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【『ネタニヤフ調書 汚職と戦争』インタビュー②】 本作の成り立ちについて、プロデューサーのアレックス・ギブニーは匿名の人物から「ネタニヤフの汚職に関する尋問映像がある」とアプローチを受ける。この映像を見たギブニーはこれがとても重要な映像であることに気が付く…

43,075 views • 9 months ago •via X (Twitter)

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批判を装って守る😤これ、ゼレンスキーと同じ手口じゃないですか ネタニヤフを題材にしたドキュメンタリーなんですが、検察の取り調べ映像をメインに据えて、高級葉巻、シャンパン、妻サラへの高級アクセサリーの贈答、そういった話が延々と続くんです。 一見すると、権力者の腐敗を暴く告発映画に見えます。 でも見終わった後に残ったのは、なんとも言えない既視感でした。 どこかで見たことがある。この構造、知ってる。 そう、ゼレンスキーと同じなんです。 テレビドラマで権力者を痛烈に皮肉って、「既存の政治家と戦う民衆の味方」として売り出された。そのイメージのままリアルな大統領になった。 批判する側の人間が、いつの間にか守られる側になっている。 これが現代のプロパガンダの基本的な設計図なんだと思うんです。 「批判しているように見せることで、対象をより深く守る」 ネタニヤフ映画もまったく同じ構造をしています。 葉巻やネックレスという、コソ泥レベルの話を大々的に暴くことで、視聴者はこう感じるように誘導されていくんですよね。 「こんなことで追い詰められて、可哀想じゃないか」と。 この同情が生まれた瞬間に、プロパガンダは完成しているんです。 ネタニヤフの本質的な汚職って、葉巻やシャンパンじゃないんです。イスラエルのハイテク・サイバー産業とアメリカのネオコン・軍産複合体が結びついた巨大な利権構造の中枢に、何十年も座り続けてきたことです。 ガザや西岸での占領と虐殺を「継続させること」で動く、巨額の軍事利権。監視技術、サイバー兵器、武器輸出—、そこに絡む金の流れは、葉巻やシャンパンの話とは桁が違います。 映画はそこには一切触れません。 あえて触れないんだと思います。 「小さな悪」を見せることで「大きな悪」から目を逸らさせる。これってゼレンスキー報道でも繰り返されてきた手法ですよね。 ゼレンスキーのタックスヘイブン問題や、パンドラ文書への登場、側近たちの腐敗、そういった話は出ては来るんですが、常に「でも彼はロシアと戦っている英雄だから」という文脈で上書きされてしまう。 批判が、免罪符になっているんです。 映画のラスト近くで、アメリカ議会でのネタニヤフ演説が流れます。 「ユダヤ民族のために血の最後の一滴まで戦う」 汚職疑惑を受けながらも国家のために立ち続ける指導者、そのイメージを最後に焼き付けて映画は終わるんです。 これって、ゼレンスキーが戦時中にスーツを脱いで迷彩服を着続けたのと、本質的に同じ演出だと思うんですよね。「私は国のために戦っている」というビジュアルを維持することで、あらゆる批判を跳ね返す鎧を纏う。 批判映画のはずが、最終的に対象を英雄化して終わる。 これが「批判を装ったプロパガンダ」の完成形なんだと思います。 本当にイスラエルやユダヤ資本にとって都合の悪い映像なら、そもそも最初から外に出てくるはずがないんです。「禁止されている」という事実が、むしろ信憑性を高める演出として機能している可能性がある。 監督のアレックス・ギブニーは、かつてイラン寄りとも取れる『ゼロデイズ』を作った人物です。 その彼がある日、「ネタニヤフの取り調べ映像データがある、欲しいか」と連絡を受けて、熱心にそれを求めたという経緯自体が、すでにちょっと演出の匂いがしますよね。 批判者として知られた人物を使って批判映画を作らせる。でもその映画が最終的に守るのは、批判された側だ。 これは陰謀論じゃなくて、情報戦の基本的なセオリーなんですよね。 この映画を見て一番強く感じたのは、「知識があるだけでは騙される」という事実でした。 ゼレンスキーを疑える人でも、ネタニヤフ映画には引っかかる。逆にネタニヤフを批判できる人でも、ゼレンスキー報道には乗せられる。情報リテラシーって、特定のテーマについてだけ持っていても意味がないんです。 エセ保守のYouTuberたちが「ネタニヤフは実は被害者だ」と言い出すのも、こうした構造にまんまと乗せられた結果だと思うんですよね。 批判的なコンテンツを消費しているつもりで、実は設計された感情誘導の中にいる。 情報プロバイダは、あなたの「批判精神」さえも利用してきます。 むしろ批判精神がある人ほど、「批判映像」には引っかかりやすい。それを織り込み済みで、こうしたコンテンツは設計されているんです。 ゼレンスキーとネタニヤフ。手口はまったく同じです。 違うのは舞台と衣装だけで、脚本を書いている人間は同じかもしれない。 そのことを、このプロバイダ映画は皮肉にも教えてくれました。

