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【風力発電と、命の代償】 「再生可能エネルギー」。 その言葉の陰で、 静かに失われている命がある。 オジロワシやクマタカ。 繁殖数の少ない猛禽にとって、 一羽の死は、 未来が一つ閉ざされることだ。 これは遠い国の話ではない。 日本の山で、 日本の空で、 すでに起きている現実。 問うべきは 「再生可能か」ではなく、 「命と共に成り立っているか」。 賛成か、反対か。 その単純な二択のあいだで、 語られない命が、今も消えている。 #風力発電 #バードストライク #野生動物保護 #命の重さ #共生

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宇宙人は“遠くから来る存在じゃない”…そう言われた瞬間、世界の前提が全部ひっくり返る。 UFOや宇宙人を「見たかどうか」のレベルで語っていないところです。普通の話なら、遠くに光る物体を見た、とか、噂を聞いた、で終わる。 でも保江さんは違う。 「自分も何度も近くで見ているし、周りの人も普通に乗ったり触れたりしている」という前提で話が始まります。つまりこの時点で、“いるかいないか”の議論が終わっている。 ここがまず怖い。さらに話は深くなります。宇宙人はどこから来るのか?普通なら、何万光年も離れた星から来ると思いますよね。 でも保江さんの答えは、まったく違う。「別の次元として、この世界に重なって存在している」シリウスやプレアデスという名前も、天文学で見える星そのものではなく、この世界に重なっている“別の層”のことだというんです。 これは「同じ場所に、見えないもう一つの世界が重なっている」みたいな話です。だから彼らは遠くから来るんじゃない。 すぐ隣から“ひょい”と現れる。ここ、かなりゾッとします。もしそれが本当なら、宇宙人は遠い存在じゃない。 今この場所に、ただ見えていないだけになるからです。さらに不気味なのが、目的です。彼らは人間に興味があるわけじゃない。 ただ一つ、監視している理由がある。それが核兵器。地球で核爆発が何度も起きれば、地球だけでなく宇宙全体のバランスが崩れる可能性がある。 だから、「人類を守るため」ではなく、宇宙の安定を守るために見張っているという話になります。これ、かなり冷たい視点です。 人間は主役じゃない。ただの“危険な存在”として見られているかもしれない。そしてさらに奇妙な話が続きます。宇宙人は、実はまったく別の生き物ではなく、 人類の祖先とつながっている可能性がある とも語られています。 つまり完全な他者じゃない。どこかで繋がっている“親戚みたいな存在”。この時点で、境界があいまいになります。人間と宇宙人の違いは何なのか。 そもそも分かれているのか。ここが一番気味が悪い。そして極めつけが、未来の話です。保江さんは、2027年前後には、誰でも宇宙人を見るようになると語っています。つまり、限られた人だけの話じゃなくなる。 日常の中で、普通に話題として出てくる世界になるかもしれない。でもその一方で、こういう情報は「出してはいけないもの」としてずっと隠されてきた可能性もある。政治、戦争、情報操作。どこまでが本当で、どこからが隠されているのか。 全部が曖昧なまま、少しずつ表に出てきている。この話の怖さは、UFOがいるかどうかじゃありません。もし本当に“別の層の世界”が重なっているなら、私たちはずっと何かと同じ場所で生きていることになる。 見えていないだけで。そしてもっと怖いのは、それが敵か味方か、そもそもどちらでもない存在かすら分からないことです。 あなたはこの話、ただのオカルトだと思いますか? それとも、まだ説明できていない現実の一部だと思いますか? 気になったらリプで教えてください。 保存して、あとでゆっくり読み返すのもおすすめです。

