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ファーストガンダムの リメイクはゲームのムービーとかで 一部のシーンとかが出てるのが あるけどまず第一のTVシリーズを 再編集して新作カットを入れた 劇場版があるし聖典みたいなものだと 思っているので個人的にリメイクは 自分は否定的な方ですね。 オリジン?あれは安彦良和氏視点の 別物かと。

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FF5のガラフ対エクスデスを見ると、正直、今見ると胸が痛い。なぜなら、あの場面には、今の私たちが失いかけているものが、あまりにも綺麗に残っているからだ。映像の豪華さではない。声優の熱演でもない。あの場面の本質は、ゲームシステムと物語が、同じ一点で爆発していることにある。普通、RPGにおいてHPが0になればキャラクターは倒れる。 それはプレイヤーが何十時間もかけて身体に覚え込ませたルールである。 回復しなければ死ぬ。 戦闘不能になれば動けない。 その当たり前を、ガラフは破る。 HPが尽きても立つ。 攻撃されても倒れない。 メテオを撃たれても、フレアに焼かれても、氷に貫かれても、自分が信じていたゲームのルールが、ガラフの意志によって押し返されるのを見ている。 だから感動する。 ここを、今の私たちはよく間違える。感動的な場面を作ろうとすると、つい演出を盛る。声を震わせる。カメラを寄せる。音楽を大きくする。もちろん、それは現代の技術として正しい。プレイヤーに伝えるための手段として必要なこともある。 ガラフの最期は、その逆である。物語が戦闘の中にある。戦闘が物語の証明になっている。HP0というシステム上の死が、キャラクターの意志によって意味を変える。だから、あの小さなドット絵の老人は、現代の美麗なムービーよりも美しい。 ドット絵の制約。 容量の制約。 短い台詞。 プレイヤーの想像力に委ねる余白。 それらが奇跡的に噛み合っていた。 しかし、それだけではない。 あの場面は、ゲームという媒体の本質を理解していた。ゲームは、ただ物語を見せるものではない。プレイヤーがルールを理解し、そのルールの中で行動し、そのルールに慣れたところで、物語がそのルールを揺さぶる。その時、ゲームにしかできない感動が生まれる。 ここを忘れると、映画の劣化版になる。 綺麗な映像。豪華な音楽。重厚な台詞。しかし、プレイヤーはただ見ているだけでは意味がない。 ガラフの場面は、ゲームでしか成立しない。小説なら「死んでもなお立ち上がった」と書ける。だが、HP0なのに倒れない、という感動はゲームにしかない。 プレイヤーがゲームのルールを知っているからこそ成立する。これは、私たちが本来もっと大切にしなければならない財産である。 今のスクエニが、これの再現に必要なのは、現代のゲームにおける「HP0でも立つ」に相当するものを見つけることだ。 たとえば、プレイヤーがずっと信じてきた成長システム。長く使ってきたコマンド、当たり前に開いていたメニュー、守ってきた仲間のAI、セーブやロード、ジョブ、装備、マップ、召喚、パーティ編成。 そういうゲームとしての常識を、物語のある一点で変質させ、キャラクターの覚悟によって、システムの意味が変わる。プレイヤーの操作が、ただの操作ではなく、物語の選択になる。 そこまで設計できれば、今でも名場面は生まれる。 しかし、それは会議で説明しにくい。 「ここでUIの挙動を変えます」 「ここで戦闘不能のルールを一度だけ破ります」 「ここでプレイヤーの常識を裏切ります」 こういう企画は、リスクがある。現代の大規模開発では避けられやすい。けれど、そこを避け続けると、名場面は生まれない。 プレイヤーが信じてきたルールの中で、キャラクターの覚悟を体験させなければならない。 ガラフは「私は命をかけて守る」と長々語ったから感動したのではない。 本当に、命を超えて立ったから感動した。 しかもそれを、戦闘というプレイヤーが最も理解している場所で見せた。 今のスクエニがもう一度こういう場面を作るには、過去作の名場面を綺麗に再現するだけでは駄目だ。 FF5をリメイクして、ガラフのシーンを豪華なムービーにすることはできる。 だが、それだけでは足りない。 本当にやるべきは、現代のプレイヤーが慣れ切ったゲームの文法を、一度だけ感情のために壊すことだ。 システム担当とシナリオ担当が、同じ心臓で設計すること。 バトルと物語を分けないこと。 UIと感情を分けないこと。 演出と操作を分けないこと。 プレイヤーが手を動かした記憶の中に、キャラクターの死や覚悟を刻むこと。 それができた時、初めて「今のスクエニにも名場面は作れる」と言える。 ガラフの最期は、古い名場面ではない。 未来への宿題である。私たちは、あの小さなドット絵の老人に、いまだに問い詰められている。 お前たちは、映像を綺麗にすることばかり考えていないか。物語をムービーに逃がしていないか。ゲームのルールそのものを感動に変える勇気を、まだ持っているか。 エクスデスは叫んだ。 「なぜ死なん」 だが本当に問われているのは、今の私たちの方である。 なぜ、あのような場面をもう一度作れないのか。 答えは、技術が足りないからではない。勇気の置き場所を、少し忘れているからである。

