正在加载视频...

视频加载失败

令和八年 賀茂祭(葵祭) 5月12日の御蔭祭に続き、5月15日、下鴨神社では社頭の儀が斎行されました。 この映像は、社頭の儀へと向かう糺の森を進んだ行列が楼門へ入り、斎王代と女人列が神服殿へとおさまるまでの路頭の儀の一場面です。 賀茂祭は、古くは単に「祭」といえばこの祭を指したとも伝えられる、京都を代表する古儀。 『源氏物語』や『枕草子』にもその華やかさが描かれ、王朝文化の記憶を今に伝える祭でもあります。 葵祭と呼ばれるのは、行列や社殿、装束などに双葉葵を飾ることに由来します。 この葵は、下鴨神社・上賀茂神社と深く結ばれた神聖な草木。 人と神、都と賀茂の社を結ぶしるしとして、祭の随所に用いられてきました。 京都御所から下鴨神社、そして上賀茂神社へと進む「路頭の儀」は、単なる時代行列ではありません。 勅使を中心に、斎王代、女人列、随身、風流傘、そして花で美しく飾られた牛車などが連なり、都から賀茂の神前へと祈りを運ぶ道の儀です。 とりわけ花に飾られた牛車は、王朝の雅を象徴する存在。 人々が道に立ち、息をのんで見送るその姿には、千年以上続く都の記憶が重なります。 糺の森を抜け、楼門をくぐり、神服殿へ。 静かに整えられていく時間の先に、賀茂祭の核心である社頭の儀が始まります。 華やかさの奥にあるのは、都の平安と、五穀豊穣、人々の安寧を願う祈り。 賀茂祭は、京都の歴史が今も生きていることを伝える、年に一度の大切な神事です。 #下鴨神社 #賀茂祭 #葵祭 #糺の森 #京都の神事

39,752 次观看 • 5 个月前 •via X (Twitter)

0 条评论

暂无评论

原始帖子的评论将显示在这里

相关视频

【賀茂祭(葵祭)——春の都に“御神気”を迎える。】 下鴨神社と上賀茂神社の例祭 「賀茂祭(通称:葵祭)」 は京都三大祭の一つですが、その本質は“行列を観る日”ではなく、“都をあげて祈りをつなぐこと”にあります。 人も街も、森も川も、祭りの舞台ではなく——祈りの器となる季節です。 「葵祭」と呼ばれる所以は、勅使や斎王代をはじめ、行列の装束や牛車にまで葵(ふたば葵)と桂を飾り、賀茂の神々に若葉のしるしを捧げるところにあります。社紋の双葉葵もまた、この祭りとともに都へ息づいてきました。 その起源は『賀茂旧記』に、太古、御祭神が神山に御光臨される際、神託により葵を飾り、馬を走らせ、神迎えの祭りを行ったことに始まる——と伝えられます。 さらに約1500年前、欽明天皇の御代。 風雨が続き五穀が実らなかった折、卜部伊吉若日子が占い、賀茂大神の祟りと知れたため、旧暦四月の中酉の日に祭礼を行い、馬には鈴を掛け、人は猪頭をかぶって駆競をしたところ、風雨が鎮まり国が安泰になった——。 「祭り」とは、暮らしを立て直し、国の平安を願うための“社会の儀”でもありました。 弘仁10年(819)には国家の重要な恒例祭祀として位置づけられ、都とともに守られてきた賀茂の祈り。 そして5月の流れの中核にあるのが、御蔭祭で神さまの御神霊をお迎えする“神迎え”の儀です。新たにお迎えした御神霊に、宮中からの御幣物を奉る——それが、葵祭(賀茂祭)の大きな骨格でもあります。 行列が御所を出て、糺の森を抜け、賀茂川の堤を渡って社へ向かう道筋は、祈りが都を通り抜けるようにも感じられます。 しかし歴史は平坦ではありません。 応仁の乱ののち祭は途絶え、200余年を経て元禄7年(1694)、上賀茂・下鴨両社の熱意と朝廷・公家の理解、幕府の協力により再興。 明治17年(1884)には春日祭・石清水祭と並ぶ「日本三勅祭」の一として旧儀が復興され、祭日も新暦5月15日に定まりました。 また昭和18年(1943)から昭和27年(1952)にかけては、時代の事情により巡行が中止となった時期もありました。 それでも、形を整えながら、祈りの芯は今日まで受け継がれてきました。 そして賀茂祭が“特別”とされる理由の一つに、「斎王」の存在があります。 平安期、皇女が奉仕する斎王が立てられたのは、伊勢神宮(斎宮)と賀茂社(斎院)の二つだけ。 斎王代の姿は、都が“祈りの中心”であった時代の記憶を、いまの私たちの眼前に立ち上げます。 観覧として、奉仕として、奉賛として。 どんな形であれ「見守り、支え、次へ渡す」ことが、文化に参加する一歩になります。 #下鴨神社 #葵祭 #賀茂祭 #糺の森

