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チェス盤上でショットガンをぶっ放す戦略ローグライクゲーム『Shotgun King』Steamにて30%オフの980円に こちらは孤立無援だが、敵のキングさえ倒せば勝利となる。ショットガンの弾には限りがあるので、チェスの移動ルールに従いつつチェックメイトされないように立ち回ろう

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𝐓𝐖𝐎 𝐌𝐄𝐑𝐈𝐀𝐍𝐒™'s profile picture
𝐓𝐖𝐎 𝐌𝐄𝐑𝐈𝐀𝐍𝐒™1 year ago

こちらは孤立無援だが、敵のキングさえ倒せば勝利となる。ショットガンの弾には限りがあるので、チェスの移動ルールに従いつつチェックメイトされないように立ち回ろう

ヒロぽん🍭🚀❤️‍🔥's profile picture
ヒロぽん🍭🚀❤️‍🔥1 year ago

日本語はあるのかな…

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2026年6月25日(日本時間)ドジャース対ツインズ 【実況】 (3回) 【解説】 (捕手のラッシングについて) ダルトン・ラッシングという男をここまで引き上げてきたのは、彼の持つあの「熱さ」であり、感情を前面に出すプレースタイルです。 しかし、何事もそうですが、「そこへ到達するまでに役立ったもの」が、「その先でも常に役に立つ」とは限りません。 湖の向こう岸へ渡るために使ったボートも、陸に上がってさらに旅を続ける時には、もう役に立たないどころかただの重荷になってしまう。 今、ドジャースは彼がその熱量や感情をコントロールし、空回りさせずに正しい方向へぶつけられるよう、必死にサポートしているところです。 ただ、いざ勝負のグラウンドに出てしまえば、感情が高ぶるのも無理はありません。 大きなプレッシャーがかかる中で、ドルトンはまだ自分のスタイルを模索し、自分の実力を証明しようともがいている段階です。 特に「ショウヘイのためにいいリードをしたい」という強い思いもあるでしょう。 こればかりは外から「こうすべきだ」「こういうリアクションをすべきだ」と言うのは簡単ですが、実際にあのポジションに立ってみなければ分からない経験というものがあります。 みんなそれぞれ違いますし、彼はこのメジャーの舞台において、まだ本当に新人の立場ですからね。

Ozzy_Days

1,000,833 views • 1 month ago

“同じ地球に住んでるのに、見えてるお金の桁が別世界だった。” 苫米地さんの話でいちばんゾッとするのは、 「お金持ちの世界って、僕らが思ってるよりずっと遠い場所にある」とハッキリ言っているところです。 ふつうの人は、 お金持ちっていっても 「会社が大きい人」 「高い家に住んでる人」 くらいを想像しますよね。 でも苫米地さんの話では、その上にまだ別の階層がある。 しかもそこでは、個人でとんでもない額のお金を持っている人たちがいて、 そのお金を「どう使えば世界に影響を出せるか」を考えていると言うんです。 たとえるなら、 町内会の貯金箱の話をしていたら、 急に“国をいくつも動かせる財布”の話が始まる感じです。 同じ「お金」の話なのに、スケールが違いすぎる。 さらに苫米地さんは、日本は今かなり貧乏だとはっきり言っています。 ここでいう貧乏は、「今日のごはんがない」という意味だけではありません。 国として余裕がなくて、だから税金を強く取ろうとしたり、国民の負担がどんどん重くなったりしている、という話です。 つまり、 見えにくいけれど、 国の体力そのものが落ちている、ということです。 これも中学生向けに言うと、 クラスで見た目は普通にしてるのに、 実は財布の中がずっとカツカツで、何かあるたびにみんなから細かく集金しないと回らない状態に近いです。 しかも苫米地さんが怖いのは、日本の「ふつう」と、 世界の超富裕層の「ふつう」は、もう同じものさしでは測れないと言っているところです。 僕らは日本の中だけを見て「これが当たり前」と思いがちです。でもその外には、戦争や国の対立よりもっと高い場所で、お金も人脈も動かしている人たちがいる。 しかもその人たちは、国どうしがケンカしていても、その上から全体を見ていることがある。 ここがちょっと不気味です。 なぜなら、ニュースでは国と国がぶつかっているように見えるのに、もっと上では「両方とつながっている人たち」がいるかもしれないからです。 つまり苫米地さんの話は、ただの金持ち自慢ではありません。 本当に怖いのは、自分たちが見ている世界地図の上に、 さらに“見えない地図”がもう1枚あるかもしれない、 と感じさせるところです。 国のルール。 税金。 戦争。 社会貢献。 お金持ち。 これらがバラバラじゃなくて、実はもっと大きなひとつの盤面で動いているかもしれない。そう思うと、急に世の中の見え方が変わってきます。 苫米地さんの話をひとことで言うと、「日本の常識だけで世界を見ていると、本当の大きさを見失う」ということなのかもしれません。 あなたはこの話を聞いて、「そんな別世界が本当にある」と思いますか? それとも「話を盛っているだけ」に聞こえますか? 気になったら保存して、あとでもう一度ゆっくり読み返してください。 あなたの考えをコメントでぜひ聞かせてください。

