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本番では見ることのできない 稽古場の空気を少しだけ。 『#オールトの雲 ~天文台の大問題~』 メイキング映像をお届けします🎥 今回はキャスト陣による読み合わせの様子。 声が重なり合い、作品の形が見えてくるひとコマです。 公演チケットはこちらから↓

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『ちいかわ 人魚の島のひみつ』を観る前に、 一つだけ知っておいてほしいことがあります。 この物語は、「人魚」の話ではありません。 本当に描かれているのは、「誘惑」の怖さです。 長文です。読みづらい方は動画でどうぞ。 もちろん、人魚は登場する。 だが、この作品の芯はそこではない。 『ちいかわ』は、一見するとかわいい日常漫画に見える。 しかし実際は、討伐へ行き、草むしり検定を受け、働いて報酬をもらって生活する。 「生きること」を、意外なほど現実的に描いた作品である。 だからこの世界では、「頑張ること」が当たり前になっている。 そこに現れるのが、人魚の島だ。 カンタンな討伐で高い報酬がもらえる。 島限定のスイーツが、実質無料になる。 甘い言葉に釣られて、ちいかわたちは船に乗り込む。 ここで大切なのは、「人魚が怖い」という見方ではない。 どうして、この島はこんなにも魅力的に見えるのか。 そこに注目してほしい。 きっと、映画の見え方が変わる。 そして、もう一つ。 ぜひ注目してほしいのが、登場人物ごとの反応の違いである。 ちいかわは、とても優しいけれど臆病だ。 ハチワレは、状況を理解しようと考え続ける。 うさぎは、誰よりも自由で、予測できない行動を取る。 同じ出来事に直面しても、それぞれ全く違う反応を見せる。 だからこそ、『ちいかわ』は面白い。 さらに、この物語では「かわいい」と「怖い」のバランスにも注目してほしい。 ナガノ作品は、このギャップが最大の魅力である。 かわいい絵柄だから安心できる。 そう思った瞬間に、不穏な空気が忍び寄ってくる。 その空気の変化を味わうことこそ、この作品の醍醐味だ。 そして最後に、一番知っておいてほしいことがある。 この映画は、「何が起きるのか」を楽しむ作品でもある。 だがそれ以上に、 「登場人物たちが、その出来事をどう受け止めるのか」を楽しむ作品である。 誰が勇気を出すのか。 誰が迷うのか。 誰が仲間を信じるのか。 そこを意識して観ると、『人魚の島のひみつ』は、 ただのかわいいアニメ映画ではなく、 友情や成長を描いた物語として、より深く楽しめるはずである。 原作を読める人は、単行本8巻のセイレーン編を読んでから映画館へ。 初めて観る人は、「誘惑」と「登場人物たちの選択」に注目してほしい。 きっと、映画がもっと面白くなる。 あなたが『人魚の島のひみつ』で、一番楽しみにしていることは何ですか。 ぜひコメントで教えてください。

榊󠄀原清一 / 人財版 令和の虎 主宰

83,064 просмотров • 29 дней назад

メイキング的なものです🥹 アニメらしい動きに見えるミソは、 ⑤のコマ抜きとタイミング調整かと思います。 ④と⑤の比較を見ていただけるとなんとなく共感いただけるでしょうか? 中途半端なポーズを抜いて、できるだけ良いポーズ、かっこよいポーズを、2コマや3コマで見せることで、その絵を印象付けることが出来ます。また、タメや跳躍しているところなんかも3コマ。早い動きは、1コマ2コマを混ぜることで、動きのメリハリがつきます。 (リプ欄に、コマ送りver置いておきますので、もしご興味のある方は覗いてみてくださいませ) その後の⑥の残像処理(タッチ、オバケなど)は、⑤の結果、前後の絵が飛びすぎるところに入れています。ちょっとだけ入れるだけであら不思議、ちゃんと、つながって見えるんですよね~🥹 ちなみに、動きを、③のGrokの実写ベースにしたのは、その方が演技に説得力があったからです。Grokはアニメでも演技力高いと思いますが、デフォルメの強いアニメ系だとガチャが多かったので、実写スタートにしました。 ④のWanSCAILは、回転も拾ってくれるので良き。勝手に入れてくれるセカンダリー(揺れ等)も美しい。 ただ、顔が溶けるのでこの辺が課題ですね~🥺 最後の⑦はデフュージョンフィルタといって、アニメの「撮影」という工程でよく使われるものです。ちょっとリッチになります。AIの場合、動画化する前の元の絵から入れてしまうのが良いのですが、今回みたいにレタッチする場合は、後から入れないとちょっと大変かもです