クレア|日常の違和感言語化係

454,826 просмотров • 4 месяцев назад

スペランカーはどんなに高いところから落ちても死なない。 嘘だ! エアプだ! いいえ、本当です。 アーケード版はそうなのです! スペランカーは虚弱の代名詞となっているが、それはあくまでファミコン版の話。 日本ではファミコン版が最も有名だが、最も特殊なスペランカーでもある。(続く) ファミコン版の見た目は原作のAtari版を忠実に再現している。しかし、極端なまでに精密な操作を求められるという点において、洞窟探検ゲームというよりはタイトーの「クレイジーバルーン」に近い方向性なのではないかと私は思っている。 一方、このアイレム製のアーケード版はアスレチック的な展開や隠し要素など、アクションゲームとしての面白さを追求した方向性になっている。 高いところから落ちても死なないという点でファミコン版よりずっとプレイしやすいが、敵やトラップに触れれば一発でミス。エネルギーの減りも速いから決して簡単とは言えない。 なおネットでアーケード版のことを調べると「体力制を採用しておりすぐには死なない」という文言を時々見かけるが、アーケード版に体力制が導入されたのは続編の「スペランカーⅡ 23の鍵」からである。 アクションゲームとしての面白さを追求したアーケード版スペランカーは、「洞窟探検」というコンセプトをストレートに楽しめる逸品なのだが、知名度が低いのが残念なところだ。 スペランカーはファミコン版の印象が強烈で、それゆえ一部でカルト的な人気がある。そのためか、他機種版のスペランカーを「こんなのスペランカーじゃない!」と評する意見も見かけるのだが、スペランカーには色々なバージョンがあって、このアーケード版も間違いなくスペランカーなんだよと伝えたくて、このポストを書いている。 だから、もし以前PS3で出ていたスペランカーコレクションみたいなものが出るとしたら、「みんなでスペランカー」をもじって「これみんなスペランカー」というタイトルで出したらどうだろうかと、ちょっと思っている(笑) #レトロゲーム ※なおアーケード版スペランカーはAntstreamでストリーミングプレイが可能です。

moai1234

303,275 просмотров • 10 месяцев назад

原作FF7を元に考えられているであろうFFTのクラウド関連シーン。驚くほどリメイク版FF7とも親和性が高い。 ①八番街の出会い/再会 「明日も会いたいな、偶然あの角で」とリメイク版FF7で掘り下げられた二人の街角での「出会い」と「再会」を思い起こさせるシーンがさっそく用意されている。出会いの場所だが「また会えた」場所にもなるため花言葉は「再会」 ②Hollow(空っぽ) エアリスを失った時から「オレはオレでなくなった」と話している。 これは「あなたに触れると全ては癒され」と"大切なものを失った男の歌"であるクラウドの空っぽの心を表現する曲Hollowと重なる。 大切なもの→大切な人とセリフの更新があったFFT。リメイク版FF7では「大切な人を失うことを受け入れられない」クラウドを描いたとの解説もある。どちらも、なくした大切なものは"人"、つまりエアリスだと示してきている。 またFFT「この痛みをどうしたらいいんだ」というのも、エアリスを失い酷く心が傷ついた状態だという原作FF7のセリフが採用されている。 リメイク版FF7ではHollow「You would appear, reach out to me, heal every wound, and make me whole(あなたが現れたなら、傷は全て癒され、オレは完全になれるんだ」というように歌われている。失ったものを取り戻せば傷は癒され、空っぽが埋まり完全になれる。 ③約束の地へ「帰る」 「キミの世界には、キミの帰りを待っている人がいるんだね」 クラウドが大切な人を失ってしまった…どうしたらいい?と辛い胸の内を明かした直後にラムザが口にするセリフである。その人に会いにいきたいんだねという話の流れ。 リメイク版FF7のLOVELESSでも表現されたように、大切な人と離れ離れになっても再会できるはずという「約束の地」についての話が入っている。 クラウド「行かなければ。ここじゃない場所、約束の地へ」 離れ離れになった大切な人が「帰りを待っている」世界である「約束の地」を目指す旅だ。 ④複数の世界を股にかける旅 リメイク版FF7で登場した複数世界の設定。FFTや他のゲスト出演作品も含めて…という考え方もできて面白いね。たとえ記憶をなくしてもその想いは消えることはない。「約束なんかなくても」、No Promises to Keep(約束はいらない)、それでもたどり着けるはずというお話 リメイク版FF7では物語の具体性が増しているが根本は原作から変わらない考え方だから、月日が流れた今でもFFTの演出とうまくマッチしているのかもしれない。 なんにせよリマスタ版FFTであらためて「大切なもの」を「大切な人」とセリフを変更したことからも、本編との整合性を意識し、今までよりも一歩進んでより具体的に表現しようとしている意図が読み取れる。#FF7R #FFTイヴァリースクロニクルズ