【公式】賀茂御祖神社(下鴨神社)

195,744 次观看 • 5 个月前

5月12日、葵祭に先立ち斎行される「御蔭祭(みかげまつり)」。 これは、比叡山山麓の御蔭山に鎮まる御蔭神社で新たにお生まれになる御神霊を、神馬にお遷しし、下鴨神社へお迎えする大切な神事です。 御蔭祭は、我が国最古の神幸列を今に伝える祭ともされ、古代の信仰のかたちが現在まで受け継がれています。 【午前9時|下鴨神社】 舞殿での勧盃の儀・樹下神事の後、神職・氏子による行粧が楼門より出発。 神さまをお迎えするための、祈りの道が始まります。 【正午|御蔭神社】 御生神事。 新しい御神霊がお生まれになる、御蔭祭の中心となる神事です。ここで神威を神馬へお遷しし、本社へお迎えします。 【午後1時|賀茂波爾神社(赤の宮)】 道中では路次祭が行われ、舞楽「蘭陵王」が奉納されます。 神さまの道行きを寿ぎ、地域と神社が祈りをつなぐ時間です。 【午後4時|下鴨神社・糺の森 切芝】 切芝神事、東游、そして還立の儀へ。 新たな御神霊を本殿へお迎えし、下鴨神社の御神霊と一体となることで、神さまの力が新しく満ちていきます。 この流れを知ってご覧いただくと、御蔭祭は単なる行列ではなく、葵祭へとつながる「神迎え」の祈りであることを感じていただけるはずです。 5月12日、千年以上受け継がれてきた神聖な祈りに、ぜひ心をお寄せください。 #下鴨神社 #御蔭祭 #日本最古の神幸列 #葵祭 #糺の森

下鴨神社

54,857 次观看 • 5 个月前

6月6日は「梅の日」。 紀州梅奉納奉告祭 全国一の梅の産地として知られる和歌山県田辺市・みなべ町を中心とした「紀州梅の会」様より、今年も青梅が奉納されました。 その由来は、室町時代の天文14年、1545年にまで遡ります。 日照りが続き、人々が雨と五穀豊穣を願っていた頃、後奈良天皇が賀茂神社へ梅を奉られたところ、恵みの雨が降り、五穀豊穣をもたらしたという故事が伝わります。 その故事にちなみ、紀州で大切に育てられた青梅が、いまも下鴨神社へ奉納されています。 梅は、ただの果実ではありません。 その酸味と香りは食を支え、保存の知恵として暮らしを守り、古くから人々の健やかな営みに寄り添ってきました。 紀州の山あいで育まれる梅。 その一粒一粒には、土を守り、木を育て、実りを待つ人々の手仕事と祈りがあります。 下鴨神社へ奉られる青梅は、産地から神域へ届けられる季節の恵みであり、自然と人の営みへの感謝をあらためて思い起こさせてくれます。 下鴨神社には、季節を通じて受け継がれる「農」と「食」の祈りがあります。 5月24日には、神饌田にて御田植神事が執り行われました。 御祭神へお供えする御米を育てるため、子どもたちが苗を植え、青年会や地域の皆さまが田を守り、秋の抜穂祭、そして伊勢神宮への奉納へとつながっていきます。 6月1日には、氷室開き。 夏の訪れを告げる氷や野菜が御神前へ供えられました。 そして6月6日には、紀州の梅が奉られます。 神饌田の御米。 氷室の氷。 紀州の梅。 季節ごとに、日本各地の実りと、人々の崇敬が糺の森へ寄せられ、御神前へと結ばれていきます。 京都だけではなく、日本各地の農と食の営みが、下鴨神社の祈りへとつながっていること。 紀州梅奉納奉告祭は、そのことを静かに伝えてくれる大切な神事です。 令和八年六月六日。 紀州の梅とともに、五穀豊穣と皆さまの健やかな暮らしをお祈りいたします。 #下鴨神社 #紀州梅 #梅の日 #神饌 #糺の森