角由紀子のヤバイ帝国

345,583 views • 3 months ago

親子と思われる彼女たちの態度は衝撃的でした。 彼女たちは私が転倒させられる前、さやの街宣が始まってすぐ、後ろの方から私の目の前に移動してきて立ちました。 私の顔の目の前にその女性の頭という位置になるようにしてきて、私が少しずれると彼女も私に合わせてずれてきました。 さやが「私たちの先人が残してくれた日本をわしたちの世代で終わらせてはいけないと心から思っております」と言ったので、 仁藤「だったら核兵器とかいうなよ!」と抗議すると 母親と思われる女性が「うるさいなお前は!」「うるせえな!」「街宣のじゃますんなうるせえな!」「街宣の邪魔は選挙違反だっつってんだよ!」と、私の前に立って言ってきました。 そして演説中のさやが、私に向かって「耳元で大きな声を出さないでください。聞いてくださっている方に迷惑ですから」という流れがありました。私の前にあえて入ってきたのは前に立ちふさがる女性たちなのに。 その後、私は彼女たちから離れましたが、彼女たちも移動して私のすぐ後ろにいたようです。 そして、男性が私に体当たりする様子をニヤけ顔で見ている様子が動画に映っていました。私が転倒して怪我をして立なくなり、警察を呼んでください!というとこの女性たちが近づいてきて、「あなたに私がぶつかられた。証拠もある。動画もあるからな!」と嘘を堂々と話しました。 動画を撮影していた男性が、「そんな事実はない」と動画を見せると静かに応じ、黙ったそうです。 しかし彼女たちはその後、私に対してこの動画のように笑いながら罵声を浴びせてきました。 男性に対しての振る舞いと私に対する態度が全く違うことから、女性が女性差別を内面化していることの深刻さを感じました。