もぐり

17,208 просмотров • 11 месяцев назад

今回のイベントで進展があるかはわからないけど、以前このシーンを見てから、やたらこの会話が印象に残っている。マクスウェルが 勝手に思っていることだが、NIKKEのテーマの1つに「善悪とは何か」があると思っていて、「親が悪の場合、討つことはできるか」がサブテーマにあるかもしれない。 記憶にあたらしいのはハンソンとマスタングだと思う。 シュエンとメティスもそれに近いものがあるが、関係性と当人の捉え方も少し違っている。 「世界にとって悪だったとしても、その人が自分のためなら全て投げ出してくれるような人だったら?」 「作ったのなら責任を持つべき。作られたものも作ったものを見捨てるべきではない。でもその存在が悪だったら?」 と問いかけるマクスウェル。 「悪はたとえ自分にとってどんな存在出会っても討ち果たすべき」 と躊躇のないラプラス。 「大切な人でも恐ろしいことをしたら許せない⋯。でももしエイブだったら⋯」と言葉に詰まるシンデレラ。 ラピもまた「指揮官が世界の敵になったら」にはすぐに答えを出せず固まる。 ✼••┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈••✼ 個人的には最終的にNIKKEの物語が行き着くところは「果たしてラプチャーは本当に敵か」ということになってくるのだと思っている。 所詮、善悪など主観で決めていることが大半で、「他人の物差し」で測れば、自分が「善」と思っていることは「悪」かもしれないし、そのまた逆もしかり、なのだから。