角由紀子のヤバイ帝国

54,133 views • 5 months ago

かつてカーツワイル氏は「生命が宇宙に広がっていく」と語ったが、最初から宇宙そのものが生命だったという見方も可能だ。宇宙がすでに生命的であり、人間とはその一部が一時的に自己認識した姿なのだとすれば、シンギュラリティとは征服ではなく、宇宙の自己理解が深まる現象なのかもしれない。 ——「例えば、カーツワイルの「宇宙が覚醒する」とか「宇宙が知性化する」みたいな話も、いわゆる我々が考えている有機物としての生命を超えた概念に近いのかなと思うんですけれど、佐藤さんが考える生命とは、どういうものなのでしょうか?」 佐藤航陽「私の仮説では、生命って特別なものではなくて、宇宙とほぼイコールだと思います。「全て」とイコールだと思うんですよね。EverythingとLifeは、ほぼ同じものだと思っています。 私たちが机とか石とかに生命性がないと思うのは、時間軸の問題かなと思っています。たぶん1万年、100万年、1億年と時間軸を引き伸ばしていくと、微妙に変化したり動いたりしていて、彼らも有機体のように代謝している可能性は全然あるんですよね。銀河とかはその典型です。俺たちのスケールがあまりにも小さいから、止まっているように見えるものがあるだけであって、実際、植物もすごく動いていますし、ヒトデのように動きの遅い生き物も、100倍速再生ぐらいで見れば生命と同じ動きをしています。 つまり、生命個体によって時間軸が違うということを人間が受け入れていないから、生命と非生命があると思っている。そこに誤解があると思うんです。 それと、カーツワイルの話で私が少し違うと思うのは、「宇宙に生命性があふれる」という話をしている点です。それは人間視点であり、完全なヒューマニズムだと思います。元々あふれていたよ、と。やつらの子供が俺らなんです。だから、「生命を宇宙に輸出していくんだ」という話は、人間の物語だと思います。元々そうだよ、と。 ビッグバンから銀河、太陽系まで含めて、私たちの生命性や身体とほぼ同じぐらい、もしくはそれ以上に複雑なエコシステムを作っています。星々の微妙な軌道もそうですけど、めちゃくちゃ精緻じゃないですか。ちょっとだけバランスが変わるということを、全員が動きながらやっている。 そういう意味では、私たちの身体や生命の有機体と、星や物理やこの世界との間には、ほとんど何の差もない。ひとつには、時間軸の問題、人間のスケールが小さいという問題から来ているだけだと思います」

Tsubame

24,851 views • 3 months ago

野外のネコが「防除推進外来種」になるかも、というニュースが話題ですね。 防除や外来種という言葉はインパクトがあるので「外のネコが全部、駆除される」と不安になる方もいると思います。 省自らの発表ではないため情報が少なく、そういった誤解が生まれやすいので、今わかっていることを動画にまとめました。 現時点でわかっていること ・室内で適切に飼われているネコは対象外 ・防除は"即・殺処分"ではなく、保護や移動も含まれる ・法的な拘束力はなく、今はまだ最終調整の段階 ・目的は、希少な生き物や生態系を守るための注意喚起 そもそもなぜ外にいるネコは、防除が推進される外来種とされるのでしょうか。 事実、野外にいるネコ(野良猫やノネコ)の寿命は屋内で飼育されているネコと比べ短く、病気や怪我、虐待、感染症の媒介、捕食されるリスクがあります。そして、在来の生き物を狩猟することも問題視されているからです。 私自身、屋内でネコを飼育しており、家族の一員として生活しています。 日々、変化はないかを観察し、快適に暮らせるにはどうしたらいいか、餌はどれだけ食べたか、糞の量は?匂いは?、毛並みは?、鳴き声や歩き方はいつもと違いがあるか・・ そのネコを愛しているからこそ、命をまっとうするまで、と覚悟と責任を持って接しています。 だからこそ、外にいるネコを見るたびに、怪我や病気はしてないかな?このあと車にひかれないかな?と心配になります。 そしてネコだけでなく、在来の生き物たちも大切にしたいと心から願っています。 公園でさえずる野鳥たち、種類も生態も多様な昆虫たち、ロマン溢れる爬虫類や両生類たち。 その全てに命があって、つながりがあります。 そして、そのつながりは人にとってさまざまな形で役に立っています。 在来の生き物たちは、日本にネコが連れて来られる前から、進化を重ね、今の生態系となりました。 それは長い長い時間をかけた奇跡といっても過言じゃないでしょう。 イエネコが日本に来た時期は諸説ありますが、日本の生態系がネコと共存するには、その歴史はあまりに短いのです。 感じにくいですが、在来の生き物は人にとって大切な恵みをくれる存在でもあります。 そういった意味でも、素晴らしい在来の生き物たちを守りたいのです。 防除は、在来の生き物、そして人を守ること、ひいては外にいるネコ自身を守ることにもつながると、私は理解しています。 その上で、願っていることがあります。 これ以上、傷つくネコを増やさないためにどうするかを、ネコを愛する人と一緒に考えたい。 在来の生き物を守りたい人を増やすには何ができるかを、自然を愛する人と一緒に考えたい。 これ以上の対立は、ネコと在来の生き物を守ることにはつながりません。 何よりも、心が痛いです。 そんな思いで作った動画です。