ててつろう

246,856 просмотров • 7 месяцев назад

昨日と一昨日、僕の地元である兵庫県川西市で、『映画 えんとつ町のプペル ~約束の時計台~』の上映イベントをおこないました。 2日間の観客動員は、2420名。 (※チケット売り上げ、グッズ売り上げなどの細かい数字に関しては今日のサロン記事で全て共有させていただきますので、そちらでご確認ください) 今回、会場にはたくさんの子供たちが集まり、ロビーは縁日のような盛り上がりを見せ、映画を観に来たというより、お祭りに遊びに来たような空気があり、「熱狂」があり、それは僕らエンタメ屋がもっとも見たい景色でした。 ただ、最初からこの景色を目指していたわけはなくて、これは「プランB」なんです。 そもそも僕たちが上映イベントを始めたのは、映画公開時の初動が苦戦したことがキッカケで、「どうすれば、この作品を一人でも多くの方に観てもらえるんだろう?」という想いからでした。 4年半かけて作った作品が思うようなスタートを切れなくて、 申し訳ない気持ちになりましたし、みっともない気持ちにもなりましたし、 何より、悔しかったな。 映画業界には、「映画は公開から3日の結果がすべて」という定説があります。 初動が悪ければ、上映館数や上映回数が減り、そのまま興行が終わっていく…というアレです。 ただ、『映画 えんとつ町のプペル ~約束の時計台~』に関しては、評価と数字が合ってなくて、僕自身、この作品がこんなところで力尽きるとは到底思えなかったし、こんなところで終わりにしたくなかったんですね。 というわけで、「3日間で結果が出なければ終わり」ではなくて、その後からでも人を集めることができないのか考えてみることにしたわけです。 まず最初にやったのは「数字を盛ってよく見せようとするのではなくて、現状を正直に共有すること。 そして、それによって『応援シロ』を作ること。 「知られたくない結果」ほど皆は知りたいわけで、ここを見せないと何も始まらないので、「お恥ずかしい話ですが、今はココです」と現在地を正直に共有し、そこから、逆転の策を練りました。 その後に僕が提案したのは「長期決戦」でした。 「映画を10年間上映し続ける為には、何をして、何したらダメなのだろう?」と考えてみることに。 映画館に来てもらうだけではなく、映画そのものを「イベント」にして、人が集まる理由をつくることはできないのか?という試行錯誤の先に、今回の川西での上映イベントがあったわけです。 なので、初動が順調だったら、 何も問題が起きずに映画がヒットしていたら、 僕は、この2日間の景色を見ることができなかった。 第一希望(プランA)が必ずしも一番良い未来とは限らないなぁと昨日あらためて思いました。 そして、もう一つ思ったことがあります。 それは、「この景色を最優先する」ということ。 経営者なので、当然、収支は見ます。 事業として成立しているか。 キャッシュフローは大丈夫か。 投資したものをどう回収していくか。 それは、絶対に無視できません。 ですが、僕は経営者の前に一人のエンタメ屋です。 エンターテインメントには、目の前で人が笑い、子供たちが走り回り、町全体が少しだけ浮き足立っているような景色があって、それらには数字では測れない価値がある。 僕たちはこの価値を後回しにする会社であってはいけない。 今回の川西で、そのことを改めて教えてもらいました。 人生は、思い通りにいかないことだらけです。 経営も、思い通りにいかないことだらけです。 繰り返しますが、4年半かけて作った作品の初動が伸びなかった時、本当に苦しかったし、申し訳なかったし、みっともなかったし、悔しかった。 だけど、あの苦戦があったから、僕たちは「ならば、こっちでどうだ?」を考え、その結果、僕の地元・川西で2400人以上の人たちと一緒に、宝物のような景色を見ることができました。 ここから『映画 えんとつ町のプペル 〜約束の時計台〜』の上映イベントを各地で展開していきます。 皆様の街でもやらせていただきますので、是非、お越しください。 あらためて。 あの時は「失敗」だと思っていたものが、時間が経ってみると、僕たちを別の場所へ連れていってくれる大きなギフトでした。 だから、うまくいかないことを、すぐに「失敗」と決めつけないようにしたいと思います。 その出来事が、自分を連れていくのかは、その時点では分からないのだから。

