつで、BGの変な仕様wも再現していて、スプライトもBGもちゃんとパレットチェンジもできて「よーし、何か作れるぞー」と思ってたら、忙しくなってしまって放置→どっかにいってしまった。別に2,3日あれば作れるけど、勿体ないことしたなーとたまに思い出す(笑)

あしながすぎおじさん

106,166 görüntüleme • 8 ay önce

関係を切るためにお金を渡した相手から、セ◯クスしよと返信が来た。 あっすんさんが、一番タチが悪いお客様について聞かれて答えた話だ。お金がないのに、時間を奪ってくる人。断っても店には来る。返していないのにLINEは来る。不幸話しかしないのに、本人はガチ恋だという。 だから手切れ金を渡した。これで終わりにしてほしいと伝えた。その翌日のことだ。 一方、ヤマトリノさんは、使う額が細い相手は許せるという。付く時間が短くても文句を言われないし、LINEを返さなければという使命感も生じないからだ。 高額を使って頂ける相手も、また違う。使ってくれたお礼に、アフターなどで返していくからだ。 困るのは、卓被りやアフターに行けない時だという。卓に長くいることも、アフターに行くことも、すでに当たり前になっている。その状態で、恩着せがましいことを言われるという。 「俺わざわざ忙しい時間を作って、昼の仕事とか考えたら俺の時間って結構有限なんだよね」 「睡眠不足の中こんな感じに来たのに、全然席もついてくんなくて」 俺はリノのために。それが一番タチが悪いと話していた。 僕の現場でも、同じだ。 歴が長くて出勤数も多いのに、売上が少ない子がいる。付け回しの指示がなければホールに出ず、営業に関係ない話をずっとしている。それでも、キャストの出勤人数が少なければ初回に付いてもらうし、入店したての頃は、ご飯も連れて行っていた。 しかし、新人が増えてきたりして、かまってもらえなくなると、こう言われる。 「いっぱい出勤してるし、前はしてくれたじゃないですか」 組織心理学に「衡平理論」という概念がある。人は自分が出したものと受け取ったものの比率で、不満を感じるかどうかを決めるという考え方だ。比べる相手は他人だけではない。前にもらっていた頃の自分とも比べる。 いま何をしているかを数える人間と、これまで何をしたかを数える人間。 夜職だけじゃない。職場でも、部活でも、家庭でも、自分が出したものは、もらったものより多く見える。 不満が出るのは、少ないからじゃない。出した分と、前にもらった分を、どちらも数えているからだ。
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関係を切るためにお金を渡した相手から、セ◯クスしよと返信が来た。 あっすんさんが、一番タチが悪いお客様について聞かれて答えた話だ。お金がないのに、時間を奪ってくる人。断っても店には来る。返していないのにLINEは来る。不幸話しかしないのに、本人はガチ恋だという。 だから手切れ金を渡した。これで終わりにしてほしいと伝えた。その翌日のことだ。 一方、ヤマトリノさんは、使う額が細い相手は許せるという。付く時間が短くても文句を言われないし、LINEを返さなければという使命感も生じないからだ。 高額を使って頂ける相手も、また違う。使ってくれたお礼に、アフターなどで返していくからだ。 困るのは、卓被りやアフターに行けない時だという。卓に長くいることも、アフターに行くことも、すでに当たり前になっている。その状態で、恩着せがましいことを言われるという。 「俺わざわざ忙しい時間を作って、昼の仕事とか考えたら俺の時間って結構有限なんだよね」 「睡眠不足の中こんな感じに来たのに、全然席もついてくんなくて」 俺はリノのために。それが一番タチが悪いと話していた。 僕の現場でも、同じだ。 歴が長くて出勤数も多いのに、売上が少ない子がいる。付け回しの指示がなければホールに出ず、営業に関係ない話をずっとしている。それでも、キャストの出勤人数が少なければ初回に付いてもらうし、入店したての頃は、ご飯も連れて行っていた。 しかし、新人が増えてきたりして、かまってもらえなくなると、こう言われる。 「いっぱい出勤してるし、前はしてくれたじゃないですか」 組織心理学に「衡平理論」という概念がある。人は自分が出したものと受け取ったものの比率で、不満を感じるかどうかを決めるという考え方だ。比べる相手は他人だけではない。前にもらっていた頃の自分とも比べる。 いま何をしているかを数える人間と、これまで何をしたかを数える人間。 夜職だけじゃない。職場でも、部活でも、家庭でも、自分が出したものは、もらったものより多く見える。 不満が出るのは、少ないからじゃない。出した分と、前にもらった分を、どちらも数えているからだ。