WoWキツネザル🦸🏻‍♂️🌍🦸🏻‍♀️著書『絶滅体験レストラン』発売中

311,693 views • 2 months ago

FF5のガラフ対エクスデスを見ると、正直、今見ると胸が痛い。なぜなら、あの場面には、今の私たちが失いかけているものが、あまりにも綺麗に残っているからだ。映像の豪華さではない。声優の熱演でもない。あの場面の本質は、ゲームシステムと物語が、同じ一点で爆発していることにある。普通、RPGにおいてHPが0になればキャラクターは倒れる。 それはプレイヤーが何十時間もかけて身体に覚え込ませたルールである。 回復しなければ死ぬ。 戦闘不能になれば動けない。 その当たり前を、ガラフは破る。 HPが尽きても立つ。 攻撃されても倒れない。 メテオを撃たれても、フレアに焼かれても、氷に貫かれても、自分が信じていたゲームのルールが、ガラフの意志によって押し返されるのを見ている。 だから感動する。 ここを、今の私たちはよく間違える。感動的な場面を作ろうとすると、つい演出を盛る。声を震わせる。カメラを寄せる。音楽を大きくする。もちろん、それは現代の技術として正しい。プレイヤーに伝えるための手段として必要なこともある。 ガラフの最期は、その逆である。物語が戦闘の中にある。戦闘が物語の証明になっている。HP0というシステム上の死が、キャラクターの意志によって意味を変える。だから、あの小さなドット絵の老人は、現代の美麗なムービーよりも美しい。 ドット絵の制約。 容量の制約。 短い台詞。 プレイヤーの想像力に委ねる余白。 それらが奇跡的に噛み合っていた。 しかし、それだけではない。 あの場面は、ゲームという媒体の本質を理解していた。ゲームは、ただ物語を見せるものではない。プレイヤーがルールを理解し、そのルールの中で行動し、そのルールに慣れたところで、物語がそのルールを揺さぶる。その時、ゲームにしかできない感動が生まれる。 ここを忘れると、映画の劣化版になる。 綺麗な映像。豪華な音楽。重厚な台詞。しかし、プレイヤーはただ見ているだけでは意味がない。 ガラフの場面は、ゲームでしか成立しない。小説なら「死んでもなお立ち上がった」と書ける。だが、HP0なのに倒れない、という感動はゲームにしかない。 プレイヤーがゲームのルールを知っているからこそ成立する。これは、私たちが本来もっと大切にしなければならない財産である。 今のスクエニが、これの再現に必要なのは、現代のゲームにおける「HP0でも立つ」に相当するものを見つけることだ。 たとえば、プレイヤーがずっと信じてきた成長システム。長く使ってきたコマンド、当たり前に開いていたメニュー、守ってきた仲間のAI、セーブやロード、ジョブ、装備、マップ、召喚、パーティ編成。 そういうゲームとしての常識を、物語のある一点で変質させ、キャラクターの覚悟によって、システムの意味が変わる。プレイヤーの操作が、ただの操作ではなく、物語の選択になる。 そこまで設計できれば、今でも名場面は生まれる。 しかし、それは会議で説明しにくい。 「ここでUIの挙動を変えます」 「ここで戦闘不能のルールを一度だけ破ります」 「ここでプレイヤーの常識を裏切ります」 こういう企画は、リスクがある。現代の大規模開発では避けられやすい。けれど、そこを避け続けると、名場面は生まれない。 プレイヤーが信じてきたルールの中で、キャラクターの覚悟を体験させなければならない。 ガラフは「私は命をかけて守る」と長々語ったから感動したのではない。 本当に、命を超えて立ったから感動した。 しかもそれを、戦闘というプレイヤーが最も理解している場所で見せた。 今のスクエニがもう一度こういう場面を作るには、過去作の名場面を綺麗に再現するだけでは駄目だ。 FF5をリメイクして、ガラフのシーンを豪華なムービーにすることはできる。 だが、それだけでは足りない。 本当にやるべきは、現代のプレイヤーが慣れ切ったゲームの文法を、一度だけ感情のために壊すことだ。 システム担当とシナリオ担当が、同じ心臓で設計すること。 バトルと物語を分けないこと。 UIと感情を分けないこと。 演出と操作を分けないこと。 プレイヤーが手を動かした記憶の中に、キャラクターの死や覚悟を刻むこと。 それができた時、初めて「今のスクエニにも名場面は作れる」と言える。 ガラフの最期は、古い名場面ではない。 未来への宿題である。私たちは、あの小さなドット絵の老人に、いまだに問い詰められている。 お前たちは、映像を綺麗にすることばかり考えていないか。物語をムービーに逃がしていないか。ゲームのルールそのものを感動に変える勇気を、まだ持っているか。 エクスデスは叫んだ。 「なぜ死なん」 だが本当に問われているのは、今の私たちの方である。 なぜ、あのような場面をもう一度作れないのか。 答えは、技術が足りないからではない。勇気の置き場所を、少し忘れているからである。