西野亮廣(キングコング)

66,528 просмотров • 12 дней назад

仙台育英はなぜ円陣を組まず、グラウンドを見ていたのか? 試合前の甲子園。花咲徳栄が円陣を組んでいる一方で、仙台育英の選手たちはグラウンドを向いて座り、後ろから須江監督が話をしていました。 この違いは脳科学的に見ると非常に面白いです。 もちろん、仙台育英が脳科学を意識してこの形を取っているのかは分かりません。ただ、試合直前の脳の状態を考えると、グラウンドを見ながら話を聞くことには一つのメリットがあります。 それが「予測」です。 脳は、目の前で起きた出来事を見てから動いているわけではありません。視覚から入ってくる情報と過去の経験を照らし合わせながら、少し先に起こることを予測しています。野球で打球に反応できるのも、ボールが飛んできてからすべてを計算しているのではなく、投球やスイング、打球の初期情報からその先を予測しているからです。 その予測を作る材料になるのが、試合前に入ってくる視覚情報です。 特に甲子園のような普段とは違う球場では、いつものグラウンドとは奥行きも景色も違います。選手がグラウンドを見続けていれば、その空間情報が試合開始前から脳へ入り続けることになります。 ここで円陣との違いが出てきます。 円陣を組むと選手の視線は自然と内側へ向きます。仲間の表情や声が強く入ってくるので、チームとして感情を高めるには非常に優れた方法です。 一方、仙台育英の形では、監督が後ろにいるため選手はグラウンドから目を切る必要がありません。耳から須江監督の言葉が入りながら、目にはこれから自分たちがプレーする空間が入り続ける。 この状態なら、監督の話を単なる言葉として聞くだけではなく、目の前の試合環境と結びつけながら処理できる可能性があります。 さらに試合前は、気持ちを高めれば高めるほど良いとも限りません。 過度に興奮すると交感神経系の活動が高まり、注意の範囲が狭くなったり、動作に余計な力が入りやすくなったりします。特に甲子園という舞台では、何もしなくても選手の覚醒水準は上がりやすい。 だからこそ、さらに気持ちを上げるより、目の前の環境を静かに取り込みながら試合に入る方法も合理的です。 この場面で仙台育英がやっていることを脳科学的に表現するなら、気持ちを試合に向けるというより、脳の予測を先に甲子園へ合わせていると考えると分かりやすいでしょう。 試合開始前の数分間。 実はこの時間から、脳の中ではすでに試合が始まっています。