トッポ

33,029 views • 1 month ago

FF5のガラフ対エクスデスを見ると、正直、今見ると胸が痛い。なぜなら、あの場面には、今の私たちが失いかけているものが、あまりにも綺麗に残っているからだ。映像の豪華さではない。声優の熱演でもない。あの場面の本質は、ゲームシステムと物語が、同じ一点で爆発していることにある。普通、RPGにおいてHPが0になればキャラクターは倒れる。 それはプレイヤーが何十時間もかけて身体に覚え込ませたルールである。 回復しなければ死ぬ。 戦闘不能になれば動けない。 その当たり前を、ガラフは破る。 HPが尽きても立つ。 攻撃されても倒れない。 メテオを撃たれても、フレアに焼かれても、氷に貫かれても、自分が信じていたゲームのルールが、ガラフの意志によって押し返されるのを見ている。 だから感動する。 ここを、今の私たちはよく間違える。感動的な場面を作ろうとすると、つい演出を盛る。声を震わせる。カメラを寄せる。音楽を大きくする。もちろん、それは現代の技術として正しい。プレイヤーに伝えるための手段として必要なこともある。 ガラフの最期は、その逆である。物語が戦闘の中にある。戦闘が物語の証明になっている。HP0というシステム上の死が、キャラクターの意志によって意味を変える。だから、あの小さなドット絵の老人は、現代の美麗なムービーよりも美しい。 ドット絵の制約。 容量の制約。 短い台詞。 プレイヤーの想像力に委ねる余白。 それらが奇跡的に噛み合っていた。 しかし、それだけではない。 あの場面は、ゲームという媒体の本質を理解していた。ゲームは、ただ物語を見せるものではない。プレイヤーがルールを理解し、そのルールの中で行動し、そのルールに慣れたところで、物語がそのルールを揺さぶる。その時、ゲームにしかできない感動が生まれる。 ここを忘れると、映画の劣化版になる。 綺麗な映像。豪華な音楽。重厚な台詞。しかし、プレイヤーはただ見ているだけでは意味がない。 ガラフの場面は、ゲームでしか成立しない。小説なら「死んでもなお立ち上がった」と書ける。だが、HP0なのに倒れない、という感動はゲームにしかない。 プレイヤーがゲームのルールを知っているからこそ成立する。これは、私たちが本来もっと大切にしなければならない財産である。 今のスクエニが、これの再現に必要なのは、現代のゲームにおける「HP0でも立つ」に相当するものを見つけることだ。 たとえば、プレイヤーがずっと信じてきた成長システム。長く使ってきたコマンド、当たり前に開いていたメニュー、守ってきた仲間のAI、セーブやロード、ジョブ、装備、マップ、召喚、パーティ編成。 そういうゲームとしての常識を、物語のある一点で変質させ、キャラクターの覚悟によって、システムの意味が変わる。プレイヤーの操作が、ただの操作ではなく、物語の選択になる。 そこまで設計できれば、今でも名場面は生まれる。 しかし、それは会議で説明しにくい。 「ここでUIの挙動を変えます」 「ここで戦闘不能のルールを一度だけ破ります」 「ここでプレイヤーの常識を裏切ります」 こういう企画は、リスクがある。現代の大規模開発では避けられやすい。けれど、そこを避け続けると、名場面は生まれない。 プレイヤーが信じてきたルールの中で、キャラクターの覚悟を体験させなければならない。 ガラフは「私は命をかけて守る」と長々語ったから感動したのではない。 本当に、命を超えて立ったから感動した。 しかもそれを、戦闘というプレイヤーが最も理解している場所で見せた。 今のスクエニがもう一度こういう場面を作るには、過去作の名場面を綺麗に再現するだけでは駄目だ。 FF5をリメイクして、ガラフのシーンを豪華なムービーにすることはできる。 だが、それだけでは足りない。 本当にやるべきは、現代のプレイヤーが慣れ切ったゲームの文法を、一度だけ感情のために壊すことだ。 システム担当とシナリオ担当が、同じ心臓で設計すること。 バトルと物語を分けないこと。 UIと感情を分けないこと。 演出と操作を分けないこと。 プレイヤーが手を動かした記憶の中に、キャラクターの死や覚悟を刻むこと。 それができた時、初めて「今のスクエニにも名場面は作れる」と言える。 ガラフの最期は、古い名場面ではない。 未来への宿題である。私たちは、あの小さなドット絵の老人に、いまだに問い詰められている。 お前たちは、映像を綺麗にすることばかり考えていないか。物語をムービーに逃がしていないか。ゲームのルールそのものを感動に変える勇気を、まだ持っているか。 エクスデスは叫んだ。 「なぜ死なん」 だが本当に問われているのは、今の私たちの方である。 なぜ、あのような場面をもう一度作れないのか。 答えは、技術が足りないからではない。勇気の置き場所を、少し忘れているからである。