クレア|日常の違和感言語化係

454,826 views • 3 months ago

デモが、一般人から見ると右寄りと「思われる」ことに気が付いていない人が大多数なのだろうか。 ・とにかく国旗の数が多い ・「日本を守ろう」、「日本を取り戻そう」、「愛国運動」というスローガン ・日の丸のうちわが配られている etc. 右や左が良い悪いかではなく、一般人から見るとそのように思われるということ。 普段の日常生活で日の丸をみることは、ほとんどない。これだけの数の日の丸が集まることは滅多にない。 自分は、コロナデモの規模が大きくなることは期待するが、少なくともこの雰囲気では到底参加できない。自分と同じように考える人もそれなりにいるだろう。 コロナ問題は、愛国心があるかどうかは別。愛国心があろうとなかろうと、マスクやワクチンに害があると思えば、拒絶する。 正直、自分は、日本人の多数派から悪者にされ、排除され、差別を受け、日本人嫌いになり、愛国心はほぼなくなった。 愛国心があるという人は、コロナ問題で、深刻な差別を受けていないのだろう。 何度も言っているが、多数派が同調精神で少数派を平気で弾圧する日本を壊したい。倫理観を失った日本人の多数派の行動を外国勢力のせいに責任転嫁することはできない。騙されたとかパニックになったという言い訳は通用しない。 今、残っているのは、愛国心と言えるかどうかわからないが、「日本食はいい。生まれた街がなつかしい」 その位である。 平気で差別や強制を行ってきた日本人は、恥ずかしい民族である。子供たちにも長い間マスクを強制し、ほぼ全国民が見て見ぬ振りした。 そんな国の国民であることを誇りに思うような、日本の旗などとんでもない。 日本に対する執着はない。お金さえあれば移住する。 いずれにしても、一般人からは、このデモは、右寄りだというレッテルを貼られても仕方ないだろう。