鈴木一登/スポーツ鍼灸

1,100,831 просмотров • 10 дней назад

『映画ちいかわ 人魚の島のひみつ』は、原作を超えたのか。 結論から言う。 超えた部分もある。だが、原作にしかない怖さも失われた。 長文です。動画も作りました。 映画化としては、かなり成功している。 しかし、すべてが原作以上になったわけではない。 まず、映画が原作を超えたと感じた点を三つ挙げる。 一つ目は、音である。 漫画では、セイレーンの歌声も、波の音も、攻撃の衝撃も、読者が頭の中で想像する。 だが映画では、それらが具体的な音として押し寄せてくる。 特に、かわいらしい画面と、重く響く音の落差がすごい。 人魚をめぐる真相も、漫画ではコマと擬音によって距離を保てたが、 映画では音が付くことで、行為の暴力性が一気に現実へ近づく。 二つ目は、時間である。 漫画は自分の速度で読める。 怖い場面で止まることも、前のページへ戻ることもできる。 一方、映画は観客を決められた速度で物語の先へ運ぶ。 島へ着いた直後の楽しさ。 島民たちとの交流。 セイレーンの出現。 そして真相。 楽しい時間が少しずつ壊れていく流れを、観客は止められない。 この逃げられなさは、映画だからこそ成立した恐怖である。 三つ目は、登場人物の感情である。 ちいかわが怯える呼吸。 ハチワレが状況を理解しようとする声。 ラッコが危険を前にして見せる緊張。 うさぎの予測不能な動き。 漫画では小さな表情の変化として描かれていたものが、 声と動きによって立体的になっている。 特にヒトハとフタバは、真相を知ってから見返すと、 沈黙や視線の一つ一つが別の意味に見える。 これは映像化の大きな成功である。 では、原作の方が優れている部分は何か。 一番は、余白である。 漫画では、残酷な行為そのものをすべて説明しない。 コマとコマの間に、読者が想像する空間がある。 何が起きたのか。 どんな気持ちだったのか。 この先、二人はどうなるのか。 答えを与えすぎないからこそ、読後に不安が残る。 映画は音と動きで情報が増えた分、原作の曖昧さが少し減っている。 もう一つの弱点は、映画として観ると、 中盤の反復が長く感じられる可能性があることだ。 島での楽しい時間と、セイレーンによる被害を丁寧に積み上げる構成は、 原作ファンにはうれしい。 しかし、初めて触れる観客には、 物語の本当の焦点が見えるまで時間がかかるかもしれない。 そして最大の問題は、映像が豪華になることで、 残酷な物語まで娯楽として気持ちよく消費できてしまうことである。 アクションの迫力。 歌の魅力。 かわいい登場人物。 それらが強いほど、本作が描く罪や責任が薄く見える危険もある。 それでも私は、この映画化を高く評価する。 理由は、原作を分かりやすい子ども向け作品に変更せず、 ナガノ作品の不穏さを残したからである。 原作を超えたかどうかを、勝ち負けで決める必要はない。 漫画は、余白で怖がらせる。 映画は、音と時間で逃げ場を奪う。 同じ物語を、異なる方法で怖くした。 映画を観た人は、ぜひ原作も読んでほしい。 映画で具体化されたものと、漫画で最後まで曖昧なまま残されたもの。 その違いを比べたとき、 『人魚の島のひみつ』という物語の異常な完成度が、さらに見えてくるはずである。 あなたは、映画と原作、どちらが怖かったですか。 コメントで教えてください。

榊󠄀原清一 / 人財版 令和の虎 主宰

43,257 просмотров • 13 дней назад

「ルーズパスとアンダーレッグのコンビネーション」 私にとって、グラップリングは柔術と同じものではありません。柔術はグラップリングの一部にすぎず、グラップリングとはすべての組み技格闘技を含む、もっと大きな概念です。 また、トップとボトムが中立なポジションだとは思いません。自然界の視点から見れば、トップにいることが優位です。(宇宙空間で戦うのでなければ) トップポジションを取って維持すること、そしてそこに戻る方法を見つけることには本物の技術があります。そのヒエラルキーとサブミッションが組み合わさることで、グラップリングは強力でリアルなものになるのです。 現代の競技で問題だと思うのは、試合の80%がガード vs パスになっていることです。ルールによっては、ボトムの選手はそこに留まっていてもほとんど罰せられず、顔やお腹にパンチできる状況でない限り、試合の流れを支配してしまうのです。 しかし技術的な観点から言えば、アウトサイドパスとアンダーレッグスパスを組み合わせることは、オープンガードに留まるだけのボトムプレイヤーを「懲らしめる」最高の方法のひとつなのです。

イワモッティ(Kenta Iwamoto)