まさ|元ホスト→夜職人事|歌舞伎町

271,816 görüntüleme • 6 gün önce

お金の部分に関しては、堀さんの名誉の為にお伝えしておくと、堀さんはDMで何度も返金しますと言ってくれてます。 ただ、僕は堀さんから一切お金を受け取るつもりがないので、口座情報を聞かれてもお伝えしていません。 理由としては、1つ目にスマートリングはあくまで僕が買いたいと思い、勝手に買ったものなので、その結果がどうなろうと堀さんからお金を受け取る理由がなく、納得して払ったお金なので一切返して欲しいという気持ちがないからです。 ただ、すぐに返金できるお金が手元にあるだけでなく、ライブ配信で色をつけて返すという発言をしていて、「そんな金あるなら最初から自分で買えよ!」とは思いましたが笑 (ちなみに、DMでは色をつけて返すとは一度も言われてません) 2つ目は、堀さんがDMで「海空さんに失礼をしたこと、勘違いによるものを公開します。」と 誤解を解いてくださると言ってくれたので、それを信じてDMでやりとりをしていたのですが、それをしてくれなかったことや 「改めて見返したら自分が伝えたかったことと真逆の文章を送ってしまっていた」と僕には到底理解できないことを後で言い出したりして、堀さんの言葉が全く信用ならなくなったのと ライブ配信では、事実を曲げて僕のことを悪く言ったりしてるのも聞いてるので、仮に返金してもらおうものなら、「海空さんに返金をしつこく迫られた」「脅された」みたいなことを広められる可能性もあると考えたため 以上2つの理由から、堀さんにお金を返してもらいたいという思いは今も一切ありません。

海空ちゅうと(恋リア王👑)

690,365 görüntüleme • 1 ay önce

たとえ「音楽を逆再生するとどうこう」という話に興味がなくても、これには明らかに何か不気味なものがある。 動画の翻訳 >ビリー・アイリッシュの曲を逆再生すると、それが悪魔のものだと証明される。 これを見ていると涙が出そうになった。 彼女がすべてを悪魔に捧げてしまったのを見るのが、本当に悲しいからだ。 この曲は普通に聴いても地獄や悪魔的なものだと分かる。 まして逆再生すると、悪魔がこの曲を通してあなたに語りかけていること、そして彼女自身もこの曲を通して語りかけていることが証明される。 あの部分はまるで、 「これが現実だ」 「私は悪魔に支配されている」 と言っているようだ。 こういうことが起きるんだ。 人は、 「有名になりたい」 「ビリー・アイリッシュみたいになりたい」 「彼女が持っているものを手に入れたい」 と思う。 でも、その裏にある暗く、醜く、邪悪な根を理解していない。 彼らは子どもを食べ、犠牲を捧げ、家族を殺し、こうした曲を作り、儀式を行わなければならない。 これは本当に起きていることだ。 私はカニエ・ウェストのプロデューサーを知っている人たちを知っている。 私が話していること、彼らがやっていること、舞台裏の狂気じみた出来事――そうしたことは本当に起きている。 目を開かなければならない。 この一曲だけでも証拠だ。 私は暗く悪魔的な曲を何百万曲でも見せることができる。 そして人々はそれを歌い、 「イェー!」 「イェー!」 と盛り上がる。 そのたびに、自分の人生へ悪魔的な領域を受け入れているのだ。 彼女の人生を見てみろ。 彼女からあふれ出る黒いものを見てみろ。 とても邪悪で、とても悲しい。 この少女はかつて本当に純粋だった。 しかし悪魔のために生きることを選び、自らを捧げてしまった。 そして今、その結果が見えている。 外から見ると幸せそうに見えることもあるだろう。 だが本当の姿は違う。 彼らの目から黒いものがあふれ出ている。 悪魔的で、悲しい。 本当に悲しいことだ。 イエスの道を選びなさい。

