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Ana Sayfaya Dön

マドリードで行った「ランニング寿司」笑。 日本文化がめちゃクール!って海外でも大注目、アホみたいなコストかけてお寿司回してる。 それを、我が国が育て上げた国の宝であるべき若者の行為により、簡単に捨てようとする最高に頭の悪い国で泣くわ…

14,029 görüntüleme • 3 yıl önce •via X (Twitter)

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Benzer Videolar

⇩こちらの動画と投稿、他の影響力あるインフルエンサー達も取り上げてくれるなど非常に反響をいただいてるのですが、ゴミ山の中に捨てられてる国旗をゴミ袋に入れた私の行為に 『 国旗損壊罪 』 と指摘してくる意見もあり、流石に「粗探しが過ぎる」と憤慨してます。 国旗損壊罪は国会で導入するか議論が展開されてますが、将来的に法律に導入されても 「日本国に対して侮辱を加える目的で国旗を壊す・汚す・取り外した場合」 を罰するものです。 確かに私は日の丸が描かれてる旗をゴミ袋に入れましたが、この掃除している姿が侮蔑的に見えますか? 無理やり粗を探すなら旗を振って国旗を見つめるこのシーンでしょうが、私の本音は 「国旗がポイ捨てされてるとかマジか!?」 という気持ちと動きなだけです。 動画を見れば分かるでしょう。 私は日本が大好きですし、日の丸というシンプルかつ力強いシンボルに誇りをもってます。 だから、世界的に綺麗と認識されてる日本が汚されてるのが嫌なのもありゴミを拾っている。 国旗損壊罪が導入されるか否かに関わらず、今の日本にいる人( 日本人だろうと外国人だろうと )が国旗を無下に扱うのは許せない。 それに、ポイ捨て自体がそもそも犯罪です。 犯罪によって汚された街の尻拭いをしているのに、なぜ私自身が犯罪に触れてるかのように言われるのか? 国旗損壊罪は国会でもニュースでも話題になってるので、ホットな政治的話題に何でもかんでも影響されて結びつける人達、 その神経が分かりませんね。 ※この投稿に対する外国人批判のようなコメントは趣旨が違うのでお控えください。

スミレンジャーZ(愛称スミレちゃん、元スラウザーです)RLSH

25,552 görüntüleme • 5 ay önce

電車ってのはね、国が違っても箱なんだよ。狭い箱に知らん他人が詰め込まれて、みんなちょっとずつ我慢して目的地まで運ばれる。で、その箱の中のルールが国によって全然違う。日本の電車は、言ってみりゃ図書館が走ってるみたいなもんで、海外の電車は立ち飲み屋が走ってることが多い。 これさ、どっちが正しいって話じゃなくて、文化の設計が違うって話です。 ポストにある黒人女性が車内で大声で電話してた、っていうのと、ブルガリア人の本音をセットで観ると面白い。 ブルガリアの人は「慣れたけど、できれば地下鉄でも話したい。10分くらいなら、みんな電話良くない?」って言う。あれ、悪意というより感覚の差そのものなんだよ。 本人の中では、電話も友達との会話も日常の延長で、公共空間で声を出すことがそんなに犯罪の気分じゃない。むしろ「なんで黙ってるの?」くらいの世界もある。 一方で日本は逆でさ、黙ってることが礼儀になってる。ここが厄介で、黙ってる国ってのは、注意もしないんだよ。 嫌な顔はする。 白い目も送る。 でも言わない。 言わないのに、心の中では裁判が始まってる。 しーっ🤫 これ、日本人は子どもにもやるし、静かにしてねの軽い合図のつもりで使う。 でも国によっては、命令っぽく見える。 上から押さえつけられた感じに取られることもある。 つまり、注意した側はマナーのつもり、された側は侮辱のつもりになりやすい。 ここで爆発が起きる。マナーってのは言葉より顔つきで決まるからね。タクシーで運転手に「そこ右」って言うのも、言い方次第で案内か、説教かに分かれるのと同じ。 じゃあどうすんだって話だけど、結論は単純でさ。 日本の電車は静けさ込みで商品なんだよ。寿司屋に入って俺、本マグロと納豆混ぜたいって言っても、自由だけど嫌がられるだろ? ここは寿司屋なんだから。 だから日本では車内通話は控えるが基本ルールでいい。これは差別じゃなくて、店のルール。相手の肌の色じゃなくて、行為の問題。 ただし日本側も、やり方が下手なんだよ。やるなら、白い目じゃなくて、案内にしないと。 白い目ってのは無言の包丁なのよ。刺さるけど、相手は何で刺されたか分からない。 分からないから逆ギレになる。 だから次に必要なのは、包丁じゃなくてメニュー表。 「ここは静かにする車両です」 「通話はデッキでお願いします」 それを多言語で、ユーモアも混ぜて、徹底して貼る。車掌や駅員も、注意というより誘導で動く。これだけで衝突は減る。 で、乗客側も大事なのは、注意するなら品を持つこと。 「すみません、ここ日本の電車で、通話ダメなんです。よかったらあっちで」 これを笑顔で言える人が増えると、空気が変わる。逆に、正義の顔して黙れってやると、相手の文化圏では喧嘩のゴングになることがある。 ルールを守らせたいなら、勝ちたいんじゃなくて、収めたいんだよ。 最後にもう一個。 ブルガリアの人の「10分くらい電話いいじゃん」って本音、あれをゼロにしろってのも無理がある。 人は急に別の国のOSに入れ替わらない。 だからこそ、受け入れる側の日本も黙って耐えるだけじゃなく、ルールを伝える仕組みを育てないといけない。 多文化共生ってのは、仲良くなる前に、まず取扱説明書を配ることなんだよね。 電車は動く社会。 そこで揉めるのは、国が壊れてるんじゃなくて、説明が足りないか、言い方が荒いか、だいたいそのどっちか。 図書館の電車を守りたいなら、図書館らしいやり方で守ればいい。静かに、はっきりと、ルールを渡していく。