54,706 просмотров • 11 месяцев назад

FF5のガラフ対エクスデスを見ると、正直、今見ると胸が痛い。なぜなら、あの場面には、今の私たちが失いかけているものが、あまりにも綺麗に残っているからだ。映像の豪華さではない。声優の熱演でもない。あの場面の本質は、ゲームシステムと物語が、同じ一点で爆発していることにある。普通、RPGにおいてHPが0になればキャラクターは倒れる。 それはプレイヤーが何十時間もかけて身体に覚え込ませたルールである。 回復しなければ死ぬ。 戦闘不能になれば動けない。 その当たり前を、ガラフは破る。 HPが尽きても立つ。 攻撃されても倒れない。 メテオを撃たれても、フレアに焼かれても、氷に貫かれても、自分が信じていたゲームのルールが、ガラフの意志によって押し返されるのを見ている。 だから感動する。 ここを、今の私たちはよく間違える。感動的な場面を作ろうとすると、つい演出を盛る。声を震わせる。カメラを寄せる。音楽を大きくする。もちろん、それは現代の技術として正しい。プレイヤーに伝えるための手段として必要なこともある。 ガラフの最期は、その逆である。物語が戦闘の中にある。戦闘が物語の証明になっている。HP0というシステム上の死が、キャラクターの意志によって意味を変える。だから、あの小さなドット絵の老人は、現代の美麗なムービーよりも美しい。 ドット絵の制約。 容量の制約。 短い台詞。 プレイヤーの想像力に委ねる余白。 それらが奇跡的に噛み合っていた。 しかし、それだけではない。 あの場面は、ゲームという媒体の本質を理解していた。ゲームは、ただ物語を見せるものではない。プレイヤーがルールを理解し、そのルールの中で行動し、そのルールに慣れたところで、物語がそのルールを揺さぶる。その時、ゲームにしかできない感動が生まれる。 ここを忘れると、映画の劣化版になる。 綺麗な映像。豪華な音楽。重厚な台詞。しかし、プレイヤーはただ見ているだけでは意味がない。 ガラフの場面は、ゲームでしか成立しない。小説なら「死んでもなお立ち上がった」と書ける。だが、HP0なのに倒れない、という感動はゲームにしかない。 プレイヤーがゲームのルールを知っているからこそ成立する。これは、私たちが本来もっと大切にしなければならない財産である。 今のスクエニが、これの再現に必要なのは、現代のゲームにおける「HP0でも立つ」に相当するものを見つけることだ。 たとえば、プレイヤーがずっと信じてきた成長システム。長く使ってきたコマンド、当たり前に開いていたメニュー、守ってきた仲間のAI、セーブやロード、ジョブ、装備、マップ、召喚、パーティ編成。 そういうゲームとしての常識を、物語のある一点で変質させ、キャラクターの覚悟によって、システムの意味が変わる。プレイヤーの操作が、ただの操作ではなく、物語の選択になる。 そこまで設計できれば、今でも名場面は生まれる。 しかし、それは会議で説明しにくい。 「ここでUIの挙動を変えます」 「ここで戦闘不能のルールを一度だけ破ります」 「ここでプレイヤーの常識を裏切ります」 こういう企画は、リスクがある。現代の大規模開発では避けられやすい。けれど、そこを避け続けると、名場面は生まれない。 プレイヤーが信じてきたルールの中で、キャラクターの覚悟を体験させなければならない。 ガラフは「私は命をかけて守る」と長々語ったから感動したのではない。 本当に、命を超えて立ったから感動した。 しかもそれを、戦闘というプレイヤーが最も理解している場所で見せた。 今のスクエニがもう一度こういう場面を作るには、過去作の名場面を綺麗に再現するだけでは駄目だ。 FF5をリメイクして、ガラフのシーンを豪華なムービーにすることはできる。 だが、それだけでは足りない。 本当にやるべきは、現代のプレイヤーが慣れ切ったゲームの文法を、一度だけ感情のために壊すことだ。 システム担当とシナリオ担当が、同じ心臓で設計すること。 バトルと物語を分けないこと。 UIと感情を分けないこと。 演出と操作を分けないこと。 プレイヤーが手を動かした記憶の中に、キャラクターの死や覚悟を刻むこと。 それができた時、初めて「今のスクエニにも名場面は作れる」と言える。 ガラフの最期は、古い名場面ではない。 未来への宿題である。私たちは、あの小さなドット絵の老人に、いまだに問い詰められている。 お前たちは、映像を綺麗にすることばかり考えていないか。物語をムービーに逃がしていないか。ゲームのルールそのものを感動に変える勇気を、まだ持っているか。 エクスデスは叫んだ。 「なぜ死なん」 だが本当に問われているのは、今の私たちの方である。 なぜ、あのような場面をもう一度作れないのか。 答えは、技術が足りないからではない。勇気の置き場所を、少し忘れているからである。