クレア

452,144 views • 1 month ago

WORLD AI FILM FESTIVAL 2026 in KYOTO ベストAIフィルム ファイナリストノミネート 「memory of father.」 #WAIFF 病を抱えた父を自宅に引き取った息子。残された時間のなかで、ふたりはかつての記憶を辿りながら、本当の別れを受け入れようとしている。静かに立場が入れ替わる時間の流れの中で、過去と現在はゆるやかに交差していく。 (以下は本作に寄せたあとがきです。ぜひ本編をご覧になってからお読みください。) 「memory of father.」に寄せて 本作は、私の奥でくすぶっていた、ごく個人的な感情から制作を始めました。私のど真ん中に居座り、こねくり回してきた「家族」というテーマ。とりわけ「父」という存在について。その物語を形にしたかった。 制作の途中、作品として成立させるため当初の構想からは姿を変えていますが、その気持ちは変わってません。 映画は、いつも私を知らないどこかへ連れて行ってくれます。ゆっくりと自分の中に温かさが満ちていくのを感じること。これまで感じたことのない気持ちを味わわせてくれること。ときに、言葉にならない感情をぐちゅぐちゅと抉られること。私にとってそのすべての映画体験が愛しいものです。 「memory of father.」は、そんな「手触り」を感じられる映画を目指しました。観る人の心に直接触れるような、優しく、感情の輪郭に触れるような作品でありたいと願ったものです。 去年の夏AIに触れるまで、私には映像制作の経験がありませんでした。いま私ができるのは、ただAIと一緒に映像を作ることだけです。フィールドを問わず、誰でも映像作品を作ることができる、そんなささやかな証明を、この作品で成し遂げたかったのかもしれません。 そして、AI映像制作に取り組む中でふつふつと芽生え始めた、AIと一緒なら私にも大好きな映画を作れるようになるかもしれない。そんなささやかな夢が、短い作品ではありますが、いま、ひとつ叶いました。 この作品に、所謂「AIらしさ」というものはありません。登場人物が自然にそこに息づいていること、そして観てくださる皆さんを映像の世界に引き込むこと。この二つを、意識して制作しています。 制作中は、友人たち、そしてお世話になっている方から、フィードバックやアドバイスをいただきました。特に伊香佑志さん(伊香佑志 / Honoo)からの言葉がなければ、この作品は完成しなかったと思っています。改めて、心からの感謝を伝えたいです。 そして、今この世にあるすべての映画作品に、心からの感謝と敬意をこめて。

ICO

65,178 views • 4 months ago