サーニャン【NIKKEアカウント】Sarnyan☆

78,757 просмотров • 2 месяцев назад

「命を優先する」―― さとうさおり氏が、リーダーとして絶対に言ってはいけなかった一言 さとうさおり氏の辞職表明を見て、多くの人が感じた違和感。 「何かがおかしい。でも、うまく言葉にできない」 その正体は、辞職したことそのものではないと思う。 問題は、 「命を優先する」 と言って去ったことだ。 最初に断っておきたい。 命を守ることが悪いのではない。 本当に身の危険があるなら、逃げればいい。 議員を辞めてもいい。 家族や自分自身の安全を最優先することを、誰も責めることはできない。 しかし、だからこそ私は思う。 政治家として、そして人を率いてきたリーダーとして、「命を優先する」という言葉だけは使うべきではなかった。 なぜなら、それは単なる辞職理由ではないからだ。 その一言は、それまで彼女自身が作ってきた「戦うリーダー」という物語を、自分の手で壊してしまう言葉だからである。 さとう氏は、強い言葉で支持を集めてきた。 隠すな。 公開しろ。 説明しろ。 おかしいものには声を上げろ。 東京都にも、既存政治にも遠慮しない。 普通の政治家が躊躇するところまで踏み込む。 だから、多くの人が期待した。 この人なら逃げない。 この人なら最後まで戦う。 そう思った人も少なくなかったはずだ。 ところが、自分自身が説明を求められる側になったとき、 「今後の人生に大きく関わる事情」 「自分だけに関わる問題ではないので詳細は話せない」 そして最後に、 「命を優先する」 と語った。 ここで、これまでの人物像との間に大きな亀裂が入った。 「命を優先します」 これは、非常に強い言葉だ。 強すぎると言ってもいい。 なぜなら、この言葉を出された瞬間、誰も反論できなくなるからだ。 「それでも議員を続けろ」 とは言えない。 「命より議席を優先しろ」 などと言えるはずもない。 つまり、この一言が出た瞬間に、 なぜ辞めるのか。 何が起きたのか。 なぜ休養では駄目なのか。 なぜ議員を辞める必要があるのか。 辞めれば何が解決するのか。 という、本来有権者に説明されるべき問いが、全部止まってしまう。 だから私は、この言葉が一番まずかったと思う。 命を説明したのではない。 結果として、 「命」という反論不能な言葉によって、説明そのものを終了させてしまった。 そう見えてしまうからだ。 もちろん、本当に命に関わる事情があった可能性は否定できない。 外部の人間には分からない。 第三者が関わっているなら、詳細を公表できないことだってある。 しかし、 「全部話せない」 と 「何も説明できない」 は全く違う。 たとえば、 「安全上の重大な事情が生じた」 「第三者保護のため詳細は明らかにできない」 「議員活動を継続する限り、その問題を解消することが困難である」 「必要な相談や安全確保の手続は取っている」 「これまでの政治的主張を撤回したわけではない」 それくらいは説明できる。 そうすれば、少なくとも、 安全のために退くこと と 政治的に敗北して退くこと を切り分けられる。 しかし「命を優先する」という言葉だけが前面に出れば、受け手には別の物語ができてしまう。 東京都と戦っていた政治家に何かが起きた。 そして命を守るために退いた。 本人がそういう意味で言ったのかどうかは関係ない。 政治家の言葉は、本人の意図だけでは成立しない。 どう受け取られるかまで含めて政治である。 そして、ここからがもっと重要だ。 これは単なる「言葉選びの失敗」ではない。 リーダー論として見ても、かなり深刻な失敗である。 リーダーとは、恐怖を感じない人ではない。 怖いものは怖い。 危険なら撤退する。 場合によっては、逃げる判断だって必要だ。 しかしリーダーには、その次の仕事がある。 自分の恐怖を、自分の中で処理することだ。 そして仲間には、 「何が起きているのか」 「何を守るのか」 「何を撤回しないのか」 「これからどう進むのか」 を示す。 リーダーの役割とは、全員の前で一番勇ましい言葉を叫ぶことではない。 混乱した状況を整理して、周囲に方向を示すことだ。 ところが今回の辞職表明で支持者に残されたのは、方向ではなかった。 不安だった。 「命を優先する」 と言われれば、支持者は当然考える。 そんなに危険なのか。 何があったんだ。 誰かに何かされたのか。 これまで応援してきた活動は危険なのか。 東京都を追及すると、こんなことになるのか。 やちよの会はどうなるのか。 これまで一緒に活動していた人たちはどうするのか。 そして、本人が具体的な説明をしなければ、その空白を支持者自身が埋め始める。 憶測が始まる。 噂が始まる。 陰謀論まで生まれる。 つまり、リーダーが自分で整理すべき不安を、支持者側にそのまま渡してしまった。 私は、ここが今回もっともまずいと思う。 自分の恐怖だけを置いて去ってしまったように見える。 リーダーなら、本来は逆である。 仮に自分が去らなければならなくなったとしても、 「私はここで離れる」 「しかし、この問題提起は間違っていない」 「ここまでは達成した」 「ここから先はこう引き継ぐ」 「皆さんが恐れる必要はない」 「私が去っても、この活動の意味は消えない」 と残す。 これが、リーダーの撤退だ。 戦い続けることだけが勇気ではない。 撤退することだってある。 しかし、 仲間が前を向ける形にして撤退する。 そこまでがリーダーの責任なのである。 政治家には支持者がいる。 もっと言えば、その人の言葉を信じて実際に動いた人がいる。 票を投じた人。 寄附した人。 ポスターを貼った人。 ポスティングした人。 SNSで応援した人。 家族や知人に投票を頼んだ人。 時間を使い、金を使い、ときには人間関係まで使って応援した人たちがいる。 リーダーは、その人たちを動かしてきた。 ならば、自分が突然去るときに、 「私は自分の命を優先します」 だけでは足りない。 自分の人生を守る権利はもちろんある。 しかし同時に、 自分を信じて動いた人たちを、どういう状態で残していくのか。 そこにも責任がある。 今回の違和感は、おそらくここにある。 本人にとっては、 「自分の人生を守るための決断」 だったのかもしれない。 しかし支持者から見れば、 「あなたを信じてここまで来た私たちは、どうすればいいのか」 という話でもある。 リーダーの辞職は、自分一人の人生の決断では終わらない。 だからこそ、退出するときほど、その人のリーダーとしての本質が出る。 そして今回、さらに厳しいのは、彼女がこれまで「戦う姿勢」そのものを支持の源泉にしてきたことである。 強い言葉を使う。 権力に食ってかかる。 既得権益を恐れない。 隠されたものを公開させる。 そういう姿勢を見せ続けてきた。 だからこそ、 「命は一つしかない」 という言葉の破壊力が大きかった。 本人としては「自分を大切にする」という当然のことを言っただけなのかもしれない。 しかし、支持者側には、 「最後は怖くなって退いたのか」 という印象が残り得る。 事実がそうだった、と言っているのではない。 そういう物語を、自分の言葉によって成立させてしまった。 それが問題なのだ。 そして、リーダーとして最も避けるべきなのはここだと思う。 「圧力をかければ、この人は退く」 という印象を残すことだ。 仮に本当に何らかの重大な外的事情があったのであれば、なおさらである。 リーダーが退くときに、 「私はここで退く。しかし要求を受け入れたわけではない」 「主張は撤回しない」 「記録は残す」 「問題提起は引き継ぐ」 と明確にしなければならない。 そうしなければ、相手側にも、支持者側にも、 「押された結果、退いた」 という印象が残る。 これは、政治運動を率いる人物にとって非常に大きな問題である。 結局、今回の件で問われているのは、 「辞めるのは弱いのか」 ではない。 そんな単純な話ではない。 問われているのは、 「リーダーとは何か」 ということだ。 リーダーとは、一番大きな声を出す人ではない。 一番勇ましい言葉を使う人でもない。 敵を一番激しく批判する人でもない。 本当にリーダーの資質が問われるのは、 自分自身が追い詰められたとき。 自分自身が説明を求められたとき。 自分自身が撤退しなければならなくなったときだ。 そのときに、 自分の不安を周囲にばら撒くのか。 それとも、 自分が不安を引き受け、周囲には方向を示すのか。 ここに決定的な違いがある。 だから、多くの人が今回感じた違和感を、私はこう表現したい。 「強い人だと思っていた。でも、強い言葉を使うのが上手な人だっただけなのではないか。」 強い言葉を使うことと、強い人間であることは違う。 そして、 強い人であることと、リーダーであることも違う。 リーダーとは、自分が最後まで立っている人ではない。 退かなければならないときでさえ、 残された人が前を向けるようにしてから退く人だ。 今回の辞職表明には、それが見えなかった。 むしろ残されたのは、 「命に関わるほど何か恐ろしいことが起きたらしい」 という巨大な不安と、 「でも詳しいことは分からない」 という空白だった。 これは、リーダーとして最も残してはいけないものではないだろうか。 命を守ることは間違っていない。 逃げることも、必ずしも間違いではない。 辞めることだってある。 しかし、自分を信じてついてきた人たちがいるなら、最後にやるべきことがある。 自分が何を守るために退くのか。 何については一歩も退いていないのか。 そして、自分が去ったあと、仲間はどこへ向かえばいいのか。 それを示すことだ。 だから私は、 「命を優先する」 という言葉こそ、今回もっとも言ってはいけない言葉だったと思う。 命を軽く扱ったからではない。 逆だ。 あまりにも重い言葉を、リーダーとして説明すべきことの代わりに置いてしまったからだ。 命を盾にすれば、誰も反論できない。 しかし、 誰も反論できないことと、誰もが納得することは全く違う。 そして最後に残る問いは、これだ。 リーダーとは、自分が安全な場所まで逃げ切る人ではない。 自分が去ったあとも、仲間が立っていられる場所を残してから去る人ではないか。 今回、多くの人が感じている違和感。 その正体は、辞職への失望だけではない。 「私たちが見ていたのは、本当にリーダーだったのだろうか」 という疑問なのだと思う。