仁藤夢乃 Yumeno Nito

937,880 views • 1 year ago

FF5のガラフ対エクスデスを見ると、正直、今見ると胸が痛い。なぜなら、あの場面には、今の私たちが失いかけているものが、あまりにも綺麗に残っているからだ。映像の豪華さではない。声優の熱演でもない。あの場面の本質は、ゲームシステムと物語が、同じ一点で爆発していることにある。普通、RPGにおいてHPが0になればキャラクターは倒れる。 それはプレイヤーが何十時間もかけて身体に覚え込ませたルールである。 回復しなければ死ぬ。 戦闘不能になれば動けない。 その当たり前を、ガラフは破る。 HPが尽きても立つ。 攻撃されても倒れない。 メテオを撃たれても、フレアに焼かれても、氷に貫かれても、自分が信じていたゲームのルールが、ガラフの意志によって押し返されるのを見ている。 だから感動する。 ここを、今の私たちはよく間違える。感動的な場面を作ろうとすると、つい演出を盛る。声を震わせる。カメラを寄せる。音楽を大きくする。もちろん、それは現代の技術として正しい。プレイヤーに伝えるための手段として必要なこともある。 ガラフの最期は、その逆である。物語が戦闘の中にある。戦闘が物語の証明になっている。HP0というシステム上の死が、キャラクターの意志によって意味を変える。だから、あの小さなドット絵の老人は、現代の美麗なムービーよりも美しい。 ドット絵の制約。 容量の制約。 短い台詞。 プレイヤーの想像力に委ねる余白。 それらが奇跡的に噛み合っていた。 しかし、それだけではない。 あの場面は、ゲームという媒体の本質を理解していた。ゲームは、ただ物語を見せるものではない。プレイヤーがルールを理解し、そのルールの中で行動し、そのルールに慣れたところで、物語がそのルールを揺さぶる。その時、ゲームにしかできない感動が生まれる。 ここを忘れると、映画の劣化版になる。 綺麗な映像。豪華な音楽。重厚な台詞。しかし、プレイヤーはただ見ているだけでは意味がない。 ガラフの場面は、ゲームでしか成立しない。小説なら「死んでもなお立ち上がった」と書ける。だが、HP0なのに倒れない、という感動はゲームにしかない。 プレイヤーがゲームのルールを知っているからこそ成立する。これは、私たちが本来もっと大切にしなければならない財産である。 今のスクエニが、これの再現に必要なのは、現代のゲームにおける「HP0でも立つ」に相当するものを見つけることだ。 たとえば、プレイヤーがずっと信じてきた成長システム。長く使ってきたコマンド、当たり前に開いていたメニュー、守ってきた仲間のAI、セーブやロード、ジョブ、装備、マップ、召喚、パーティ編成。 そういうゲームとしての常識を、物語のある一点で変質させ、キャラクターの覚悟によって、システムの意味が変わる。プレイヤーの操作が、ただの操作ではなく、物語の選択になる。 そこまで設計できれば、今でも名場面は生まれる。 しかし、それは会議で説明しにくい。 「ここでUIの挙動を変えます」 「ここで戦闘不能のルールを一度だけ破ります」 「ここでプレイヤーの常識を裏切ります」 こういう企画は、リスクがある。現代の大規模開発では避けられやすい。けれど、そこを避け続けると、名場面は生まれない。 プレイヤーが信じてきたルールの中で、キャラクターの覚悟を体験させなければならない。 ガラフは「私は命をかけて守る」と長々語ったから感動したのではない。 本当に、命を超えて立ったから感動した。 しかもそれを、戦闘というプレイヤーが最も理解している場所で見せた。 今のスクエニがもう一度こういう場面を作るには、過去作の名場面を綺麗に再現するだけでは駄目だ。 FF5をリメイクして、ガラフのシーンを豪華なムービーにすることはできる。 だが、それだけでは足りない。 本当にやるべきは、現代のプレイヤーが慣れ切ったゲームの文法を、一度だけ感情のために壊すことだ。 システム担当とシナリオ担当が、同じ心臓で設計すること。 バトルと物語を分けないこと。 UIと感情を分けないこと。 演出と操作を分けないこと。 プレイヤーが手を動かした記憶の中に、キャラクターの死や覚悟を刻むこと。 それができた時、初めて「今のスクエニにも名場面は作れる」と言える。 ガラフの最期は、古い名場面ではない。 未来への宿題である。私たちは、あの小さなドット絵の老人に、いまだに問い詰められている。 お前たちは、映像を綺麗にすることばかり考えていないか。物語をムービーに逃がしていないか。ゲームのルールそのものを感動に変える勇気を、まだ持っているか。 エクスデスは叫んだ。 「なぜ死なん」 だが本当に問われているのは、今の私たちの方である。 なぜ、あのような場面をもう一度作れないのか。 答えは、技術が足りないからではない。勇気の置き場所を、少し忘れているからである。