満月とWooと(仮)

16,723 görüntüleme • 3 ay önce

大森さんがインスタライブで、ミセスが冷笑されること、ハスられること、斜に構えて捉えられることについて語った。「僕が音楽好きだったとして、ミセスという存在を傍から見た時に、僕もやっぱりハスるなというか、斜に構えて見るよなと思ってて。なかなかそのグループのコアな部分というか大切なものって見えないものだから。自分だったらなぁと思う、僕そっち側の人だからどっちかというと。でもだからこそ、突っ切って、ぶっぱなしたさがあるよね」と……。 少し前に、米津さんがインタビューで「(冷笑は)自分を守るために機能していることもある」と発言していたことを思い出す。そのような態度で居ることでしか自分を保てないほど苦しい境遇に置かれてる人たちなのだということが、彼には見えている。その慧眼に驚かされるとともに、どん詰まりに居る人を馬鹿にできないし置いていけないと考えるのが米津さんなのだなと思った。傷を保護する自衛としての手段、あるいは最後の砦としてのユーモアを否定しない。顔すら見えない遠くの誰かの人生にそっと想像力を伸ばせる彼が(彼は否定するかもしれないけれど)実に福祉的で、私は大好きだ。今の時代になくてはならない感覚のアーティストだと思う。 一方で、物事を誰よりも穿って見てしまう、斜に構えてしまうデフォルトの自分のネガ思考を把握した上で、いや待てよ、僕たちはいずれ灰になって空を舞うんだからその時間が勿体ない。哀しいかな、人生には意味なんてない。だからいっそのこと圧倒的に「ぶっぱなす」、ぶっちぎってみせる、そうでもしないと人生やってられんだろ!という方向にギアを切る大森さんのこともまた大好きだ。そこにはミセスの曲に共通する「ニヒリズム」から「積極的ニヒリズム」への転換がある。体育座りをして指先で傷つけあっていても仕方ない。だから彼は粛々と自分の信じる音楽を作り、ぶっちぎった先(キラキラした花道のど真ん中)で、孤独を歌おうとしている。圧倒的な熱量で、こぼれ落ちてしまった人を温めようとしている。私もド鬱のド陰キャなので、彼らのヒーロー性が眩しくて聴けないという意見にも分かるところがあるが、彼のそもそもの出発点が「拭えない孤独」であることを理解して聴くと、ミセスの楽曲は途端に深みを増すし、生きることへの起爆剤になると思っている。エンターテインメントにおいて、大衆化することとマイノリティの痛みに寄り添うことはトレードオフになりがちだ。ただ眩しいだけの光は、暗闇にいる人を時に拒絶しさらに深く傷つけてしまうこともある。そこを諦めず、「間口を広げながら、深みもつけていく」という誰も挑んだことのない矛盾する難題をやってのけようとしているのが大森さんでありミセスだと思う。正気の沙汰ではないし、ポップスを鳴らす覚悟が半端ない。もはや狂気だ。 どちらも根は同じド陰キャなのだが、発露の仕方が異なるのがおもしろい。 ここに風くんが居たらなんと言うかな、と想像しながらフフフとなる。「冷笑?なんでそんな疲れることしとるん?何なんw にんげんのみなさま、貴方こそが神で、貴方こそが愛。それを忘れないで」とあの優しげなトーンで言うかもしれないし言わないかもしれない。​「ハスる」「冷笑する」という自意識のこんがらがったゲームそのものを、彼なら「それ、幻じゃが。お疲れさまぁ」とお茶を差し出すように軽やかに無効化してしまいそうだ。やはり大好きだ。 ​米津さんが「暗闇に一緒に腰を下ろしてくれる人」ならば、大森さんは「自らの闇を焦がす光で世の中を照らす人」であり、風くんは「そもそも私ら、最初から光の中に放り込まれとるが?」という人なのではないか……冷笑をきっかけにそんなことを思ったりした。彼らの音楽がそれぞれのアプローチで、生きづらさを抱える私に気づきをくれ、肯定してくれることに感謝している。同じ時代に異なる三つの光。日本の音楽シーンは今日も豊かで楽しいね。