PTA適正化推進委員会 佐藤

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実写版『薬屋のひとりごと』。 芦田愛菜さんが猫猫を演じることに、注目が集まっています。 でも私は、この実写化で一番難しいのは、猫猫ではないと思っています。 動画も作成しましたので、テキスト・動画お好みでご覧ください。 ズバリ、壬氏である。 これは、かなり難しいと思う。 なぜなら壬氏は、 「イケメン俳優を連れてくれば成立する人物」ではないからだ。 まず壬氏について、原作やアニメを観ている人なら分かると思う。 とにかく美しい。 ただのイケメンではない。 周囲の人間が思わず見惚れてしまうほどの、 人間離れした美貌を持つ人物として描かれている。 しかも、その美しさ自体が物語の中で意味を持っている。 ここが実写化最大の難関である。 漫画やアニメなら、作画によって「この世のものとは思えない美貌」を作れる。 キラキラした演出を加えることもできる。 周囲の人物が壬氏を見て頬を染めれば、 視聴者も「とんでもなく美しい人物なんだ」と自然に受け入れられる。 だが実写では、現実の人間が演じる。 どれだけ美しい俳優でも、視聴者にはそれぞれ好みがある。 つまり、作品側が「絶世の美男子です」と設定しても、 映像だけで全員を納得させるのは、ものすごく難しい。 一つ目の壁が、これだ。 そして二つ目。 壬氏は、美しいだけではない。 表向きは余裕があり、人当たりもよく、猫猫をからかうこともある。 だが物語が進むと、それだけではない顔が見えてくる。 立場ゆえの重さ。 猫猫への執着。 思い通りにならないことへの感情。 時には、子どものような一面まで見せる。 つまり、「完璧な美男子」を演じるだけでは壬氏にならない。 美しい。余裕がある。だが、猫猫の前では崩れる。 この落差が壬氏の魅力である。 ここを少しでも間違えると、ただのナルシストにも見える。 逆にコミカルに寄せすぎると、壬氏が背負っている重さが消えてしまう。 三つ目が、猫猫との関係である。 ここも、めちゃくちゃ難しい。 壬氏は猫猫へ強い興味を持っている。 ところが猫猫は、壬氏の美貌にほとんどなびかない。 むしろ面倒くさそうに扱うことすらある。 この温度差が、二人の面白さだ。 だから壬氏役の俳優には、 「視聴者から見れば圧倒的に魅力的なのに、猫猫には刺さらない」 という状態を成立させる必要がある。 これは、かなり特殊な演技である。 単純な恋愛ドラマなら、二人が美男美女で、徐々に惹かれ合えば成立する。 だが『薬屋のひとりごと』は違う。 壬氏がどれだけ美しくても、猫猫の興味は毒や薬へ向いている。 このズレを実写で面白く見せられるか。 私は、かなり重要だと思っている。 そして今回、面白い情報が一つある。 壬氏役は、まだ正式発表されていない。 だが、もう決まっている。 原作者の日向夏さんが撮影現場を見学した際、 壬氏役の俳優と実際に会ったことを明かしている。 あまりの完成度に、一緒に来ていた姪御さんの目が肥えてしまうと、 その目を覆ったほどだという。 日向夏さんは、その俳優を「リアル壬氏」とコメントしている。 これは、期待してしまう。 少なくとも原作者が実際に対面して、「壬氏らしい」と感じる人物が選ばれている。 さらに今回の実写版は、 衣装やヘアメイク、セットにもかなり力を入れていることが明らかになっている。 つまり、壬氏の美貌を俳優一人だけで成立させようとしているわけではない。 衣装。髪型。照明。美術。カメラ。VFX。 そうした映像全体で「壬氏」という存在を作るはずである。 私は、ここが成功の鍵だと思う。 実写版『薬屋のひとりごと』で本当に見たいのは、 「誰が壬氏を演じるのか」だけではない。 「現実の人間で、どうやって人間離れした壬氏を成立させるのか」。 ここである。 芦田愛菜さんの猫猫も、当然楽しみだ。 だが、実写化の難易度だけで言えば、私は壬氏の方が上だと思っている。 そして原作者からすでに「リアル壬氏」と言われている、未発表キャスト。 一体、誰なのか。 発表された瞬間、間違いなく大きな話題になる。 あなたは、壬氏役が誰だと予想しますか。 コメントで教えてください。