クレア

451,956 views • 1 month ago

人々はいつも、その時点でAIにできないことを取り上げて、それができれば知能が完成するのだと言いたがる。けれど、AlphaFoldの開発者が探そうとしているのは、むしろ逆だ。「AGIを待たずとも機械が圧勝できてしまう問題」であり、それを通じて人間社会に有用なシステムを量産していく道なのだ。 ジョン・ジャンパー「かつては『知能とはチェスを指すことだ』と言われていて、チェスが指せる機械をつくれれば、それで知能はほぼできあがるのだからチェスをやらせよう、と考えていた時代がありました。実際に、カスパロフとの対局があった1994年ごろには、チェスで人間を超えるレベルの機械を手に入れました。しかしそれは、読んだり書いたりできる機械へとつながる道筋ではありませんでした。 ですから私たちはいつも、ある問題を取り上げて『これこそが問題だ』と言いたがりますし、ときには『人類最後の試験』のような名前を楽観的につけてしまう。これさえ解ければ、もう機械に問題を出す意味はなくなるはずだ、と。しかし私が強く関心を持っているのは、ある意味ではとても『やさしい』問題——驚くほどうまく解けて、AGIをつくる前から非常に有用なシステムを構築できてしまうような問題——をどう見つけるかという点です。 そうしたタイプの科学的な問題に取り組みたいのです。そしてもちろん、AGIをつくろうとしている人たちと同じ系統の強力な技法を使いたい。しかし、哲学的な議論にとらわれる必要はありません。ただ有用なシステムをつくればいいのです。実際、いまの業界全体が考えているのは、ソフトウェア開発をする人にとって意味があり、文章を書く人にとっても意味があり、私たちが解ける問題の範囲そのものを広げてくれるような有用なシステムをどう作るかということだと思います。その結果としてAGIにたどり着くのかどうかは、いずれ分かるでしょう。でも、少なくとも有用なシステムには確実にたどり着きます」

Tsubame

17,968 views • 7 months ago

スタンドバイミー、これ英語のままでも胸に刺さるのに、字幕がそっと手を添える。「そばにいて欲しい」たったそれだけの一行が、胸の奥の、普段は鍵をかけてある引き出しを開けてしまうのよね。思い出は、たいてい音で戻ってくる。匂いでも戻るが、音はずるい。音は、時間を飛び越える。あの頃の自分の呼吸の速さ、汗の薄い塩味、夕方の影の伸び方まで一緒に連れてくる。映画の少年たちが歩いているだけなのに、こちらの心のほうが追いかけて走り出す。 この現象に理由は要らない。理由なんて、涙のあとから遅れてくる。TikTokのコメント欄には、同じ場所を押さえられた人たちの声が並ぶ。 子どもの頃の友達は宝石。 けれどいつか別れが来る。 もう二度とあの頃のような友人には出会えない。 涙が出る、なんでだ。 人が泣くのは、悲しいからだけじゃない。それは、もうあの頃に戻れないからだ。戻れない場所を、心が知ってしまったときに、涙は勝手に溢れてくる。 子どもの友情は、キャバクラやホスト、マッチングアプリのように金勘定ではない。結婚のような契約書もない。損得も、値札も、身長や年収とか、条件もついていない。 隣にいる理由は、ただ隣にいたいからだけで、世界はそれで成立していた。くだらないことで喧嘩し、翌日には何事もなかったように笑い、帰り道の石ころを蹴りながら、未来のことなど考えもしない。あの無駄の中に、人生の芯があった。それが友達じゃない? 大人になると、無駄を削る。 効率を磨く。正しさを整列させる。 その結果、生活は滑らかになっていくのに、心だけがざらついていく、、、 友だちに会うことは予定表の隙間に押し込まれ、会えないことに慣れる練習をしてしまう。 忙しさは、言い訳としては完璧だよ。 誰も責められない。 だからこそ、気づかないうちに一番大事なものが痩せていく、、、 そういう中、ニュースが重たい石を落とす。スタンド・バイ・ミーで知られる監督が、妻とともに自宅で亡くなっていたという。刺し傷があり、捜査は殺人事件として進められているという。 映画が映したのは少年たちの一度きりの夏で、現実は、救いのない形で幕を閉じるかもしれない。人生の皮肉は、いつも小説より露骨だよね。 こういうとき、人は意味を探す。 意味を付けて、納得して、箱にしまって、自分たちの生活に戻る。でも人生は、教訓のために起きているわけじゃない。 悲しみは、たいてい整理されることを拒む。 ただ重く、ただ冷たく、胸に居座る。 それでも、あの歌が流行る。 流行るという言葉では軽すぎるか。 必要になって、流れてくる。 「Stand by me」は、立派なことを言えという命令じゃない。 英雄になれという話でもない。 逃げないで隣にいろというだけのことだよ。 正論で殴らない。 説教で片づけない。 勝手に解決しない。 ただ、隣にいる。 その静かな不器用さが、人を生かす。 だから、涙が出る。 あの頃、隣にいた人の顔を、もうはっきり思い出せなくなっている自分に気づいて泣く。 同時に、思い出せないのに胸が温かくなることにも泣く。 人は、忘れる。けれど完全には失わない。 友情は、消えるというより、形を変える。握手の温度が、いつのまにか胸の奥の灯りになって、暗いところを照らす。 「もう二度とあの頃の友人には出会えない」 それは半分ほんとうで、半分うそだよ。 同じ形では来ない。 もう、あの夏は戻らない。 でも別の形で来る。 職場でも、近所でも、たまたま同じ夜を越えた人でもいい。 痛みを知った者同士は、黙って隣に座れることがある。 言葉がなくても、湯気の立つカップひとつで、心がほどける瞬間がある。 夜が来て、地面が暗くなり、月明かりだけが頼りだと思える日がある。 そんな日こそ、隣に一つだけ人の気配があることが、救いになる。 世界は大げさな奇跡で回っていない。小さなそばにいるが、何度も何度も積み重なって、ようやく朝になる。 泣いていい。泣いたあとで、誰かの隣に立てるなら、なおいい。それが、この歌の続きじゃないかな?