クレア

2,955,247 görüntüleme • 9 ay önce

面白いのは、彼らが反応しているのが、厳密には日本そのものではなく、「アメリカ文化を丁寧に扱う日本」に対してだということです。KFCは本来アメリカ発の大衆チェーンなのに、日本ではそれが妙に清潔で、妙に安定していて、妙にちゃんとおいしそうに見える。するとアメリカ側は、自国の記号を海外で見ているはずなのに、なぜかそこに理想のアメリカを見つけてしまう。だから「家の近くのアメリカ」「アメリカがそこにはある」という冗談が、ただのネタを越えて少し切実になる。 これはかなり現代的な現象だと思う。 人はもう、自国の理念を自国の中でだけ確認するとは限らない。むしろ外部に、より整った形で保存されている自国性を見て、安心したり、感動したりする。 アメリカ人が日本のKFCや、日本に点在するアメリカっぽさに熱狂するのは、異文化に驚いているというより、自国で失われた手触りを、他国で回収しているからだ。 しかもそこにあるのは、高尚な政治理念ではない。自由、友情、親しみ、ジャンクフード、チェーン店、冗談、雑な愛情表現。つまり国家の公式文書には載らないが、たしかに国民感情を支えていた生活のアメリカだ。 彼らは日本に対して敬意を示しているようでいて、同時に自分たちがかつて信じていたアメリカの陽気さや無邪気さを、日本の風景の中に見つけて興奮している。 だからコメント欄の「God bless the Japanese people」や「I have no notes on Japan」や「Protect them at any cost」は、誇張されたネットミームのように見えて、実はかなり本音に近い。 政治の文脈ではなく、文化の受容のされ方において、「こちらのものを、こんなふうに好いてくれるのか」という感動がある。 人は自分を批評されるより、自分の好きだったものを愛してもらえた時のほうが、ずっと深く心を開く。 一方で、コメントの中には「アメリカのKFCはもうそんなに良くない」「日本のほうがうまそう」という自虐も混じっている。 ここも重要だ。 いま起きているのは単なる日米友好ではなく、アメリカ側の自己認識の揺れでもある。 自国のチェーンより海外店舗のほうが美しく見える。自国の雑さや劣化を、日本の几帳面さが“補完”してしまう。 すると日本は、アメリカ文化の消費者ではなく、ある種の保存修復者のように見えてくる。 この構図は、じつはかなり日本的でもある。 日本は昔から、外来文化をそのままコピーするのではなく、一度受け止めて、再配置して、磨き上げて、別の完成度にして返すことがある。 洋食も、ジーンズも、ジャズも、喫茶店文化もそうだった。今回のKFCも同じで、日本はアメリカを崇拝しているわけではない。 ただ、自分たちなりの秩序と美意識の中に置き直している。その結果、アメリカ人が見ても「あれ、こっちの本家より愛されてないか?」となる。 ここでさらに興味深いのは、この現象が政治を通らずに起きていることだ。 国家間では意見が割れる。歴史認識でも、安全保障でも、経済でも、人はすぐ身構える。 けれどKFCのチキンひとつで、「日本人最高」「移住したい」「このミーム好き」「友達になってる」と感情が溶ける。 もちろん全部が本気ではない。 でも、こういう軽い冗談の往復の中でしか育たない親しさもある。 SNSはしばしば憎悪を増幅するが、ときどきこうして好意の連鎖も爆発的に広げる。 そしてたぶん、この流れがここまで愛された理由は、日本がアメリカを論じたのではなく、食べたからだ。思想ではなく味覚で返し、批評ではなく生活で受け止めた。 だから相手も防御せずに笑える。 文化交流がうまくいくときは、たいてい正論の交換ではなく、こういう少し抜けた入口から始まる。家の近くのKFCを近所のアメリカと呼んでしまう、その雑でかわいい比喩の中に、外交官の文章よりもよほど健全な感情がある。 私が言いたいのは、これは単なるミームではないということだ。 アメリカ人は日本のKFCを見て笑っているのではない。 そこに、自分たちの文化がまだ誰かに愛され、しかも本国より丁寧に扱われている光景を見て、少し救われている。 国はときどき、自分の美点を自分の中では見失う。 でも他国の食卓の上に、それがちゃんと残っていることがある。 だからこれはチキンの話でありながら、どこかで「文化はまだ仲直りできる」という話でもある。

クレア|日常の違和感言語化係

2,683,064 görüntüleme • 5 ay önce