ナギ

935,233 görüntüleme • 2 ay önce

スタンドバイミー、これ英語のままでも胸に刺さるのに、字幕がそっと手を添える。「そばにいて欲しい」たったそれだけの一行が、胸の奥の、普段は鍵をかけてある引き出しを開けてしまうのよね。思い出は、たいてい音で戻ってくる。匂いでも戻るが、音はずるい。音は、時間を飛び越える。あの頃の自分の呼吸の速さ、汗の薄い塩味、夕方の影の伸び方まで一緒に連れてくる。映画の少年たちが歩いているだけなのに、こちらの心のほうが追いかけて走り出す。 この現象に理由は要らない。理由なんて、涙のあとから遅れてくる。TikTokのコメント欄には、同じ場所を押さえられた人たちの声が並ぶ。 子どもの頃の友達は宝石。 けれどいつか別れが来る。 もう二度とあの頃のような友人には出会えない。 涙が出る、なんでだ。 人が泣くのは、悲しいからだけじゃない。それは、もうあの頃に戻れないからだ。戻れない場所を、心が知ってしまったときに、涙は勝手に溢れてくる。 子どもの友情は、キャバクラやホスト、マッチングアプリのように金勘定ではない。結婚のような契約書もない。損得も、値札も、身長や年収とか、条件もついていない。 隣にいる理由は、ただ隣にいたいからだけで、世界はそれで成立していた。くだらないことで喧嘩し、翌日には何事もなかったように笑い、帰り道の石ころを蹴りながら、未来のことなど考えもしない。あの無駄の中に、人生の芯があった。それが友達じゃない? 大人になると、無駄を削る。 効率を磨く。正しさを整列させる。 その結果、生活は滑らかになっていくのに、心だけがざらついていく、、、 友だちに会うことは予定表の隙間に押し込まれ、会えないことに慣れる練習をしてしまう。 忙しさは、言い訳としては完璧だよ。 誰も責められない。 だからこそ、気づかないうちに一番大事なものが痩せていく、、、 そういう中、ニュースが重たい石を落とす。スタンド・バイ・ミーで知られる監督が、妻とともに自宅で亡くなっていたという。刺し傷があり、捜査は殺人事件として進められているという。 映画が映したのは少年たちの一度きりの夏で、現実は、救いのない形で幕を閉じるかもしれない。人生の皮肉は、いつも小説より露骨だよね。 こういうとき、人は意味を探す。 意味を付けて、納得して、箱にしまって、自分たちの生活に戻る。でも人生は、教訓のために起きているわけじゃない。 悲しみは、たいてい整理されることを拒む。 ただ重く、ただ冷たく、胸に居座る。 それでも、あの歌が流行る。 流行るという言葉では軽すぎるか。 必要になって、流れてくる。 「Stand by me」は、立派なことを言えという命令じゃない。 英雄になれという話でもない。 逃げないで隣にいろというだけのことだよ。 正論で殴らない。 説教で片づけない。 勝手に解決しない。 ただ、隣にいる。 その静かな不器用さが、人を生かす。 だから、涙が出る。 あの頃、隣にいた人の顔を、もうはっきり思い出せなくなっている自分に気づいて泣く。 同時に、思い出せないのに胸が温かくなることにも泣く。 人は、忘れる。けれど完全には失わない。 友情は、消えるというより、形を変える。握手の温度が、いつのまにか胸の奥の灯りになって、暗いところを照らす。 「もう二度とあの頃の友人には出会えない」 それは半分ほんとうで、半分うそだよ。 同じ形では来ない。 もう、あの夏は戻らない。 でも別の形で来る。 職場でも、近所でも、たまたま同じ夜を越えた人でもいい。 痛みを知った者同士は、黙って隣に座れることがある。 言葉がなくても、湯気の立つカップひとつで、心がほどける瞬間がある。 夜が来て、地面が暗くなり、月明かりだけが頼りだと思える日がある。 そんな日こそ、隣に一つだけ人の気配があることが、救いになる。 世界は大げさな奇跡で回っていない。小さなそばにいるが、何度も何度も積み重なって、ようやく朝になる。 泣いていい。泣いたあとで、誰かの隣に立てるなら、なおいい。それが、この歌の続きじゃないかな?