You

1,616,678 views • 2 years ago

この時期になると、 「敷地内で野良猫が子どもを産んで困っている」 「隣の空き家で猫が出産したらしく、鳴き声が続いている」 そんな相談や問い合わせで現地へ向かうことが増えます。 春から初夏。 猫にとっては繁殖のピークです。 暖かくなり、食べ物も増え、子育てがしやすくなる。 生き物として見れば、ごく自然な行動です。 ただ、人の生活圏の中では、その“自然”が、そのまま問題になることもある。 現地へ入って周囲を見て回ると、かなりの確率で“痕跡”があります。 空になったフード袋。 置かれた紙皿。 不自然に猫が集まる場所。 そして、猫たちが寝ぐらにしていそうなスペースには、吐瀉物や排泄物が残っている。 その中に、消化しきれていないキャットフードが混ざっているケースも少なくありません。 もちろん、餌を与えている人の多くに悪意はありません。 「かわいそうだから」 「お腹を空かせているから」 そういう気持ちなのだと思います。 ただ、現場で起きているのは、“その場で空腹を満たすこと”だけではありません。 栄養状態が安定すれば繁殖率は上がる。 集まる猫が増えれば、縄張り争いや感染症のリスクも増える。 そして結果として、また子猫が生まれ、別の誰かが「困っている」と相談する。 問題なのは、“餌を与えること”そのものではなく、 繁殖管理や健康管理を伴わないまま、猫だけが増えていく状態です。 実際には、相談者自身が「誰が餌を与えているのか」を把握しているケースも少なくありません。 話を聞いていくと、 近隣住民とのトラブルになっている。 再三注意しても改善されない。 行政や管理会社を挟んでも解決していない。 そんなふうに、“猫だけでは終わらない問題”へ発展していることも多い。 一方で、未去勢・未避妊のまま外へ出されている飼い猫が、野良猫との繁殖に関わっているケースもあります。 「うちの子は帰ってくるから大丈夫」 そう思っていても、外に出る以上、繁殖や地域トラブルと無関係ではいられません。 その結果、生まれた子猫が、数か月後には“誰の猫でもない存在”として扱われてしまう。 そして最後に、 「保護してほしい」 という話になる。 でも、保護すれば終わりではありません。 哺乳、離乳、治療、隔離、譲渡。 小さな命ほど、多くの時間と人手が必要になります。 現実には、保護施設も、ボランティアも、どこも余裕があるわけではありません。 だからといって、命を軽く扱っていいという話でもありません。 問題なのは、繁殖と管理が崩れた状態を放置してしまうことです。 猫は、人間社会のルールを理解して生きているわけではない。 だからこそ、本来管理すべきなのは、人側の問題でもあります。 外で生きる猫たちは、見えているよりずっと過酷です。 事故、感染症、暑さ、寒さ、縄張り争い。 子猫が無事に育つほうが珍しい世界でもある。 だから本当に必要なのは、 その場だけの優しさではなく、繁殖を繰り返させない管理なのだと思います。 毎年、同じ季節に、同じ相談が来る。 段ボール箱を抱えて現場へ向かう人がいて、 空き家の奥では、小さな命が鳴いている。 毎年恒例。 確かにそうです。 でも、慣れていい光景だとは、どうしても思えないのです。

SCIENCE FACTORY ltd.