クレア

452,340 просмотров • 2 месяцев назад

このアニメ化は、現時点では肯定できません。 『みいちゃんと山田さん』が、2027年にアニメ化されます。 ただし、「題材が重いからアニメにするな」と言いたいわけではありません。 動画も作成しましたので、テキスト・動画お好みでご覧ください。 むしろ、貧困や搾取、社会からこぼれ落ちてしまう人を描く作品は必要である。 では、なぜ漫画として読んできた私が、アニメ化には強い不安を覚えるのか。 今回は、そこを本気で考える。 『みいちゃんと山田さん』の舞台は、2012年の新宿。 夜の街でキャバクラ嬢として働く山田さんが、 何をやっても少しうまくできない新人・みいちゃんと出会う物語である。 みいちゃんは、漢字や空気を読むことが苦手で、周囲から馬鹿にされ、 「可哀想」という言葉で一方的に分類されていく。 そして、この作品が残酷なのは、 みいちゃんを苦しめる明確な悪役が一人いるわけではないことである。 本人の特性。家庭環境。教育。貧困。 夜の街の仕組み。 善意のように見える無理解。 それらが少しずつ重なり、みいちゃんを逃げ場のない場所へ追い込んでいく。 つまり本作が描いているのは、一人の悪人による悲劇ではない。 社会全体が、弱い立場の人を少しずつ消費していく構造である。 だから私は、この漫画を単なる「かわいそうな女の子の物語」として 読むべきではないと思っている。 むしろ問われているのは、みいちゃんではなく、彼女を見ている私たちである。 助けたいと言いながら、どこかで見下していないか。 事情を理解したつもりになって、「かわいそうな人」と勝手に決めつけていないか。 衝撃的な人生を、どこか娯楽として消費していないか。 『みいちゃんと山田さん』は、みいちゃんを描いた作品であると同時に、 彼女を見ている私たち自身を描いた作品でもある。 漫画として高く評価されている理由も、そこにあると思っている。 ここで必ず出てくるのが、「漫画ならよくて、アニメはダメなのか」という意見だ。 私は、この疑問はもっともだと思う。 そして結論から言えば、漫画にも同じ危うさはある。 漫画だから安全ということではない。 実際、この作品を「かわいそうな女の子の漫画」とだけ受け取る人もいるし、 刺激的な場面だけを切り抜いて消費する人もいる。 だから、「漫画だから許される」という話ではない。 ただ、それでも私は、アニメになると問題の質が変わると思っている。 その理由は、漫画とアニメでは、受け手と作品との距離が違うからである。 漫画は、自分の意思でページをめくる。 読む速度も、自分で決められる。 苦しくなれば、本を閉じることもできる。 つまり読者は、作品との距離を自分で調整できるメディアである。 一方、アニメは違う。 映像が動く。声が付く。音楽が流れる。 沈黙にも演出が加わる。 つまり、制作側の解釈が、視聴者へより直接的に伝わるメディアである。 この違いは、とても大きい。 そして、この作品で最も難しいのが、みいちゃんという存在である。 例えば、みいちゃんの話し方一つとってもそうだ。 少し幼く演じれば、「現実の人を誇張している」と受け取る人がいるかもしれない。 逆に演技を抑えすぎれば、「原作が持つ危うさが伝わらない」と感じる人もいるだろう。 どちらを選んでも、現実に生きている誰かと重なってしまう可能性がある。 だから私は、「声優が大変」というよりも、 「脚本・演出・音響・監修を含めた制作全体が、 とてつもない責任を背負う作品」だと思っている。 そして、私が一番危惧していることがある。 それは、みいちゃんが、もう一度消費されてしまうことである。 本来、この作品が描いているのは、 社会が弱い立場の人を少しずつ消費してしまう構造だった。 なのにアニメ化された瞬間、 「問題作」「放送できるのか」「ヤバい」といった 刺激的な話題ばかりが広がってしまえば、 それは私たち自身が、みいちゃんを見世物として消費していることになる。 私は、それが一番悲しい。 もちろん、アニメ化には大きな意義もある。 漫画を読まない人にも、この社会の現実を届けられる。 「本人の努力不足」で片づけられがちな問題を、 社会全体の問題として考えるきっかけになるかもしれない。 だから私は、「アニメ化するべきではない」と言いたいわけではない。 むしろ、この難しい題材だからこそ、成功すれば、 とてつもなく価値のある作品になると思っている。 実際、製作委員会も、寄せられた意見や懸念を真摯に受け止めた上で、 専門家の助言を得ながら、適切なレーティングや注意喚起を設け、 慎重に制作を進めると発表している。 この声明が出たこと自体、これが普通のアニメ化ではないことを物語っている。 だから私は、現時点では手放しで「アニメ化おめでとう」とは言えない。 『みいちゃんと山田さん』のアニメ化は、 社会から見えにくい人を照らす作品になるのか。 それとも、その人たちを再び消費する作品になってしまうのか。 私は、その危うい境界線に立っている作品だと思っている。 あなたは、『みいちゃんと山田さん』のアニメ化について、どう考えますか。 ぜひコメントで教えてください。

榊󠄀原清一 / 人財版 令和の虎 主宰

279,451 просмотров • 3 дней назад