クレア

154,747 görüntüleme • 9 ay önce

mistFES (ミストフェス)名古屋遠征。 アイドルを続けていると、時々考える。 オタクの皆さんは、一体どれだけのものを使って現場へ来てくれているんだろう、と。 今日、その答えを少しだけ知った気がしました。 今回の名古屋遠征でも、多くの方が東京から駆けつけてくれました。 新幹線に乗って。 朝早く起きて。 休日を使って。 決して安くないお金を払って。 当たり前のように会場に来てくれるから、つい忘れそうになる。 でも、本当は当たり前なんかじゃない。 誰かの休日を。 誰かの楽しみを。 誰かの大切なお金を。 僕達は預かっている。 だからこそ、もっと綿密に考えてあげるべきでした。 現地では予定していた企画が想定通りにいかず、急遽内容を変更する場面もありました。 楽しんでくれた方もいたと思います。 それでも運営としては悔しい。 もっと良い思い出を作れたんじゃないか。 もっと良い体験を届けられたんじゃないか。 そんなことばかり考えています。 ライブもまだまだ力不足です。 それでも今日、名古屋で見た景色は忘れません。 遠く離れた土地なのに、最前で声を出してくれる人がいる。 特典会で待っていてくれる人がいる。 一緒に歩いて、一緒に笑ってくれる人がいる。 現場ではトラブルもありました。 未熟だった部分もありました。 反省もたくさんあります。 でも、それ以上に感じたことがあります。 こんなにも応援してくれる人達がいるということです。 遠征はライブをしに行く日じゃない。 皆さんの時間と、お金と、期待を預かる日だ。 今日、それを改めて学びました。 反省もあります。 悔しさもあります。 だから次はもっと良い遠征にします。 mistFES 名古屋遠征。 本当にありがとうございました。 貰ったもの以上にまだお返しができていないので必ず返させてください。

【パラパレ】異世界アイドル☆パラレルパレード10/18 ギガソニin幕張メッセメインステージ出演!