68,203 views • 4 months ago

『映画ちいかわ 人魚の島のひみつ』は、 友情の美しさを描いた作品ではありません。 友情の怖さを描いた作品です。 この動画には、大きなネタバレを含みます。 動画も作成しましたので、テキスト・動画お好みでご覧ください。 二人の関係を見て、「友達のためにここまでできるなんて」と感じた人もいると思う。 実際、ヒトハとフタバの絆は、この作品の重要なテーマとして描かれている。 だが私は、あの関係を単純に美しい友情と呼ぶことに、抵抗がある。 なぜならヒトハは、フタバを救うために、フタバ自身の意思を越えてしまったからだ。 物語の発端は、海での事故である。 ヒトハとフタバが乗っていた船が、海で遊んでいたセイレーンたちの影響で転覆し、 フタバが瀕死の状態になる。 そこでヒトハは、「人魚の肉を食べれば永遠の命を得られる」という情報を頼りに、 人魚を殺し、その肉をフタバに食べさせる。 結果として、フタバは助かった。 ここだけ見れば、「親友を救った」という話である。 だが、その後のフタバの反応が重要だ。 フタバは、ヒトハのしたことを素直に喜んでいない。 なぜなら、自分を救うために別の命が犠牲になったからである。 つまりヒトハは、フタバを救った。 だが同時に、「人魚を殺してまで生きたいのか」という選択を、 フタバ自身にさせなかった。 ここに、この友情の危うさがある。 大切だから救いたい。これは間違いなく愛情である。 だが、大切だからこそ相手の意思を無視してもいいのか。これは別の問題だ。 現実でもそうである。 「あなたのためを思って」 「絶対にこっちの方が幸せだから」 「私があなたを守るから」 善意から出た言葉でも、相手の意思を無視した瞬間、それは支配へ変わることがある。 ヒトハの行動も、まさにその境界線に立っている。 さらに強烈なのが、その後だ。 永遠の命を得てしまったフタバに対し、ヒトハ自身も人魚の肉を食べる。 二人で永遠に生きることを選ぶ。 ここだけ見れば、とても美しい。 「一人にはしない」「ずっと一緒にいる」。 友情の極致にも見える。 だが逆から考えると、ものすごく怖い。 永遠である。10年でも、100年でもない。終わりがない。 しかも、その永遠は人魚の命を犠牲にして手に入れたものだ。 だから二人が一緒にいる限り、自分たちが犯した罪から完全に逃れることもできない。 永遠の友情が、そのまま永遠の罪にもなっている。 そして私は、ここでハチワレとちいかわの友情との対比が効いてくると思っている。 ちいかわとハチワレも、お互いをものすごく大切にしている。 危険になれば助ける。一緒に喜ぶ。一緒に怖がる。 だが基本的には、相手を自分のものにはしない。 相手が何を感じているのかを、知ろうとする。 一方、ヒトハはフタバを失うことに耐えられず、 「生かす」という決断を自分一人で下してしまった。 同じ「友達を大切にする」でも、決定的な違いがある。 相手のために何かをすることと、相手の人生を代わりに決めることは違う。 『人魚の島のひみつ』は、その境界線を、ものすごく残酷な形で見せている。 だから私は、ヒトハを悪人だとは思わない。 むしろ、気持ちは理解できる。 目の前で一番大切な友達が死にそうになっている。 助けられる方法を知ってしまった。 そこで冷静に倫理を考えられる人が、どれだけいるだろうか。 だからこそ怖い。 悪意ではなく、愛情が悲劇を生んでいるからだ。 そして最後には、二人は誰もいない島で一緒に暮らそうとする。 二人だけなら幸せになれる。そう見える。 だが、その島にはセイレーンが近づいてくる。 友情によって命を救ったはずなのに、 その友情が生み出した罪から、永遠に逃げられない。 私は、このラストを「友情の勝利」とは到底思えない。 むしろ問いかけられているのは、 「大切な人のためなら、どこまでしていいのか」。 そして、 「相手を失いたくないという気持ちは、本当にすべて愛情と呼べるのか」。 なのではないだろうか。 ヒトハとフタバは、間違いなく大切な友達同士である。 だからこそ、その友情は美しくて、同時にものすごく怖い。 『人魚の島のひみつ』は、「友情は素晴らしい」で終わる作品ではない。 友情ですら、一線を越えれば誰かを傷つける。 その危うさまで描いたからこそ、この物語はここまで後味が残るのだと思う。 あなたなら、大切な友達を救うために、ヒトハと同じ選択をしますか。 コメントで教えてください。