榊󠄀原清一 / 人財版 令和の虎 主宰

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3/31(火)国民民主党・玉木代表定例会見 国民民主党としての国旗損壊罪のスタンスは? いちばん大事なのは保護法益、何の目的でやるのかという事 今の刑法の規定は、外交上の関係を維持するということが法目的になっています そうなると、日本国旗をそこに入れても保護法益の観点でいうと外交上どうこう なるものではないので、そのまま入れることはどうなのかという事になりますし あと外交を目的にしていますから相手国が問題だということで、外国政府からの申立てが要件になっていますが、 日本国旗を毀損した人がいたときに、日本国政府として申告、意義を申立てることを要件にするのかしないのかとか、あると思います ただ、これはアメリカの連邦最高裁の判例にもありますけれども 表現との自由の関係で非常に問題になる事案であって 例えば何を目的にするかなんですけど 政治的な意思を表明するために そういったことをされる方はいるんですが、アメリカにおいても政治的な意思の表現として国境を損壊することは処罰できないんです むしろそこが処罰できないんですね これは最高裁の判例でも明確になっています、内心の自由の表現なので 例えば漫画にしても何にしても表現の自由ってありますね 自分の思うものを信じあるいは発信するということは、内心の自由というのは憲法上でも最も優越的に保護されている権利なので そういったものと国旗の損壊を保護すると毀損することを保護するということの保護法益のバランスの中で、どういうルールが作れるのか作れないのか 単なる訓示規定的なものを作ったら それ意味はあるんでしょうけども ただ実際にはそれで損壊する人を処罰したりすることはできなくなりますしね やる人は訓示規定があっても確信犯でやりますし しかも政治的なものだということであれば、逆に言うとそれはアメリカの判例なんかを見ても、逆に政治的な思いの発露としてやる場合はむしろ処罰できないということになるので 感情的に単純に外国の国旗を損壊したら罰があるけど日本国旗はないから入れるというものではなくて そもそもの刑法の中は保護法益が外国との外交関係を有効に維持するということなので、その保護法益を守るという観点でそこに日本国旗入れるのは 保護法域の観点からすると多分できないということで 多分自民党の中からも一部報道ではありますけれども刑法にはなかなか載せられないよねとか、罰則は難しいよねという議論が出てきているのはそうだと思うんですが それであれば制定する意味がどこにあるのかということの優先順位をどうするのかという判断になってくるのかなと思います