下鴨神社

50,631 次观看 • 4 个月前

【文化広報室|氷室開き神事のご案内】 6月1日 午後2時より、下鴨神社では「氷室開き神事」が斎行されます。 昨年の様子とともに、夏のはじまりに受け継がれる古式の祈りをご紹介いたします。 氷室とは、冬の雪や氷を夏まで大切に蓄え、神様へお供えする食材を清らかに保つための場所。 下鴨神社では古くから、神様のお食事である神饌を、ただ生のままではなく、調理してお供えする「熟饌」の文化が大切にされてきました。 その中心となるのが、大炊殿(おおいどの)。 神様のお供えものを調理していた「神様の台所」ともいわれる、下鴨神社の大切な社殿です。 この大炊殿のそばにあった氷室は、昭和の戦時下に防空壕として姿を変え、長く土の中に眠っていました。 令和四年、古儀復興の一環として再興され、毎年6月1日、氷室より運び出した氷や野菜を御祭神へお捧げする神事が斎行されています。 この日は、宮中で氷を口にし、暑い季節の無病息災を願ったと伝わる「氷の朔日」にちなむ日。 そして境内休憩所「さるや」では、同日より名物「鴨の氷室の氷」のかき氷が始まります。 ひと匙の涼やかさの奥に、神様へのお供えを守ってきた知恵と、夏を健やかに迎える祈りがあります。 ご参拝の折には、大炊殿と氷室に息づく、下鴨神社ならではの食と祈りの文化にも、ぜひ心を寄せてみてください。 #下鴨神社 #氷室開き神事 #大炊殿 #さるや #世界文化遺産

【公式】賀茂御祖神社(下鴨神社)

35,084 次观看 • 5 个月前

保江邦夫さんが感じた「天河神社は、ほかの神社と何が違うのか」 奈良県天川村の深い山あいにある、天河大辨財天社(てんかわだいべんざいてんしゃ)。一般には「天河神社」と呼ばれています。 保江邦夫さんは、この神社について「行けば分かる」「ほかの神社とは違う」と語り、自身の場合、長く続いていた激しい咳が、参拝後にピタリと止まったと話しています。 もちろん、これは保江さん個人の体験であり、神社に病気を治す医学的効果が確認されているわけではありません。 では、保江さんが特別だと感じた天河神社は、実際にどのような場所なのでしょうか。 三つの巨大な霊場の「真ん中」にある神社 天河神社がまず変わっているのは、その位置です。 公式サイトによると、天河神社は、古くから信仰を集めてきた高野山・吉野・熊野を結ぶ三角形のほぼ中央に鎮座しています。 つまり、山岳信仰を代表する三つの大きな霊場に囲まれた場所に、天河神社があるのです。偶然の地理と見ることもできますが、昔の人々は、この場所を複数の聖地を結ぶ重要な地点として意識してきました。 さらに、天河神社は大峯山修行の重要な拠点とされ、役行者や弘法大師・空海など、山岳修行と深く関係する人物の伝承も残っています。単に町の守り神として建てられた神社ではなく、山の中で修行する人々が立ち寄り、祈りを重ねてきた場所なのです。 「水・音・芸能」を支配する弁財天 天河神社の中心に祀られているのは、弁財天です。 弁財天は、一般に財運の神として知られています。しかし天河神社では、それだけではありません。 公式の由緒では、弁財天は水の神、音の神、芸術の神、財宝の神として説明されています。そして境内全体が、音や響きに感応する神聖な庭のような場所だとされています。 水は、姿を変えながら流れます。 音は、目には見えませんが、体を震わせます。 芸能は、人間の内側にある感情を外へ引き出します。 天河神社は、願い事を紙に書いて終わる場所というよりも、音や水、身体感覚を通して、人間の内側を動かす神社として信仰されてきたのです。 保江さんが「本を読んだだけでも、ほかとは違うと感じた」と語ったのも、こうした天河神社独特の世界観と無関係ではないのかもしれません。 神社なのに、仏教や修験道の気配が濃い 天河神社には、神道だけでは説明しきれない雰囲気があります。 中央には弁財天、右には熊野権現、左には吉野権現が祀られ、神と仏を分けずに信仰した神仏習合の形を現在も残しています。 明治時代以降、日本の多くの場所では神社と寺がはっきり分けられました。 しかし天河神社には、神道、仏教、修験道、山岳信仰、龍神信仰、芸能奉納といった複数の流れが、今も重なるように残っています。 普通の神社が一つの入口を持つ建物だとすれば、天河神社は、いくつもの入口が奥で一つにつながっている洞窟のような場所です。 訪れる人によって、音楽の神社にも見える。 修行の神社にも見える。 水や龍神の神社にも見える。 あるいは、自分の内面と向き合う場所にも見える。 その「一つに決められない感じ」が、ほかの神社とは異なる印象を生んでいるのでしょう。 なぜ神社の正面に能舞台があるのか 天河神社の拝殿の向かいには、能舞台があります。 現在も能、神楽、音楽などが神前に奉納されます。室町時代には、観世元雅が能を奉納し、世阿弥も使ったと伝わる能面「阿古父尉」を寄進した記録が残っています。 芸能は、現代では人に見せる娯楽と考えられがちです。 しかし昔の芸能は、神に見せ、悪霊を鎮め、祖先を慰め、人と神をつなぐ儀式でもありました。天河神社の公式由緒にも、猿楽や田楽が奉納され、神と人が一体になる聖地と考えられていたことが記されています。 つまり、この場所では歌や踊り、楽器の音そのものが祈りです。 静かに頭を下げるだけでなく、音を響かせることで神とつながろうとしてきた。この点は、多くの神社とはかなり違います。 三つの鈴が重なった、謎めいた神宝「五十鈴」 天河神社を象徴するものが、拝殿前にある独特の神宝、**五十鈴(いすず)**です。 一般的な神社の鈴とは形が異なり、三つの球状の鈴が組み合わされています。天川村の説明では、この五十鈴は天河神社に古くから伝わる独自の神宝で、「みむすび」の精神を表すとされています。 「みむすび」とは、人と人、神と人、心と身体など、離れているものを結び直す考えとして語られます。 三つの鈴は、バラバラに鳴っているようでありながら、一つの響きを作ります。 それはまるで、人間の身体、心、魂が、ある瞬間に一つの音へそろうことを表しているようにも見えます。 保江さんが参拝後に身体の変化を感じたという話も、こうした「身体と意識を結び直す場所」というイメージに重なります。ただし、ここから先は信仰や個人の感じ方の領域であり、科学的な因果関係は確認できません。 「呼ばれなければ行けない神社」という言葉の正体 天河神社には、しばしば、 「神様に呼ばれた人しか行けない」 という言い伝えが語られます。 ただし、これは公式に定められた教えではありません。実際には公共交通機関でも参拝でき、神社も交通案内を公開しています。 それでも、この言葉が広がった理由は分かる気がします。 天河神社は奈良市街から離れた山村にあり、思い立って駅前から数分で行ける場所ではありません。予定が不思議と決まらない人もいれば、反対に、偶然が重なって急に行くことになる人もいるでしょう。 そして、苦労して山の奥へ入り、独特な鈴の音や能舞台、神仏習合の空気に触れる。 すると人は、その旅全体に意味があったように感じます。 「自分で来た」というより、 「ここへ連れてこられた」 という感覚になるのかもしれません。 保江さんが感じた「違い」とは何だったのか 保江さんの話をそのまま整理すると、天河神社の違いは、豪華な社殿や有名な御利益ではありません。 実際に訪れたとき、身体にまで変化を感じたこと。 神社へ行く前から、本を通じて特別な感覚があったこと。 そして、言葉ではうまく説明できないものの、「行けば分かる」と感じたことです。 歴史的に見ても、天河神社は確かに少し変わっています。 三大霊場の中央にあり、山岳修行の拠点となり、水と音と芸能の神を祀り、神道と仏教が重なり、正面には能舞台があり、独自の五十鈴が鳴る。 いくつもの信仰と歴史が、一つの山中の神社に折り重なっています。 だから天河神社では、何か新しいものをもらうというより、もともと自分の中にあった感覚が、鈴の音や山の静けさによって急に表へ出てくるのかもしれません。 保江さんの咳が止まったという体験は、信仰によるものだったのか、山の環境や心理的な変化によるものだったのか、それとも私たちがまだ説明できない別の何かが、あの五十鈴の響く場所で起きていたのでしょうか?