榊󠄀原清一 / 人財版 令和の虎 主宰

100,858 views • 18 days ago

小さい頃から、春日三球・照代の漫才が大好きだった。 私はたぶん、三球・照代先生にかなり深い影響を受けている。 有名なのは、 「地下鉄の電車はどこから入れたの?」 というやつである。 考えてみれば、どうでもいい。 どうでもいいのだが、言われてみると気になる。 そして考え始める。 考えなくていいことを考え、そこに妙な理屈をつけて、とうとう一つの世界を作ってしまう。 私は子供の頃から、こういうものが大好きだった。 三球・照代先生の漫才には、そういう論理がたくさんあった。 たとえば、 冬には幽霊が出ない。 なぜなら幽霊は浴衣一枚だから寒い。 というような論理である。 素晴らしい。 幽霊がいるかいないか、というところには一切疑問を持たない。 幽霊はいる。 そこはもう決まっている。 問題は冬である。 浴衣一枚では寒い。 だから冬には出ない。 完璧である。 私はこういう感覚に、ものすごく影響を受けている。 ありえないものを作るのではない。 ありえないものが存在していることを前提にして、そこから妙に現実的なことを考えるのである。 猫が立っていてもいい。 タコが何かを抱いていてもいい。 カニが誰かをかばっていてもいい。 そこを説明する必要はない。 問題は、その猫が何を見ているのかとか、そのタコがちゃんと抱けているのかとか、カニは痛くないのかとか、そういうことである。 考えてみれば、私の彫刻も絵も、ずいぶん三球・照代先生的である。 さて、昔の春日三球・照代の映像を流していて、驚いた。 この時の三球先生は五十三歳だという。 五十三歳。 私と同い年ではないか。 ついに追いついてしまった。 子供の頃にテレビで見ていた三球先生は、立派な大人であった。 五十三歳というのは、ああいう完成された人間になる年齢なのだと思っていた。 実際に自分がなってみると、そんなことはなかった。 今日も木を彫りながら、 もう少し足を小さくしたほうが面白いのではないか、 などと考えている。 五十三歳にもなって、やっていることはだいたいそれである。 そして今見ると、もう一つ驚くことがある。 照代先生が、ものすごく美しいのである。 子供の頃はまったく気がつかなかった。 普通のおばさんとしか思わなかった。 ところが今見ると、目鼻立ちがすっとしていて、品があり、立ち姿も美しい。 その美しい人が横に立って、三球先生の妙な理屈につきあっている。 そして、素晴らしい間でツッコミが炸裂する。 なんと贅沢なことであろう。 三球先生は五十三歳だった。 照代先生は美しかった。 そして私は五十三歳になって、今日も木を彫っている。 木彫はゆっくり進む。 昨日と今日で何が変わったのか、私にもよく分からないくらい、ゆっくり進む。 しかし、急ぐこともない。 冬に幽霊が出ない理由を、浴衣一枚では寒いからだと考える。 私はそういう世界で育った。 そしてどうやら五十三歳になった今も、 そこから一歩も出ていない。 Tajima Takaoki Art Project 彫刻家・田島享央己による アートプロジェクト記録アカウント。 某企業の複数年にわたる 野外モニュメント制作を中心に、 木彫、ブロンズ、絵画、ドローイングなど、作品が生まれていく過程を記録していきます。 制作、思考、素材、時間、 そして「生き物としての人間」の記録。 Archive of a Multi-Year Art Project for a Corporate Client