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AIが「病気を治す」「富を生む」「生産性を高める」という未来像は、多くの人にとって魅力的だし、人々はそういう利点を信じていないわけではない。だが、それだけでは不安は消えない。彼らが本当に聞きたいのは、その未来の中で自分たちは何者として生きるのか、ということだ。 サム・アルトマン「私の問いはこうです。未来における私の役割は何なのか。私の経済的な未来はどうなるのか。私の主体性はどうなるのか。私の子どもたちや家族は、これからも充実した創造的表現を持ち、世界を前に進めるために奮闘し、成長し、長いあいだ機能してきたやり方で共にそれを続けていけるのだろうか、ということです。 そしてAI業界の人たちが、「まあ、仕事はなくなるでしょう」とか、「仕事の50%が消えるでしょう」とか、「仕事の90%が消えるでしょう」と言い、「AIはあらゆる面であなたより賢くなるでしょう」と言い、「ベーシックインカムは与えますが、あなたには実質的に役割はありません」と言う。これはひどいことです。 しかも、「このAI企業は、すべての仕事を破壊するかもしれませんが、世界で最も価値のある企業になります」と言っているわけです。人々はそれを見て、言葉を失ったような、気まずいような反応になるんです。 だから私は、それはひどいメッセージだと思います。私たちが利点を十分に説明してこなかった、という話ではないと思います。実際、人々は私たちの言うことを信じているのです。「がんを治してください」と言われれば、それは素晴らしいことです。けれども私たちAI業界は、人々があらゆる段階で未来を決める主導権をどう保ち、私たちが大切にしているあらゆる意味で本当に意味のある人生をどう持ち続けられるのかを、説明できてこなかったのだと思います」

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「愛している」と言わないことが最大の愛。そんな切ない気持ち。あなたは経験したことありますか? ファイナルファンタジー6。ロック、レイチェル、セリス。この3人が紡ぐこのシーン。涙無しで見ることはできなかった。 「お話したかった。」蘇るレイチェル。 でもそれは幻獣フェニックスの最後の力が起こしたつかの間の奇跡だった。 レイチェルは言う。 「愛している。」ではなく、 「幸せだった。」と。 「幸せをありがとう。」と。 レイチェルは続ける。 「心を縛っている鎖を断ち切って。」 「あなたの心の中の、その人を愛してあげて。」と。 レイチェルがロックに「愛してる。」と言わなかったことに、レイチェルの最大の愛がこめられている。自分はそう思いました。本当は言いたかったはずです。「愛している。」と。 あとこれは勝手な解釈ですが、レイチェルはこの場面、選択があったのではないかと思いました。 「自分がフェニックスの命を使って蘇るか。」 それとも 「自分の最後の命を使ってフェニックスの力を蘇らせるか。」 「フェニックスよ、よみがえり、ロックの力に!!」 その言葉と共にレイチェルが輝き、フェニックスが復活する。 魔石フェニックスには永遠の炎の力だけではなく、永遠の愛の力が宿った。 自分はそう解釈しました。 魔石レイチェル、大事に使っていきます。 そして、立ち上がり、再び闘志を燃やすロック。歩み寄るセリス。 ムービーが終わり、メニューボタンを開いた瞬間、ロックとセリスしかいないことにも心をつかまれました。 このシーンは、ロック、レイチェル、セリスの3人だけの物語だったんですね。 皆さんはこのシーン、どんな気持ちで見ましたか?

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ドジャース 大谷翔平 ◇ 試合後インタビュー 『状態は比較的良かったのかなと、あの回(5回)先頭バッターにフォアボールを出したのが良くなかったかなと』 ・ひざの状態、指の状態は 『どうなんですかね。特に投げてる時はあまり関係ないかなと思うので、常に万全な状態で100%で投げられるわけではないですし、シーズンやってればあるので、その中で試合を取れたのは良かったのかなと思います』 『全体的に投げ心地も良かったですし、入りとしても良かったと思うので、あの回(5回)だけかなと思うので、良いところもあったし、悪いところももちろんあったしってゲームだったかなと思います』 ・ひざの影響について 『動き自体は修正して入れたと思うのでそれは良かったですし、明日休みがあるので、投げれる状態なら登板回避することなく投げようと思ってたので、最低限の調整とゲーム内容だったのかなと思います』 ・6月に入ってピッチングの量を変更したか 『それはないですかね。基本的に登板間のスケジュールは決まってますし、登板のスケジュールはチームが決めるので、増やすも減らすもチーム次第なんですけど、一番やるべきことはシーズン通して健康でポストシーズンの時期に入った時に全員がプレーできる状態であるということだと思うので、そこのマネージメントに関してはチームに任せている状態かなと思います』 #Dodgers Shohei Ohtani 🎥:©SportsNetLA