52,641 görüntüleme • 3 ay önce

FF5のガラフ対エクスデスを見ると、正直、今見ると胸が痛い。なぜなら、あの場面には、今の私たちが失いかけているものが、あまりにも綺麗に残っているからだ。映像の豪華さではない。声優の熱演でもない。あの場面の本質は、ゲームシステムと物語が、同じ一点で爆発していることにある。普通、RPGにおいてHPが0になればキャラクターは倒れる。 それはプレイヤーが何十時間もかけて身体に覚え込ませたルールである。 回復しなければ死ぬ。 戦闘不能になれば動けない。 その当たり前を、ガラフは破る。 HPが尽きても立つ。 攻撃されても倒れない。 メテオを撃たれても、フレアに焼かれても、氷に貫かれても、自分が信じていたゲームのルールが、ガラフの意志によって押し返されるのを見ている。 だから感動する。 ここを、今の私たちはよく間違える。感動的な場面を作ろうとすると、つい演出を盛る。声を震わせる。カメラを寄せる。音楽を大きくする。もちろん、それは現代の技術として正しい。プレイヤーに伝えるための手段として必要なこともある。 ガラフの最期は、その逆である。物語が戦闘の中にある。戦闘が物語の証明になっている。HP0というシステム上の死が、キャラクターの意志によって意味を変える。だから、あの小さなドット絵の老人は、現代の美麗なムービーよりも美しい。 ドット絵の制約。 容量の制約。 短い台詞。 プレイヤーの想像力に委ねる余白。 それらが奇跡的に噛み合っていた。 しかし、それだけではない。 あの場面は、ゲームという媒体の本質を理解していた。ゲームは、ただ物語を見せるものではない。プレイヤーがルールを理解し、そのルールの中で行動し、そのルールに慣れたところで、物語がそのルールを揺さぶる。その時、ゲームにしかできない感動が生まれる。 ここを忘れると、映画の劣化版になる。 綺麗な映像。豪華な音楽。重厚な台詞。しかし、プレイヤーはただ見ているだけでは意味がない。 ガラフの場面は、ゲームでしか成立しない。小説なら「死んでもなお立ち上がった」と書ける。だが、HP0なのに倒れない、という感動はゲームにしかない。 プレイヤーがゲームのルールを知っているからこそ成立する。これは、私たちが本来もっと大切にしなければならない財産である。 今のスクエニが、これの再現に必要なのは、現代のゲームにおける「HP0でも立つ」に相当するものを見つけることだ。 たとえば、プレイヤーがずっと信じてきた成長システム。長く使ってきたコマンド、当たり前に開いていたメニュー、守ってきた仲間のAI、セーブやロード、ジョブ、装備、マップ、召喚、パーティ編成。 そういうゲームとしての常識を、物語のある一点で変質させ、キャラクターの覚悟によって、システムの意味が変わる。プレイヤーの操作が、ただの操作ではなく、物語の選択になる。 そこまで設計できれば、今でも名場面は生まれる。 しかし、それは会議で説明しにくい。 「ここでUIの挙動を変えます」 「ここで戦闘不能のルールを一度だけ破ります」 「ここでプレイヤーの常識を裏切ります」 こういう企画は、リスクがある。現代の大規模開発では避けられやすい。けれど、そこを避け続けると、名場面は生まれない。 プレイヤーが信じてきたルールの中で、キャラクターの覚悟を体験させなければならない。 ガラフは「私は命をかけて守る」と長々語ったから感動したのではない。 本当に、命を超えて立ったから感動した。 しかもそれを、戦闘というプレイヤーが最も理解している場所で見せた。 今のスクエニがもう一度こういう場面を作るには、過去作の名場面を綺麗に再現するだけでは駄目だ。 FF5をリメイクして、ガラフのシーンを豪華なムービーにすることはできる。 だが、それだけでは足りない。 本当にやるべきは、現代のプレイヤーが慣れ切ったゲームの文法を、一度だけ感情のために壊すことだ。 システム担当とシナリオ担当が、同じ心臓で設計すること。 バトルと物語を分けないこと。 UIと感情を分けないこと。 演出と操作を分けないこと。 プレイヤーが手を動かした記憶の中に、キャラクターの死や覚悟を刻むこと。 それができた時、初めて「今のスクエニにも名場面は作れる」と言える。 ガラフの最期は、古い名場面ではない。 未来への宿題である。私たちは、あの小さなドット絵の老人に、いまだに問い詰められている。 お前たちは、映像を綺麗にすることばかり考えていないか。物語をムービーに逃がしていないか。ゲームのルールそのものを感動に変える勇気を、まだ持っているか。 エクスデスは叫んだ。 「なぜ死なん」 だが本当に問われているのは、今の私たちの方である。 なぜ、あのような場面をもう一度作れないのか。 答えは、技術が足りないからではない。勇気の置き場所を、少し忘れているからである。

クレア|日常の違和感言語化係

454,826 görüntüleme • 3 ay önce