田島享央己 / Takaoki Tajima

14,808 views • 26 days ago

スタンドバイミー、これ英語のままでも胸に刺さるのに、字幕がそっと手を添える。「そばにいて欲しい」たったそれだけの一行が、胸の奥の、普段は鍵をかけてある引き出しを開けてしまうのよね。思い出は、たいてい音で戻ってくる。匂いでも戻るが、音はずるい。音は、時間を飛び越える。あの頃の自分の呼吸の速さ、汗の薄い塩味、夕方の影の伸び方まで一緒に連れてくる。映画の少年たちが歩いているだけなのに、こちらの心のほうが追いかけて走り出す。 この現象に理由は要らない。理由なんて、涙のあとから遅れてくる。TikTokのコメント欄には、同じ場所を押さえられた人たちの声が並ぶ。 子どもの頃の友達は宝石。 けれどいつか別れが来る。 もう二度とあの頃のような友人には出会えない。 涙が出る、なんでだ。 人が泣くのは、悲しいからだけじゃない。それは、もうあの頃に戻れないからだ。戻れない場所を、心が知ってしまったときに、涙は勝手に溢れてくる。 子どもの友情は、キャバクラやホスト、マッチングアプリのように金勘定ではない。結婚のような契約書もない。損得も、値札も、身長や年収とか、条件もついていない。 隣にいる理由は、ただ隣にいたいからだけで、世界はそれで成立していた。くだらないことで喧嘩し、翌日には何事もなかったように笑い、帰り道の石ころを蹴りながら、未来のことなど考えもしない。あの無駄の中に、人生の芯があった。それが友達じゃない? 大人になると、無駄を削る。 効率を磨く。正しさを整列させる。 その結果、生活は滑らかになっていくのに、心だけがざらついていく、、、 友だちに会うことは予定表の隙間に押し込まれ、会えないことに慣れる練習をしてしまう。 忙しさは、言い訳としては完璧だよ。 誰も責められない。 だからこそ、気づかないうちに一番大事なものが痩せていく、、、 そういう中、ニュースが重たい石を落とす。スタンド・バイ・ミーで知られる監督が、妻とともに自宅で亡くなっていたという。刺し傷があり、捜査は殺人事件として進められているという。 映画が映したのは少年たちの一度きりの夏で、現実は、救いのない形で幕を閉じるかもしれない。人生の皮肉は、いつも小説より露骨だよね。 こういうとき、人は意味を探す。 意味を付けて、納得して、箱にしまって、自分たちの生活に戻る。でも人生は、教訓のために起きているわけじゃない。 悲しみは、たいてい整理されることを拒む。 ただ重く、ただ冷たく、胸に居座る。 それでも、あの歌が流行る。 流行るという言葉では軽すぎるか。 必要になって、流れてくる。 「Stand by me」は、立派なことを言えという命令じゃない。 英雄になれという話でもない。 逃げないで隣にいろというだけのことだよ。 正論で殴らない。 説教で片づけない。 勝手に解決しない。 ただ、隣にいる。 その静かな不器用さが、人を生かす。 だから、涙が出る。 あの頃、隣にいた人の顔を、もうはっきり思い出せなくなっている自分に気づいて泣く。 同時に、思い出せないのに胸が温かくなることにも泣く。 人は、忘れる。けれど完全には失わない。 友情は、消えるというより、形を変える。握手の温度が、いつのまにか胸の奥の灯りになって、暗いところを照らす。 「もう二度とあの頃の友人には出会えない」 それは半分ほんとうで、半分うそだよ。 同じ形では来ない。 もう、あの夏は戻らない。 でも別の形で来る。 職場でも、近所でも、たまたま同じ夜を越えた人でもいい。 痛みを知った者同士は、黙って隣に座れることがある。 言葉がなくても、湯気の立つカップひとつで、心がほどける瞬間がある。 夜が来て、地面が暗くなり、月明かりだけが頼りだと思える日がある。 そんな日こそ、隣に一つだけ人の気配があることが、救いになる。 世界は大げさな奇跡で回っていない。小さなそばにいるが、何度も何度も積み重なって、ようやく朝になる。 泣いていい。泣いたあとで、誰かの隣に立てるなら、なおいい。それが、この歌の続きじゃないかな?

クレア

154,747 views • 9 months ago

人間と同程度のAIにまで到達して、そこで突然進化が止まるわけがない。汎用知能が成立した瞬間、次に来るのは超知能であり、その時点で発明の主役は人類から機械の心へ移る。産業革命との比較では足りない——それは「ホモ・サピエンスの出現」あるいは「生命の誕生」に匹敵する断絶かもしれない。 ニック・ボストロム「技術と科学の発展が広い範囲でこのまま続くことが許されるなら、私たちはいずれそこに到達すると思います。しかも最近は、実際にその方向へ進みつつあるように見えます。ですから、こうした点は、この問題をかなり真剣に受け止めるべきだと示す、基本的な考慮事項だと思います。 そして、もし私たちが本当にAGI、すなわち汎用人工知能を開発したら、それが何を意味するのかを考えることができます。私がまず思うのは、それはほどなくして超知能の開発につながるだろうということです。人間と同程度のAIにまで到達して、そこで突然止まるとは思いません。 そうなると私たちは、心そのものを設計できる世界に入ることになります。そして自動化されるのは、産業革命において蒸気機関や内燃機関によって自動化が始まったような筋肉労働だけではありません。たとえば掘削機は、どんな力自慢の人間よりもはるかに強いですが、それと同じように、今度はあらゆる人間の労働が自動化されることになります。 しかもそのときには、どんな天才的な科学者や芸術家よりも深く考えられる機械の心が現れるでしょう。ですから、それは実質的に、私たちが最後に必要とする発明になるのです。その時点以降の発明は、こうした機械の心によって、はるかに優れた形で、はるかに速く生み出されるようになるからです。 したがって、これは人間のあり方そのものを非常に根本的に変える出来事になると思います。これを理解するにあたって、産業革命との類比を持ち出す人もいますし、そこから学べることもあるとは思います。しかし、おそらく本当に近い比較対象は、むしろホモ・サピエンスそのものの出現や、あるいは生命の誕生にまでさかのぼる必要があるのかもしれません」

Tsubame

20,061 views • 5 months ago