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シンギュラリティのトリガーである「再帰的自己改善」は、すでに少し前に起きているという。もちろん、まだ全自動ではないが、「進歩のどこまでがAIでどこまでが人間なのか」は曖昧になってきている。著者性が溶けるこの感覚こそ、分単位で進むシンギュラリティの手触りなのだ。 サリム・イスマイル「再帰的自己改善(RSI)がシンギュラリティの本当のトリガーだという話は、以前からしてきました。そしてそれは、すでに少し前に起きているんです。だから今やっているのは、その道筋を加速しているだけです。私たちは今この瞬間にも、産業時代を恒久的に抜けつつあります」 デイブ・ブランディン「ええ、シンギュラリティが分単位で展開していく様子は、私が経験した中で最も興味深いものだと本当に思いますし、アレックスの言うとおりです。いまは、人間がループの中にいて貢献している時期ではあるのですが、進歩のどこまでがAIでどこまでが人間なのかが、本当に曖昧なんです。実際にコーディングしていると、『あれは自分のアイデアだったのか?』となります。 半分は自分のアイデアのようでも、AIが別の案を提案してきて、それを採用していくうちに、結局それが自分のアイデアだったのかどうかも分からなくなります。ただ、いまのモードでは、こうしたコアアルゴリズムの研究の多くが、『500本のテストを走らせて、どのハイパーパラメータが良かったか、どのニューラルトポロジーが良かったかを教えて』という形になっています。相対論を発明したり発見したりするような話ではありません。 いろいろな試行を大量に回して、うまくいったものを選んで再デプロイし、そうするとより賢いAIになって、さらに多くの試行をする——その繰り返しです。私たちはその道筋をかなり進んでいる可能性が高いと思います」

Tsubame

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『映画ちいかわ 人魚の島のひみつ』は、原作を超えたのか。 結論から言う。 超えた部分もある。だが、原作にしかない怖さも失われた。 長文です。動画も作りました。 映画化としては、かなり成功している。 しかし、すべてが原作以上になったわけではない。 まず、映画が原作を超えたと感じた点を三つ挙げる。 一つ目は、音である。 漫画では、セイレーンの歌声も、波の音も、攻撃の衝撃も、読者が頭の中で想像する。 だが映画では、それらが具体的な音として押し寄せてくる。 特に、かわいらしい画面と、重く響く音の落差がすごい。 人魚をめぐる真相も、漫画ではコマと擬音によって距離を保てたが、 映画では音が付くことで、行為の暴力性が一気に現実へ近づく。 二つ目は、時間である。 漫画は自分の速度で読める。 怖い場面で止まることも、前のページへ戻ることもできる。 一方、映画は観客を決められた速度で物語の先へ運ぶ。 島へ着いた直後の楽しさ。 島民たちとの交流。 セイレーンの出現。 そして真相。 楽しい時間が少しずつ壊れていく流れを、観客は止められない。 この逃げられなさは、映画だからこそ成立した恐怖である。 三つ目は、登場人物の感情である。 ちいかわが怯える呼吸。 ハチワレが状況を理解しようとする声。 ラッコが危険を前にして見せる緊張。 うさぎの予測不能な動き。 漫画では小さな表情の変化として描かれていたものが、 声と動きによって立体的になっている。 特にヒトハとフタバは、真相を知ってから見返すと、 沈黙や視線の一つ一つが別の意味に見える。 これは映像化の大きな成功である。 では、原作の方が優れている部分は何か。 一番は、余白である。 漫画では、残酷な行為そのものをすべて説明しない。 コマとコマの間に、読者が想像する空間がある。 何が起きたのか。 どんな気持ちだったのか。 この先、二人はどうなるのか。 答えを与えすぎないからこそ、読後に不安が残る。 映画は音と動きで情報が増えた分、原作の曖昧さが少し減っている。 もう一つの弱点は、映画として観ると、 中盤の反復が長く感じられる可能性があることだ。 島での楽しい時間と、セイレーンによる被害を丁寧に積み上げる構成は、 原作ファンにはうれしい。 しかし、初めて触れる観客には、 物語の本当の焦点が見えるまで時間がかかるかもしれない。 そして最大の問題は、映像が豪華になることで、 残酷な物語まで娯楽として気持ちよく消費できてしまうことである。 アクションの迫力。 歌の魅力。 かわいい登場人物。 それらが強いほど、本作が描く罪や責任が薄く見える危険もある。 それでも私は、この映画化を高く評価する。 理由は、原作を分かりやすい子ども向け作品に変更せず、 ナガノ作品の不穏さを残したからである。 原作を超えたかどうかを、勝ち負けで決める必要はない。 漫画は、余白で怖がらせる。 映画は、音と時間で逃げ場を奪う。 同じ物語を、異なる方法で怖くした。 映画を観た人は、ぜひ原作も読んでほしい。 映画で具体化されたものと、漫画で最後まで曖昧なまま残されたもの。 その違いを比べたとき、 『人魚の島のひみつ』という物語の異常な完成度が、さらに見えてくるはずである。 あなたは、映画と原作、どちらが怖かったですか。 コメントで教えてください。

榊󠄀原清一 / 人財版 令和の虎 主宰

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