角由紀子のヤバイ帝国

45,922 次观看 • 3 个月前

人混みとアスファルトの熱に包まれる、京都の夏。 そんな街中から一歩離れて、下鴨神社の糺の森へ入ると、空気がふっと変わります。 頭上には深い緑。 足元には、古くからこの地を潤してきた水の流れ。 境内には、御手洗川、奈良の小川、瀬見の小川、泉川が流れ、下鴨神社は古来より“森と水の聖地”として、人々の祈りを受け止めてきました。 なかでも奈良の小川は、平安の昔から和歌にも詠まれた清らかな流れ。 風そよぐ ならの小川の夕暮れは みそぎぞ夏の しるしなりける 夏越の祓に通じる、水で心身を清める感覚。 それは今も、糺の森の中に静かに息づいています。 夏の下鴨神社で人気の「水みくじ」も、水にふれることで文字が浮かび上がる、涼やかな体験。 水面に少しずつ言葉が現れる時間は、ただのおみくじではなく、森の風や川の音とともに、心を整えてくれるようです。 照り返しの強い京都の街歩きに少し疲れたら、糺の森の水辺へ。 観光地を急いで巡る時間とは違う、木陰と水音に包まれる“京都の原風景”に出会えます。 ただし、森と水が豊かな場所だからこそ、夏は蚊も多くなります。 特に夕方や水辺の近くでは、虫よけスプレーや長袖など、軽い蚊よけ対策をされてのご参拝がおすすめです。 暑い京都の夏。 人混みとアスファルトの熱から少し離れて、糺の森の水辺で、静かな涼を感じてみてください。 #下鴨神社 #糺の森 #京都観光 #水みくじ #京都の夏

下鴨神社

25,429 次观看 • 5 个月前