クレア

154,747 views • 7 months ago

鈴木農水相が、米価を洋服の価格を比べたことについて。他の国産品と同様に米も、生産者側の立場に立ったとき政治、行政側から適正な価格について言うはどうなのか、という趣旨だったと説明。他の国産品と同様に、主食である米の適正な価格について言わないというのは、国民の理解が得られるのだろうか ---文字起こし--- 2025/11/4 鈴「取材の中でですね、私が洋服のこととお米を比べたということの趣旨について申し上げます。これは何も別に、私は洋服ということだけを申し上げたのではなくて。 それぞれどんなものであったとしても、国内でですね、生産ということに携わっている皆さんが当然いて、今国産のものであれば国産の、働いてくださる皆さんがいて、私たちが購入することができるということかなというふうに考えております。これはお米についても全くその通りであります。 そういう中で、いくらいくらが適正みたいな話をですね、政治の側、もしくは行政の側が申し上げるというのは、やはり生産者側の立場に立ったときに、果たしてそれはどうなんだろうかというような気持ちでですね、私自身その説明をさせていただいたつもりです。 もちろん様々な皆さんからご指摘の通り、米は主食でありますし、主要食糧の法律があるものでありますから、政府の責任というのも、もちろんあるものであるということは十分理解をしています。その上で、我々は政策をやっていくというふうに思っております」

maku

27,221 views • 8 months ago

チェスAIの進歩はこうだった——最初は「人間+AI」が勝つ。次に、AIが十分に賢くなると、人間が混ざるほど弱くなる。最終的に、意思決定の最適解が「人間抜き」へ収束する。だから、現実の仕事で最後の状態になることを「超知能」の定義としよう。そのとき、社会の意思決定は不可逆に再配置される。 サム・アルトマン「AGIについては、私たちは定義をしなかったせいで外してしまいましたよね。いま皆が注目している新しい言葉は、超知能に到達するタイミングです。だから私の提案はこうです。AGIはある意味で通り過ぎていったことにして、世界をそこまで変えなかった、あるいは長期的には変えるのだろうけれど、とにかく『いつかはAGIを作った』ということにする。いまは曖昧な時期で、すでに達したと思う人もいれば、まだだと思う人もいて、これから達したと思う人が増えていく。そして『次は何だ?』となる。 そのうえで、超知能の候補となる定義はこうです。あるシステムが、AIの支援を受けた人間よりもなお上回って、米国大統領、巨大企業のCEO、あるいは非常に大規模な科学研究所の運営を、人間の誰よりもうまくこなせるようになったとき。以上です。 チェスで起きたことも興味深い例だと思います。チェスではAIが人間に勝てるようになりました。Deep Blueの件は私もはっきり覚えています。その後しばらくは、人間とAIが組むほうがAI単体より強かった時期がありました。でも最終的には、人間が介入することでむしろ悪くなってしまい、人間がその卓越した知性を理解できないまま口を出さない『人間抜きのAI』が最善、という状態になった。 超知能を考える枠組みとして、これは面白いと思います。まだずっと先の話だとは思いますが、今回はもっとすっきりした定義を持てたらいいですね」

Tsubame

158,213 views • 7 months ago