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次回の #ETV特集 「のびのびと 思いのままに -子どもたちが描いた100年-」 昭和3年創設の八幡学園。画家・山下清や同時代を生きた子どもたちは、ここで「美術」に出会い、専門家も驚く多彩な作品を残した。可能性はいかに育まれたのかー 7日(土)夜11時 #Eテレ

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ロードキルで保護したタヌキ、ポンちゃん。 あの黒い分泌物を見た時、違和感が残りました。 ただの出血ではない。体の内側で、何かが進んでいる色でした。 呼吸は落ち着く時間と荒れる時間の差が大きく、左後肢もほとんど使えない。 それでも食べて、排泄の時には一瞬だけ体を起こす。そういう状態が続いていました。 体を起こしたあと、ゆっくりと力が抜けていく。その重さが手に残る。 数日前から、乳首の張りや体の反応にわずかな変化がありました。 確証はないまま、頭のどこかに引っかかっていました。 そして昨日。 呼吸が一段階変わり、落ち着きなく体勢を変える時間が増え、 小さな鳴き声とともに、陣痛が始まりました。 1頭目は、生きて産まれてきましたが、十分に力みきれず、まもなく息を引き取りました。 手の中に残る体温が、少しずつ静かに落ちていくのを感じました。 処置の間にも呼吸は上下し、体力の消耗が目に見えて進んでいく。 間を置かずに再び腹圧がかかり、2頭目は胎膜に包まれたままの未熟な状態で出てきました。 数日前から続いていた黒い分泌物。 あれはすでに、いくつかの命が先に失われていた痕跡だったのかもしれません。 呼吸、出血、分娩、体力の消耗。 ひとつひとつを見ながら、その都度判断を重ねていく。 救えたかもしれない命と、最初から間に合っていなかった命。 そのどちらも、この子の中にありました。 それでも、この子は、まだ生きています。 ここまで見てきて、救えなかったものの重さも、正直に残っています。 この子が、守ろうとしていたもの。 この子が、残そうとしていたもの。 それが何だったのかは、もう確かめることはできません。 ただ、その先に繋がるはずだった時間だけが、ここで静かに途切れている。 それでも。 この子の中で確かに始まっていたものを、なかったことにはしたくない。 だからこそ、この子だけは、なんとか繋ぎ止めたいと思っています。

SCIENCE FACTORY ltd.

56,406 views • 5 months ago

#夜の街から 日本軍が虐殺と集団レイプを行った「バハイ•ナ•プラ」(赤い家)で。 1944年11月23日、フィリピンのルソン島中部のパンパンガ州、カンパダ村のマパニケでは、夜明けから日本軍による襲撃がありました。抗日ゲリラを囲っている、住民のなかにゲリラがいるという嘘の口実での襲撃でした。 当時マパニケの人口は約1000人で、200~250世帯が暮らしていました。 村の男性たちは集められ、残虐な方法で殺され、自身の皮をはいで食べさせられたり、生きたまま火をつけられました。 村の住宅から日本軍が宝石や衣類やお金など高価なものや欲しいものをなんでも奪った後、すべての家を焼き尽くしました。 子どもや女性たちは、日本軍が奪ったものを運ぶように命令されて、数キロ離れた「バハイ•ナ•プラ」(赤い家)まで連れてこられ、少女と女性たちは10歳ほどの子も含めてレイプされました。 被害者の女性は1996年に52年の沈黙を破って被害を名乗り出ましたが、日本政府は謝罪や補償をしていません。 今も、村には当時被害にあった女性が90歳近い年齢でご存命です。 この家を管理している男性は、「私たちの村で日本軍がしたことを日本人に知ってもらいたい」と話していました。 この建物は、日本軍による集団レイプや虐殺があった日から82年以上そのままになっており、フィリピン政府は保存を希望していますが、土地が売られてしまっているため保存が難しく、朽ちて危険があるため来年には取り壊しになるかもしれないとのことです。 「バハイ•ナ•プラ」(赤い家)で起こしたことを反省しないままでは、日本社会で性暴力や性搾取をなくすことはできません。 もしもこの建物がなくなっても、私たちが記憶し、加害を反省し、語り継いでいかなければなりません。

仁藤夢乃 Yumeno Nito

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